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2012年4月17日 (火)

結婚と家庭内のパートナーであること

結婚というのは歴史的には「セックスと子育ての統制」という意味で発生したが、これに法律や道徳が関わってきた。さらには文化の側が「夢」を持たせる創造的作用を行ったようだ。結婚に強烈に「愛」を求めたのは18世紀で、これを「ラブレボリューション」と呼ぶのだ。子供に伝えたいものや、親戚のつながり、労働や資源の共有などが強く結婚に伴う人は、決して「不倫は文化」というようなことは明確に表明することはできないのだ。
古代ギリシャにおいても、結婚は「経済」と「子育て」が基盤にあり、それを宗教的秘儀と、約束、相互の助け合いなどが支えた。
ギリシャにおいても「祭りで男女が集まってくじで結婚相手を決める」ということが行われたことがあるが、子供と「おじいちゃん」「おばあちゃん」の関係が希薄になり、この時代ですら「核家族」が生まれたそうだ。
家族を捨てるという行為は、個人の利益にもならないし、公共の利益にもならない。さらには国を弱めるという現象は実験によって明らかになったものだ。すでに人類が実験を終えているものである。
プラトンは「家族を愛するように他の人を愛することができるのではないか」と考えたが、これは、家族国家を志向するもので、家族による国家を否定した。
アリストテレスはこの考えを徹底攻撃している。男女の結婚によって成り立つ家族を「社会の構成員」と位置付けたのはアリストテレスであり、ヘーゲルにもロールズにもサンデルにも支持を得たかなり強烈な考えとなった。
「主人」と「家内」という発想は、アリストテレス・ヘーゲル・ロールズ・サンデルといった強烈な論客によって支持されていることを知らないといけない。
聖オーガスティンが聖パウロの見解を引き継ぎ、「結婚にともなうセックス」のみを容認し、セックスの神聖化を行った。
そのために「未婚の女性」というものも「あらゆる善を含む」と位置付けられるようになったのだ。
トマス・アクィナスは、道徳の見地から結婚を論じた。結婚は、子供を育てることやパートナーへの忠誠という「善」を含むものであるとし、
それでも、セックスは理性的には混乱した説明しかできなかった。しかし、それらの説明の混乱も「結婚に存在する善」によって償われるとしたのだ。
このことと同時に、夫の不貞は「子供に悪影響を与える」などの現実的な意味も見出していたようだ。

「カネ目当ての結婚」というのがあるが「男性優位の構造」が確実に出来上がる。おカネというのが「愛と結婚」の説明を困難にする。これが哲学であり、研究してみたい。

カントは、結婚というものに「セックスの容認」がともなうことを指摘し、それを「権利」だとすると、本来ものについて語られていた権利という言葉が人間に対して発生するとした。人間をものと同列に語ってしまうのが「セックスをする権利」という言葉であった。そのために、それは「お互いさま」であることを強く主張し、実はこの指摘はかなり広く受け入れられているのだ。
一方、ヘーゲルは、カントの「結婚の契約」という説明に異議を唱えた。結婚には子孫を残すという側面があり、ただの情熱によって支えられているものではないとしたのだ。愛にももっと冷静で倫理をともなった形態があるのではないかとしたのだ。
また、「私には女房子供もいるんです」というように「結婚は男が社会とかかわるために用意されたシステムである」という説もある。
一方で、フェミニズムに方面からは、「主人」と「家内」という関係は、男女の本質を正確には反映していないと批判された。少年と少女は「正義の学校」で育つのに、結婚となった途端その場は「正義のない学校」になるとされたのだ。
マルクス主義は、結婚に「祖先の実践の継承と搾取」を見出している。女性への支配権を勝ち取るのが結婚であり、子供を「生産」させる道具として扱うと考えたのだ。マルクスは「プライベートの空間での結婚生活」を批判している。

以下、結婚と道徳に関して論じていきたい。
結婚は「契約」であり、義務をともなうものであるが、それ以上に「道徳」が深くかかわってくる。
ヘーゲルなどは「お見合い結婚」こそが社会の要求にしたがっているものであり、個人が選択したものではないからこそ社会と調和がとれる、としたのだ。結婚にともなう倫理が社会と衝突を起こさないのはお見合い結婚だとしている。この観点はしかし「議論の出発点」として頭においておくにとどめておいた方がいいだろう。

結婚を「契約である」と考えてみよう。結婚というものが子育てに直結するとされている。その子育ては「自発的」なものであり「約束」でもある。この「自発的」な「約束」である子育てを「特別な義務」と呼ぶのだ。
愛人の子供を任せられた母親はこの「自発的(ボランティア)」な「約束」を特別な義務として果たさなければならない。これが「結婚が契約だから」であると説明される。自発的な約束を真面目に果たすかどうかはわからないのだ。結婚から道徳的基盤を取り除いただけでこのようなことになる。そのために、結婚にはやはり「道徳的基盤」が要求されるのだ。
契約は結婚だけでなくいろんな法律に現れるが、契約を破棄することは悪であるという発想は当然、「愛人の子供」にも生じるだろう。そのために「結婚外のセックスは悪である」という発想を植え付けるとされる。
しかし、一度結婚して別れた後ならば「約束は果たした」とされて結婚外のセックスが容認されるとされる。つまり、結婚は「愛とセックス」の条件となり、それが約束となるのだ。
結婚を「契約」と説明して、愛人の子供を母親が育てた場合にこのような現象がみられる。

「約束からの解放」だけが離婚を正当化するわけではない。子供のことを考えなければ離婚は正当化できない。子供が虐待されているなどの場合でない限りは、多くの小説が「親の離婚は子供を害する」ことを描いている。結婚を契約としてとらえただけでは説明できずに、離婚を論ずる上でも「道徳的基盤」を議論に持ち込まなければならない。

結婚の時に「妻に愛を誓う」というのも非常に不安定さをともなうものだ。永続的に感情をコントロールすることを約束させることはできない。この場合は「一定の関係を維持する」ことを誓っているのであると解釈し直す必要があるとされる。しかし、「親」としての立場はやはり本当に愛情が必要になるとも言われ、別の議論が必要だ。
契約というものにこだわる人は、契約をしたときに本当に永遠の愛を誓っていればそれでいいとする人もいる。そもそも愛に非理性的なものがある以上、契約の時に強烈に誓っていればのちにそれが一定の意味を持つであろうとするのだ。
また、子育ては「自発的」なものと説明すると、免除をしてもらうことも理論上は可能だとする人もいる。こういう議論が成り立ってしまう以上、子育てにも道徳なり契約という概念を持ち込まなければならないだろう。

【書きかけ項目】

注)今の天皇は俺と紀宮の結婚に際して、俺の過去の女性関係を最深度調査して「敗北」を悟っている。
ああいう愚か者を「ラブレボリューションに影響された哲学のないアホ」と呼ぶのだろう。

ラブレボリューション21

この曲は、金目当ての結婚で夫が上位になることが明らかでありつつも妻に愛情を示している。
関白宣言」さだまさし


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