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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2012年3月

2012年3月29日 (木)

意思の自由

哲学者が意思の自由について議論したのは、多くの選択肢の中からなぜ人はこの選択をしたのだろうか、あるいは、この混乱はどのようにもたらされたのだろう、という問題意識から始まっている。
基本的に「道徳」と意思の自由の関わりから議論したのだが、その後、責任とのかかわり、自分で決めたかったという発想、人の尊厳、何かを成し遂げたかった、あるいは愛や友情なども含めて議論した。
結局、「そうしたかった」というのが意思の自由の出発点になったが、それが「現実」とどう関わるかが大事だ。

①現実とは無関係に人間は意思の自由を持つことができる。
②現実と意思の自由は共存している。
③現実こそが重要であり、意思の自由はない。
この三つの立場が議論された。

この研究に役に立ったのは、タレントがもつ意思の自由に多くの人が注目するという現象だ。
どのような意思の自由が魅力的なのだろうか。
なぜなら、それを観ている聴衆も意思の自由をもっているからだ。
そういう現象を見ることは「意思の自由」の研究を大いに深めてくれたのだ。

ミニマリスト(最小限の期待しかしない論者)は、人間は欲望にしたがって物事を決めているとして、道徳的な責任についても考えていないし、他の選択肢の検討や長期的な展望も持っていないとする。さらには、過去の事実を踏まえることも、計画性も、将来の目的もなく物事を決めているとしている。
「意思の自由」の議論はいきなりこの指摘から入っているのだ。

これに対して、プラトンは、人間は判断能力や自我があり、動物とは異なり理性があるとし、「価値」を求めて判断しているのではないかとしたのだ。人間は、動物的欲望を持ちながらも「今の環境でできる最も良いこと」を選択しているとしている。
アクィナスも、人間は「よいもの」のために判断しているとしたが、人間の「衝動」や、精神活動に介入するあらゆる要素を精密には分析していないと批判された。
さらに、自由と責任に基づいて人間は判断している、というモデルが示されたことがある。しかし、このような議論は、人間の衝動や他の外部の要素を考慮しておらず、キリスト教社会において、「こういう人は尊敬に値する」という神学論・理想論として提示されたものに過ぎないのではないかとされている。

欲望や信念を人間は、洗練された形で「自分の欲望」と整理することができるし、判断もできるとする。
たとえば「お菓子が食べたい」という「第一の命令」があるとしよう。人間は「しかし、食べると太るから」と言って、お菓子を食べないことにすることができる(第二の命令)。
第二の命令にしたがった人間には「意思の自由があった」といえるだろうとしたのだ。
この「第二の命令」ができるかどうかは人間の「度量」や「容量」「余裕」に関わっていて、第二の命令をどれだけ行う能力があるかが人間の高度さを表現するとしている。

また、人間には物事を受け止める「法則」があるが、それにどのように反応するかは「リアクションをしてしまう弱さ」があるのではないかと分析した人もいる。さらには、弱さがある以上、情熱によって物事を成し遂げる「強さ」もあるだろうとされた。
この、一般論で言う「意思の弱さ」「強さ」が人間にはあることが「意思の自由」とどのように関係しているのかが探求されたのだ。

さらに、「洗練された人間」は、外部のファクターや、形而上学を多用して、ストラテジックに「原因と結果」を引き起こすことができるのではないかとも議論された。

結局、人間に「意思の自由」があるのかどうかという問題を考えるにあたっては、人間の脳に「絶対にゆずれない領域」と「妥協の余地のある領域」があると考えると分かりやすい。
それを踏まえるといろんな説明が可能になるのだ。
このように考えると、人間の「絶対に譲れない領域」に様々な形で「神」が関わってくるのは明らかであろう。
なぜなら「死んだ後に神と対話する」「自分は神に愛されている」という具合に「神」という概念は人間の意思に介入してくるのだ。
そういう意味で、「神」は人間の意思の自由の「自由度」をなくしているとも言われる。

さて、時代の「発信源」についても考えてみよう。彼らもその時代にそろっているツールにしたがって「発信」して「創始者」であるとされている。昔にさかのぼったのならその地位は得られなかったであろうことが多い。そういう意味で、あらゆる「創始者」が「時代の産物」であるとも言われる。
これも「意思の自由」の研究から明らかになっているのだ。

神を語るうえで理解しなければならないのは「善」「よいもの」には「上限がない」ということだ。あらゆる人間が「いい人間」になろうとすることは上限のないものを求めることであり、「いい人間」はいても「完璧な人間」はいない。
「善」に上限はないということは理解しておいたほうがいいだろう。

【完】


2012年3月28日 (水)

「環境」の美しさ

環境に美しさが哲学の議論の対象になったのは1970年代以降だ。なぜかというと「環境の美しさ」を強調する人が現れたからだ。結局、環境とは人間が整備したものも含むのであり、広い意味では「日々の生活」について語ることである。
21世紀に入ってからは、芸術とは独立した領域で「人間活動」を語ることを意味している。

①18世紀の自然の美しさ。
②19世紀の自然の美しさ。
③20世紀の自然破壊と環境問題の緊急性。
④現代の環境問題~知的な見方・一般的な見方。
⑤環境の研究の発展。

自然というものは、昔の人にとっては「風景」であり、あまり関心がなかった。ここに、まず哲学が生まれたのが18世紀だ。自然を満喫しようという発想を考えた人や、自然が人間に心の平穏をもたらすと考えた人が現れたのだ。カントが、それを「美しいもの」として、宗教や経済の領域のみならずさまざまな領域で芸術に勝るものであるとしたのだ。
18世紀にはむしろ「自然に興味のない人」がいることが自然の研究に役に立ったのだ。
ヨーロッパ庭園やランドスケープがなぜ美しいのかも、大自然の荒々しさや危険も、自然が「絵になる」という研究も、なぜこれらに興味のない人がいるのだろうということから研究が深まっているのだ。
複雑で、不規則で、豊かで、力に満ちている自然という「絵になるもの」が発見された。
「キリスト教の宗教画」や「女性の裸体」の世界だった絵画の世界に、「絵になる自然」というものが一気に流れ込んでいくのは自然なことだった。
そういう自然が美しいと認識されたのならば、当然「美学」の対象になるのだ。
それが18世紀の自然だった。

19世紀に入っても、さらには20世紀においても、哲学が問題にしたのは「絵になる自然」というテーマだった。カレンダーやポストカードに自然の風景が採用された。
これらの美学をカントから引き継いだのがヘーゲルであり、ヘーゲルは「芸術とは絶対的スピリットの表現である」として、その基盤を自然の美しさに求めたのだ。
この「自然には絶対的スピリットがある」というヘーゲルの議論で哲学的探求はいったん確立し、それ以降の研究は進まなかったようだ。
ヨーロッパでは「自然の美しさ」の探求はいったん止まったが、アメリカの方でこの分野の研究が一気に開けたのだ。文学作品や、絵画だけでなく、自然科学の分野も開拓された。地理という学問が発達したのも19世紀のアメリカだったし、地震や洪水のような自然の荒々しさから地質学などの分野も発達した。
アメリカでは「美しさ」だけにとどまらない研究がなされ、また、自然への人間の侵略という発想も生まれた。

20世紀には「自然の美」の哲学は完全に停滞してしまった。アメリカでは様々な活動がなされていたが、自然に関しては完全に哲学ではなく芸術の分野に議論のメインステージを奪われていたのだ。
芸術の分野では「人工的につくられたものの美しさこそを追求すべきだ」とも議論されたし、「自然をどのように二次元で表現すべきか」も議論された。
しかし、哲学と芸術の世界は対話を着実に進めていたとされる。
20世紀に「自然を感じる」ことを率直に表現したのは「朝日の光の中で小鳥のさえずりを感じる」ことの感動を語った日本ぐらいだろうとも言われていた。

そのような中で、ようやく「環境」という言葉が生まれることになるのだ。

1970年代に、突如として「環境」という言葉が語られるようになった。
これは、環境を軽んじていた時代が続いた中で、アカデミズムが環境を自覚したこともあるし、実際の環境保護活動が生まれたことも理由として挙げられる。
しかし、この時代の「環境」という言葉は「神学的真空地帯」とも言われていて、言葉としてのむなしさがあったとも言われる。
しかし、いろいろな方面から「環境」というものへのアプローチがなされ、今日に至るまでの理論の整備がなされた時期ではあった。

現代の環境に関する議論状況は「二つの対立軸」に分かれて議論の応酬がなされている。
知的な陣営対そうでない陣営
概念的な陣営対そうでない陣営

「知的」「概念的」と「そうでない陣営」と別れているのが興味深い。だれでも参加可能な議論だけど、感情にまかせて語るのならば「そうでない陣営」とされてしまうと思ったほうがいい。

環境を語るうえで知的であること
本来は、芸術論を語れることができることを知的であるとしていたようだが、現在では、バイオロジーやエコロジー、地質学などの分野の知識を踏まえて環境を語れることを「知的な側」としているようだ。
これらの知識を踏まえて「環境を楽しんでいる」ことが大事だ。場合によっては民間伝承や歴史も踏まえている人たちであり、楽しんでいるからこそ「自然のまま」を強烈に希求する動機がある。
そうでない陣営
この人たちは、むしろ当たり前のように自然の中にいて、五感の作用で自然を感じている。このような人たちも環境に何かがあったら強烈な利害関係を生じさせるために無視できない。
また、環境から遠いところから「感情的に」「形而上学で」環境問題を議論する人たちもいるのだ。これらの人たちも議論に参加する資格はある。しかし、形而上学で語る人たちほど問題の解決に大きな役割を果たすので無視できないのだ。
分類上はそのように分けたほうがいいようだ。

さらに、環境というものを、自然に限定せずに、自分の周囲の環境という具合に広くとらえてしまおうという議論もある。小さな町から大きな町、巨大な市民社会などに人々が住んでおり、いろんな環境に囲まれている。
住宅環境から始まり、周囲に巨大なデパートがあったり、森林にピクニックに行けたり、さらにはテーマパークにまで行ける周囲の環境をも含めて議論することもある。
自分だけの部屋があればそれが環境でもある。
基本的には「知的」にアプローチすることもできるし、感覚で感じることもできる。
たとえ「環境」という概念を広くとらえたとしても、「知的な側」と「そうでない側」に区別することは可能であることは踏まえておいていいだろう。

【完】


人々が求める「人生の意味」

人間の人生は大きくこのように分類されている。

①超自然主義(神様が決めてくれた。魂が決めてくれた)
②自然主義(私が決めた。環境が決めた)
③ニヒリズム
の三つの人生があるとされます。

人生は意味に満ちた空間だ。アリストテレスは人間の行動を、アクィナスは美しさを、カントは最高の善を人生に見出そうとした。
幸福や道徳をともないながらも、人間は最終的には「傑出した存在」として人生を終えたいと思っている。どの人間もそう思っていると割り切って考えると、人間の行動が実に説明しやすくなるのだ。
戦場に行く軍人だって、病気にかかった年寄りだって、平凡な年寄りだって、平凡な主婦だって
「傑出した存在」として人生を終えたがっている、と説明してみよう。
今まで見えなかったものが見えてくるのではないだろうか。

人々が「傑出した存在」として人生を終えようとしているという分析は、小説などの研究から明らかになったそうだ。
これを語る理由は、人間が徳を積もうとする動機や、家族の複雑な関係を説明するのに非常に有意義だからである。
それを踏まえて、人々は人生を「意味に満ちた」ものにしようとするし、それに敗れたものはニヒリストとして「傑出した存在」になろうとするのだろうとされる。

同じ生き物でも人間というのは「意味に満ちた」量が異なるのは明らかだろう。意味の少ない人もいるし多い人もいる。これは現実だ。
彼らには徳があったから意味があったわけではない。同じ徳をもっていても意味のあるなしは生じる。
結局、「自分で選択したものの規範的価値」が違うのだとされる。これが人生の意味を決めている。
正確には、「自主的な選択をする度量によって生じる美徳の価値への評価」によって人生の意味は異なってくる。

人間は「自主的な選択をする度量」があれば幸せでも金持ちでもなくても意味はあると考える。
また、道徳的に正しくなくても「意味はある」と考えるのだ。
このことを理解することは、他の人間の行動を理解するのに非常に意味がある。

人生の意味に関しては必ずしもこの分野で合意が得られているわけではないか、もっと詳しく言うと「選ぶに値する目的」や「それによって得られたもの」に意味を見出しているとされる。
主に「目的」によって意味は決まってくるとされているが、モラルや幸福とは関係がなく、「そうすることで満足する」ということのようだ。つまり、何らかの説明可能な目的があればよく、場合によっては動物的本能によって選択していることもある。

人間は生きている限り、周囲の関係や状況は変わっていくわけであるから、人間は自分の肉体に、それを超えた不朽の目的を与えているとされる。ただ、サルトルは言った。「強烈な欲望がかなった時にだけ人間は人生に満足する」と。

これに対して、人生が「良いことに満ちていて、質に勝っていて、愛されていて、何かに熱中していれば」目的とは関係なしに意味のある人生になるという人もいる。
また、「誇りと称賛、没頭と愛の価値、主観的なものにとどまらない満足や徳」があれば人生は意味に満ちているとする人もいる。
さらには、家族に言われた通りにしないことに意味があるとする人もいるのだ。

しかし、「意味に満ちた人生」に関するいろんな立場を議論してみても「幸せ」「正しさ」「価値」を無視しては成り立たないのであり、こうしたものを無視して意味を追求するのも人間の行動分析には役に立つが、生き方として褒められたものではないことがあるということは指摘できるだろう。

①超自然的な生き方。
これは、神のような神聖で全知全能で最高の善に駆り立てられて生き方を決める人や、肉体を超えた不朽の魂によって生き方を決める人がいるということである。
神が生き方を決めてくれたという人生で誤解してはならないのは、神は万物の創造主であり、神が自分の人生の役割を決めているのならすべてが自分のために用意されたものであり、すべてがうまくいくであろうという現実的な発想があるということだ。盲目的な信仰心から由来するものではないという指摘が可能だ。
自分の人生を意味に満ちたものにする「目的」も「神の目的」と一致させることができて、強烈な意味を人生に与えることが可能になる。
しかし、「神にしたがって生きる」ことが「自分で生き方を選択した」という形で意味を与えることができるのだろうか、あらゆる人がそう言いだしたらみんな似たような意味しか人生に与えられないのではないかという指摘がなされている。
つまり、人間が人生において「自分で何かを獲得する」ということを行わなくなるのではないかとされる。
しかし、そのような人にとって「結婚」「子孫を残す」ということの意味が、常人には理解できないほどの意味を持つことも理解しなければならないだろう。
アインシュタインやピカソやマザー・テレサのような人は「神」が関わったような人物だったかもしれない。しかし、彼らの「すべてを知っている」「パワフルである」「スピリットに満ちている」というような生き方を、神にしたがえば必ずできるというわけではない。人によって深さが異なる。それでも神にしたがって生きることを求めるというのはどういう根拠なのだろうかということは指摘してよい。
彼らは「神に与えられた役割」にしたがえばこれらの人々の一員であるとするのだろうか。しかし、それが人間らしい生き方なのかは問われなければならないだろう。
また、魂にしたがって生きるというのは、自分の肉体が滅びても不朽の魂にしたがって生きることであり、その魂の求めるものから逸脱したら自分の生き方は間違いであるとするものである。これも決して現実離れした生き方ではない。
トルストイは「永遠に他者とは異なる生き方」をしようとする人を描いた。そういう生き方は自分を不朽のものにすることを志向していることを明らかにしたのだ。
このような人は「そんなに不朽がほしいのか」ともいわれるし「結局は神の記憶に残りたいだけだろう」ということで神の意志とさほど異ならないのではないかとも言われる。
魂にしたがって生きる人は完全な正義を志向する。正しいものが通らずに悪が栄えている時に強烈に魂を志向する人がいるのだ。だが、彼らが必ずしも目的を成し遂げるとは限らないだろう。
しかし、トルストイは「このような人は究極的には、永遠の自由、永遠の約束を信じている」としている。
だが、人間は年老いて死ぬだろう。コンピューターのように保存がきくものではない。それなのに不朽の魂を残そうという考えは「いったいそんな人生にどんな意味があるのか」と指摘された。
また、「長い人生は魂に駆り立てられるにしては退屈すぎる」とも言われる。
しかし、何かを成し遂げようという状況においては「むしろこのような発想をしなければならないのではないか」という現実的な指摘もあるのだ。

②自然主義
超自然主義がスピリチュアルを論じたのに対して、自然主義は「サイエンス(科学)」を基盤にしているとされる。
その特徴は「欲望によって選択した」「気分次第だ」ということになるとされる。
主観主義は、人生に何かいいことはないかと探していて、愛されたり注目を浴びたりすると「より良いものが得られた」と考える生き方だ。これも、いいものを得ることによって人生のゴール地点を高く設定しようという発想だ。
実は20世紀にこの考え方が主流になったほど強烈な影響力を持ったといっていい。
しかし、他者を害するのに無頓着になる人がいるために「もっと客観的になれないのだろうか」と強烈に批判され、主流ではなくなった考えでもあるのだ。
客観主義は、肉体と離れた人間の心は存在するし、何かより良いものを求めれば意味のある人生になるだろうと考えるものだが、神とは結びつかなかった考え方だ。
「人生の意味は、主観が客観的なものにしたがっている限りにおいて生じる」とも言われる。
だが、我々は主観を抜きにして人生の喜びや美しさ、などを感じることはできないだろうとも指摘された。
しかし、客観的な物事を重視する姿勢は評価されている。とくに、科学技術の発展とともにその傾向は強まったのだ。友情などの対人関係は客観的なものの理解から始まる。
しかし、ニーチェなどは「人生の意味」を満たす器が小さくなると批判したとされる。

③ニヒリズム
この考え方は、誰かに支配されていたり、人生に満足していなかったりする人が「神はいない」「人生に意味はない」とするものである。しかし、「それで人生が成り立つのですか?」と指摘されている。

【完】


2012年3月27日 (火)

小論文対策「民主主義」をおさえておこう

①民主主義は何かの手段なのか。
②民主主義それ自体の価値があるのか。
③民主主義の問題点。
④自分の利益を追求する人たちだけで成り立つものなのか。
⑤エリートや指導者をどう説明するのか。
⑥議会の説明。
⑦以上の問題点を踏まえて、いろんな論客の文章を引用する。

民主主義の重要なポイントは、庶民には情報が与えられていないということと、そういう庶民が政治に関与するのは非常に国家の意思決定に効率が悪いということで、そこからエリートというのが生まれる。政治エリートも経済エリートもいます。
政治家の中には利益集団と結びつく人もいるし、偏った行動をとる人もいる。庶民は選挙で「最悪な政治家を排除する」仕事しかできません。
政治エリートと経済エリートが効率的な国家運営をすればいいじゃないかという考えがありますが、効率的なだけが国家運営ではないのです。
やはり、庶民が何を求めているのかを適切に見定めて、それに向かって「効率性」を用いなければならない。
このあたりの議論ができれば合格点のようです。

民主主義というのは「エリートが競争する」のをみんなが見物し、最悪なエリートを排除するという仕組みがあって、さらに、国が貧困に陥った場合に、「貧しい人たちの救済」に国家が行動してくれる仕組みになっている。
民主主義の正当化という議論はこのあたりで落ち着いています。

民主主義の問題点は、庶民はエリートが判断した過程ではなく「結果にしか興味がない」ということだ。これは指摘しておいていいだろう。
これに対しては「国民を守るために権力を行使していれば結果よりプロセスが大事だ」という発想が生まれる。
「自由」や「公正さ」「権力の適正な配分」などをしっかり守っていれば、結果だけを見るのではなく国の運営がうまく行っているかを見たほうがいいとする立場がある。

あとは各自でいろんな本を読んでみましょう。
「民主主義」を押さえればいろんな小論文に対応できるのです。

「自由」というのは、各自に与えられた広い空間です。
社会から影響を受けたり、いろんな活動をしたりする。そうやって自分の空間を作っていく。
これは民主主義とのかかわりで言えば、「意思決定の質を高める」という効果がある。
選挙に関与するのでもいいし、いろんな関わり方がある。
自由の空間はその人のものであるが、意思決定の質を高めてくれるという効果を知らないといけない。

民主主義の議論は「合意が得られなかった場合」にどうするかという問題から始まる。
クラスの学級会では「多数決で決めよう」ということになるけど、政治社会では「コンセンサス」で決める。
このコンセンサスは、実は「理性的なキーパーソンが納得した」から決めているのではないかとも言われる。
この話から民主主義がエリートの話につながる。
理性的でないキーパーソンの排除に選挙が使われているという指摘もできる。

「平等」というのは自由ほど単純には説明できないという理解が必要だ。世の中には金持ちも貧乏人もいる。権力のある人が部下に命令する仕組みもある。そういう世の中で「平等」という言葉を説明するのは非常に難しい。これを理解しないといけない。
しかし、政治社会で「妥協」をするうえで考えられる「平等」が「一票の格差をなくす」ことなのではないだろうか。それ以上に平等を求めても仕方がないし、しかし「一票の格差」だけは最高裁まで上げて議論しなければならない。そのあたりを指摘すればいいだろう。
世の中では、女性が失恋した意味も、政治家が総理大臣になった意味も「その人にとって価値は同じ」だということだ。

「小選挙区制」
選挙区の中でたった一人の代表を選ぶという仕組みは議論したほうがいい。
二大政党制を成立させ、政治を安定させるとされるが、その選挙区は何かのエスニックグループでもなんでもないいろんな集団がいる。その中から一人を選んでいるのだ。
この仕組みは、政党の公約を近代化させたとも言われる。さらに、公約にすでに妥協が含まれているとも言われる。しかし、マイノリティーの意見を反映していないのではないかという指摘はしなければならない。
また、公約が抽象化してしまい、極端に言えば「間違いが全く含まれていない公約ができる」とも指摘される。
あとは政治の場で物事が決められる選挙制度だとされる。

民主主義を支える論陣を張った論客はたくさんいるし、強烈な議論を展開したから支持されている。しかし、内政および外交において限界があることも指摘すれば合格だ。


2012年3月26日 (月)

フォーリンアフェアーズ英語版~ダイジェストその13

中国の次世代リーダーを待っているもの
30年前に鄧小平が中国経済の改革開放を進めた時には、経済の自由化と同時に、政治も民主化に進むと思われていた。当時の中国の人口は今の三分の一だった。やがて、中国経済は90年代に入り発展し、人口は三分の二になった。人口は海岸地域に流入したのだ。
中国の問題がやがて明らかになった。「経済格差」「土地が足りない」「労働環境の悪さへの不満」の三つだ。
中国は、経済発展とともに「土地が足りない」という問題に直面したのだ。これは「領土的野心」とつながると考えていいだろう。しかし、中国の政治体制の動きは鈍い。
地方の貧困層が、都市に流れ込んで、労働環境は悪いけど「地方にいるよりはマシ」と考える連中に政治的不満がたまっている。
さらに、地方で暴動が起きると地域のリーダーは獄死したりする。それを重く見ているのはむしろ国家の中枢だった。地方の改革を中国政府は頭に入れている。しかし、地方政府の連中は「まだまだやるべきことがある」と中枢への不満を隠さない。中国は国家レベルで確実に分権化に向かっているのだ。
中国はGDPは飛躍的に伸び、GDP比での国家財政もあまり変わらないため、国家の財政は豊かである。彼らの税収は消費税に依存している。また、国営企業の収入にも依存しているのだ。しかし、財政が豊かになっても社会保障や医療などに支出は向かっていない。インフラ重視の支出に対して、労働者の不満は大きい。
中国人民の「経済的満足度」は世界の24位に入るに至っている。しかし、経済格差はもはや容認できない水準に到達していることと、土地が足りないことなど、内政面での課題は多い。
それをよく理解したうえで日本も中国という国を見ていかなければならないだろう。

アフガニスタン~アヘンの花嫁
アフガニスタンでは、農業の20%がアヘンを栽培しているのだ。そして、その3分の2がヘロインに精錬されている。世界レベルでは650億ドル規模のビジネスであるが、アフガニスタンは40億ドルをアヘン栽培で得ている。実は、アフガニスタンのアヘンやヘロインは、イランに密輸されてヨーロッパへとつながっているのだ。この密輸の際に、リスクがあり、逮捕されたら全財産を失う人がいる。リスクのある仕事で財産を失った人は「娘を売るしかない」のだ。アフガニスタンでは、娘は数千ドルで売れる。通常の奴隷なら70ドルだ。彼らの国では何十歳も上の男と若い娘が結婚するのだ。それが男の名誉とされている。スンニ派では16歳未満の結婚は禁止されているが、シーア派ではそういう規制はない。
そのようなことから「アヘンの花嫁」が人身売買されているのだ。この実態を、アメリカが映画として公開した。タリバンは国際世論に配慮して、アヘンの規制を表向きは表明したことがあるが、彼らの資金源を放棄するわけがなかった。
今後、アフガニスタンの地でアヘンを撲滅するには数十年かかるだろうと言われている。
アフガニスタンで良識がまかり通るという状況ではないのが現状なのだ。

アメリカが宇宙計画の継続を表明
国家のプロジェクトとして知られるのが、万里の長城であったり、ピラミッドであったり、秦の始皇帝の墓であったりするが、これらは「王朝への敬意」「利益の追求」「軍事目的」の三つの理由があって発動されるのが通常だ。
アメリカも「宇宙計画」がこれらのメリットにつながると考えて、オバマは宇宙計画の継続を表明している。場合によっては一兆ドルもの費用が必要だとされるが、アメリカのメリットになるという判断だろう。

アフリカの子供たち
全米で「コニー2012」というフィルムが公開され、ウガンダの反政府勢力「神の抵抗軍」のコニー一派が、数万人の子供たちを誘拐し、兵士にしたり、配送人にしたり、料理人にされたりと、都合のいいように利用していることが明らかにされ、アメリカで関心が高まった。彼らは時に虐待され、搾取され、レイプされているのだ。他にも、アフリカではソマリアが飢饉を起こして、2月に終息したが、子供たちがリスクにさらされている。また、コンゴでも子供のレイプは問題になっている。世界で最も新しい国である南スーダンも体制が不安定であることから、子供たちの問題がある。
「アフリカの子供たち」というテーマを論じる場合には、具体的にはこれらの国を指摘しなければならないのだ。

中国と南シナ海
中国が、南シナ海で6か国を相手に攻撃的な姿勢をとっていたことが知られていたが、最近は、ベトナム漁船などの拿捕と近海の島での拘束などを行わないなど、非常に態度を軟化させたと言われる。
アメリカによると、2010年ごろからこの兆候が見られたとされる。
ASEANなどでも鄧小平の定めたコードを重視し、石油資源の配分などの話し合いに応じる姿勢を見せている。
「中国は南シナ海でのUゾーンで攻撃的」という論調は急激に変化を見せたのだ。

2012年3月20日 (火)

日本の美

日本の美というのは、鎌倉時代に「無常」という言葉が登場し、万物が常に変わりゆく中に、プラトン的に何か不変のものがあるのではないかという思想が基盤になっている。
吉田兼好の徒然草も同様の思想を表現している。
また、「道」というものも美とされている。六つの道があるとされ「茶道」「書道」「剣道」「弓道」「数学」「音楽」に分かれている。
これらの探求が日本の美のベースにあることは指摘しておいていいだろう。
「もののあはれ」とは「物事の情感」という意味であるとされ、万葉集で「鳥が一斉に飛び立つ」場面や、源氏物語、平家物語などで巧みに表現されていたとされる。
平家物語ではオープニングがこれを見事に表現している。「祇園精舎の鐘の音」から始まるくだりが引用される。化野の露や取鍋山の霞のように常にあるものがある一方、時の権力は常に変わっていく。若くて力のあるものもいずれは老いていく。本居宣長も源氏物語の研究をした人物であり、映画監督では小津安二郎がいる。
今でも「嫁に行く娘」が父に「長いことお世話になりました」と畳であいさつをするだろう。その美を描いたのは小津安二郎であり、その場面に父と娘の「変わっていく関係」にもののあはれを見出したのだ。小津の最高傑作と言っていいだろう。

さだまさし「秋桜(コスモス)」
http://www.youtube.com/watch?v=dPq-VCwbsCQ

この曲も「嫁に行く娘と母」を描いているが、さだまさしは「アーティストとしての嗅覚」で作ったとし、「もののあはれ」という言葉までは意識していなかったと語っている。
山口百恵さんに「引退した理由」として俺が「この規模ではまわしきれないなというのがあったんですか?」と聞いたところ、「意味は分かるけど、当時はそういうのはなかったと思う」と語っている。

「わびとさび」
わびというのは「抑制された質素な美」を意味する。たとえば、満月の月、満開の桜のようなものを「本来の姿ではない」として、散っていくサクラに美を見出すことを「わび」というのだ。
吉田兼好がこのような描写を描くのを得意とした。
そもそも、「日本の美」を研究したスタンフォード大学も、情報源は日本でも有名なドナルド・キーンなのだ。
茶道の千利休も「完成された様式の中で何かが欠けているのが美しい」としている。
限られた空間で、不遇をかこっても、決して多くを望まない。これが「茶道の茶室」の美を表現しているとし、これも「わび」であるとしているのだ。
銀閣寺の「床の間」にわびを見出したのは谷崎潤一郎である。部屋の片隅の影と空虚さを示しているとしている。
さびというのは本来は「人がいなくなる」ことを意味したが、それが「錆びた貫禄」という美しさを表現するようになった。万葉集でこれが表現され、茶道に持ち込まれた。
「歳をとるだけでなく、経験や洞察力を身に着ける」ことを美しいとしたのだ。それは「老いたものの貫録」を基盤にしている。しかしそれは「安定だけでなく深い孤独」をも背景にしているとされる。
松尾芭蕉も俳句で巧みにさびを表現した。
谷崎潤一郎は、ここでは「和式トイレ」にさびを感じたとされる。潤一郎はわびにせよさびにせよ「木造建築」に注目しており、現代に影響力を持っている。
時代の輝きの裏にある老いた貫禄の象徴が銀閣寺であり、時代の輝きそのものが金閣寺だった。
三島由紀夫にせよ市川昆にせよ、金閣寺を描いたが、彼らが語ったのは実は「時代の裏にある老いた貫禄」である銀閣寺だったのではないかとも言われる。
2011年の東日本大震災において、巨大電力消費国である日本が「節電」という政策をとったが、灯りのともっていないネオン街に「さび」を見出す人もいたそうだ。

「幽玄」というのは、暗さとミステリアスさを意味するとされるが、鴨長明は方丈記で「秋」にこれを見出している。秋の山の風景は「想像力をかきたてる」とされ、いろんなものを思い出させてくれるし、自然と涙が出るとしている。
東アジアでは幽玄こそが想像力の源であるとされ、世阿弥がこれを表現した。音楽の優美さもパフォーマンスの優美さも踊りの優美さもないけれども、「想像力」を発信するのが幽玄だとしたのだ。
能の美しさは想像力の産物であるとした根拠が幽玄にあった。

「いき(粋)」というのは、洗練されたスタイルを意味し、九鬼周造が概念をまとめたとされる。武士道に見られる、戦いにおける「美体」「意気地」「諦め」などがいきを表現しているとされ、本来は遊女と男の関係の間にいきがあるとしていた。
この「いき」もやはり基盤は諸行無常にあるのだ。これがさらに「甘み」「渋み」「派手」「地味」「下品」「上品」などの美に発展しているとした。
人工的なものでもあり、天然のものでもあり、人間の体や顔の仕草に表現される。ヨーロッパの美を、九鬼は日本の美として「いき」と説明したとも言われる。

「きれ」という美は、その基盤は白隠が「その生命の起源から切り落とす」ことに根拠を求めている。生け花の美の根拠も「きれ」にあるとされる。それ以外にも、能のステップにもきれがあるとされる。
竜安寺の石庭を見ていると、不動の岩に、鳥がとまったり、光や影のコントラストができたりする。これも根拠はきれにあるのだ。
それぞれの石の「独立した出来事」が「縁起」を示しているとされ、その基盤がきれにあるのだ。それぞれの石が独立しながらも諸行無常とは無縁ではいられない。それがきれであるとされたようだ。

小津安二郎の作品はこれらの日本の美の宝庫であるとされ、興味のある方は見てみたらどうでしょうか。


2012年3月19日 (月)

いじめ

いじめの研究が発達したのはイギリスだった。職場で、現状に不満を持つ人がいじめを行い、上司が「うちにはいじめは存在しない」という立場をとっていることが明らかになっていた。いじめには何のメリットもない。いじめられた側が強くなることもない。このメリットもない行為が「現状への不満」から生まれていたのだ。
このことが、経済の生産性に悪影響を与えていることに気がついたのがマーガレット・サッチャーであり、労働組合なども含めて、研究と対策に取り組んだ。
国家レベルの研究をしたのがサッチャーだったのだ。あくまでも景気回復のためであったが、それであるからこそかなり深い研究がなされたようだ。
サッチャー政権下での、職場のいじめには理由があった。従業員の多くが解雇され、残った人たちに多くの仕事が重荷になっていた。しかし、賃金は上がらず、企業のトップだけがいい報酬を得ていたのだ。このことが、いろんな意味でいじめの温床になったとされる。
人々の「卑しさ」「欲深さ」が基盤になったことは忘れてはならない。
いじめによって得られる満足は「やる気に満ちた人を潰すことの満足感」だとされる。つまり、経営者としてはそれを見過ごしたら経営者失格と言っていい。
経営者の目的は「仕事の割り振り」「目的達成」「人材のコントロール」「義務達成の満足感を与える」「生産性の向上」「コストの最小化」「売り上げの最大化」などである。
そういう目的を持った組織的一体性の中に「やる気に満ちた人を潰す」といういじめがあるのがどれほど有害であろうか。
これをサッチャーが国家レベルで指摘したのだ。
戦場や路地裏では、いじめは肉体的に痛めつけることを意味する。
しかし、職場などでは「精神的に痛めつける」という目に見えない方法で行われるのだ。
いじめの態様は
「権力の乱用」
「他者の領域への侵犯」
「信用を裏切る」
「秘密を漏らす」
「忠誠を裏切る」
「人格に悪のレッテルを貼る」
「生活の糧を奪う」
「仕事を奪う」
「個人を破壊する」
これらはほとんどが「法律には違反していない」という言い訳のもとに行われるのだ。
いじめを行う人は「エチケットを守る」「ルールに従う」などの基本的なことを「法律には違反していない」という理由から侵害するのだ。
子供たちの間でも周知のようにいじめは行われているが「友達から聞いた」「テレビで見た」などという具合に自分がやったりされたりしたことをごまかしているとされる。さらに、子供たちは「フェアプレーの精神」「正義感」などの感覚が未成熟であることからいじめが起きるとされる。
また、フィクションと現実の区別もついておらず、問い詰めても「遊びだった」とごまかすとされる。子供たちはうそをついているわけではなく、本当に現実とフィクションの区別がついていないとも言われ、グループのリーダーがどれだけ成熟しているかで変わってくるとされる。
このようなことが、「いじめられた側は決して強くはならない」「経済に悪影響を与える」という観点から、今後加筆して生きたい。

いじめの方法は詳細に研究されている。
「策をつかって戸惑わせる」「物事を秘密にする」「脅かす」「適正な評価を行わない」「わざと誤った認識をする」「行動をとらせるのを阻止する」「裏切り」「無視」「臆病者としてふるまう」「いじめを肯定する」「精神病を利用する」などである。
これらは「成熟した大人としてはタブー」とされる。つまりこれをやったら失格なのだ。
職場などでは「お金」「時間」「競争」と「3人の人間」がいればいじめが発生するとされる。子供の場合は「お金」ではなく「成績」であろうか。
このことを考えると、公務員の人員削減を政策として打ち出す政治家は、役所がいじめの温床になるであろうことは当然予想しなければならない。政治家がどこまで成熟しているかが問われるのだ。

「いじめの結果」
いじめられた人は「ストレスを感じる」ということだ。成熟する機会を失ったり、自信を失ったり、人によっては怒りを抱える人もいる。自信を失った人の中には「強烈な決意」を固めてしまう人もいるとされる。
これが「いじめのもたらすもの」なのだ。
結局、未成熟な集団でこのようなことが行われると「空手の黒帯でしか解決できなくなる」とも言われる。
職場などでは「俺の言うとおりにやれ」というリーダーのもとではたして「共通のゴールが目指せるのか」とも言われる。さらに、いじめにあった人は「戦うか怯えるか」シンドロームにかかるとされる。「いじめをきっかけに退職」という話も「怯えた」ことを意味するし、社長さんになったのなら「戦った」ことを意味する。いずれにせよ、このようなシンドロームを経験するのだ。
いじめられた人はその時自分が持っている「能力」と「自信」と「成熟度」によってリアクションをするとされている。
人によっては「人生の意味」をかんがえたり「スピリチュアルのある境地」に到達するとも言われているのだ。
子供たちは教師に正解を教えてもらおうとするが、教師は「正解」「間違い」を指摘するだけでは「自分の求める反応」を子供に要求していることになる。大事なのは「あなたも仲間である」「あなたも受け入れられている」ということを示すことである。「正解」「不正解」で誰が優れているのかを競わせてはならないのだ。
いじめる側も、どういう動機でいじめているのかを周囲は考えなければならない。場合によっては構造的なものから由来することがあるのだ。また、いじめられる側も「周囲に助けを求める」ことを「逃げた」とは考えないほうがいいのだ。いじめが展開されているフィールドからその基盤を拡大することは実は好ましいことなのだ。
目下のものに厳しく当たるのといじめをどのように区別するかは、その効果に注目するのではなく、目上の者が「意図してやっている」のか「精神的満足のためにやっているのか」で区別するのが主流だとされている。
心理学の研究では「動物は罰よりも褒美でモチベーションを与えたほうがいいパフォーマンスを見せる」とも言われる。人生に意味を見出すし前向きになる。さらに多少の義務も果たそうとするものだ。

なぜ、「いじめ」を論評しなければならないかというと、人間の成熟度と自信にかかわる問題だからである。
「あなたは、他人よりも自分に忠実でなければならない」
「あなたは、他人よりも自分を信用しなければならない」
「あなたは、他人よりも自分を尊敬しなければならない」
「あなたは、他人よりも自分を愛さなければならない」
いじめというテーマを論ずるにあたってこの四つの格言が生まれたとされる。
重要な点は、この四つの格言が「答えではない」ということだ。人間は自分の間違いより他人の間違いに目が行きやすい。この四つの格言にもその落とし穴がある。それを踏まえて、この四つの格言を「いじめ」という問題にうまく使っていかなければならないということだ。

「いじめ」を議論する最終的な目的は「経済効率をよくするため」だ。企業経営を円滑にする。サッチャーもそれを目的に国家レベルの研究をしたのだ。いじめはストレスになる。つまり、神経システムや免疫システムに影響を与えるものだ。これは出発点として知っておいてもらいたい。
いじめに対処する方法を、従業員が知識として持っていなければ、専門家に相談しなければならなくなる。それを怠れば、脳に影響する。最初は判断ミスだけで済むだろうけど、仕事が楽しくなくなる。仕事が楽しめなければ家庭生活も楽しめなくなる。ストレスがますます進めば、脳への影響はダメージとして残り、回復するのに数か月では済まなくなる。一年かかるとしよう。会社の新規採用もイメージダウンで難しくなり、いじめを受けた従業員を支える家族の負担も大きくなり家庭崩壊につながりかねない。いじめが経済に影響するというのはこういうメカニズムが働くからだ。

「いじめをする側の言い訳」
~弱くて順応性のないやつがいじめられる~
では、いじめる側は弱くて順応性がないといえないだろうか。そういう観点から議論しなければならない。
~感受性が強すぎる~
感受性の強さは「意思」「信頼」「正直」「生産性」などに必要な美徳ではないだろうか。
~自分のことしか考えない奴だった~
この発想こそがいじめる側の社会人としての感受性の鈍さを示しているのではないか。
~反応がオーバーだ~
強烈なダメージを受けた人間にこれを言ってはならない。
~反応が非合理的で感情的だ~
これもいじめる側の感情である。
~いい休養になるだろう~
そもそもいじめから休養に追い込まれることが予測できたはずである。
~彼に社会を教えてやった~
汚くて鈍い人間がむしろ社会から排除されるべきではないか。

きりがないのでやめておくが、サッチャー政権はあらゆる言語を使って「いじめる側」を批判しているのだ。


2012年3月17日 (土)

アメリカ発信の中国情報

毛沢東に関する中国の公式見解
毛沢東の死後、中国では鄧小平が実権を握った。この時に、文化大革命を主導した「四人組」は処罰されたが、毛沢東の歴史的評価が問題になってしまった。毛沢東の評価を消滅させることは中国共産党の正統性にも関わったからだ。1976年の死去ののち、1981年にようやく中国共産党は毛沢東を批判した。この時に、胡耀邦が「毛沢東は70%正しかった」という中国の公式見解を出したのだ。
これが歴史的評価として定着したようだ。
毛沢東の思想的基盤
毛沢東が知的な出発点としたのは図書館で働いた時だとされる。図書館員の李大剣に感化されマルクス主義に触れた。また、バートランド・ラッセルに西洋の思想を教わった。魯迅には中国の様々な思想を網羅的に影響された。その他にも多くの文学者の影響を受けた。しかし、これらの同時代の文学者が、五四運動に直面して、一部は処刑され、一部は逃げてしまった。このことが毛沢東に「文学は無力である。プロパガンダ政治こそが推進力になる」と学習させたとされている。
ソビエト革命と中国
ソビエト革命は世界革命を志向したが、当然、視野に入るのは中国の広大な大地であった。孫文は、南部で中華民国を樹立させたが、南部はもはや混沌としていて統治不能に陥った。北部との連携にも失敗して、結局、孫文がソビエトを革命のリーダーと認識したのだ。義兄弟である蒋介石をソビエトに送り、軍事技術を学習させた。
蒋介石は日本でも軍事を学んでいたが、ソビエトの赤軍の技術の方が優れていると考えたようだ。1927年に蒋介石は上海で英国と日本を退け、共産党をも殲滅した。中国各地で蒋介石は共産党の殲滅作戦を展開したことから「白色テロ」と呼ばれた。蒋介石は上海や香港の財閥との結びつきが強く、労働者を制圧する能力があったからソビエトに資金を依存する必要がなかったのが強みだった。
1927年に、毛沢東は「秋の収穫祭」という蜂起をしたが、スターリンは毛沢東を過大評価しすぎていて、この蜂起は失敗し、毛沢東は中国の南西部に逃走している。蒋介石の関心は武漢の汪兆銘との連携に向かった。それを基盤に北伐を開始したのだ。
長征
長征のきっかけはアメリカは未公表にしている。
途中から始めるが、毛沢東は1935年ごろに、ソビエト派のメンバーとの権力闘争を行いながら中国共産党の長征を展開した。第四師団を率いて、泥にはまり、手と手を取り合って、泥の中を立って眠りながら山を越えたという話が伝わっている。毛沢東は「北を目指して日本軍と戦おう」をスローガンにしたため、ソビエト派に勝ったとされる。
この長征とはただの移動とすることはできなかった。彼らはゲリラ戦も身に着けたし、心身ともに強靭な男たちが出来上がっていた。
マルコポーロ橋事件
ソビエトだって中国を狙っていたし、日本はもっと綿密に中国を狙っていた。日本は満州国を樹立したが、対米作戦も念頭に置いていたので、あまり中国に関する情報はつかんでいなかったようだ。上海や北京に日本は拠点を持っていたが、そのような中で盧溝橋事件が起きた。中国の強烈な意思は日本には予想外であったが、日本軍は装備も訓練も充実していた。実は、この時の軍事行動をアメリカは「日本は次々に軍事拠点を落とし、不幸にも軍の上官までもが、レイプや虐殺などを容認した結果、北京に拠点を作ることに成功し、国民党軍は中国南西部に、共産党軍は中国北西部に押しやられた」という認識のようだ。
この配置から、中国共産党と国民党は、日本軍へのゲリラ戦を仕掛けていたのであり、時にはスナイパーが日本兵を狙うなどしていた。日本の海軍は石油で動いており、また、アメリカは鉄の輸出を止めてきたのだ。日本はインドネシアの石油を望んだことから、アメリカが「南部に進出しないように」と警告してきた。蒋介石にとって不運だったのは、ゲリラ戦には優れていたものの、農民の掌握技術を知らなかったことだ。このことから、中国における中国共産党による支配への道が開けている。
国民党支配地域では、役人の汚職や500倍のインフレが襲い、完全に統治が機能していなかった。そのような状態で日本本土をアメリカの原子爆弾が襲ったというのが中国から見た風景だった。

天安門事件前夜
中国は、鄧小平の指導のもとに、300名の留学生をアメリカに送り込み、科学技術を学習させた。また、国家としても様々な資源を沿岸部に求めたりし、人口増加をした。しかし、豊かな層が生まれたことは、政府の腐敗への批判の温床になったのだ。1986年ごろから政府に自由化を求める声が拡大していった。これをコントロールしていたのが胡耀邦だった。1987年に胡耀邦は鄧小平に退けられ、後任に趙紫陽がついている。胡耀邦は自由化を求める指導者の中心人物となってしまい、趙紫陽もやがてこれに同調していった。そのような雰囲気の中で、1989年の天安門事件を迎えたのだ。
中曽根の靖国参拝断念は1986年だが「胡耀邦に配慮した」と中曽根は言っている。中国で自由化を求める声をコントロールしていた胡耀邦が1987年に鄧小平に退けられていることを考えると、中国ではどのみち政争の具として胡耀邦排除の土壌は中曽根の靖国問題と絡んでいたようだ。

天安門事件
1989年4月に、学生たちが李鵬への批判を高め、胡耀邦の葬式を迎えた時に天安門広場に10万人の学生が集まった。4月22日の胡耀邦の葬式がきっかけだった。批判の矛先は李鵬に向けらえた。趙紫陽は北朝鮮への訪問を延期した。李鵬の照会に鄧小平はこれを「動乱」と認定した。五四運動の70周年記念の五月四日に学生は「下からの改革」を宣言として公表した。5月13日には急進派がハンガーストライキを決行した。同日、ゴルバチョフが中国政府に過激な対応をとらないように警告した。5月18日に中国最高指導会議が「戒厳令」を敷いたときに、趙紫陽は政治生命が終わった。翌日、憔悴しきった趙紫陽が天安門の学生のもとを訪れ「来るのが遅くなった」と語って帰っていった。広場の北と西から軍事行動が始まり、学生が抵抗した。
このような出来事があったから、1998年~99年の中国民主党、1999年~2000年の法輪功などのムーヴメントもあったし、天安門事件を継承するものであった。しかし、天安門事件は、中国政府が1992年に自由化を政策として明確したことに意義があり、それ以降の、中国共産党に関する動向は不透明なままなのだ。

中国共産党
1997年以降、中国では鄧小平が第一線を退いた。その中国共産党の仕組みは、優秀な若者をリクルートメントして「社会のあらゆる地位」で修行を積ませることを特徴とする。村長であったり、工場長であったり、校長であったり、新聞の編集長であったり、警察官僚であったりする。このような過程を経て、共産党の育成ルートが確立したのだ。
1997年に中国が反革命運動を犯罪としたことから、各国が人権問題を指摘している。中国内部に150~200万人が政治犯として収容されているものの、彼らは農業をやったり、工場で働いたり、公共サービスに従事したりしているのが実態だ。1400の収容所キャンプが存在するが、実態はそうなっている。法律上は「刑務所である」と位置付けられているようだ。
中国の政治犯とチベットの関係は1950年代からの問題だった。ダライラマが亡命して、1980年代にはチベットは統治を中国の中枢に委ねている。しかし、ラサでは暴動が起きたりして、現在では人口の半数を中国人が占め、公共機関も中国人によって運営されている。チベットの人権問題というのは指摘していいだろう。

長征
長征というのは、毛沢東主義の経験基盤であり、英雄体験と冒険が結果的に勝利に終わったという物語であることから、非常に魅力的なストーリーだ。1934年から35年にかけて敢行されたものだ。
しかし、この長征に関する資料が共産党のチェックを経ていて、実はその全貌はあまり明確ではない。反毛沢東の立場から書かれた資料すら共産党のチェックを経てしまった。基本的に、長征は3人から5人のリーダーがそれぞれのキャンプに分かれながら同一行動をとったとされ、そのリーダーの一人が毛沢東だったのだ。彼らは土地を支配する理論やあらゆる理論に関する議論を戦わせている。
イデオロギー的には単一の「毛沢東主義」というものを長征が生み出したわけではない。しかし、壊滅的打撃を負ったはずの共産党がよみがえったという物語であることは事実のようだ。1980年代に中国共産党が長征に関する見解を決定してしまい、その全貌を明らかにすることが非常に困難になった。
基本的には「左翼」対「毛沢東主義」の戦いであったとされるが、たとえば、「28ボルシェヴィキ」と呼ばれるソビエト派のグループが実在しないのではないか、あるいは、ソビエトは当時は毛沢東という人物に興味がなかったのではないかなどと指摘されている。このことから、長征に関する出版物はいろいろあるけど、長征を「讃える」文献よりも、「神話」に対して冷静な姿勢をとる記述の方が、より豊かな情報源になると考えられている。
中国共産党は、長征を敢行する過程でリーダーを生み出していったが、ここで注目すべきなのは、みんなを率いた人間を指導者としたわけではないということだ。
「成功を生み出す判断をした人」を、「その結果に敬意を払い」あとからリーダーであると承認したということだ。


2012年3月12日 (月)

アインシュタインの哲学

ロンドンで王室アカデミーが開催されたのだが、日食のときに「光の屈折」が観測されたことから、今までの数学・物理学学会はアインシュタインを尊敬せざるを得なかったのだ。そこで、アインシュタインは「慣性の相対化」という理論を公表したのだ(一般相対性理論)。
「異なるものは異なるステージにある」というアインシュタインの理論は哲学の世界にも波及するのは当然だったのだ。ラッセルなどは「それは哲学の世界ではすでに常識である」としたが、当たり前のことを物理学の世界でも「当たり前」としたとしてアインシュタインの業績は当時、位置づけられたのだ。「慣性の相対化」でいいのだ。
特殊相対論ではアインシュタインは「遠く離れた場所にあるもの同士の同時性」という理論を打ち立てているのだ。分かりやすく言うとそういうことなのだ。
遠く離れたものだって「同時に起きている」という発想はアインシュタインが子供の頃に本で読んだようだ。これが「遠すぎたら」どうなるだろうか。ここに「光」「光速」を関与させることができる。アインシュタインの物理学はそのようにできたのだ。
結局「慣性の相対化」にせよ「遠く離れた場所にある者同士の同時性」にせよ、「時間と空間はそれぞれのものが自由に使える」ということを意味する。
一般相対論にせよ特殊相対論にせよ、哲学的には「時間と空間」の多様性を論じたものだったのだ。
「時間と空間はそれぞれのものが自由に使える」という発想は、宇宙にまで広がった。無重力状態というのは「非物理学的空間」とも呼ばれたが、その空間も「自由に使おう」という発想になる。これが「アインシュタインがいなければ宇宙ロケットは飛ばなかった」という意味である。
アインシュタインの理論に反応したのが、ドイツのワイマール期から第三帝国期にかけてのドイツのカント派であった。
彼らは「形而上学的」「直観的」に一般相対論の「慣性の相対化」を議論した。止まっているものと動いているものの「感じ方」を研究したのだ。
ニュートン物理学の「絶対性」においては「謎の絶対性」とされていた「重力」「光速」を利用して広大な宇宙の尺度としたことは業績として挙げてもよいだろう。時間を「直感で感じるもの」とするか「絶対的に存在するもの」とするかの議論は生じたが、アインシュタインの理論を発展させたのはドイツのカント派であり、「ローレンツ力」という概念を生み出したのは特筆すべきである。
結局、ユークリッド幾何学もニュートン物理学も三次元世界において一定の承認は得たが、アインシュタインの観念的な宇宙観がなければその後の理論の土台はできなかったのだ。

量子論と重力
粒子の重力というのは、あくまでも「小さな粒子に重力があったほうが物事の説明がつく」という理論なんですよ。実際にそんな小さなものの重さなんて測定する機械はないですからね。それが理論の世界だと思うね。
M.C.エッシャーが「上昇と下降」という本によって、小さなものの探求と、それを大きくした場合のメカニズムの整合性が取れる理論の構築をしたため、粒子の研究というのが確立しています。
これはおそらく大学受験の「化学」の基盤にすらなっていると思うね。結局、化学だって、実験を繰り返して「粒子」の仕組みを図解しているだけだろ。大学受験のテキストは非常によくできていると思うね。
ニュートン物理学は「地上」を語り、一般相対論は「宇宙」を語り、素粒子物理学は「ミクロ」を語っているわけですよ。それぞれが役割があって、どれも重要性は変わらないのです。
「クウォンタムセオリー」は以下「量子論」と用語を統一したい。
「量子論」の対抗馬は「ひも理論」と言って、素粒子がひも状にできていると説明する理論です。いまのところ「量子論」が強いですが、将来、「ひも理論」がすべての概念を覆すことも理論である以上あるわけですよ。どちらが「現実世界」をよく説明できるかという話です。
結局、いずれの理論も「電磁力」「力」「原子間に働く力」という三つのメカニズムを説明しなければならない。アインシュタインの相対論は「すべて同じメカニズム」で説明したが、いずれにせよ「量子論」は「重力をどう説明するか」というテーマと出会っています。
アインシュタインは「E=mc^2」という式で、「重さと力が等しい」ことを表現したのです。真実を表現したのではなく、「重さと力が等しい」ということを表現しました。
問題は、物理学の世界には「速さ」などの他の要素があることなのです。


2012年3月 9日 (金)

最強受験理論~スタンフォード方式

記憶とは、情報や、過去の経験の再編に付箋を貼る多様な知的キャパシティのまとまりのことである。通常は「現在の目的」のために保存されている。
記憶とは、彼の歴史が現在の行動や経験に生命を与える最も重要な方法の一つなのだ。過去の遠く過ぎ去った経験を鮮明に覚えているか忘れているかはどちらも人間の能力であり、その人の個性を示している。
記憶はその人の知識の情報源であると思うだろう。
我々は、現在起きているわけではない出来事や経験を「記憶」している。つまり、記憶は「知覚」とは異なるのだ。
我々は実際に起きた出来事を覚えている。その点で「想像」とは異なる。しかし、記憶と知覚と想像の三つはきわめて密接にかかわっている。
記憶はしばしば「感情に満たされており」「愛や悲しみなどの特殊な感情に付きまとい」「約束や記念日などの社会的慣習にともなって」覚えているとされる。
多かれ少なかれ我々の判断に影響を与えたり物事に意味を与える役割を果たすし、時間とともに寝かされ、新鮮味がなくなったり薄れていったりすることもあるし、逆に、ドラマティック化されたり破壊的に改変されたりすることもある。
記憶は、その人が生き続けているという説明にもなるし、心と体の関係も決定するし、時間をどのように経験したかも説明してくれる。
記憶を研究するためには、哲学の膨大な蓄積だけでなく、現象学や心理学、認識論や社会理論、倫理学を同時に勉強しないと明らかにならない。

認知症の研究をしていて医学書で明らかになったのだが、人間は「今見た映像の記憶」は250分保存されるそうだ。これは、受験においては、試験前の250分間を活用して、「うまくまとめたノート」を見ておくと非常にいい効果があるということだろう。
受験産業も「250分間のビジュアルの記憶」をうまく活用して、いろんな知識を引き出すノートをまとめてみてはどうだろうか。
受験生が自分なりにやっておいてもいい。大事なのは「教科書を読む」のではなく、いろんな知識を引き出すキーワードをまとめておくということだ。

受験と記憶の関係だけまとめれば、
覚えた理由と思い出す理由は密接にかかわっている
覚えた時と思い出すときは時間的空間的につながっている
覚える理由は個人的重要性と関わっている

俺の場合は「法学教室」「ジュリスト」を覚える理由は、「国家の姿が見たい」という強烈な動機がある。
その上で「重要な点」は覚えるし、時間的空間的には「ひきこもり」という点でつながっている。
感情に満たされているという意味でも「ウォークマンを聴く」「情報の重要性に感涙する」などがある。
なお、この論文をたたき台に「スタンフォード型東大文Ⅰ・理Ⅲ攻略法」を考える権利はパブリックドメインとして開放したい。
とにかく「思い出す場」と「覚える場」は空間的にフラットでなければならず、集中するということの重要性は指摘できるし、その空間を「多く確保する」ことは「勉強時間」「勉強量」が「出力」につながることを意味する。

おい、誰か。手伝ってくれ。これを翻訳したら受験界の神になれるぞ。
俺より先に訳して公表してくれてもかまわないよ。

「記憶」スタンフォード哲学百科事典。
http://plato.stanford.edu/entries/memory/
記憶のメカニズムを哲学的に明らかにしている。

ある受験生は問題文を読んで「解ける!」と思うし、ある受験生は「分からない」という。これらはすべて記憶の違いに由来する。つまり「経験」が違うのだ。
受験生はともに「学生生活」という極めてバラエティに富んだいろんな出来事に遭遇している。学生生活でいろんなことがある中で、なぜ「試験に強い」学生が生まれるのかが、哲学者に難問を投げかけた。
スタンフォードの研究はさまざまな分野の知識を総動員して理論をまとめているのだ。

哲学者の間では、記憶には「回想する記憶」「行動の記憶」「知りたいという欲求による記憶」の3つがあるという方向でコンセンサスが得られたとされる。
「行動の記憶」とは「筋覚」「技術」「結果の予測」などでスポーツで活用されているだろう。これらは学習しやすいものや学習しにくいものがあり、多様な世界がスポーツの世界の「記憶」として存在する。
「知りたいという欲求による記憶」は「意味の世界」で存在する。広大な概念世界のネットワークに横たわる知識の世界で「それを覚えよう」という形で学習していくのだ。たとえば「デカルトはスウェーデンで死んだ」などと人は覚えていく。
「回想する記憶」は、人々がエピソードとして経験や特別な出来事を記憶していることを探求したもので、「~について」とか「~が起きた原因」などというように覚えている。
「意味の世界の記憶」や「回想の記憶」は、明確であったり不明確であったりするが、多様な記憶のメカニズムの世界を探求するまでもなく、「ひとまとまりの記憶に付箋(ラベル)をつける仕事」をしているとされている。
つまり、受験生が覚える「記憶」のメカニズムは「知りたいという欲求によって知識にラベルを付ける作業」であり、メカニズムとしてはあまり複雑ではないのだ。しかし、「意味の世界」にせよ「回想」にせよ「真実である」として覚えるものだ。
そういう意味では「スポーツ」を通じて肉体が学習する記憶とは仕組みが異なるとされる。

このあと、論文は「回想による記憶」として、人はどのようにエピソードを覚えているかを探求し、そのあと、知識を「覚えている理由」を探求し、あとは細かな「記憶術」のように、イメージと覚えたいものを結び付ける脳の仕組みなどの理屈を探求し、最後に「外部記憶」に触れて終了するようだ。
興味深いのが「外部記憶」だ。ノートや本や写真など、人間の記憶を喚起するものを「外部記憶」と呼ぶのだが、試験においては「外部記憶は問題文だけ」であることが分かる。

記憶という観点からいえば、答案というのは「うむ、この子の学生生活の時間空間をよく表現しておる」という形で評価を受ける。それを理解するのが大事だ。

スタンフォードの論文は極めて難解な英語なので、受験生に翻訳させることは無理でしょう。指導者の方で、興味のある方は、以上のようなあらすじの論文であることを踏まえて精密に翻訳してみてはいかがでしょうか。
健闘を祈ります。

注)記憶のメカニズムは「知っておいた方が受験生活がうまく行く」という趣旨のもので、記憶術みたいなものではありません。
英語の論文では記憶術について触れていますが、あくまでも「メカニズムの研究」の一環として触れているだけで、あまり受験には記憶術は役に立ちませんね。

以上の研究と私の実践をまとめた「天才を生み出す技術
天才的記憶力の秘密
①覚えた時と思い出すときの条件を同じにする。
②感情を常に刺激する。
③意味のあるものを覚える。

この三つをスタンフォード大学が明らかにしている。

俺が東大文Ⅰに受かった理由
①試験の時の条件と同じ時間空間を大量に確保した(机に座った)
②ウォークマンを聴きながら心に軽い刺激を与え続けてリラックスしていた。
③集中して教科書の意味を読んだ。

これだけ。これで人生絶好調モテモテ。

思い出すときと同じ時間空間を大量に確保するうえでウォークマンを勧めている。
この際に「詩の研究」を参考にしてほしい。
音楽なんて必要ないほど勉強が好きだというのならともかく、そうでないのなら、ウォークマンで頭に「ムービングイメージ」を作りながらやったらいいのではないかという考えだ。
ラジオは「戦術的・劇的に頭を混乱させる」攻撃なので勉強しながらラジオを聞くのは禁止だろう。
空海は「念仏を百万遍唱えれば記憶力が高まる」と言ったが、音楽を百万遍聞けば記憶力が高まると私は解釈している。
「悲劇」というのは、死に直面した人間の恐怖を緩和させるものだという説は、「死は最悪なものではない」「死よりもひどいことがある」ということを聴衆に示す意味があり、戦場に赴く人間に非常に有効だ。
そのために、日常の様々な葛藤も悲劇によって解消されることがあるのだ。

「経験しなければ英雄ではない」
国家とは言語のフィールドである。その言語のフィールドでは神話が語られる。
いいことも悪いことも語られるが、神、英雄、美徳などに子供たちは影響を受ける。
しかし、言語が共有された同じ空間からいろいろな人が育つ。
詩は英雄を描くことはできるが、フィクションの英雄には発信力はない。
実在している英雄こそが、あの時何を考え、どういうリアクションをし、どういう感情をもっていたかを的確に表現する。
人間の実践から英雄は生まれるのであり、架空のものを作り上げるのではないのだ。


「私が証明です~東大法学部学生証」
http://www.youtube.com/watch?v=dlayLROvR-A
「奇跡の肖像~東大法学部学生証」
http://www.youtube.com/watch?v=abiLEw-EWo0
「I Remember~東大法学部学生証」
http://www.youtube.com/watch?v=yueZnffCM80

それでも試験に落ちた人へ
大丈夫。文化はすべての人の味方です。負け犬専用音楽♪ねえ・・宝探しなんてもういいよ♪
http://www.youtube.com/watch?v=iwMQgNaxi74

認知症の研究をしていて医学書で明らかになったのだが、人間は「今見た映像の記憶」は250分保存されるそうだ。
これは、受験においては、試験前の250分間を活用して、「うまくまとめたノート」を見ておくと非常にいい効果があるということだろう。
受験産業も「250分間のビジュアルの記憶」をうまく活用して、いろんな知識を引き出すノートをまとめてみてはどうだろうか。受験生が自分なりにやっておいてもいい。
大事なのは「教科書を読む」のではなく、いろんな知識を引き出すキーワードをまとめておくということだ。

疲労との付き合い方
人間の限界は明らかになっている。「一日12時間の勉強を6週間続けたら風邪をひく」ということだ。だから、この限界を超えない程度にスケジュールを組まないといけない。
どんなにいい栄養をとってもこれは事実なのだ。お風呂に浸かるなりしてリラックスをして睡眠をとる。
逆に言えば、どんなガリ勉でもこの限界は越えていないと言える
東大文Ⅰや理Ⅲを目指すなら、この「一日12時間の勉強を6週間続けたら風邪をひく」というテーマとの戦いになる。このギリギリの勝負をすると言えば分かりやすい。
うまく休みをとってこのテーマと付き合ってください。

疲労の精密な測定
まず、寝つきが悪くなったと感じたら「疲れているな」と考えたほうがいい。
もっと精密に測定するのなら「心拍数」を簡単な血圧検査キットで測定する習慣を身に着けることだ。
心拍数が上がれば「疲れているな」というのが分かる。
問題は「風邪をひかないため」であり、疲労にチャージしていくのは受験生としては当然だということだ。
いわゆる「スランプ」のようなものも「集中力が落ちる」という疲労の症状だと言える。
誰もが成績を上げたいと思うだろうが、寝つきが悪くなった、心拍数が上がったなどのデータから、自分の心の中に「フィジカルコーチの命令」をイメージして「休め」「寝ろ」などの命令にしたがうのが大事だ。

北島康介が、指先から血をとって疲労度を確かめていたのだが、あれは、筋肉の疲労を確認するものでグリコーゲンや乳酸値を調べている。
しかし、脳の疲労はやはり「寝つきが悪い」「心拍数が上がる」などの数値になるようだ。
私としては「トップを目指す人間は自分が疲れているかどうかも分からない」という現実があることから、北島のような客観的な数字が欲しかったのだ。
北島の場合も「数字を信じることが大事」だとされる部分があるそうだ。
指先から血をとる技術は、NTTなどの伝送手段を使って数値の情報のやり取りをするために機材の値段が結構高い。
心拍数を朝起きた時に測るというのが一番安上がりだと思う。
いずれにせよ、「脳の疲労」は「筋肉の疲労」とはデータの取り方が違うのです

参考資料)
「記憶術」というのはだいたい「覚えたいもの」とあるシンボルを結び付けて「覚える」という仕組みだ。
しかし、受験に必要な知識は非常に多岐にわたるわけであるから、そのシンボルを「膨大な時間空間」に拡大する必要がある。そういう研究としては役に立っているといえる。


2012年3月 5日 (月)

東大医学部~大学ノート

医学の世界は「恐怖の産業」であり、たとえば、
「クラインフェルター症候群」では、47番目の遺伝子がXXYであり、男性であるもののペニスが2センチもなく、
女性化乳房という症状を起こします。
「XX男性」という病気では、遺伝子は女性であるものの、尿の排泄も「2センチのペニス」で行います。
「性に関する倒錯」は極めて深刻な学問なのです。
クラインフェルター症候群は男性の「500人に一人」
「XX男性」は「2万人に一人」
で存在します。
つまり、「工事を終えたお姉さん」はもともと「2センチのペニス」を工事しているのですよ。
病気なんです。
クラインフェルター症候群やXX男性以外にも、「思春期に暴力や虐待を経験した男性」が
「従属への快感」を学習しており、これらの健常な男が「ホモの世界」に参加しているものと思われる。
ただし、本当に「工事」をしてしまう男性は「2センチのペニス」を工事しているのだ。
男性の500人に一人のクラインフェルター症候群の患者や、2万人に一人のXX男性というのは
まさに「性的弱者の男性」です。
その性的弱者の男性を「狩る」「工事をしていないオネエ系男性」がいるのではないでしょうか。
まさに暴君として性的弱者の男性を狩りまくっているのです。
ナポレオンは「法典」でゲイの解放をやり、プラトンは哲学で「従属する男性」を論じたため
「ホモである」という噂を流されている。
この手の議論を興味本位でやると「ゲイ」という噂を流されるリスクがあるのだw

キャサワリーは病気だった
ゴルゴ13に「キャサワリー」という作品がある。女暗殺者である「キャサワリー」はレズビアンであり、ゴルゴが、それを見抜き、下半身をキャサワリーに露出し、「見ろ。これがレスボスの女が怯えるロッドだ。」といって「ズイズイ」と前にでる。キャサワリーは逃げ出すのだ。
医学書で「レズの女がロッド(ペニス)を怖がることがあるのか」と調べてみたところ、「膣けい」という病気があった。「痛みをともなう膣の痙攣性収縮」なのだ。
キャサワリーは「レスボスの女」だからゴルゴの「ロッド」に怯えたのではなかった。「痛みをともなう」という現実的な理由から、ロッドに怯えたレズビアンだったのだ。
医学書で明らかになったのだ。

ゴルゴ13のギランバレー症候群とは何か
ギランバレー症候群は、ハリソンの医学書も「真面目な病気」として扱っている。
神経障害なのだがアメリカやカナダでも年に3500人ほどが報告されるとされる。
まず、病気の特徴は「足にくる」というものなのだ。発症した場合は、顔面麻痺や、入院による人工呼吸器の装着が必要になる。
ゴルゴ13の「キャサワリー」では、町医者がゴルゴの右腕の麻痺にこの病気を疑っているが、人工呼吸器さえ用いれば「死に至る病気ではない」とされている。
町医者は「命にかかわる話ではない。気長にいこう」といっている。
実は、この病気の正体は北アメリカやヨーロッパ・オーストラリアなどで見られる感染症なのだ。カンピロバクター・ジェジュニ(Campylobacter jejuni)に感染しているのだ。
運動過多などでも同様の症状が出ることがある。
この病気も結局は「免疫反応」の病気だとされ、IVIg(静脈内の免疫グロブリン)を投与して治療する。

ニコニコ動画「キャサワリー

食塩水の輸血は有効か
ゴルゴがヘリで流れ弾に当たって、かくまわれた家で塩水を輸血(トランスフュージョン)したことがあるが、医学的には、これは意味がない。「代替輸血」というのは、前もって自分の血液を抜いて保存しておくことがメインに考えられている。
しかし、感染症などのリスクのない輸血は自分の血液であっても存在しない。そもそも、血液とは「酸素を運ぶもの」であるので、急場しのぎに「炭化水素とヘモグロビン溶液」を使うなどの事例はあるそうだが、「食塩水では意味がない」というのが医学の現状だ。

ボクシングと医学」という洋書を手に入れた。
結局、ダウンというのは「ヘマトゥーマ」という脳で最も血が豊かな場所がダメージを受ける。
アッパーは頭部を上方向に加速させ、アゴを横からとらえるのは首を回転させて、脳を水平に加速させている。
これによって、ヘマトゥーマがダメージを受けてダウンにつながる。
ダウンした後のボクサーの「瞳孔反応」をどうやってみるかというと、瞳孔反応が左右で異なるかどうかを確認しているのだ。
左右のどちらかから加撃を受けているため、ヘマトゥーマも左右非対称に損傷を受けることがある。
これを確認するために目にペンライトをあててヘマトゥーマのダメージを見ているのだ。
訂正。ヘマトゥーマというのは「血腫」(血のかたまり)という意味だそうだ。上方向に脳をアクセラレーション(加速)させるにせよ、水平方向に加速させるにせよ、瞬間的に脳に血腫ができる。
これがダウンの正体なのだ。

ハートブレイクショットとはみぞおちのことだった
ジャック・デンプシーはターニーとの戦いで、ノックアウトで勝利したが、試合後に語ったのは、
「心臓の下を打たれたときは命にかかわるダメージを受けていた。今まで受けたことのないパンチだった。コーナーに戻るまでショックは続いた」と語っている。
これが「ハートブレイクショット」の起源のようだ。
問題は「心臓の下」と語っていることであり、実はこれはみぞおちを打たれるという誰もが経験することだったのだ。

脂肪吸引の技術
実は、超音波器具やマッサージなども有効な手段として認知されているのだ。
しかし、「吸引する」という発想が持ち込まれたのは1976年だ。
重要なポイントは「医者が筋肉の繊維をしっかりと把握している」ということと、
「筋繊維にしたがって体にマジックでラインが引ける」という技術を持っていることが必要だ。
そのうえで「脂肪はどちらからどちらに移動するのか」を理解していること。
それさえ分かれば「吸引するポイント」を一点に絞ることが可能になる。
施術中に患者の姿勢を変えながら、その一点で全部吸い取る技術が脂肪吸引だ。
重要な点は「筋繊維を把握している」ことであり、体にラインを引かせてみれば技術は分かるだろう。

急激な腰痛
腰痛の原因を医者は患者に伝えないことが多い。
伝えても意味がないからだ。
結核などの感染症のトラウマや、ステロイドホルモンなどの投薬の後遺症であることが多い。
治療法は「腰に負担をかけない」という休養以外にない。
患者は原因を聞きたがるのだが、精神的なものが理由なのでブラシボなどを施すこともある。
いかに患者を安心させるかが医者の技量になるのが「腰の痛み」なのだ。

女性の危険日
たとえば、女の「生理」というのは「女性ホルモンが撤退した」時に起きる。
英語ではそう書いてある。
女がもっとも「女性らしくない」時期なんだ。
そう考えればいつ頃が「危険日」かは分かるだろう。

肝吸虫症の診断方法
まずは、片山熱と呼ばれる熱を見て、そのあとに肝臓部分の痛みを見ると分かる。血液検査を進め、好酸球の増加を見れば決まりだ。好酸球は体内の寄生虫を殺すために増加しており、この数値を見ればわかるのだ。

タバコと運動
タバコはまず最初に、有酸素運動を行うアスリートが「呼吸が苦しくなる」と感じる。それは呼吸器系統にいろんな障害物を発生させるからだと考えられている。さらには、一酸化炭素がヘモグロビンと結びついて酸素の循環を妨げる。
基本的に、心肺機能を高めるとは、「ドン」という脈拍によってどれだけ多くの血液を送り出すかを、トレーニングによって増やしていく作業であるが、競技のパフォーマンスを落とすことから嫌われている。それ以外の、病気の心配は人生の終わりごろに起きる話だ。

筋肉の瞬発力は、アデノシン三リン酸(ATP)を筋肉が含むことによって生まれるのだが、3分から5分のウォーミングアップでこれが筋肉に発生し、8分のウォーミングアップでMAXになる。スプリント競技の場合は最初の30秒のダッシュの時にATPは炭水化物から変化するが、30秒以降の長丁場になるとタンパク質や脂肪からATPを調達するようになる。
ボクサーの場合も、実は、炭水化物を試合前にとるよりも、筋肉や肝臓に脂肪をため込んだ方が長丁場に対応できるのだ。

試合前に眠れない
不眠症というのは夜眠れないことだけでなく、昼間も眠いという状態になることを言う。
運転などに悪影響を及ぼすので、ボクシングのパフォーマンスにも致命的になりかねないのは明らかだ。
生活リズム(アクティブに働く時間と休む時間)の把握だけでなく、薬物の使用状況やアルコールの摂取などを患者に確認しなければならない。
生活のリズムをしっかりして、薬物やアルコールをしっかり確認しておけば、試合前に極端に眠れないということはないのだ。

女性のオーガズム
女性の「オーガズム」というのは、哲学においては「痛み」に分類されているね。
「痛み」に関しては「痛い場所」と「主観」の二つの方面からアプローチするそうだ。
麻酔の哲学だそうだ。「痛い場所」を抑えるのか「主観」を抑えるかはまさに麻酔の基本哲学だ。
痛みの「場所」は量と激しさを発生させ、「主観」は痛みの経験として表現される。
これを研究するのが麻酔の研究でもあるし、場合によってはオーガズムの研究にも発展するのだ。
フィジカルなダメージやトラウマを細胞に与えることによって「場所」の痛みは発生する。
この痛みのメカニズムがオーガズムと同じだとされているようだ。あとは主観=経験の分析が必要だ。
主観が「場所のフィジカルなダメージやトラウマ」を「不快である」と感じるのが痛みの本質なのだ。
つまり、女性はオーガズムを「不快である」と感じているのが真相なのだ。哲学ではそのように分析されている。
痛みの「場所」と「主観」は緊張関係にある。周りから見えるものと本人にしかわからないものがあるからだ。
オーガズムという「不快なもの」も、他人が見てわかるものなのか、本人にしかわからない不快なものなのか
というところまでスタンフォードは研究を進めているのだ。

精神病というのは「思考や経験、感情が混乱して仕事ができない。他者との関係が確立できない」人であると定義されている。
これがスタンフォードの見解であり、知っておく必要があるだろう。
「仕事ができるか」「他者との関係が確立できるか」で病気のラインを切ろうとするスタンフォードの姿勢はいいと思うけどね。

心肺機能の秘密
心肺機能を高めるためには「有酸素運動」と「休憩」の反復しかないのだ。そのうえで一発の心拍数でどれだけ多くの血液を心臓が送り出すかが心肺機能の高さなのだ。

リバウンド技術はなんでも食っていい
医学書で急性の下痢について調べてみたが、「薬物」「毒性の食品の摂取」「虚血」「体調不良」などが原因だそうだ。
一日で7キロ以上増量するうえでも、これらさえ気を付ければ、何を食っても下痢はしないようだ。
できるだけ衛生面で気を付けた食事を心がけて、薬物に気を付けるしかないだろう。虚血症は心臓の病気であり、通常のボクサーなら気にしなくていいだろう。



2012年3月 3日 (土)

東宮家の「病気」とハリソンの医学書

私もちょっと医学書を読んでみたのですが、自閉症"autism"という用語が見当たらなくて、
いろいろ読んでみたら、どうも「免疫不全」の病気の治療の過程でいろいろな症状を
見せる子供がいることが分かりました。
つまり、庶民としては「免疫不全の病気の治療をしている子供」を「自閉症」と呼んでいるのではないか
と考えたのです。
このあたりを、ハリソンの医学書をお持ちの方がいらしたらいろいろお話がしたいのですが。
免疫不全の治療の過程でダウン症の症状を見せる子もいればいろんな子がいます。
医学的にみると、愛子さまが「免疫不全」のための「薬をかなり飲んでいる」のなら出産は不可能です。
妊娠というのは腎臓の話なんです。
妊娠中の母体の血液はきれいに保たれているため、その分腎臓に負担がかかる。
免疫不全のための薬を飲んでいる人が妊娠したらとてもじゃないが腎臓がもたない。
そういう理屈から「愛子さまは出産が不可能」という割り切りができるのです。
養子をとっていただくしかないです。

ADHDという名の病名はハリソンの医学書にはありませんね。
「多動性障害」というのがあり「パーキンソン病」「ハンチントン病」と同じ分類で議論されている。
「目で見たものにどういうリアクションができるのか」という観点から、
すべての「奇妙な動きをする人」の病気が分析されている。
「落ち着きのない子」に神経質になる風土はアメリカにはないのでしょうかね。
「落ち着きのない子」を「病気だ」と言ったらその子の人生への侮辱ですからね。
アメリカ人は「病気ではない」という立場のようです。

うつ病というのは「何らかの外科的・内科的疾患」にともなうものであるという見解が導入されたので、
医学の世界もいろいろと考えなければならなくなったのだと思います。
あと、薬物を服用している人もうつ病になります。
「カルシウムブロッカー」「βアドレナリンブロッカー」によって鬱になるのです。
それ以外にハリソンは鬱病の例を挙げていません。
うつ病の症状ははっきりしています。
「悲しくなる」「感情がなくなる」「いらいらする」
「不規則な睡眠」
「食生活の変調、体重の変化」
「頭の働きが鈍る」
「判断力が鈍る」
「罪悪感にかられたり死にたくなる」

ディスチミアといううつ病はさらにたちが悪く「遺伝的なもの」とされていて、外部のネガティブな出来事との
メカニズムが明確ではない。とされている。
優生学を標榜する皇室では「遺伝的なもの」とすると愛子さまにも影響することになる。
いろいろ病名はありますが発達障害「Developmental Disorders」という病名もハリソンの医学書にはありませんね。
それよりも「免疫不全」というテーマがあまりにも深いので驚いています。
すべてこのテーマで包まれた都市伝説があるのではないかと考えています。

ダウン症の正体
両親のどちらかの皮膚病や貧血などが原因で、遺伝子分離や三染色体などが14番目か21番目の遺伝子に生じる病気だ。首やひじや胸の形質に異常が出るほか、免疫などの疾患、知的障害などが生じる。遺伝の過程での伝達が皮膚病や貧血で不完全になるのだ。
紫外線が遺伝子に影響を与えるし、高齢出産の場合にも生じる。25歳未満の母にも2%の子供がダウン症であることは無視できない。このデータは、哲学的にも「子供の性」をどれだけ容認するのかというポリシーに影響を与え、家族が保守的であるかリベラルであるかまで決めてしまう数字だ。
妊娠中に胎児の障害があることが明らかになっても、基本的に中絶は認められていない(胎児適応)。
しかし、25歳未満の女性でも2%。さらに高齢出産になると数字が上がるという事実は、子供の性に厳格である(保守)、開放的である(リベラル)、ダウン症やベビーブームから制約をかける(ポリシーリベラル)の三つに家族のカタチを分けているとされる。

以上、医学部三年生の私がまとめてみました。


2012年3月 1日 (木)

カルトへの道はスポーツだ!!

オセロ中島が「今のままでは身動きが取れない」「どうしよう」というので、スタンフォードの「カルト」関連の論文を紹介しておいた。
中島が今後どういう動きをするにせよ、理論的にはかなり高度な動きを見せると思うね。
参考論文:
http://plato.stanford.edu/entries/basing-epistemic/
この論文の趣旨は、
「今まで信じていたことと、新しい教えは調和がとれていなければならず、理由に支えられていなければならない」という立場と、
「今まで信じていたものとは関係なく、自分が気がつかなかったことを予言的に教えてくれた」という立場と、
「自分に必要なものをもはや忘れていたが、忘れていたものをサブリミナル的に思い出させた」
という三つの手法があるとされる。
中島はこの論文に沿って、かなり深い問いかけをメディアで展開すると思うね。
これに対して、衝撃的な出来事があって、それに対するリアクションとして起きた出来事を記憶の混同で「奇蹟」と位置付けるのではないか、とする人もいる。
とにかく信じるということの前に何かに驚いているとするのだ。
また、別の論者は、7人殺した殺人犯の8人目の犯行を担当した弁護士は、8人目は無罪だと信じたいという「欲望」に駆られているはずだとし、信じたいという欲望によってそれを信じているとした。
以上で議論の素材はそろうことになる。
あとは「複雑な因果関係で結ばれたものを明確に示す」か「適切な意見を言う」かという議論がある。

「Aが起きればBが起きる」という具合に、不透明な因果関係を明確に断言して人を惹きつける手法のようだ。
たとえば、これは実際の事例なのだが、
集団的自衛権を行使したら、在日米軍基地の恒久化と武力行使禁止の原則の弛緩が起きる
という言葉がある。
これは非常に複雑な研究を経たうえで、国家がまとめあげた「結論」なのだが、これを明確に断言する人に人気が集まるというのが「カウンターファクチュアル」というコミュニケーションの手法のようだ。
「集団的自衛権の行使」と「在日米軍基地の恒久化」「武力行使禁止の原則の弛緩」は非常に複雑なメカニズムで結ばれている。10以上の方程式が関わっているとしよう。
それを「理解している人である」というイメージが人を惹きつけるとされているようだ。
カウンターファクチュアルという人の引き付け方は、「テーブルは四本足ではダメだ。中心に五本目の足がなければならない」というように、間違いではないけど必要ではないことを「信じ込ませる」のと同じであるとも言われる。
集団的自衛権の話は私はジュリストで読んだ国家レベルの研究であるが、
庶民はそのような知識はないために「五本目の足」を自在に足して人を惹きつけているのだ。
要するに「複雑極まりない因果関係」で結ばれている物事を理解しているとするのがカウンターファクチュアルであるが、それならば、難解極まりない物理学の計算をして人工衛星を周回軌道に乗せることすら、その世界では「宗教」のようなものになるとされる。
そういう議論があったのだ。
もうひとつは、「いい意見を言う」という手法だ。
人はそれぞれ自分の意見をいろんな場面でもつが、ある人のアドバイスが常に自分より的確であると、その人そのものが存在感を高めていく。
ドグザスティック理論」というのはこのことを指しているようだ。
常にアドバイスが正しいことを証明し続けてきた、ということが必要だそうだ。
補足であるが、「アドバイスが適切であった」ことに加えて、「常に合理的な理由を示し続けた」ということから信頼を得る手法もあるようだ。
カルトの道は険しいね(笑)


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