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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2012年1月

2012年1月27日 (金)

孔子~神学以前のテーマ

「父は子のために隠し、子は父のために隠す」という言葉がある
父親が羊を盗んでいることを子供が官吏に訴えなかった、という事例をどう処理したらいいかと、官吏は孔子に問うた。この問題は、実はソクラテスも議論した問題であった。まさに「神学以前の問題」として、中国の思想の原点となったのだ。「父親が羊を盗んでいることを子どもが隠した」という問題を官吏が孔子に問うたことが、実は中国の思想の「百家争鳴」で争われたと言われている。その中から「道」「理」「仁」などという概念が生まれたのだ。
たとえば、中国には「仁」という言葉があり、この言葉を外国語でどう翻訳するかが非常に難しいとされた。狭い意味では「知恵と勇気」とされるが、広い意味では「道徳的・倫理的に優れた人」という意味でもある。また、「仁」とは、「道」にしたがって生きることができる人物であると説明される。「論語」というのは、自然から骨を切り落としたり、角を削ったり、玉を磨き上げるがごとくに、人間性を「切り落とし、削り、磨き上げる」ことを狙いとして書かれたものである。祖先をどのように敬うべきか、両親をどのように弔うべきか、尊敬される統治とは何か、親子の好ましい関係とはどのようなものか。そのようなことが書かれた書物であり、読むことによって人間性が「切り落とされ、削られ、磨き上げられる」ものだとされる。そのなかにおいて「理」にかなうというものが、「仁」という美徳とどのように関わるかなどが探求されたのだ。

孔子は「悪しき人間」と「儀式」の関わりを論語において論じている。指導者が玉座に上った後に頭を下げる儀式を「悪しきもの」としているのだ。玉座に上る前に頭を下げるべきであるとした。なぜなら、周囲が「彼が玉座に上る前に頭を下げる」ということは「政治的予見性」を表現するものであり、玉座に上った後に頭を下げる行為は「予見性に欠ける」ことを表現してしまうとしたのだ。権力闘争の渦中にあって、孔子は「予見性に欠ける人間」を目の当たりにし、指導者になる人間が誰であるかをを全く予測できない現状があることを知っていた。そのため、せめて儀式においては「あなたが指導者になることは分かってました」ということを表現しようとしたのであろう。孔子の「儀式」に関する考えを端的に示しているのだ。
孔子は「儀式」というものを、「己を律し、儀式を顧みるだけで良いものが得られる」とした。そして、儀式というものは「為」というキーワードが重要な意味を持つとしたのだ。「理」は「仁」によって支えられていなければならず、それを「為す」のが儀式であると考え、そこに「現実」と「儀式構成」の解釈が存在するとした。儀式の構成の背景には現実の政治社会が存在し、現実の政治社会の解釈が儀式である。これが孔子の考えたものである。その解釈は儀式の構成の意味をその共同体が理解し、共有していなければならず、それは共同体によって異なると考えた。政治社会の現実を、共同体が共有している発想で解釈し、儀式の構成に意味を与えるとした。
儀式がなぜ必要であるかというと、政治社会における勝者の決定プロセスと、そのあとに続く人間の感情の世界には緊張関係があり、何らかの和解が必要であることが多く、決定プロセスという「理」の世界と、人の道という「仁」の世界を和解させ、調和をもたらす必要があるのだ。ここに儀式が必要であると孔子は考えたようだ。
孔子の「論語」は、のちの時代に、あらゆる地域であらゆる政治情勢を議論する基盤を提供し、当然さまざまな解釈が展開されたのだが、次第に「儀式」というものの意味が強調されなくなり、彼の持つ「美徳」に関心が寄せられるようになった。「格言」のように言葉は残るが、背景にある激しい政治闘争などが意識されなくなったようだ。そのようにして、現在は「論語」という書籍は残っている。
論語は以上のように「儀式」の意味、そして、「美徳」を重視するアプローチがなされたが、やはり、「論語に書かれている記述と共通の哲学的基盤」を有する物事へのあてはめが学問として成立するわけである。そこでカギを握る概念が「仁」と「理」の二本柱となることになる。
結局、「儀式」というのは「ある物事への重要性をみんなに認識させる」効果がある。また、「お供え物」というのも、人間生活に絶対必要な「食事」というものを反映しており、両親に食事を提供することの重要性をその文化が反映しているのではないかとされる。その儀式がその共同体のどのような死活問題を表現しているのか、あるいは、何に重要性を与えているのか、という観点からも「儀式」というものはアプローチが可能だ。



2012年1月25日 (水)

「責任」への尊敬の足りん奴だ

我々は人生のスタート地点は同じでも、ゴール地点は異なる。この現実に正義はあるのだろうか。
まず、先に進む人間には「嫉妬」という障害が立ちはだかる。
次に、不平等が生じたという人に対しては政府が何らかの助けを施す。
さらに、貧しい人は安くていいものを調達すればよいという「市場の助け」も存在する。
それ以外に「運が悪い」ことがあれば「保険」という仕組みで救済するしかない。
これは「保険」という仕組みがどれほど人間社会の哲学に重要であるかを示している。
それ以外に、不平等が生じたら「人生の選択肢」において何らかの選択をしているはずであるとする。選択には「責任」がともなうはずだ。我々人間は「責任への尊敬」をしなければこの不平等社会に正義をもたらすことはできないのだ。勝負の時に逃げない責任などいろいろあるだろう。
それ以外に、「遺伝的な不平等」がかりにあったとしたら「生まれる前」の不運と割り切っている。ここにアメリカ哲学の強さも弱さもある。基盤の弱点にこそ政治がある。不完全な理論こそが政治を育てると位置づけている。
アメリカの正義の割り切り方である。

2012年1月23日 (月)

皇位継承の議論にスタンフォードを持ち込むとこうなる

DNAを語るうえでは、優れた特質がナチュラルセレクションを経て生き残ってきた、という適者生存という説明がある。男系男児というものと、あらゆる立場に立つにせよすべての生物学者に強烈な影響を与えた「ナチュラルセレクション」という発想はどう両立するのでしょうか。いったい「神武のY遺伝子」がどのようなナチュラルセレクションに耐えてきたのでしょう。ナチュラルセレクションという観点から、たとえば、「皇族は美男美女なのか」という議論すら成り立ちます。
たとえば、ナチュラルセレクションは「現在の状況がどのようにもたらされたか」を説明する概念でもあるし、経験主義的に「優れたパートナーを私は選んだ」という説明にもなる。公家というのは、「このように自分たちの優越性を維持してきた」という伝統があります。たとえば「和歌を詠む」ことは高貴であるとして将軍家に対する優越性を守った。天皇家の「和歌を詠む」伝統は「これでナチュラルセレクションを守り続けたじゃないか」という意味でもあるわけです。非常に物事を説明するのにいい概念が「ナチュラルセレクション」なのですよ。
日本国はいまだ将来に不確実性をもっていますよ。そのなかで、男系男児に「何かの合理的強さがあるだろう」と考えるのも無理はないですよ。でも、もっといろいろ議論してもいいのではないでしょうか。彼らがどんなナチュラルセレクションを生き抜いてきたのか。その公約数が現在の「宮中祭祀」として表現されています。天皇家が政治社会で自分たちの優越性を示し続けたのが宮中祭祀です。それに信仰が集まる。それと「後継レース」はどう関わるのか。宮中祭祀はナチュラルセレクションを生き残ってきた。それと日本国の不確実な将来を生き抜くことはどう関わるのか。そういう観点からの議論が必要でしょうね。進化を語るうえで重要な観点は「役に立つ」「デザインがいい」という二つだけだとされる。この、人間として持っている特質が「役に立つ」「デザインがいい」が優れた進化をしたといえる。そういう意味では、皇族に「能力」「ルックス」を要求するのは当然です。「男系男児」よりも強烈に庶民にアピールできるポイントなのです。
結局、人間というのはいろんな特質をもっているわけですが「役に立つ」「デザインがいい」という二つの要素を「テストドライブ」しなければならないのです。これは十代でだいたいのことは終えます。成人したら「論文を出す」「スポーツをやる」などになるかもしれません。テストドライブを経ていなければ実戦投入はできないのです。これが「後継レース」となります。結局、次期天皇は、今の天皇との「世代間のズレ」がどの程度あるのかをテストドライブしなければなりません。それが「アスリートであること」「学者であること」なのですよ。そのテストドライブを経て「世代間のズレ」を確認して、実戦投入できるかどうかを検討する。「愛子女帝」という選択肢はそのようなことをやる時間がないのです。もっと国民にパフォーマンスを見せなければそういう選択肢はとれません。結局、天皇家は、「役に立つ」「デザインがいい」という二つの要素を遺伝と考え、後継者にありとあらゆるテストドライブを繰り返すわけです。それに耐えた人間に「遺伝の道」という勲章を与えています。これが「後継レース」の全貌なのです。国家の利益を重視した天皇家の実態です。
結局、親から何を受け取ったか、というのは「遺伝」と「文化」なんですよ。天皇家は国家の象徴ですから、「文化」も重視しなければならない。そうなると、やはり学問の発信拠点である「大学」から何を受け取ったのかを明らかにしないといけない。東京大学でもいいし、外国の大学でもいいのです。どういう文化をもっているのかを明確にしないと「親から何を受け取ったのか」の説明は半分しか明らかになりません。DNAトランスミッションというのはミトコンドリアによってなされますが、結局、臓器移植や血液型のような「物質的な」伝達に過ぎないとも言われる。やはり、「どのような文化を親から受け取ったのか」という点を無視はできません。それを無視してメンデルが明らかにした業績を信仰の対象にすることはできないのです。


2012年1月21日 (土)

「信じる」~スタンフォード哲学百科事典

哲学で、「信じる」ということの意味が探求されている。「根拠がなければいけないのか」ということが問われる。これは道徳や誠実さと関わる。また、「信じる」ということがどれだけ我々に縛りをかけるのかもテーマになる。「何を体系的に信じているのか」「信じるということのメンテナンスはどうやるのか」「信じるのをやめるとはどういうことか」などが議論になる。この研究は「幽霊を信じる」などのオカルティストだけでなく、「もうあなたは信じられない」という人間関係にまでおよぶ議論だ。信じるということは自然発生的なものなのか、我々がコントロールしているのかなどもテーマになる。通常、人に意見を言う時には「信じていること」を言うだろう。そこにはどういう「根拠」が求められるのか。あるいは「根拠のない自信」のようなものが役に立つこともあるのではないか。
この議論をいかに極めていくかが研究の全貌だ。
航空会社は、飛行機が安全だと信じて運行させる。もし、技術的に不安な部分があって、事故を起こしたらもちろん罪だが、事故を起こさなくても罪だとされる。人間世界は間違いだらけであり、つまり、人間は信じながら生きていることそのものが罪を犯しているという大胆な指摘がなされた。19世紀のまさに「信じる」ということの問題提起だ。お互いに誤解をしながら生きている人間社会に投げ込んだ言葉だった。野球などでも、不十分な根拠であっても何を信じるかを選択しているのが人間ではないかとも言われる。知的なフィールドで何らかの選択をしながら生きていれば罪ではないという主張がなされたのだ。デカルトは、「信じる」ことのプロセスにおいては、知的な営みが強い意志よりも先行しているとしている。「幽霊を信じる」という人も、そういう意味では何らかの知的な営みを経た結果、その意志を強くしていることになる。古くはこのような合理主義が語られた。しかし、現在の哲学はこの思考をどのように深め、あるいは批判するか、という観点から複雑化している。これに対しては、「幽霊話」の「創作者」がいて、その世界に対する「信心深さ」があれば、それで成り立つではないか、とデカルトは批判されている。「信心深さ」には根拠はないだろうとされたのだ。ここで一度議論は止まっている。あとは「信じる」ということの機能が考察された。
「信じる」ということをどのように形成するかという認識論があり、さらに、道徳の見地からどう説明するかという議論があり、さらには、誠実さという見地から説明する議論がある。「認識論」「道徳」「誠実さ」の3つの規範が「信じる」というものへの分析に有効だ。たとえば、あるものを信じることは目的の到達に有効であるとして信じたとする。この時に、その人は「それが真実でなかった場合の危険」というテーマを論じなければならない。信じるということは、それが真実でなかった場合のリスクを常に問い続けなければならないのだ。たとえば、ある本で「このガンは治ります」という記述を読んだことのある人が、実際にその病気にかかったとする。その人は、「自分は生き残れるだろう」と信じる。その際に信じることへの誠実さが生じる。この事例は「信じることが真実をもたらす」いい事例である、とされる。「信じることが真実をもたらす」というのはパスカルも言っていたことであり、神を信じる現実世界のメリットとしてもこれは指摘していいだろう。かりに神を論じなくても、たとえば、あなたが娘さんといい関係を築こうと願っていたのなら、彼女のいい側面を見るようにした方がいいことがある。たとえば、彼女が薬物使用をしているという噂を聞いて、たまたま奇妙なにおいがしたとしても、アロマを炊いているのだろうと考えると関係は壊れない。かりに、薬物を使用している場面を目の当たりにしてしまったら、信じることが危険にさらされるが、それならば「たまに使用するだけならむしろストレス解消になるだろう」と考える。このような発想は、誠実さと功利主義の兼ね合いをとりながらいい方向に「信じる」ことを意味する。

【つづく】



2012年1月 9日 (月)

宗教体験の哲学

「宗教体験」というのがありますね。これも哲学の研究になるのです。ただし、優越感の競争になる、という点が指摘されています。しかし、病気の人や不遇の人は「自分の価値を知る」という効果があるのが宗教体験であり、その効果を否定することはできないのです。
しかし、この世界にはいろんな民族や宗教があります。人によっては「三位一体の神に会った」と表現し、ある人は「ブラフマンに会った」と言います。しかし、すべての宗教体験に共通点があります。「衝撃的な出来事を」「自分にとって神聖なるもので表現する」ということなのです。
しかし、宗教体験と現実世界での体験で、いったい何が異なるのかという問いかけがなされます。スカイツリーの展望台から東京を一望した時の感動と何が異なるのか。これを哲学は説明しなければなりません。そうなると、宗教体験に「神」は絶対に必要なものではないかもしれないのです。スカイツリーの展望台からの風景のように「何らかの深さ」があればいいのではないかと言われます。そこで、宗教の方面からは「神聖なものに到達するには困難がともなうであろう」「たどらなければならない道があるだろう」といわれます。これは、山の多い地方や島しょ地方で「神聖なる場所」とされているものの共通点なのです。到達するのに苦労がともなうということです。
ニューヨークの国連本部の建物の中に、「宗教体験の公約数」として、いろんな国の人が静かに祈れる鉄の部屋があります。自然光が差し込み、ニューヨークの風景が窓から広がる。天国と地球を体感できるとされ、光と闇が時間によって体感できる。鉄は「武器と防御壁」を示すとされます。外交交渉を戦わせている人たちはこの部屋で祈るのです。ありとあらゆる宗教に中立的な部屋として挙げられます。
宗教体験の研究は、教会の建物の仕組みの研究からも行われました。地域のコミュニティーの人々が集まって交流する場所がある。しかし、礼拝堂のように神の居場所はまた別にある。
ですが、中世の教会は現代とは異なります。まず「広大であること」「光をうまく活用していること」「石に調和がとれていること」「そもそも教会のある場所が特別であること」などが挙げられます。中には「一月の月と凍った森が必要」とする宗教建築家もいるそうです。
教会建築のコンセプトには「人間がすでに捨てたはずの自然がまだ捨てられていないという発想」こそが「法の本質」であるとして、この観点を重視する人もいます。それが「一月の月と凍った森にこそ霊的現象がある」というものなのでしょう。

【つづく】


2012年1月 2日 (月)

フォーリンアフェアーズ英語版~ダイジェストその12

アメリカはアフガニスタンで何をしたいのか
アメリカがアフガニスタンにいまだに6万人の兵を駐留させているのには理由がある。日本には入管があり、戸籍があり、外国人登録制度がある。住宅地が整備され、森林整備も進んでいる。しかし、アフガニスタンという地は、統一された統治機構がなく、山岳地帯に隠れれば誰も手が出せない。ここに「アメリカの一般市民を殺してやろう」という意思をもった連中が隠れた。世界を探してみた結果、「一番居心地のいい場所」だと分かったのだ。この分析を終えたアメリカが、アフガニスタン東部に狙いを絞ったのがアフガニスタンの問題だ。むやみやたらに世界を制覇したい国なんてどこにもないしカネもない。
インドも中国もロシアも「自国の市民を殺してやろう」という勢力を抱えている。そういう連中も当然「アフガニスタン東部」を隠れる場所と見なしている。しかし、ここで一生懸命アメリカが活動していることを、イランやパキスタンは「インド、中国、ロシアはアメリカにフリーライドしている」と発言している。実はこれが真実なのだ。アフガニスタン東部は、日本で言うと「オールナイトのサウナ」であり、一番危ない連中を安くかくまう場所となっているのだ。
このような「テロの温床」となっている地域には、一番いいのは「豊かになってもらうこと」なのだ。そうすれば地域が安定する。アフガニスタンはそのため、イラン・インド・中国のみならず、日本からも資金を呼び寄せる可能性がある。しかし、パキスタンは「となりに豊かな国が存在してほしくない」と考えているのだ。
ソマリアやイエメンも「オールナイトのサウナ」のような危険性をもった地域になる可能性はある。しかし、アメリカはすべての危険をゼロにすることはできないし、国際政治である以上、一定の判断が必要だ。オバマは「2014年までにアフガニスタンのアルカイダを弱体化させる」という目標を定めている。これが現在のアメリカの判断なのだ。

習近平の訪米~米中の不信感
習近平がアメリカを訪問したが、オバマとの会談で明らかになったのは「さまざまな面で信頼関係が構築されていない」ということだった。アメリカは2010年に「中国は軍事的に弱いうちは軍事情報を秘密にする」という情報をつかんでいた。軍事に関する説明不足は、予測不能な軍事衝突を招きかねない。さらに、イランへの経済制裁はアメリカの最重要課題であるにもかかわらず、中国は協力しない。また、シリアへの人道的な救済措置にも中国は拒否権を発動している。中国に関して考えなければならいのは、「知的財産権の尊重」「食の安全」「環境問題」をはじめとする、法律の適正な執行や、地方の貧困層の経済発展などの問題を解消しなければ、「隣の国ともうまくやれないだろう」ということが認識されていることだ。アメリカは「人権」においては世界のチャンピオンだということなのだ。
オバマは大統領に就任した時には、ダライラマとの会談を延期してまで中国を訪問している。しかし、今は米中の関係に「信頼感がかけているのではないか」ということが指摘されている。
米中の間に求められているのは「お互いの国をよく見る」「その国の今後の動向を予測できる」「動向に敏感になれる」という3つの基本的なことなのだ。

マリオ・モンティとイタリアの病巣
イタリアのマリオ・モンティ首相が、オバマに賞賛されてアメリカから帰国した。緊縮財政と増税、規制緩和などの政策を成功させ、イタリアの財政危機を救ったからだ。この国は、冷戦後に共産党や社会党が政権を握って強烈な財政出動を行った。また、キリスト教民主党も同様のことをやっていたのだ。北部同盟やマフィアの存在などもこの国には挙げられる。これらの改革の旗手としてベルルスコーニが出てきたが、彼自身が法律には必ずしも従わない存在だったとされる。
そのような状況で、EU委員会からアカデミズムに身を置いていた「スーパーマリオ」と称されるマリオ・モンティが首相になった。彼の役割は「数世代にわたるイタリアの病巣の改革」にあり、彼の後継者ですらその路線を選択しなければ、イタリアは政治的にも経済的にも破綻するとされている。マリオ・モンティが、現在のイタリアのカギを握っているのだ。

イランをどうするつもりだ
イランとアメリカの関係は、1979年のホメイニ師の革命から複雑化した。二つの立場がイランにはある。アメリカとの友好を望む立場と、アメリカは必ずイランと敵対するという立場だ。この二つの立場がイランとアメリカの関係を見続けてきた。
まず、1980年代にレバノン人質事件を解決してくれとアメリカはイランに要請した。この時に、イランの最高指導者カメネイは、アメリカが経済制裁や資産凍結を解除するだろうという楽観論にしたがって、アメリカの要請に協力した。しかし、アメリカはイランの楽観的見方を完全に裏切っている。その後、イランは生物化学兵器などの国際会議に参加することでアメリカの譲歩を狙っていた。
2010年にヒラリーが「イランのウラン濃縮を20%まで認める」とした。アメリカはIAEAの約束遵守を条件にしていた。しかし、その後、オバマがイスラエル問題について発言した時に、カメネイは「アメリカがイランの体制変革を狙っている」と悟ったとされる。
イランという地は、中東の麻薬密売や、コーカサス地方の政治、中央アジアの政治、アフガニスタン政策などの重要な役割を演じる場所であることから、アメリカとしては、イランの「二つの立場」をうまく利用しながら「敵対」だけではなく現実的に付き合うべきだとの声もある。

世界銀行が必要な理由
1930年代に金融恐慌が世界を襲った時に、世界銀行はブレトンウッズ複線システムとして機能したし、大戦中は、戦争で疲弊した国を助けた。しかし、その後、もはや世界銀行に公的に助けてもらう必要はないのではないか、と考える国が多くなった。だが、2008年にふたたび金融危機が起きた。世界銀行をなくすわけにはいかない世界の現状を見せつけていた。

歴史の今後
現在の世界経済は「中産階級を貧しくさせている」と言われる。しかし、左翼活動がまったく動きを見せないのだ。それどころか、アメリカやヨーロッパでは極右活動が表面化している。これは、イデオロギーの軸が存在しないことを意味し、「庶民が経済の議論ができなくなる」と指摘されている。
現在の「歴史の地図」はこの段階にあるとされているのだ。

イスラエルのイラン攻撃~その後どうするつもりだ
イスラエルは、中東の核保有には非常に神経質であり、1981年にはイラクの、2007年にはシリアの核施設を実は破壊していたのだ。
今回のイランの核施設攻撃は、しかし、「その後が読めない」ことが問題になっている。
イランは、ハマスにもヒズボラにもミサイルを供給できることから、イスラエルは実は「イランの反撃で5万人死ぬ」という分析もしているのだ。
イランの核保有に関しては、イランは「何でもやっていいというわけではない」として、イスラエルを至近距離からとらえられる連中に流すわけではないとしているが、
「今は落ち着いてゆっくり今後の対応を見極める」としている。
なかなかイランとイスラエルは激突しそうでいながら「どちらが大勢の死人を出すか分からない」という点で駆け引きが続いているのだ。

参考:フォーリンアフェアーズ英語版




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