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Foreign Affairs

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2012年3月20日 (火)

日本の美

日本の美というのは、鎌倉時代に「無常」という言葉が登場し、万物が常に変わりゆく中に、プラトン的に何か不変のものがあるのではないかという思想が基盤になっている。
吉田兼好の徒然草も同様の思想を表現している。
また、「道」というものも美とされている。六つの道があるとされ「茶道」「書道」「剣道」「弓道」「数学」「音楽」に分かれている。
これらの探求が日本の美のベースにあることは指摘しておいていいだろう。
「もののあはれ」とは「物事の情感」という意味であるとされ、万葉集で「鳥が一斉に飛び立つ」場面や、源氏物語、平家物語などで巧みに表現されていたとされる。
平家物語ではオープニングがこれを見事に表現している。「祇園精舎の鐘の音」から始まるくだりが引用される。化野の露や取鍋山の霞のように常にあるものがある一方、時の権力は常に変わっていく。若くて力のあるものもいずれは老いていく。本居宣長も源氏物語の研究をした人物であり、映画監督では小津安二郎がいる。
今でも「嫁に行く娘」が父に「長いことお世話になりました」と畳であいさつをするだろう。その美を描いたのは小津安二郎であり、その場面に父と娘の「変わっていく関係」にもののあはれを見出したのだ。小津の最高傑作と言っていいだろう。

さだまさし「秋桜(コスモス)」
http://www.youtube.com/watch?v=dPq-VCwbsCQ

この曲も「嫁に行く娘と母」を描いているが、さだまさしは「アーティストとしての嗅覚」で作ったとし、「もののあはれ」という言葉までは意識していなかったと語っている。
山口百恵さんに「引退した理由」として俺が「この規模ではまわしきれないなというのがあったんですか?」と聞いたところ、「意味は分かるけど、当時はそういうのはなかったと思う」と語っている。

「わびとさび」
わびというのは「抑制された質素な美」を意味する。たとえば、満月の月、満開の桜のようなものを「本来の姿ではない」として、散っていくサクラに美を見出すことを「わび」というのだ。
吉田兼好がこのような描写を描くのを得意とした。
そもそも、「日本の美」を研究したスタンフォード大学も、情報源は日本でも有名なドナルド・キーンなのだ。
茶道の千利休も「完成された様式の中で何かが欠けているのが美しい」としている。
限られた空間で、不遇をかこっても、決して多くを望まない。これが「茶道の茶室」の美を表現しているとし、これも「わび」であるとしているのだ。
銀閣寺の「床の間」にわびを見出したのは谷崎潤一郎である。部屋の片隅の影と空虚さを示しているとしている。
さびというのは本来は「人がいなくなる」ことを意味したが、それが「錆びた貫禄」という美しさを表現するようになった。万葉集でこれが表現され、茶道に持ち込まれた。
「歳をとるだけでなく、経験や洞察力を身に着ける」ことを美しいとしたのだ。それは「老いたものの貫録」を基盤にしている。しかしそれは「安定だけでなく深い孤独」をも背景にしているとされる。
松尾芭蕉も俳句で巧みにさびを表現した。
谷崎潤一郎は、ここでは「和式トイレ」にさびを感じたとされる。潤一郎はわびにせよさびにせよ「木造建築」に注目しており、現代に影響力を持っている。
時代の輝きの裏にある老いた貫禄の象徴が銀閣寺であり、時代の輝きそのものが金閣寺だった。
三島由紀夫にせよ市川昆にせよ、金閣寺を描いたが、彼らが語ったのは実は「時代の裏にある老いた貫禄」である銀閣寺だったのではないかとも言われる。
2011年の東日本大震災において、巨大電力消費国である日本が「節電」という政策をとったが、灯りのともっていないネオン街に「さび」を見出す人もいたそうだ。

「幽玄」というのは、暗さとミステリアスさを意味するとされるが、鴨長明は方丈記で「秋」にこれを見出している。秋の山の風景は「想像力をかきたてる」とされ、いろんなものを思い出させてくれるし、自然と涙が出るとしている。
東アジアでは幽玄こそが想像力の源であるとされ、世阿弥がこれを表現した。音楽の優美さもパフォーマンスの優美さも踊りの優美さもないけれども、「想像力」を発信するのが幽玄だとしたのだ。
能の美しさは想像力の産物であるとした根拠が幽玄にあった。

「いき(粋)」というのは、洗練されたスタイルを意味し、九鬼周造が概念をまとめたとされる。武士道に見られる、戦いにおける「美体」「意気地」「諦め」などがいきを表現しているとされ、本来は遊女と男の関係の間にいきがあるとしていた。
この「いき」もやはり基盤は諸行無常にあるのだ。これがさらに「甘み」「渋み」「派手」「地味」「下品」「上品」などの美に発展しているとした。
人工的なものでもあり、天然のものでもあり、人間の体や顔の仕草に表現される。ヨーロッパの美を、九鬼は日本の美として「いき」と説明したとも言われる。

「きれ」という美は、その基盤は白隠が「その生命の起源から切り落とす」ことに根拠を求めている。生け花の美の根拠も「きれ」にあるとされる。それ以外にも、能のステップにもきれがあるとされる。
竜安寺の石庭を見ていると、不動の岩に、鳥がとまったり、光や影のコントラストができたりする。これも根拠はきれにあるのだ。
それぞれの石の「独立した出来事」が「縁起」を示しているとされ、その基盤がきれにあるのだ。それぞれの石が独立しながらも諸行無常とは無縁ではいられない。それがきれであるとされたようだ。

小津安二郎の作品はこれらの日本の美の宝庫であるとされ、興味のある方は見てみたらどうでしょうか。


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