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2012年2月11日 (土)

セックスマーケットとフェミニズムの哲学

風俗産業は、ポルノや売春だけでなく、接客や踊り、ストリップショー、テレホンセックス、サイバーセックスなどが議論の対象になるが、これを哲学として論じるのならば、お金を払うことにより、女性の性的自由が奪われるのではないか、あるいは、「セックス」というものに「罪悪のともなうものとそうでないもの」というダブルスタンダードを生み出すのではないかなどがテーマになる。以下で論じていきたい。
そもそも、ポルノというものが広く頒布するようになったのは19世紀のヨーロッパであった。印刷技術の発展によって産業資本がこれを推進するようになったのだ。ポルノは時に政治的あるいは科学的な発想の推進力になってきたのだ。そもそもインターネットすらポルノが推進したとすらいえる。これらを批判したのが宗教だった。性的なモラルや子供への有害性、社会秩序への悪影響や品位に欠けるなどの理由から批判がなされた。アメリカにおいても「性的興奮にのみ訴えかけるもの」「通常人が嫌うであろうもの」「真摯な文学性、芸術性、政治性、学術的価値のないもの」が否定されるようになった。ポルノは、宗教の方面だけではなく、フェミニズムの見地からも批判にさらされた。背景にはレイプやDVの存在があったとされる。凌辱や拷問、性的搾取を描写することは、暴力を肯定し、女性の地位を低下させるとしたのだ。女性を人間として扱わずに、道徳的尊敬も与えられないとした。女性をものとして扱い、男のファンタジーの対象にしてしまうだけだと批判したのだ。
ポルノは、女性を暴力的に扱ったり従属させたりする場面を描写するが、それはお金をともなってなされるものであるが、現実社会の女性も「そのように扱うことが可能である」という意識を人々にもたらすとされ、男性のまわりにいる女性にも悪影響を及ぼす。実は、ポルノとは「男性優位の社会」の維持という機能を果たしていると批判されたのだ。これは、人類の半数を従属的地位に置くことを意味する。ポルノ作品にはもちろん「女性の参加者」もいるわけであるが、彼女たちが演じるものと、現実社会の女性を同列に扱うことはできない。アメリカの合衆国憲法修正第一条で言論の自由は認められているが、女性を従属させる言論までは容認していないのではないかとされた。また、未熟な男性はポルノを見て「セックスは女性にとって有害なものなのではないか」と考えてしまうこともあるとされる。ポルノは哲学を語るのには十分すぎるテーマとなったのだ。

ポルノグラフィーを語るうえでは、レイプに関する議論が興味深い。ポルノでは、女性がレイプによって快感を得ている描写がなされる。あくまでも金銭を得たうえで演じているものであるが、しかし、それが「神話」と結びついてしまうのだ。このことが男社会の規範意識に与える影響が指摘されている。性的暴力を肯定してしまうのだ。
あるいは、男性はセックスにおいては「ポルノほど生産的ではない」とされ、ポルノの真似をしているとされる。この「真似」と「のめりこみ」が、男性にとっての「病気」としてではなく、男女の「不平等」をもたらす形で社会に反映されていることが指摘されているのだ。
表現の自由の名のもとに、女性はこのようなポルノの存在には沈黙するしかない。あるいは、「修正」という形で規制を受けることもあるが、ハードコアでない限り困難であることが多く、一部の女性が批判的言論をする以外に対抗手段はないのだ。
このようなポルノに影響された男性と性交渉を持つ女性は、「ノー」も肯定的な意味を持つという形で対応するのではない。「その男が嫌いになる」という形で応じてしまうのだ。
端的に「女性の従属性」と「価値の低さ」を表現する描写がレイプであるが、そのような描写を信じている男を女性は「バカだね」と考えることがあり、ポルノが必ずしも「性の肯定」につながっていないのではないかとされるのだ。

一方で、主人と奴隷の関係は「歴史を発展させてきた」という見解もある。あらゆる革命がそうであったし、家庭の主婦も実は亭主をコントロールすることを学習してきたりしたのだ。このような指摘はヘーゲルによってなされた。
また、ポルノによる主人と奴隷の関係の思い込みは、「その男性の政治的嗅覚を鈍らせる」とも言われる。女性だってセックスを望んでいることから、お互いに主体であるという認識がなければ、正確なセックスの理解にはならず、このことは現実社会でもその男性が政治的弱者になるとの指摘があるのだ。
カントは「プレイボーイ」という存在を嫌った。彼は「人間はその存在自体が目的である」としており、何かの欲望の対象に過ぎないと考えることは彼の哲学に反するものだった。精神的あるいは肉体的な挿入というものを彼の人間の独立・自治というものと調和させて考えていたのだ。
カントの考えには批判もあったようだ。セックスとはパートナーの肉体をコントロールするものであるから、女性だって男性の肉体をコントロールしているだろうという指摘がなされたのだ。この観点は非常に重要だ。「お互いに相手を自分の欲望のために利用している」のがセックスに他ならないとしたのだ。
結局、哲学の世界では「ポルノも現実の女性も同一カテゴリーである」とされ、ポルノがセックスの描写を提示することによって、男女はセックスを学習し、「そういうものである」として性的満足を得ているのではないかというあたりで議論は落ち着いているようだ。


【随時加筆します】


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