最近のトラックバック

2019年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »

2012年4月

2012年4月29日 (日)

セネカ曰く「賢きものはたやすく怒らず」

映画「青い山脈」で、ガンちゃんが親友に「何か難しいことを言えばいいんだよ」と言われて会議に出る。その時にガンちゃんは、このセリフを言うのだ。
セネカは「怒り」というのもの研究をした人だった。
スタンフォードが彼の研究を今に伝えているということは、この研究の重要性を認めているからだろう。
以下のような研究のようだ。

快楽というのは「現在の」「いいこと」が続くことを意味する。
痛みというのは「現在の」「悪いこと」が続くことを意味する。
欲望というのは「将来」「いいこと」が起こることを目指す。
恐怖というのは「将来」「悪いこと」が起こることを怖れる。

この四つの「感情」の中で非合理的に道を切り開こうと志向するのが「怒り」である。
セネカは「なぜ人は怒るのか」という問題からこのように分析したようだ。
ストイシズムというのは「感情のない世界」を想定した。
ストイシズムの世界には怒りはない。
しかし、感情の世界とストイシズムの対比から「怒り」を分析したのがセネカだったのだ。

怒りで突破できなければ「恐怖」と「落胆」が待っている。
人間はどのみち「死」と向き合う。
全人類の宿命だ。
快楽、痛み、欲望、恐怖、すべてが死から逃れられない。
怒りでも突破できないのが「死」であり、そこに「落胆」がある。
不老不死があれば人間は怒りですべてを突破しようとするが、「死」があるから人間には「落胆」がある。
このような分析から、セネカは「心の平穏」へのアプローチをしたのだ。

怒りというのは、周囲に非合理をまき散らすが、本人にとっては「適切」で「制御された」感情だ。その場を強引に突破しようとしているのだ。

怒りの発信源は「快楽」「欲望」「恐怖」であるが、セネカは「能力で劣った人がこのような感情を引き起こして何かを突破しようとする」と考えたのだ。
そのため、能力で勝った人間はそういう人たちに「慈悲」をもって接することが、互いの心の平穏のためには好ましいと考えたようだ。
ここでスタンフォードは初めて「慈悲」という言葉を出している。
優れたものの美徳が慈悲であれば、いろんな人が、怒ることなく、楽しみに満ちていて希望のある人生を歩めるであろうとし、優れたものに慈悲を求めたのだ。
俺の経験では、能力で優れた人間が、格下の人間にあえて「先生」と呼んだり「いいところを褒めたり」すると相手は怒りがおさまるようだ。
こういう大して高尚なことではないことが「慈悲」であろうと今のところ考えている。

2012年4月27日 (金)

人を選ぶ基準

まずは、いずれの観点に立つにせよ、ナチュラルセレクションの立場を頭に入れておかなければならない。
つまり「役に立つ」「デザインがいい」というファクターだ。
この二つは、結果の予測もしやすいし、強烈な理由になる。
しかし、それだけではないのだ。
五感の作用で分かる要素で選ぶのが普通だろうが、外見や、声、文字、いろんなものが考えられる。
これらを「経験」で判断し、また「方法」も考え、「説明」しなければならない。
さらには、「長期的」に考えるか「短期的」に考えるかという観点もある。
さらには「バックグラウンド」も考える。
そのうえで「いつピークを迎えるのか」という観点も必要になる。
また「禁止事項」も当然あるだろう。
これらの要素を踏まえて人間を選ぶが、見えない要素があることや、不確実性があること、
また、判断する側も選抜能力は絶対的ではないということも考えなければならない。
つまり、人を選ぶというのは、絶対的基準はないのだ。
「試験」「オーディション」「進化」などのいろんな場面で頭に入れておかなければならないことだ。


2012年4月21日 (土)

実存主義~なぜ俺たちは偉いのか

あとでまとめておくけど「孤独」「真実」「卓越」などの中からいいパフォーマンスを生み出すのが「実存主義」らしい。これはなかなかモテそうな哲学だ。翻訳していろんな人に紹介しようと思う。「死」や「心配事」といった真実の存在が人間を高めるのだ。実存主義は神道に引き込めそうだ。
「わからないことは人に聞けばいい」というのが人間だが、答えが見つかりにくい環境で、その人の目の前には世界が開かれている。そういう構造が人間を高めていく。そこで、たとえば「神が人生を意味に満ちたものにする」という考えがあるが、そうなると、自分の「死」や「心配事」が開かれた世界でどのように発生するかも、神がそれに意味を与えるという形で現れる。
そこで、アスリートの中には「神に祈る」という人が現れる。
「人間の通常の法則」でこれをアプローチしたほうがいいという考えもあるが、「死」や「心配事」には「神が意味を与えている」と考えるとどうしても祈りが生じるのだ。
息子のために身を犠牲にしたアブラハムは「地球よりも重い評価」をキリスト教社会で受けた。人間は「死」や「心配事」の神による説明次第では地球よりも重くなってしまうのだ。ここにも祈りが生じてしまう。
実存主義においては「真実は主観的である」と言われた。客観的なものを基盤にしながらも、アブラハムを「地球よりも重く」したのは、客観の世界にある彼の誠実さであり、結局、飛躍するように何かのいいパフォーマンスを残せるものではないという意味では、物事は客観的であるけど、彼の誠実さが「真実は主観的である」としたのだ。
不確実な客観的世界を「神の声」と呼んで、人間は内向的におのれの価値を高めていくという発想には異論もあった。民衆は「真実ではない」として、人々を納得させるのはサイエンスの世界の客観性以外にないという立場があった。

ニーチェは「主観的評価を求めて地球より重い評価を受けること」を全面否定した。これを「神は死んだ」と言ったのだ。勝負するのならスポーツ医学なりなんなりを徹底的に研究しろという意味だろう。今はそういう時代であるという宣言でもあった。
ニーチェはカラマーゾフの兄弟のイワンの「世の中ではすべてのことが許される」という無神論に注目した。自分の道は自分で決めろと言ったのだ。犯罪を犯した人間がどういう理屈か「神」と呼ばれるようでは、世の中の人間の評価に予測不能性が生まれる。ニーチェは「意志の力」で自分の存在を高めていくべきだと言ってこの予測不能性を認めなかったのだ。これがニヒリズムと呼ばれた。
大衆は真実でない神を生み出すが、しかし、ユニバーサルなレベルでの道徳はあるのであり、その道徳にしたがっていけば人々を一過性に煽ることもなく自分の立場を確立できるのだ。
これがニーチェの立場だった。
だが、ニーチェはさらに続けた。もし、自分が何者かになりたいのならば「神は死んだ」ということを踏まえながらも「将来」を妊娠した人間として己の価値を高めていかなければならないとしたのだ。
ニーチェの「ツァラストラ」はこのことを延々と語っていたとされる。
だが、ニーチェはあくまでも精神論を語っていたのであり、スポーツ医学などの発展は20世紀のアメリカを待つほかはなかったのだ。

何が「パフォーマンスに先行するか」というと「アイデア」であり、それは「何者になりたいのか」というものを決める。それはその人がどういうタイプの人であるかというものから決まるのではない。
「孤独」「真実」「卓越」というものの中にどのように「存在しているか」で決まる。その人が何者になるかは「孤独」「真実」「卓越」という三つのキーワードにどのように存在しているかだ。

人間は「理性的な存在として」「人生に意味を与えながら」「孤独」「真実」「卓越」の三つのエッセンスと向き合っている、という構造がある。この三つのエッセンスと向き合いながら「考える」という精神作用を行っているのだ。

「孤独」「真実」「卓越」も議論すると深いんですよね。
夢と現実の間で「俺は誰なんだ」と問い続けて科学的にアプローチする人もいるし、毎日の義務をひたすらこなすことからアプローチする人もいる。そんな中で大事なのが「第三者の評価」なんですよ。他人から見てかっこいいと思われている人は確実に伸びる。そういう研究が実存主義なんですが、詳しいことはもういいでしょう。興味のある人は英語文献を当たってみてください。

「卓越」というものは、優れるというものだが、「可能」と「偶然」の世界で突出することを「卓越」と呼ぶ。実践の世界で優れることを言うのだ。
「成功の切り口」というのはどのように現状を認識し、科学的にアプローチするかを意味する。己をコントロールし、戦術を構築している。
東大に受かる人間は無意識のうちにこれを完成させているのだ。
人間は決して常に居心地のいい環境にはいないものだ。その中で、自分の利益を追求する動物として、存在する。その居心地の悪さを己に向けるか、他人に向けるかで「卓越」とのアプローチは異なってくるのだ。
我々は、体重も背の高さも、肌の色も、人種も階級も、国籍も異なる世界にいる。さらには心も信念も欲望も、性格も、家族のバックグラウンドも兄弟との関係も異なる。そういうものに案外本人は気がつかないのだ。
他人の目線がそういうものを自分に教えてくれると考えたほうがいい。そういう他人の目線が事実であるにせよそうでないにせよ、そうやって自分の現在地を知る。そのような中で、ある「決断」を生じさせているということが「卓越」をもたらすのだ。
「俺はいったい何者か」と考えるのは他人の目線からもたらされる。
学歴やキャリアというものは抽象的な概念ではない。選択や決断が行われていることを意味する。選択は葛藤の中で行われているし、世界が「私」の前にどのように現れるか、どのような意味を持つかという「プロジェクト」が組まれた結果、キャリアが生まれている。
「私は誰なのか」という問題を不透明な空間で考え抜いているのだ。自分のアイデンティティを求めた結果として世界が自分の前に現れるのだ。
これを「ファンダメンタルプロジェクト」と呼ぶ。

「孤独」について語りたい。
「私は誰なのか」という問題は、他人が決めているということが重要だ。自分の偏差値や世界ランキングは他人が決めている。意味に満ちた世の中で他人が評価していることだ。それは認めなければならない。その環境の中で日常生活を送りながら「ファンダメンタルプロジェクト」は進行していくのだ。集団の中において「私」はこれを行っていく。ここに孤独の空間があるのだろう。

「真実」については、私が「なりたい」というものに対して向かっているファンダメンタルプロジェクトにおいて、「何をやったのか」というものを「真実」と呼ぶのだ。真実がなければ何者にもなれないという発想は理解しなければならない。「やらなければお母さんや上司に怒られるから」という義務としてやったのでもいい。
どのような真実があったのかは義務であっても何でも構わないのだ。義務でやったのならば孤独はあまりないだろうが統制はとれているはずだ。孤独に遂行したのであれば強烈な統制を自分でとっているはずだ。
いずれにせよ、ファンダメンタルプロジェクトには真実がともなわなければ達成はないのだ。どのようなプロジェクトを組むかは「自由と価値」を議論しなければならない。

ファンダメンタルプロジェクトを組む背景には「価値」があり、「道徳心理学」があるとされる。意味に満ちた世界でなければこのようなものは生まれない。
そういうものを「心配」「無」「不条理」の中で推進していくのだ。

「ツァラトゥストラはかく語りき」R・シュトラウス

「実存主義」スタンフォード哲学百科事典。
http://plato.stanford.edu/entries/existentialism/


2012年4月17日 (火)

スタンフォード大学に忠実なAKB48論

モーニング娘。までは興味あったから「恋愛レボリューション21」の解釈を発展させることができたけど、AKBはついていけない。そもそも関わると火だるまになる世界だ。下から見上げる目線でないとアイドルは研究できないことが分かった。
AKBを見ていて思うのは「身内では女言葉は使わない」ということだ。つまり「父親を去勢させるための言葉を使う必要のない世界」ということだ。秋元氏は非常に哲学にはなるんだ。
「できないこと」が女らしさのアイデンティティーだとされるのに対して、AKBのPVは女同士のコミュニティーでは「女らしさを表現していない」「できない」ということだ。いきなりAKBってなんだよと思ってPVを見ると「キツイな」と思う。でも、いろんな技術の一つの側面なんだろう。
児童文学は「ストーリーしか追いかける能力のない子供にいかに哲学的問いかけを混ぜ込むか」が生命線だ。
さらに「女性のライフスタイルの提示」は20世紀にはじまったことだ。「ストーリーを追いかける」「ライフスタイルの提示」などがAKBのPVにはあるのだろう。俺には関係のない世界だ。
子供は高校生あたりで「社会に認められたい」という段階を迎える。
そういうときに俺はクラシック音楽を聴いている。「認められたければこの水準だ」という事実をぶつけられているのだ。
肉体的に劣った男性障害者の前では女性は「女らしさを表現できない」とされる。
発展途上国は「先進国を映す鏡」とも言われ、女児が生まれることは「脳に障害を持った子供が生まれたのと同じリアクションを親がとる」とされる。
そういう意味でAKBのPVは実に興味深い研究ができた。
「学校」というものは「世代を超えたセックスの防止」という機能を果たす場所であり、そういう壁の向こうの風景を描くのが面白いという側面はあるだろうね。
いろいろな哲学にはなるんだよ。


結婚と家庭内のパートナーであること

結婚というのは歴史的には「セックスと子育ての統制」という意味で発生したが、これに法律や道徳が関わってきた。さらには文化の側が「夢」を持たせる創造的作用を行ったようだ。結婚に強烈に「愛」を求めたのは18世紀で、これを「ラブレボリューション」と呼ぶのだ。子供に伝えたいものや、親戚のつながり、労働や資源の共有などが強く結婚に伴う人は、決して「不倫は文化」というようなことは明確に表明することはできないのだ。
古代ギリシャにおいても、結婚は「経済」と「子育て」が基盤にあり、それを宗教的秘儀と、約束、相互の助け合いなどが支えた。
ギリシャにおいても「祭りで男女が集まってくじで結婚相手を決める」ということが行われたことがあるが、子供と「おじいちゃん」「おばあちゃん」の関係が希薄になり、この時代ですら「核家族」が生まれたそうだ。
家族を捨てるという行為は、個人の利益にもならないし、公共の利益にもならない。さらには国を弱めるという現象は実験によって明らかになったものだ。すでに人類が実験を終えているものである。
プラトンは「家族を愛するように他の人を愛することができるのではないか」と考えたが、これは、家族国家を志向するもので、家族による国家を否定した。
アリストテレスはこの考えを徹底攻撃している。男女の結婚によって成り立つ家族を「社会の構成員」と位置付けたのはアリストテレスであり、ヘーゲルにもロールズにもサンデルにも支持を得たかなり強烈な考えとなった。
「主人」と「家内」という発想は、アリストテレス・ヘーゲル・ロールズ・サンデルといった強烈な論客によって支持されていることを知らないといけない。
聖オーガスティンが聖パウロの見解を引き継ぎ、「結婚にともなうセックス」のみを容認し、セックスの神聖化を行った。
そのために「未婚の女性」というものも「あらゆる善を含む」と位置付けられるようになったのだ。
トマス・アクィナスは、道徳の見地から結婚を論じた。結婚は、子供を育てることやパートナーへの忠誠という「善」を含むものであるとし、
それでも、セックスは理性的には混乱した説明しかできなかった。しかし、それらの説明の混乱も「結婚に存在する善」によって償われるとしたのだ。
このことと同時に、夫の不貞は「子供に悪影響を与える」などの現実的な意味も見出していたようだ。

「カネ目当ての結婚」というのがあるが「男性優位の構造」が確実に出来上がる。おカネというのが「愛と結婚」の説明を困難にする。これが哲学であり、研究してみたい。

カントは、結婚というものに「セックスの容認」がともなうことを指摘し、それを「権利」だとすると、本来ものについて語られていた権利という言葉が人間に対して発生するとした。人間をものと同列に語ってしまうのが「セックスをする権利」という言葉であった。そのために、それは「お互いさま」であることを強く主張し、実はこの指摘はかなり広く受け入れられているのだ。
一方、ヘーゲルは、カントの「結婚の契約」という説明に異議を唱えた。結婚には子孫を残すという側面があり、ただの情熱によって支えられているものではないとしたのだ。愛にももっと冷静で倫理をともなった形態があるのではないかとしたのだ。
また、「私には女房子供もいるんです」というように「結婚は男が社会とかかわるために用意されたシステムである」という説もある。
一方で、フェミニズムに方面からは、「主人」と「家内」という関係は、男女の本質を正確には反映していないと批判された。少年と少女は「正義の学校」で育つのに、結婚となった途端その場は「正義のない学校」になるとされたのだ。
マルクス主義は、結婚に「祖先の実践の継承と搾取」を見出している。女性への支配権を勝ち取るのが結婚であり、子供を「生産」させる道具として扱うと考えたのだ。マルクスは「プライベートの空間での結婚生活」を批判している。

以下、結婚と道徳に関して論じていきたい。
結婚は「契約」であり、義務をともなうものであるが、それ以上に「道徳」が深くかかわってくる。
ヘーゲルなどは「お見合い結婚」こそが社会の要求にしたがっているものであり、個人が選択したものではないからこそ社会と調和がとれる、としたのだ。結婚にともなう倫理が社会と衝突を起こさないのはお見合い結婚だとしている。この観点はしかし「議論の出発点」として頭においておくにとどめておいた方がいいだろう。

結婚を「契約である」と考えてみよう。結婚というものが子育てに直結するとされている。その子育ては「自発的」なものであり「約束」でもある。この「自発的」な「約束」である子育てを「特別な義務」と呼ぶのだ。
愛人の子供を任せられた母親はこの「自発的(ボランティア)」な「約束」を特別な義務として果たさなければならない。これが「結婚が契約だから」であると説明される。自発的な約束を真面目に果たすかどうかはわからないのだ。結婚から道徳的基盤を取り除いただけでこのようなことになる。そのために、結婚にはやはり「道徳的基盤」が要求されるのだ。
契約は結婚だけでなくいろんな法律に現れるが、契約を破棄することは悪であるという発想は当然、「愛人の子供」にも生じるだろう。そのために「結婚外のセックスは悪である」という発想を植え付けるとされる。
しかし、一度結婚して別れた後ならば「約束は果たした」とされて結婚外のセックスが容認されるとされる。つまり、結婚は「愛とセックス」の条件となり、それが約束となるのだ。
結婚を「契約」と説明して、愛人の子供を母親が育てた場合にこのような現象がみられる。

「約束からの解放」だけが離婚を正当化するわけではない。子供のことを考えなければ離婚は正当化できない。子供が虐待されているなどの場合でない限りは、多くの小説が「親の離婚は子供を害する」ことを描いている。結婚を契約としてとらえただけでは説明できずに、離婚を論ずる上でも「道徳的基盤」を議論に持ち込まなければならない。

結婚の時に「妻に愛を誓う」というのも非常に不安定さをともなうものだ。永続的に感情をコントロールすることを約束させることはできない。この場合は「一定の関係を維持する」ことを誓っているのであると解釈し直す必要があるとされる。しかし、「親」としての立場はやはり本当に愛情が必要になるとも言われ、別の議論が必要だ。
契約というものにこだわる人は、契約をしたときに本当に永遠の愛を誓っていればそれでいいとする人もいる。そもそも愛に非理性的なものがある以上、契約の時に強烈に誓っていればのちにそれが一定の意味を持つであろうとするのだ。
また、子育ては「自発的」なものと説明すると、免除をしてもらうことも理論上は可能だとする人もいる。こういう議論が成り立ってしまう以上、子育てにも道徳なり契約という概念を持ち込まなければならないだろう。

【書きかけ項目】

注)今の天皇は俺と紀宮の結婚に際して、俺の過去の女性関係を最深度調査して「敗北」を悟っている。
ああいう愚か者を「ラブレボリューションに影響された哲学のないアホ」と呼ぶのだろう。

ラブレボリューション21

この曲は、金目当ての結婚で夫が上位になることが明らかでありつつも妻に愛情を示している。
関白宣言」さだまさし


2012年4月 1日 (日)

ポストモダニズム

ポストモダニズムというのは「いろんな仮説を立てて反復を繰り返して正解に近づいていく」という思想だと理解しているが、今度まとめておこうと思っている。
マルクス主義もフロイトもコペルニクス天文学も出そろった時代に「大衆」と「マスメディア」が登場した。この時代に「何が美しいのか」を主に主戦場にポストモダニズムは議論を展開している。
科学や言語は太陽神・アポロであるが、思想の世界はこれに納得しなかった狂信な神デュオニソスであるとして、デュオニソスであることを思想の基盤としたのがポストモダニズムであるとも言われる。
「私」は太陽神アポロにも強烈な影響を受けるが、「私」が経験する「これ」「今」にも影響を受ける。太陽神アポロが確立した近代社会に同意しないデュオニソスは人々の「これ」と「今」であるとしたのだ。主に「何が美しいのか」という芸術論として議論されている。
アポロ神は「山には石炭があり、川には水力エネルギーがあり、人間には力がある」としたが、
デュオニソスは、一人の人間でも「美しいもの」を感じる自分の領域があるとした。
近代科学という太陽神アポロが強ければ強いほど、それぞれの「私」は、自分にとって美しいと思う経験をして死んでいくしかない。
これをニーチェは「永遠の繰り返し」と呼んだのだ。日本では「永劫回帰」と訳されている。
結局、司法だって政治だって「正義の試み」を常にリリースすることを繰り返している。だからこそ評論家という集団がいるのだ。
芸術の分野においても、もちろんそうであるが、「主観的であることと一般的であること」というテーマが芸術においては議論された。
美しいと感じるのは主観的であるが、大ヒットする作品がある。この大ヒットする作品の研究をしてみると、見逃してはならない点がある。それは、「その分野の原点を踏まえている」ということなのだ。歴史や経験をよく知っており、その上に物事を成立させている。新しい知識であったり情報であったりを原点や歴史の上に成立させている。
その世界で「創始者」とされる者だってそうなのだ。
芸術の世界の言語の体系も、社会科学・自然科学の体系も「言語」を使用するという意味では同じである。それならば、太陽神アポロの体系も、デュオニソスの「美」の世界の探求と「言語」というものを通じて相互に豊かなものになるのではないだろうか。そのような発想は当然あっていい。
また、ボクシングとインターネットと英語を駆使して「時代のパンチライン」を生み出した私が、「当時何を考えていたか」は私もいろいろ人に聞かれたが、あの時の発想が「時代の起源」となったのは事実であり、その「原点」を体で覚えることができたのは私にとって貴重な財産だ。
あの時の私は「力と思想」を発動させていた。「トレーニングと実践と意図と残虐さ」を文化の世界に投げ込んでいたとアメリカ人は分析しているようだ。
また、「対話の反復」の中に、その限界を超えた原動力が加わったと説明する人もいるようだ。
また、私の発言の背景に「肉体トレーニングの反復」が隠れていたのではないかという指摘もある。
さらには「統合失調症にこそ発信力があるのではないか」という指摘もあったが、私の経験ではこの議論はもうちょっと厳密な研究が必要だと思う。そういう側面はあった可能性はある。
この議論は、働いて給料をもらうコミュニティーと、家族の関係という社会の在り方を「統合失調症患者がめちゃくちゃに再編した」という議論なのだ。
一方で、文章に他者とは全く異なる「違い」が存在し、それを「彼や彼女が望んでいた」に過ぎないという冷静な分析もある。
また、「我々はもはや生産的ではない」と考えている世代に、新時代の技術が新たな価値をもたらした時に人々が「象徴的存在」を求めただけであるという分析もあるのだ。「時代はまだ終わっていない」ということを人々が確信したという説明だ。
議論としては「時代のパンチラインを生み出すには、芸術もレトリックもアカデミズムとの結びつきがなければ難しいのではないか」ということはアメリカでも認識されているようだ。
いずれにせよ、当時の私をアメリカ人は「意味や意図を自在に連結させ、切り離し、再編成することができる理想的マシーンであった」と総括しているようだ。

古いものと新しいもの、自然のものと人工的なもの、生と死、いろんな物事に人々を言語によって参加させて歴史の一つの局面を作った、ということがポストモダニズムからの説明のようだ。

これに対して「救世主を求めた時代に主観的な実験が成功しただけである」という批判があることは留意しておいてもいいだろう。

【完】

聖なる海とサンシャイン


「差別」の哲学

差別するということは「ある価値観」に多数派が「悪」のレッテルを貼るためにやる。
「貧乏」だけではないと思う。いろんな「同和」が持っている価値観に「悪」のレッテルを貼る
という効果がある。おそらく、かなり汚い話にまでなるんだろうね。
同和の連中ほど「家畜に愛情を注いだら殺せなくなる」という哲学を知っていると思うね。
市の屠畜場を「同和対策事業」と認定した判例がある。
動物を虐待する人は「人間性を尊敬していない」と言われる。
豚肉や牛肉を食べる人間は、とにかく、「家畜を尊敬しないで育てることが必要」とされている。
そうでなければ食えないのだ。決まりに従って家畜として育てなければ食えない。
子供を育てるなどの目的を持っている動物は食ってはいけない。
目的もなく生きているとされる家畜しか人間は殺して食えない。
食卓になぜ肉が出てくるかというのも哲学なのだ。
同和の問題。「自分の生活を人に話す」「子供に政治活動をさせる」「貧困」「共働き」「成績が悪い」「非行の温床」
などがありそうだ。これらに「悪」のレッテルを貼る効果が多数派にはあるんだ。
ゴミクズみたいな人生の人も「傑出した人間」として人生を終えたがっている。
貧困の中にいる人が葛藤をおこす理由はここにあると俺は見ているんだ。
貧乏人の酒乱や浮気の発信源は「傑出した人間として人生を終えたい」という感情だと思う。
差別というものに定義はないけど「その効果」は認識されている。「子供の発達阻害要因である」とされている。
「差別」がなぜいけないのかは実は非常に説明が難しい。
「先天的なもの」だからという理由は成り立つ。しかし「本人によるコントロールができないもの」だからという説明は、マイケルのように薬で肌の色が変えられる時代には説明が難しい。
不正確なステレオタイプで差別しているという指摘もある。
女子高と男子校を区別するのは「正確な性別の違いの理解に基づいている」とされているが、
「婦道一途」という説明では今は通らないと思う。正確な性の理解に基づいていない。
差別がなぜいけないのかは「理性で考えろ」という人もいるが、理性で過ちを犯さない人はいないことを知らなければならない。
また、「役職を不確定要素にゆだねている」という説明もある。しかし、フェアであることよりも
「いい企業運営」のほうがいいとなれば不確定要素も否定できない。
差別がなぜいけないのかの説明が難しいのは結局「抽象的なものから」差別が生じていることにある。
この抽象性こそがむしろ「差別はいけない」ことの根拠になるとも言われる。
それほど難しいテーマだから世界の人々に問題を投げかけている。インテリジェントな問いかけだ。
「差別は子供の成長阻害要因になる」というのが議論の出発点だが「なぜいけないの?」と言われたら
スタンフォードの英知を集めても「明確な正解はない」とされている。いろんな「正解」に反論が可能なのだ。
効果としては「子供のためにならない」ということだ。

« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »