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2012年3月29日 (木)

意思の自由

哲学者が意思の自由について議論したのは、多くの選択肢の中からなぜ人はこの選択をしたのだろうか、あるいは、この混乱はどのようにもたらされたのだろう、という問題意識から始まっている。
基本的に「道徳」と意思の自由の関わりから議論したのだが、その後、責任とのかかわり、自分で決めたかったという発想、人の尊厳、何かを成し遂げたかった、あるいは愛や友情なども含めて議論した。
結局、「そうしたかった」というのが意思の自由の出発点になったが、それが「現実」とどう関わるかが大事だ。

①現実とは無関係に人間は意思の自由を持つことができる。
②現実と意思の自由は共存している。
③現実こそが重要であり、意思の自由はない。
この三つの立場が議論された。

この研究に役に立ったのは、タレントがもつ意思の自由に多くの人が注目するという現象だ。
どのような意思の自由が魅力的なのだろうか。
なぜなら、それを観ている聴衆も意思の自由をもっているからだ。
そういう現象を見ることは「意思の自由」の研究を大いに深めてくれたのだ。

ミニマリスト(最小限の期待しかしない論者)は、人間は欲望にしたがって物事を決めているとして、道徳的な責任についても考えていないし、他の選択肢の検討や長期的な展望も持っていないとする。さらには、過去の事実を踏まえることも、計画性も、将来の目的もなく物事を決めているとしている。
「意思の自由」の議論はいきなりこの指摘から入っているのだ。

これに対して、プラトンは、人間は判断能力や自我があり、動物とは異なり理性があるとし、「価値」を求めて判断しているのではないかとしたのだ。人間は、動物的欲望を持ちながらも「今の環境でできる最も良いこと」を選択しているとしている。
アクィナスも、人間は「よいもの」のために判断しているとしたが、人間の「衝動」や、精神活動に介入するあらゆる要素を精密には分析していないと批判された。
さらに、自由と責任に基づいて人間は判断している、というモデルが示されたことがある。しかし、このような議論は、人間の衝動や他の外部の要素を考慮しておらず、キリスト教社会において、「こういう人は尊敬に値する」という神学論・理想論として提示されたものに過ぎないのではないかとされている。

欲望や信念を人間は、洗練された形で「自分の欲望」と整理することができるし、判断もできるとする。
たとえば「お菓子が食べたい」という「第一の命令」があるとしよう。人間は「しかし、食べると太るから」と言って、お菓子を食べないことにすることができる(第二の命令)。
第二の命令にしたがった人間には「意思の自由があった」といえるだろうとしたのだ。
この「第二の命令」ができるかどうかは人間の「度量」や「容量」「余裕」に関わっていて、第二の命令をどれだけ行う能力があるかが人間の高度さを表現するとしている。

また、人間には物事を受け止める「法則」があるが、それにどのように反応するかは「リアクションをしてしまう弱さ」があるのではないかと分析した人もいる。さらには、弱さがある以上、情熱によって物事を成し遂げる「強さ」もあるだろうとされた。
この、一般論で言う「意思の弱さ」「強さ」が人間にはあることが「意思の自由」とどのように関係しているのかが探求されたのだ。

さらに、「洗練された人間」は、外部のファクターや、形而上学を多用して、ストラテジックに「原因と結果」を引き起こすことができるのではないかとも議論された。

結局、人間に「意思の自由」があるのかどうかという問題を考えるにあたっては、人間の脳に「絶対にゆずれない領域」と「妥協の余地のある領域」があると考えると分かりやすい。
それを踏まえるといろんな説明が可能になるのだ。
このように考えると、人間の「絶対に譲れない領域」に様々な形で「神」が関わってくるのは明らかであろう。
なぜなら「死んだ後に神と対話する」「自分は神に愛されている」という具合に「神」という概念は人間の意思に介入してくるのだ。
そういう意味で、「神」は人間の意思の自由の「自由度」をなくしているとも言われる。

さて、時代の「発信源」についても考えてみよう。彼らもその時代にそろっているツールにしたがって「発信」して「創始者」であるとされている。昔にさかのぼったのならその地位は得られなかったであろうことが多い。そういう意味で、あらゆる「創始者」が「時代の産物」であるとも言われる。
これも「意思の自由」の研究から明らかになっているのだ。

神を語るうえで理解しなければならないのは「善」「よいもの」には「上限がない」ということだ。あらゆる人間が「いい人間」になろうとすることは上限のないものを求めることであり、「いい人間」はいても「完璧な人間」はいない。
「善」に上限はないということは理解しておいたほうがいいだろう。

【完】


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