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Foreign Affairs

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2012年3月17日 (土)

アメリカ発信の中国情報

毛沢東に関する中国の公式見解
毛沢東の死後、中国では鄧小平が実権を握った。この時に、文化大革命を主導した「四人組」は処罰されたが、毛沢東の歴史的評価が問題になってしまった。毛沢東の評価を消滅させることは中国共産党の正統性にも関わったからだ。1976年の死去ののち、1981年にようやく中国共産党は毛沢東を批判した。この時に、胡耀邦が「毛沢東は70%正しかった」という中国の公式見解を出したのだ。
これが歴史的評価として定着したようだ。
毛沢東の思想的基盤
毛沢東が知的な出発点としたのは図書館で働いた時だとされる。図書館員の李大剣に感化されマルクス主義に触れた。また、バートランド・ラッセルに西洋の思想を教わった。魯迅には中国の様々な思想を網羅的に影響された。その他にも多くの文学者の影響を受けた。しかし、これらの同時代の文学者が、五四運動に直面して、一部は処刑され、一部は逃げてしまった。このことが毛沢東に「文学は無力である。プロパガンダ政治こそが推進力になる」と学習させたとされている。
ソビエト革命と中国
ソビエト革命は世界革命を志向したが、当然、視野に入るのは中国の広大な大地であった。孫文は、南部で中華民国を樹立させたが、南部はもはや混沌としていて統治不能に陥った。北部との連携にも失敗して、結局、孫文がソビエトを革命のリーダーと認識したのだ。義兄弟である蒋介石をソビエトに送り、軍事技術を学習させた。
蒋介石は日本でも軍事を学んでいたが、ソビエトの赤軍の技術の方が優れていると考えたようだ。1927年に蒋介石は上海で英国と日本を退け、共産党をも殲滅した。中国各地で蒋介石は共産党の殲滅作戦を展開したことから「白色テロ」と呼ばれた。蒋介石は上海や香港の財閥との結びつきが強く、労働者を制圧する能力があったからソビエトに資金を依存する必要がなかったのが強みだった。
1927年に、毛沢東は「秋の収穫祭」という蜂起をしたが、スターリンは毛沢東を過大評価しすぎていて、この蜂起は失敗し、毛沢東は中国の南西部に逃走している。蒋介石の関心は武漢の汪兆銘との連携に向かった。それを基盤に北伐を開始したのだ。
長征
長征のきっかけはアメリカは未公表にしている。
途中から始めるが、毛沢東は1935年ごろに、ソビエト派のメンバーとの権力闘争を行いながら中国共産党の長征を展開した。第四師団を率いて、泥にはまり、手と手を取り合って、泥の中を立って眠りながら山を越えたという話が伝わっている。毛沢東は「北を目指して日本軍と戦おう」をスローガンにしたため、ソビエト派に勝ったとされる。
この長征とはただの移動とすることはできなかった。彼らはゲリラ戦も身に着けたし、心身ともに強靭な男たちが出来上がっていた。
マルコポーロ橋事件
ソビエトだって中国を狙っていたし、日本はもっと綿密に中国を狙っていた。日本は満州国を樹立したが、対米作戦も念頭に置いていたので、あまり中国に関する情報はつかんでいなかったようだ。上海や北京に日本は拠点を持っていたが、そのような中で盧溝橋事件が起きた。中国の強烈な意思は日本には予想外であったが、日本軍は装備も訓練も充実していた。実は、この時の軍事行動をアメリカは「日本は次々に軍事拠点を落とし、不幸にも軍の上官までもが、レイプや虐殺などを容認した結果、北京に拠点を作ることに成功し、国民党軍は中国南西部に、共産党軍は中国北西部に押しやられた」という認識のようだ。
この配置から、中国共産党と国民党は、日本軍へのゲリラ戦を仕掛けていたのであり、時にはスナイパーが日本兵を狙うなどしていた。日本の海軍は石油で動いており、また、アメリカは鉄の輸出を止めてきたのだ。日本はインドネシアの石油を望んだことから、アメリカが「南部に進出しないように」と警告してきた。蒋介石にとって不運だったのは、ゲリラ戦には優れていたものの、農民の掌握技術を知らなかったことだ。このことから、中国における中国共産党による支配への道が開けている。
国民党支配地域では、役人の汚職や500倍のインフレが襲い、完全に統治が機能していなかった。そのような状態で日本本土をアメリカの原子爆弾が襲ったというのが中国から見た風景だった。

天安門事件前夜
中国は、鄧小平の指導のもとに、300名の留学生をアメリカに送り込み、科学技術を学習させた。また、国家としても様々な資源を沿岸部に求めたりし、人口増加をした。しかし、豊かな層が生まれたことは、政府の腐敗への批判の温床になったのだ。1986年ごろから政府に自由化を求める声が拡大していった。これをコントロールしていたのが胡耀邦だった。1987年に胡耀邦は鄧小平に退けられ、後任に趙紫陽がついている。胡耀邦は自由化を求める指導者の中心人物となってしまい、趙紫陽もやがてこれに同調していった。そのような雰囲気の中で、1989年の天安門事件を迎えたのだ。
中曽根の靖国参拝断念は1986年だが「胡耀邦に配慮した」と中曽根は言っている。中国で自由化を求める声をコントロールしていた胡耀邦が1987年に鄧小平に退けられていることを考えると、中国ではどのみち政争の具として胡耀邦排除の土壌は中曽根の靖国問題と絡んでいたようだ。

天安門事件
1989年4月に、学生たちが李鵬への批判を高め、胡耀邦の葬式を迎えた時に天安門広場に10万人の学生が集まった。4月22日の胡耀邦の葬式がきっかけだった。批判の矛先は李鵬に向けらえた。趙紫陽は北朝鮮への訪問を延期した。李鵬の照会に鄧小平はこれを「動乱」と認定した。五四運動の70周年記念の五月四日に学生は「下からの改革」を宣言として公表した。5月13日には急進派がハンガーストライキを決行した。同日、ゴルバチョフが中国政府に過激な対応をとらないように警告した。5月18日に中国最高指導会議が「戒厳令」を敷いたときに、趙紫陽は政治生命が終わった。翌日、憔悴しきった趙紫陽が天安門の学生のもとを訪れ「来るのが遅くなった」と語って帰っていった。広場の北と西から軍事行動が始まり、学生が抵抗した。
このような出来事があったから、1998年~99年の中国民主党、1999年~2000年の法輪功などのムーヴメントもあったし、天安門事件を継承するものであった。しかし、天安門事件は、中国政府が1992年に自由化を政策として明確したことに意義があり、それ以降の、中国共産党に関する動向は不透明なままなのだ。

中国共産党
1997年以降、中国では鄧小平が第一線を退いた。その中国共産党の仕組みは、優秀な若者をリクルートメントして「社会のあらゆる地位」で修行を積ませることを特徴とする。村長であったり、工場長であったり、校長であったり、新聞の編集長であったり、警察官僚であったりする。このような過程を経て、共産党の育成ルートが確立したのだ。
1997年に中国が反革命運動を犯罪としたことから、各国が人権問題を指摘している。中国内部に150~200万人が政治犯として収容されているものの、彼らは農業をやったり、工場で働いたり、公共サービスに従事したりしているのが実態だ。1400の収容所キャンプが存在するが、実態はそうなっている。法律上は「刑務所である」と位置付けられているようだ。
中国の政治犯とチベットの関係は1950年代からの問題だった。ダライラマが亡命して、1980年代にはチベットは統治を中国の中枢に委ねている。しかし、ラサでは暴動が起きたりして、現在では人口の半数を中国人が占め、公共機関も中国人によって運営されている。チベットの人権問題というのは指摘していいだろう。

長征
長征というのは、毛沢東主義の経験基盤であり、英雄体験と冒険が結果的に勝利に終わったという物語であることから、非常に魅力的なストーリーだ。1934年から35年にかけて敢行されたものだ。
しかし、この長征に関する資料が共産党のチェックを経ていて、実はその全貌はあまり明確ではない。反毛沢東の立場から書かれた資料すら共産党のチェックを経てしまった。基本的に、長征は3人から5人のリーダーがそれぞれのキャンプに分かれながら同一行動をとったとされ、そのリーダーの一人が毛沢東だったのだ。彼らは土地を支配する理論やあらゆる理論に関する議論を戦わせている。
イデオロギー的には単一の「毛沢東主義」というものを長征が生み出したわけではない。しかし、壊滅的打撃を負ったはずの共産党がよみがえったという物語であることは事実のようだ。1980年代に中国共産党が長征に関する見解を決定してしまい、その全貌を明らかにすることが非常に困難になった。
基本的には「左翼」対「毛沢東主義」の戦いであったとされるが、たとえば、「28ボルシェヴィキ」と呼ばれるソビエト派のグループが実在しないのではないか、あるいは、ソビエトは当時は毛沢東という人物に興味がなかったのではないかなどと指摘されている。このことから、長征に関する出版物はいろいろあるけど、長征を「讃える」文献よりも、「神話」に対して冷静な姿勢をとる記述の方が、より豊かな情報源になると考えられている。
中国共産党は、長征を敢行する過程でリーダーを生み出していったが、ここで注目すべきなのは、みんなを率いた人間を指導者としたわけではないということだ。
「成功を生み出す判断をした人」を、「その結果に敬意を払い」あとからリーダーであると承認したということだ。


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