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2012年3月28日 (水)

「環境」の美しさ

環境に美しさが哲学の議論の対象になったのは1970年代以降だ。なぜかというと「環境の美しさ」を強調する人が現れたからだ。結局、環境とは人間が整備したものも含むのであり、広い意味では「日々の生活」について語ることである。
21世紀に入ってからは、芸術とは独立した領域で「人間活動」を語ることを意味している。

①18世紀の自然の美しさ。
②19世紀の自然の美しさ。
③20世紀の自然破壊と環境問題の緊急性。
④現代の環境問題~知的な見方・一般的な見方。
⑤環境の研究の発展。

自然というものは、昔の人にとっては「風景」であり、あまり関心がなかった。ここに、まず哲学が生まれたのが18世紀だ。自然を満喫しようという発想を考えた人や、自然が人間に心の平穏をもたらすと考えた人が現れたのだ。カントが、それを「美しいもの」として、宗教や経済の領域のみならずさまざまな領域で芸術に勝るものであるとしたのだ。
18世紀にはむしろ「自然に興味のない人」がいることが自然の研究に役に立ったのだ。
ヨーロッパ庭園やランドスケープがなぜ美しいのかも、大自然の荒々しさや危険も、自然が「絵になる」という研究も、なぜこれらに興味のない人がいるのだろうということから研究が深まっているのだ。
複雑で、不規則で、豊かで、力に満ちている自然という「絵になるもの」が発見された。
「キリスト教の宗教画」や「女性の裸体」の世界だった絵画の世界に、「絵になる自然」というものが一気に流れ込んでいくのは自然なことだった。
そういう自然が美しいと認識されたのならば、当然「美学」の対象になるのだ。
それが18世紀の自然だった。

19世紀に入っても、さらには20世紀においても、哲学が問題にしたのは「絵になる自然」というテーマだった。カレンダーやポストカードに自然の風景が採用された。
これらの美学をカントから引き継いだのがヘーゲルであり、ヘーゲルは「芸術とは絶対的スピリットの表現である」として、その基盤を自然の美しさに求めたのだ。
この「自然には絶対的スピリットがある」というヘーゲルの議論で哲学的探求はいったん確立し、それ以降の研究は進まなかったようだ。
ヨーロッパでは「自然の美しさ」の探求はいったん止まったが、アメリカの方でこの分野の研究が一気に開けたのだ。文学作品や、絵画だけでなく、自然科学の分野も開拓された。地理という学問が発達したのも19世紀のアメリカだったし、地震や洪水のような自然の荒々しさから地質学などの分野も発達した。
アメリカでは「美しさ」だけにとどまらない研究がなされ、また、自然への人間の侵略という発想も生まれた。

20世紀には「自然の美」の哲学は完全に停滞してしまった。アメリカでは様々な活動がなされていたが、自然に関しては完全に哲学ではなく芸術の分野に議論のメインステージを奪われていたのだ。
芸術の分野では「人工的につくられたものの美しさこそを追求すべきだ」とも議論されたし、「自然をどのように二次元で表現すべきか」も議論された。
しかし、哲学と芸術の世界は対話を着実に進めていたとされる。
20世紀に「自然を感じる」ことを率直に表現したのは「朝日の光の中で小鳥のさえずりを感じる」ことの感動を語った日本ぐらいだろうとも言われていた。

そのような中で、ようやく「環境」という言葉が生まれることになるのだ。

1970年代に、突如として「環境」という言葉が語られるようになった。
これは、環境を軽んじていた時代が続いた中で、アカデミズムが環境を自覚したこともあるし、実際の環境保護活動が生まれたことも理由として挙げられる。
しかし、この時代の「環境」という言葉は「神学的真空地帯」とも言われていて、言葉としてのむなしさがあったとも言われる。
しかし、いろいろな方面から「環境」というものへのアプローチがなされ、今日に至るまでの理論の整備がなされた時期ではあった。

現代の環境に関する議論状況は「二つの対立軸」に分かれて議論の応酬がなされている。
知的な陣営対そうでない陣営
概念的な陣営対そうでない陣営

「知的」「概念的」と「そうでない陣営」と別れているのが興味深い。だれでも参加可能な議論だけど、感情にまかせて語るのならば「そうでない陣営」とされてしまうと思ったほうがいい。

環境を語るうえで知的であること
本来は、芸術論を語れることができることを知的であるとしていたようだが、現在では、バイオロジーやエコロジー、地質学などの分野の知識を踏まえて環境を語れることを「知的な側」としているようだ。
これらの知識を踏まえて「環境を楽しんでいる」ことが大事だ。場合によっては民間伝承や歴史も踏まえている人たちであり、楽しんでいるからこそ「自然のまま」を強烈に希求する動機がある。
そうでない陣営
この人たちは、むしろ当たり前のように自然の中にいて、五感の作用で自然を感じている。このような人たちも環境に何かがあったら強烈な利害関係を生じさせるために無視できない。
また、環境から遠いところから「感情的に」「形而上学で」環境問題を議論する人たちもいるのだ。これらの人たちも議論に参加する資格はある。しかし、形而上学で語る人たちほど問題の解決に大きな役割を果たすので無視できないのだ。
分類上はそのように分けたほうがいいようだ。

さらに、環境というものを、自然に限定せずに、自分の周囲の環境という具合に広くとらえてしまおうという議論もある。小さな町から大きな町、巨大な市民社会などに人々が住んでおり、いろんな環境に囲まれている。
住宅環境から始まり、周囲に巨大なデパートがあったり、森林にピクニックに行けたり、さらにはテーマパークにまで行ける周囲の環境をも含めて議論することもある。
自分だけの部屋があればそれが環境でもある。
基本的には「知的」にアプローチすることもできるし、感覚で感じることもできる。
たとえ「環境」という概念を広くとらえたとしても、「知的な側」と「そうでない側」に区別することは可能であることは踏まえておいていいだろう。

【完】


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