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2011年9月22日 (木)

「忠誠心」の研究

忠誠心は美徳である。人々は組織の中で「我慢する」というのが忠誠心の基本だ。忠誠心によって「友情」は統合されるし、他のあらゆる組織もメンバーの協力に忠誠心を要求する。家族もそうだし、会社もこれを義務にすらするし、国家はどのように忠誠心を維持するかに頭を悩ませる。では、忠誠心が美徳であるとするならば、それに限界はないのだろうか。ただ「美徳である」とするならば否応なしに否定できない概念となってしまう。さて、ここからが哲学である。忠誠心の根本からその限界まで探求するのがこの論稿のテーマなのだ。
この議論の背景
忠誠心に関しては、哲学者が興味を持つようになったのは1980年代からなのだ。それまでは、作家や、ビジネスマーケティング学者、心理学者、精神医学者、社会学者、宗教学者、そしてもちろん政治学者などが扱うテーマだったのだ。「右向け右」などというのは政治や宗教以外の何物でもないし、実用的にはビジネスマーケティングにも使用されるし、心理学・精神医学・社会学の方面から研究されるのは当然だった。ここに「哲学」が入り込むと、議論は非常に深いものとなるのだ。
ルーツ
言葉の起源はフランス語だと言える。しかしそれもラテン語までさかのぼるし、行動原理としての忠誠心は旧約聖書で人々が誓い合ったことにも見ることができる。しかし、行動原理としては「忠誠心」よりも「誠実さ」の方が先行したのではないかとされる。忠誠心という行動原理が明確になったのは中世以降に「主君に仕える」という行動がみられるようになってからであり、また、絶対王政の中では強烈にこの現象がみられるようになる。裏切りに対置される形で、特定の王に仕えるうえでの必要な概念ですらあったのだ。

忠誠心の本質を論ずる上では、これは実践的な概念であり、必ずしもそれ自身が「価値」があるというものではない。規範的に「価値」が認められるものなのだ。より良いもののために人間が作り出した概念と言ってもいい。忠誠心というのは、ときには人間がそれを自己目的とすることがある。「社会性への本能」とまで言われる。しかし、忠誠心というのは「感情」というよりは「行動に現れる」と分析する方が正しいようだ。忠誠を誓う人がどのような人であれ、自分にとって利益にならない行動をとるという局面で忠誠心が如実に表れるからである。忠誠心はそういう意味では「コストベネフィット」で論ずると割に合わないが、決して「非理性的」な感情とまでは言い切れない。理性的にそれを選ぶ人もいれば、盲目的に受け入れる人もいる。忠誠の対象が致命的な失敗をしたら、「主君を乗り換える」ことも行われているし、より大きな目的のために忠誠の対象を移す人もいる。感情ではない「忠誠心」に専門職が挙げられる。弁護士のクライアントへの忠誠心は感情というよりも熟慮の上で行動として表現されるものだ。このように、忠誠心が「実践的な態度」なのか「感情」なのかは極めて激しい論争になる。しかし、属する組織の存亡が関わった時には、人々は選択の余地はなく組織に忠誠を誓うし、感情でもあり行動としても現れる。この「サバイバルメカニズム」と呼ばれる局面は、忠誠心の研究をより深めるのに寄与したのだ。

英語で「忠誠心」を複数形にすると、なぜか「愛着」という意味になるようだ。哲学者はその言語学に注目している。自然発生的で居心地のいい空間に人々は「愛着」をもつ。家族、友人、組織、専門職、国家、宗教などだ。忠誠心は、その組織の存続を目的として、規範的に「価値がある」とされるものだが、愛着は、「私の」家族、「私の」友人、「私の」組織、という具合に「私たち」で区別され、「あなたのものではない」「もちろんあなたのものも私のものでない」というものになる。さて、複数形の「忠誠心」である「愛着」がこのようなものであるが、忠誠心も「我々」という区別をしている。それに属するものの恥や誇りは「我々のもの」であり、「我々」がその対象のために危険をおかし、苦痛に耐えるという現象がみられるのだ。

さらに、愛着というのは「社会的に評価される」グループに感じるものであるかもしれないけれど、忠誠心は人が作った概念であり、理論的には「我々が本能的に重要だと感じる」ものであれば、社会的な評価など関係なくなる。ギャングだろうが犯罪者集団だろうが、フットボールチームだろうが、コーヒーチェーンだろうが仕事にとどまらず人々は忠誠心を持つことがあるのだ。

では、忠誠を尽くす対象の「価値」と忠誠心の「価値」はどのような関係にあるだろうか。忠誠を尽くした結果、「何か良いもの」を生み出さなければならないという人もいるし、どのような行動をしたのかで良し悪しを決めようという人もいる。また、忠誠心そのものが美徳であり、それにもとづくふるまいは不朽であるとする人もいる。ナチスに忠誠を尽くした人は美徳を行っている。しかし、多くの害悪をもたらしている。では、ユダヤ人から賄賂を受け取って逃がした人は、美徳を裏切っているという意味で非常に正当化するのが困難である。「シンドラーのリスト」というのは、美徳を裏切っているという意味でナチスへの忠誠心はなかった。このような哲学的問いかけを行ったのだ。

忠誠心は排他的であるかという問題がある。たとえば、AさんとBさんに、共通の友人であるCさんがいるとしよう。Bさんは、Cさんの車が故障した時には彼のために車を出してやり、Cさんの結婚式のためには長時間のフライトにも耐えて駆け付けるとする。AさんとBさんは、Cさんへの「忠誠心」という意味では競争しなければならなくなる。そういう「排他性」が認められるのは事実であろう。しかし、親が子供へ忠誠を尽くす場合は、他の子供に冷淡にしなければならないというわけではない。そういう場面では「排他性」はないことになる。トルストイも「忠誠心に排他性はない」ということを文学作品で論じていたそうだ。

どんなイデオロギーをもった人も「わが子への愛」は広く社会に認知される感情であろう。偏向思想をもった人が時折見せる「家族愛」などに我々は救いを見出すことがある。「私の」子供というような「私」の存在こそがより人間らしく、特定の組織への忠誠心から特権を見出す人にとっての救いでもある。人によっては「偏向思想」で家族まで包んでしまおうという人もいるだろうし、その点が指摘されているのは事実である。しかし、そのような場合は「忠誠心」と「普遍性」は激しい衝突を起こすのだ。忠誠心は「普遍性からの挑戦」を受けることになる。しかし、社会には「偏向思想が必要である」という発想もある。そうでなければ社会は「経験を知らない」共同体となってしまうのだ。偏向思想をもった集団が、普遍的共同体にとっての「善」を志向したらどうなるだろうか。この場合は、忠誠心と普遍性の衝突は解消されることになる。どんな考えをもっていても普遍的共同体の善を志向すれば問題はないと考える哲学者もいる。このような発想は「結果主義」とも言われる。

マーク・トウェインは「権威にしたがわないこと」を魅力的なものとして描いた作家だが、たとえば、「誰にも縛られたくないと逃げ込んだこの夜に自由になれた気がした15の夜」などという発想が、どれほど哲学的にもろいものなのかはすでに研究されつくされているのだ。このような発想は「思考停止」と「良い判断ができない」というリスクがあるのだ。美徳にしたがうというものが「良い判断につながる」ということが明らかになっていることから、権威に反抗することが好ましくないのは明らかなのだ。しかし、「価値のないものには従わない」という意識を芽生えさせたという意味で尾崎豊の歌にも一定の意義は認められている。反抗することによって「より良い美徳にしたがう」道を探求することは若い時期に経験しておくことはいいことかもしれない。若い時期に「忍耐力のなさ」から権威に反抗するよりも、東京大学の価値を率直に認識したほうがより良い人生になるのだ。そういう意味で、権威への反抗は「正しい判断」ではないと言える。美徳というのは複雑な「言葉の器」だ。誠実さや熟慮、勇気のようなものも含む言葉である。しかし「忠誠心」というのは、あくまでも「実践」をともなう美徳であり、「意思の美徳」でもある。我々の任務を遂行するうえで必然的にともなうものだ。任務を遂行するうえでの妨害を排除するうえでどうしても必要な美徳なのだ。かつては自分にとっては価値があったものなのに、今はその正当性を失ってしまった、というような場面でも「かつて価値があったもの」に忠実であるために必要なものなのだ。「忠誠心」というのは、より良い人生を送るために必要な「実践的」な美徳であるが、これは「道徳」を根拠にしているのだろうかという議論がある。美徳の中でも、「親切さ」は道徳を含む美徳だし、「創造性」は知的な美徳であるし、「勇気」は人物としてのあり方が問われる美徳だ。また「信頼」は社会が求める美徳である。いろいろな美徳がそれぞれの機能を果たし、場合によっては「敵を殲滅させる」ために有効に機能することがある。しかし、「忠誠心」が、道徳を含むものなのかは明らかではなく、場合によっては道徳に反することもあるかもしれない。しかし、「より良い人生」をともなうものであることは明らかなのだ。

基本的に「忠誠心」は、自分の家族や国、宗教など、自分の周囲にあるものに抱くことで「自分の居場所を確立する」「確固たるものにする」という効果がある。それが「忠誠心の正当化」の議論の出発点なのだ。

【つづく】
「忠誠心」スタンフォード哲学百科事典


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