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2012年2月18日 (土)

アメリカの軍事研究から見る「神道」

アメリカが軍事目的で研究した”SHINTO”という洋書を取り寄せたのですが、「太陽信仰」「地蔵信仰」「コミュニティーで神社を支える」という三つが柱だとされ、今では10万の神社のうち2万人しか神職はおらず、5つの神社を一人で担当するのが平均だそうだ。
国家の資金で支えることはもはやできないので、「初詣」の賽銭が重視される。あとは「町内会」「崇敬会」「奉賛会」もコミュニティーの神社を支えている。明治政府の庇護によって神社は資金力を確保したけど、敗戦と高度成長により、8万の神社を統括する神社本庁は「皇室崇拝」を資金源にするようになっている。
日本人に「宗教」と「真摯な気持ち」は区別されており、年中行事があることから、この神社本庁が皇室崇拝を資金源としていることを理解しないといけないのだ。神社本庁を見るということは「2万人の神職とその家族の生活」をみるということだ。それ以外にも「町内会」「奉賛会」「崇敬会」にまで広がりをもつものだ。
敗戦による打撃を受けた日本の神社の生き残りを決めたのは三名の論客だ。葦津珍彦、柳田國男、折口信夫。この三名が神道の生き残りを決定づける論陣を張った。
1915年に明治神宮ができた時に、多くの日本人は神道が「発明された」と受け止めているのだ。神武天皇という話もこれを理解しないといけない。
廃仏毀釈というのがあったが、明治維新において、日本人は「純粋な国家」としての新たなスタートを望んでおり、この時に、すべての寺が糞尿にまみれて破壊されている。この時に、神道と仏教の明確な区別が生じている。
新国家の幕開けが神道の背景にあるのだ。日本は明治維新において新国家としてのスタートをするにあたって「過去の批判」を行わなければならなかった。それがまさに「仏教ブランド」だったのだ。これが廃仏毀釈だった。
仏教は江戸幕府においても18世紀には儒教に知的に圧倒されるようになっていたし、古い因習もともなうようになっていた。さらに、19世紀に入るともはや仏教は儒教に対しては防戦一方の立場に立たされてた。
明治維新は、儒教のもつ「徳」と、愛国主義が混ざり合ってできたものだった。どちらの要素も仏教がすでに失っていたものだった。
神道の背景には明治維新があるいうことは、西洋列強の膨張も当然念頭にあった、つまり、キリスト教の拡大に対する日本帝国主義の防衛である。そこで、明治政府は神社を作り、国民を「帝国の一員」と位置付け、神社を彼らの教化の場に利用したのだ。
神道は、儒教にインスパイアされた祖先崇拝を主体に「共同体の記憶」をみんなで共有することを特徴とする。その核となる施設が伊勢神宮である。なぜなら、16歳で即位した明治天皇の祖先を祀っていると位置づけられ、明治天皇が伊勢神宮を崇拝していたからだ。
1871年には、明治政府は帝国あるいは国立の神社を各県に配置し、地域ごとの神社を配置し、さらに末端にまで神社を置くことにしたのだ。これらの神社は「国家の創始」を物語として共有し、国民に家族単位での祖先崇拝の場を提供した。各家族はそれぞれの役割と団結を求められ、国家の統治作用に組み込まれていった。
このような「神道」はたちまち対抗言論にさらされた。神社と天皇と日本についてしか語っていないことが明らかになり、神道思想家の間でもコンセンサスを得るのが難しかったのだ。
はたして神道は「帝国カルト」にしてもいいのだろうか?
神のそれぞれの関係はどう説明するのか?
日本人の生と死、善と悪、褒美と罰などの説明がなされているのだろうか?
などが極めてあいまいだったのだ。
このままでは帝国内部で巨大キャンペーンが打てる状況ではなかったのだ。そのような状況で「教部省」が設立され、教部省は各地に「教導職」と呼ばれる集団を送り込んだ。
教義は「神を敬愛し国を愛すること」「天の理と人の道にしたがうこと」「天皇を尊敬し政府にしたがうこと」
これだけだった。それ以外は儒教を持ち込んでいるのだ。
目的は、天皇を国の父として、あるいは国家のリーダーとして権威を集中することにあった。

1870年代に明治新国家が安定してくると、「神道の偉大な教えとは何か」が議論になった。
この議論に火をつけたのが「浄土真宗セクト」であった。浄土真宗セクトが、そもそも「神道は宗教のカテゴリーには入らない」と主張したのであり、これはそもそも「宗教としての適格性に欠ける」という批判からなされたものだった。仏教の側から「神社という場所は宗教施設ではなく、真摯な気持ちの表現の場である」と主張された。つまり、「国を作った偉大な男への尊敬」を表現する場であるとし、宗教施設ではないとしたのだ。
仏教の側からの「神道は宗教ではない」という主張は非常に戦略的なものだった。宗教界を「仏教界が独占する」という野心の表現でもあったし、帝国内部でのキャンペーンを行っていた国家の側からも「信教の自由と調和が取れる考えである」とされてしまった。
このことから帝国カルトのキャンペーンとしての展開は1884年には一応の収束を見せたとされる。
このような中で帝国は日清戦争と日露戦争を迎えた。
この二つの戦争が「神社」という場所を宗教界のメインステージに押し上げたのだ。
この時に「軍事」と神道が結び付いたのであり、愛国心の高揚とともに「靖国神社」「護国神社」が作られ、あるいは予算が割かれたのだ。
キリスト教の脅威はもはや一段落していたが、一方で、「社会主義・共産主義」運動が今度は帝国に襲い掛かった。神社は軍事と結びついたが、さらに、子供たちに社会のルールを教える場としても活用されるようになった。
やがて、日本国政府は、神社を各村に一つ配置してコミュニティーをまとめるという整理を行い、公式な儀式も確立し、さらに、資金面でも法整備を進め、ファイナンシングの部分でも神社の国家からの独立性を保つことにした。明治天皇が1912年に崩御した時に、彼の霊魂を祀った明治神宮を作り、1915年に竣工している。
これで一応の路線が確立し、1945年まで非宗教国家カルトとして神道の存続は確定した。
背景には1931年に突入した戦争があり、これが神道をバックアップしている。

このような過程を経て、神道は、明治天皇や国のために命を犠牲にした人、あるいは明治以前の徳をもった人物などを祀るようになった。それ以前に存在した神社のあり方も、教義はすべて東京が書き換えたのだ。
神前結婚式を初めて行ったのは義人親王(大正天皇)であり、七五三という子どもを神社に連れて行く慣習も大正時代に出来上がった。関西エリアでは七五三はなかなか普及せずに、「13歳になった子供をお寺に連れて行く」という旧来の慣習がしばらく続いた。江戸時代には、神社は「七福神」に幸運を祈る場所だったのだ。
旧来は、陰陽師が幸運な方向を決めて「恵方詣で」と呼ばれる場所にある神社やお寺に行く慣習があった。
これらの慣習を「神社が行う」という発想も東京が20世紀に書いたものだった。
おみくじというのも大正時代につくられたものだ。江戸時代の天台宗の「観音くじ」を参考にしたとされている。
結局、神社は「宗教ではない」という浄土真宗セクトの主張を国家が「信教の自由と調和がとれる」として利用したことから、以上の「行事」も、非宗教的なものとして行われることになった。「おまもり」の販売すら実は「宗教的意義はない」とされて販売されたのだ。
その他の行事で得られる利益も、広大な土地の所有を禁じられた神社の経済的基盤を整備したものだったのだ。

日本は第二次世界大戦において敗戦を迎えるわけだが、アメリカ主導の占領政策が1945年の12月に「神道指令」を出した。日本人に「軍国主義の否定と超国家主義の否定、戦争の攻撃性をしっかりと学習させる」というものであった。そして、「もし神道・神社が存続したいのであれば宗教を名乗るべきである」としたのだ。
そこで、1946年に宗教法人法ができて、同じ年に神社本庁(NAS)が作られている。
神社本庁は、結局、「明治の国家カルト」路線を踏襲することを選択している。伊勢神宮を本拠地とし、「神宮大麻」への信仰を各家庭に広めることにした。これはイデオロギー的理由もあるが、経済的理由もあったとされる。
さらに、神社本庁は、宗教法人ではあったものの、明治時代の「宗教ではない」という見解を活用している。あくまでも「公的な慣習」であるとし、あらゆる人々を排除しないオープンなものとした。これは、「宗教としてのアイデンティティーの弱さ」からくるものであるとも言われている。
なぜ神道は生き残ったのか
大日本帝国の崩壊とともに神道が崩壊しなかった背景には「民俗学」があったのだ。
春には五穀豊穣を祈り、秋には収穫を感謝する。
夏には魚が獲れることを祈る。狩りがうまく行くことを祈る。魂を純粋にするコミュニティーの祭りをする。
新年には仕事や学業がうまく行くことを祈る。
そういった日本人の「民俗学」があったから神道は生き残った。

神道に関して、柳田國男は以下のように語っている。

日露戦争において、帝国臣民はこれほど戦争の結果が分からない戦いをしたことはなかった。地方の村でも若者が戦地に送られ、その地域では、おのずと「氏神」に人々は必死で戦勝祈願をした。若者の妻などはこの時に神社において「お百度参り」を行っては夫の無事を祈った。これはもはや信仰というよりも、より切実な感情に根差した行いであった。

柳田國男はフォーク(丞民)という、庶民の慣習の中から信仰を見出そうとしたのだ。のちに述べるが、折口信夫も柳田に共感を覚えていた。柳田はフィールドワークの方面からアプローチし、折口は文献の方面からアプローチした。しかし、フォークを基盤にしたのは同じだったのだ。
「国体」という戦前の概念は「天皇と国民は一つである」という考えであり、柳田も折口もこの考えを否定したわけではなかったが、神道の基盤は庶民の慣習に見出していた。
明治時代に起源をもつ「国体」崇拝はロマンティシズムとして現在に引き継がれているのだ。明治の神道の国家カルト戦略と並行して、特定の人物が「教派神道」というものを立ち上げた。
これは、伊勢神宮や出雲大社などを基盤にする「講」をベースに、たとえば伊勢神宮の教えをベースに「神宮教」というものができた。
これらの動きもあくまでも帝国カルトと調和が取れる範囲内で政府が容認していたものであった。

以上の「神道」の特徴をまとめてみると、三つの特徴が見つかる。
非宗教的な国家の美徳を天皇に求める発想。
国家統治とは異なる観点から、コミュニティの繁栄や、個人の幸運や健康を祈るという発想。
国家から「神道セクト」として容認された宗教団体。

戦後の神道を論じた学者に井上順孝がいるが、神道が純粋さを求めたのは近代であり、
中世の仏教や儒教が混合して出来上がったものだと明確に論じた。
国体概念に依拠するにせよ、柳田のようなフォークロアに依拠するにせよ、神社を利用する人が
どのような意識で利用しているかに関しては、神道は明確な立場をとっておらず、
神社を利用する人も明確な立場にはもとづいていない。
神道というのは明らかに「近代の定義だ」とされたのだ。
国体概念・民俗学・神道セクトの三つがうまく合流しているのだ。
さらに、黒田俊雄は「神道は仏教が形を変えた」と主張した。これも「純粋な神道は近代の産物」
とする立場であり、日本古来から続くものであるとされたのは近代の産物としたのだ。
黒田は一方で、6世紀の仏教伝来以前にも神・神話というのがあることを論じた。
8世紀編纂の古事記と日本書紀にそれが記述されているのだ。
実際に、現在残っている神社はこれらの書物に記されている地にあることが多く、
しかし、建物の歴史は書物の記述より新しい。
だが、仏教伝来以前の信仰を基盤に神社が配置されていることは無視できないとする。
とはいえ、近代に神道が「再編された」という前提にそれらの事実があるとしたのだ。
神道は、神話や仏教や陰陽道といったものから何らかの発展を遂げたわけではなく、
これらと共存しており、古代思想を包摂するものであるという説明は近代になされたのであり、
神話のようなものも「近代社会に適合するように」ディストーションを経ているとされる。
神道の最大の問題は、「神、神話、儀式」などが、近代以前に既に存在したということだ。
このことが、近代の再編を経てしまったために、歴史研究を極めて困難にしている。
再編を経た神道が「昔からあるもの」とされてしまう陥穽が存在するということなのだ。
明治の帝国カルト以前にも「神社・神話・儀式」は存在したのであり、それがどのように再編されたかは
それらの研究を抜きには語れない。
そのため、これから「第二章」として、明治以前の「神道の基盤」の研究に入りたい。
【第一章-完-】


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「化ケモノ青年」エレファントカシマシ
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