宗教体験の哲学
「宗教体験」というのがありますね。これも哲学の研究になるのです。ただし、優越感の競争になる、という点が指摘されています。しかし、病気の人や不遇の人は「自分の価値を知る」という効果があるのが宗教体験であり、その効果を否定することはできないのです。
しかし、この世界にはいろんな民族や宗教があります。人によっては「三位一体の神に会った」と表現し、ある人は「ブラフマンに会った」と言います。しかし、すべての宗教体験に共通点があります。「衝撃的な出来事を」「自分にとって神聖なるもので表現する」ということなのです。
しかし、宗教体験と現実世界での体験で、いったい何が異なるのかという問いかけがなされます。スカイツリーの展望台から東京を一望した時の感動と何が異なるのか。これを哲学は説明しなければなりません。そうなると、宗教体験に「神」は絶対に必要なものではないかもしれないのです。スカイツリーの展望台からの風景のように「何らかの深さ」があればいいのではないかと言われます。そこで、宗教の方面からは「神聖なものに到達するには困難がともなうであろう」「たどらなければならない道があるだろう」といわれます。これは、山の多い地方や島しょ地方で「神聖なる場所」とされているものの共通点なのです。到達するのに苦労がともなうということです。
ニューヨークの国連本部の建物の中に、「宗教体験の公約数」として、いろんな国の人が静かに祈れる鉄の部屋があります。自然光が差し込み、ニューヨークの風景が窓から広がる。天国と地球を体感できるとされ、光と闇が時間によって体感できる。鉄は「武器と防御壁」を示すとされます。外交交渉を戦わせている人たちはこの部屋で祈るのです。ありとあらゆる宗教に中立的な部屋として挙げられます。
宗教体験の研究は、教会の建物の仕組みの研究からも行われました。地域のコミュニティーの人々が集まって交流する場所がある。しかし、礼拝堂のように神の居場所はまた別にある。
ですが、中世の教会は現代とは異なります。まず「広大であること」「光をうまく活用していること」「石に調和がとれていること」「そもそも教会のある場所が特別であること」などが挙げられます。中には「一月の月と凍った森が必要」とする宗教建築家もいるそうです。
教会建築のコンセプトには「人間がすでに捨てたはずの自然がまだ捨てられていないという発想」こそが「法の本質」であるとして、この観点を重視する人もいます。それが「一月の月と凍った森にこそ霊的現象がある」というものなのでしょう。
【つづく】
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