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2012年3月28日 (水)

人々が求める「人生の意味」

人間の人生は大きくこのように分類されている。

①超自然主義(神様が決めてくれた。魂が決めてくれた)
②自然主義(私が決めた。環境が決めた)
③ニヒリズム
の三つの人生があるとされます。

人生は意味に満ちた空間だ。アリストテレスは人間の行動を、アクィナスは美しさを、カントは最高の善を人生に見出そうとした。
幸福や道徳をともないながらも、人間は最終的には「傑出した存在」として人生を終えたいと思っている。どの人間もそう思っていると割り切って考えると、人間の行動が実に説明しやすくなるのだ。
戦場に行く軍人だって、病気にかかった年寄りだって、平凡な年寄りだって、平凡な主婦だって
「傑出した存在」として人生を終えたがっている、と説明してみよう。
今まで見えなかったものが見えてくるのではないだろうか。

人々が「傑出した存在」として人生を終えようとしているという分析は、小説などの研究から明らかになったそうだ。
これを語る理由は、人間が徳を積もうとする動機や、家族の複雑な関係を説明するのに非常に有意義だからである。
それを踏まえて、人々は人生を「意味に満ちた」ものにしようとするし、それに敗れたものはニヒリストとして「傑出した存在」になろうとするのだろうとされる。

同じ生き物でも人間というのは「意味に満ちた」量が異なるのは明らかだろう。意味の少ない人もいるし多い人もいる。これは現実だ。
彼らには徳があったから意味があったわけではない。同じ徳をもっていても意味のあるなしは生じる。
結局、「自分で選択したものの規範的価値」が違うのだとされる。これが人生の意味を決めている。
正確には、「自主的な選択をする度量によって生じる美徳の価値への評価」によって人生の意味は異なってくる。

人間は「自主的な選択をする度量」があれば幸せでも金持ちでもなくても意味はあると考える。
また、道徳的に正しくなくても「意味はある」と考えるのだ。
このことを理解することは、他の人間の行動を理解するのに非常に意味がある。

人生の意味に関しては必ずしもこの分野で合意が得られているわけではないか、もっと詳しく言うと「選ぶに値する目的」や「それによって得られたもの」に意味を見出しているとされる。
主に「目的」によって意味は決まってくるとされているが、モラルや幸福とは関係がなく、「そうすることで満足する」ということのようだ。つまり、何らかの説明可能な目的があればよく、場合によっては動物的本能によって選択していることもある。

人間は生きている限り、周囲の関係や状況は変わっていくわけであるから、人間は自分の肉体に、それを超えた不朽の目的を与えているとされる。ただ、サルトルは言った。「強烈な欲望がかなった時にだけ人間は人生に満足する」と。

これに対して、人生が「良いことに満ちていて、質に勝っていて、愛されていて、何かに熱中していれば」目的とは関係なしに意味のある人生になるという人もいる。
また、「誇りと称賛、没頭と愛の価値、主観的なものにとどまらない満足や徳」があれば人生は意味に満ちているとする人もいる。
さらには、家族に言われた通りにしないことに意味があるとする人もいるのだ。

しかし、「意味に満ちた人生」に関するいろんな立場を議論してみても「幸せ」「正しさ」「価値」を無視しては成り立たないのであり、こうしたものを無視して意味を追求するのも人間の行動分析には役に立つが、生き方として褒められたものではないことがあるということは指摘できるだろう。

①超自然的な生き方。
これは、神のような神聖で全知全能で最高の善に駆り立てられて生き方を決める人や、肉体を超えた不朽の魂によって生き方を決める人がいるということである。
神が生き方を決めてくれたという人生で誤解してはならないのは、神は万物の創造主であり、神が自分の人生の役割を決めているのならすべてが自分のために用意されたものであり、すべてがうまくいくであろうという現実的な発想があるということだ。盲目的な信仰心から由来するものではないという指摘が可能だ。
自分の人生を意味に満ちたものにする「目的」も「神の目的」と一致させることができて、強烈な意味を人生に与えることが可能になる。
しかし、「神にしたがって生きる」ことが「自分で生き方を選択した」という形で意味を与えることができるのだろうか、あらゆる人がそう言いだしたらみんな似たような意味しか人生に与えられないのではないかという指摘がなされている。
つまり、人間が人生において「自分で何かを獲得する」ということを行わなくなるのではないかとされる。
しかし、そのような人にとって「結婚」「子孫を残す」ということの意味が、常人には理解できないほどの意味を持つことも理解しなければならないだろう。
アインシュタインやピカソやマザー・テレサのような人は「神」が関わったような人物だったかもしれない。しかし、彼らの「すべてを知っている」「パワフルである」「スピリットに満ちている」というような生き方を、神にしたがえば必ずできるというわけではない。人によって深さが異なる。それでも神にしたがって生きることを求めるというのはどういう根拠なのだろうかということは指摘してよい。
彼らは「神に与えられた役割」にしたがえばこれらの人々の一員であるとするのだろうか。しかし、それが人間らしい生き方なのかは問われなければならないだろう。
また、魂にしたがって生きるというのは、自分の肉体が滅びても不朽の魂にしたがって生きることであり、その魂の求めるものから逸脱したら自分の生き方は間違いであるとするものである。これも決して現実離れした生き方ではない。
トルストイは「永遠に他者とは異なる生き方」をしようとする人を描いた。そういう生き方は自分を不朽のものにすることを志向していることを明らかにしたのだ。
このような人は「そんなに不朽がほしいのか」ともいわれるし「結局は神の記憶に残りたいだけだろう」ということで神の意志とさほど異ならないのではないかとも言われる。
魂にしたがって生きる人は完全な正義を志向する。正しいものが通らずに悪が栄えている時に強烈に魂を志向する人がいるのだ。だが、彼らが必ずしも目的を成し遂げるとは限らないだろう。
しかし、トルストイは「このような人は究極的には、永遠の自由、永遠の約束を信じている」としている。
だが、人間は年老いて死ぬだろう。コンピューターのように保存がきくものではない。それなのに不朽の魂を残そうという考えは「いったいそんな人生にどんな意味があるのか」と指摘された。
また、「長い人生は魂に駆り立てられるにしては退屈すぎる」とも言われる。
しかし、何かを成し遂げようという状況においては「むしろこのような発想をしなければならないのではないか」という現実的な指摘もあるのだ。

②自然主義
超自然主義がスピリチュアルを論じたのに対して、自然主義は「サイエンス(科学)」を基盤にしているとされる。
その特徴は「欲望によって選択した」「気分次第だ」ということになるとされる。
主観主義は、人生に何かいいことはないかと探していて、愛されたり注目を浴びたりすると「より良いものが得られた」と考える生き方だ。これも、いいものを得ることによって人生のゴール地点を高く設定しようという発想だ。
実は20世紀にこの考え方が主流になったほど強烈な影響力を持ったといっていい。
しかし、他者を害するのに無頓着になる人がいるために「もっと客観的になれないのだろうか」と強烈に批判され、主流ではなくなった考えでもあるのだ。
客観主義は、肉体と離れた人間の心は存在するし、何かより良いものを求めれば意味のある人生になるだろうと考えるものだが、神とは結びつかなかった考え方だ。
「人生の意味は、主観が客観的なものにしたがっている限りにおいて生じる」とも言われる。
だが、我々は主観を抜きにして人生の喜びや美しさ、などを感じることはできないだろうとも指摘された。
しかし、客観的な物事を重視する姿勢は評価されている。とくに、科学技術の発展とともにその傾向は強まったのだ。友情などの対人関係は客観的なものの理解から始まる。
しかし、ニーチェなどは「人生の意味」を満たす器が小さくなると批判したとされる。

③ニヒリズム
この考え方は、誰かに支配されていたり、人生に満足していなかったりする人が「神はいない」「人生に意味はない」とするものである。しかし、「それで人生が成り立つのですか?」と指摘されている。

【完】


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