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Foreign Affairs

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2012年2月23日 (木)

戦争

戦争というのは「政治コミュニティー」同士の争いである。国、あるいは国になろうとするグループ同士の争いも戦争だし、特定の国家に圧力をかける連中も「テロとの戦い」のようにすでに「戦争」のカテゴリーに属するようになっている。国というのを考えるにあたっては、「ネイション」という概念と「ステイツ」という概念を理解するのが重要だ。
ネイションというのは「人々」「我々」というように、共通の民族、言語、文化、歴史的体験、理想や価値、住宅環境からファッションまでを共有している。一方で、ステイツというのは「統治機構」である。
イタリアの国家はイタリアの人々を、ドイツの国家はドイツの人々を統治するというようにネイションステイツというのはヨーロッパで広まったが、アメリカやカナダやオーストラリア、さらには中央アフリカを見ればわかるように、多様な「ネイション」を統治する「ステイツ」(マルチナショナルステイツ)もあるのだ。
戦争とは「誰が権力を握るのか?富を握るのか?資源を握るのか?」だけでなく、どのイデオロギーが優れているのか。誰が国家のメンバーなのか。どの法律が施行されるのか、国境はどうなるのか、税金はどうなるのか、学校で何を教えるのか、までが決定されるのだ。
つまり、これらをめぐって争われ、それを解決しなければ「平和が訪れた」とは言えないのだ。
戦争というのは、政治コミュニティー同士の武力衝突の「怖れ」だけでは足りないのだ。「意図的で広範な」武力衝突を戦争といい、警官同士の争いや国境警備員の争いは戦争とは言わない。また、明白な意思表示と顕著な行動がともなう軍事行動が起きれば「戦争が始まった」と言えるのだ。
クラウゼヴィッツは「戦争は政治の延長である」と言ったが、これは非常に抽象的であるとされ、現在では、「国家統治に関する譲歩することのできない対立が政治コミュニティー同士で生じた場合に起きる、熟慮の末の広範囲に及ぶ暴力である」とされているようだ。戦争は、政治の延長ではなく、「政策を生み出すもの」であり、国家統治の基盤となるものなのだ。国を治めるうえでどうしても同意できない物事が背景になければならない。

戦争とは、暴力的で残虐なものである。しかし、人類の歴史を発展させてきたものだ。人が他者に勝りたいという人間の本質に由来するものだ。しかし、戦争で繰り広げられる暴力が、思慮深い人に道徳的な問いかけを行うことがあるだろう。
戦争は常に間違っているのであろうか?
どのような戦争が正当化できるのであろうか?
人類は常に戦争を経験し続けるのか?それとも「いつかなくなる」ものなのだろうか?
悲惨な戦争が人類を変えることはできるのか?社会の実践を変えることができるのか?
戦争にともなう残虐な行為を止めることは可能か?
さらには、戦争をどのように終わらせ、どのように国を立て直すのか?
我々の国が戦争に向かった時に私たちはどのような行動をとる義務を負うのだろうか?
このような問いかけをスタンフォード哲学がまとめているのだ。
以下にまとめておきたい。

戦争を語るうえでの「理論のビッグスリー
戦争に関しては、三つの方向からのアプローチがある。「戦時国際法理論」「リアリズム」「反戦運動」である。
これらと「戦争と倫理」の問題をまず考えてみたい。
戦時国際法理論においては、たとえば、第二次世界大戦においては連合国側は枢軸国側を「侵略国家」と位置付けていて、連合国側は倫理の問題を回避している。
では、リアリズムの見地からはどうであろうか。リアリズムにおいては、戦争とは安全保障の問題であり、他者に影響力を与えることであり、経済発展を目指したものである。
反戦運動の場合は、倫理が前面に出る。戦時国際法理論においては「容認できない戦争」が存在することを意味するが、反戦運動においては戦争は常に容認できないことになる。反戦運動は「もっといい解決法があるはずである」と主張するものである。
これが「戦争と倫理」を語るうえでの三つの立場である。
以下、戦時国際法理論と、リアリズムと、反戦運動の三つを探求してこの論稿を終えたい。

「反戦運動」
戦争においては「反戦運動」という立場が戦争概念の三本柱の一部を構成する。
道徳的純粋さを自分に求める立場ともいえるが、戦っている人がいる局面に「フリーライドしている」
という辛辣な批判が浴びせられる。
自分の手を汚さない連中と呼ばれるのだ。
しかし、歴史を振り返ってみれば、戦時中に反戦を唱える人は、投獄されたり拷問されたりしている
という反論がなされた。必ずしも「暴力」から逃げてはいないとされたのだ。
さらに、国際社会において攻撃的な国が存在する以上、それらの国からどのように自国の人を守るのかを
明確には示していないとも批判された。
彼らは「戦争をなくすべき」とするが「すべき」と「できる」を完全に混同していると言われた。
しかし、反戦運動の立場からは「外交技術」や「経済制裁」で攻撃的な国は排除可能と言われた。
戦争をするうえではお金が必要であるし、国際社会で孤立はしたくないとどの国も考える。
つまり、戦争を好む人よりも「より高度な学問をやっている」と強烈に主張されたのだ。
反戦運動の主張に対しては、歴史の現実を突きつける手法でさらに批判がなされた。
残虐な侵略国家には外交駆け引きも経済制裁も無力であり、自国への侵略にはなんら
有効ではないし、大量殺戮や、自国民の拉致などが公然と起きるとしたのだ。
つまり「反戦運動」とは、「形を変えただけの降伏である」と批判したのだ。
反戦運動を主張するものは、彼らが「世界の現実を知らない」と批判されることに対して、
1940年代のインドのガンディーや、1960年代のキング牧師を挙げるのが通常だ。
たしかに彼らの目的は達成したかもしれない。
しかし、現実を分析してみると「非暴力」は彼らをまとめ上げるためのスローガンとして
機能していたのであり、彼らの「主張の柱」に過ぎなかったのではないかとも言われる。
つまり、彼らだって暴力は使っていたのだ。
ヒトラーのような「侵略する暴君」は、実際に非暴力を唱えるレジスタンス運動を、
「弱さの表現であり敗北主義である」とあざ笑っていたのだ。

基本的に、反戦運動は二つの流れが出来上がった。
「戦争によって得られる利益はコストに見合わない」とする立場と、
「人を殺すことはそもそも間違いではないか」とするものだ。
後者の議論は、キリスト教社会において非常に豊富な議論の蓄積があり、なかなか無視できないものがある。

戦時国際法理論は戦争のルールを純粋に追及するものであるから、「人を殺すことは間違いである」
という問いかけに「正解がない」という現在の状況においては、戦時国際法ルールがこの議論を
乗り越えてしまうとされる。
あるいは、自国民の多くの命を救うために他国の人の命を奪うことは「コストに勝る利益がある」と
されてしまい、これも戦時国際法ルールが乗り越えてしまう。
しかし、戦時国際法理論を作るうえで「戦争にはコストに勝る利益があるかどうか」という視点は
極めて重要な議論の土台を提供する。
端的に「目には目をというルールは二人の盲目な人を生み出すだけだ」とされ、この「コストに見合わない」
戦争が存在するという観点からルール作りもなされることになる。

「人を殺すことは間違いである」という観点からも戦時国際法ルールが作られる。
戦争においてなんら攻撃的でない民間人を殺害することは、明確にその不当性を指摘できる
とするのだ。軍需産業に貢献しているわけでもなければ、全く戦闘に参加していない民間人
の殺害は、戦争という場において歴史的に起きてきたものであるが、そういう行為が
「戦争を腐敗させる」という点が指摘できる。
このような議論から「ルール作り」がなされると言っていい。
戦場における民間人の殺害は、民間人だって敵国の兵士には敵意を持っていることから、
どうしても生じてしまう課題として、トマス・アクィナスが議論した「二重効果論」を
しっかりと理解して、殺害しても仕方がなかったという説明を自分なりに確立しておく
必要があるだろう。
このような問題は、戦場における「兵士の意識の高さ」だけが解決する問題だ。
戦争を腐敗したものにしないという効果があるが、兵士の意識や義務感だけが民間人の
命を救うとされている。


「戦争」スタンフォード哲学百科事典。
http://plato.stanford.edu/entries/war/

「戦争は政治の延長」ではない。むしろ「国づくりの基本」である。とされている。
高松城というのがあるが、日本三大水城と言われ、海を背に平野が広がる。
その城下町のメインストリートが丸亀商店街だ。
いまだに日本の城跡は日本の軍事拠点だと俺は考えている。
「東京ジェラシー」エレファントカシマシ。
http://www.youtube.com/watch?v=JC08DkZSDeg

【つづく】


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