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2011年9月27日 (火)

フェミニズムの見地から見る障害児

このテーマは継続的に行いたいので途中経過を随時加筆していくことにしたい。
参考にしたのは以下の英文である。「フェミニズムの見地からの障害児」スタンフォード哲学百科事典

伝統的な哲学は、障害というものを克服すべきものであるという問題意識は持っていたが、障害者を「社会と契約できない者」と扱った。しかし、20世紀後半にアメリカで研究が進み、多くの学位が取得された。障害と直面した母親が実体験としてこのテーマを論じたりもしたのだ。フェミニストの地平を非常に豊かにしたのが障害児だった。倫理や正義、形而上学に至るまでそれは及んだ。以下ではそのあらすじを述べたい。障害の研究は「過去の芸術作品や文学作品がどのように描いていたか」という研究からまず手が付けられた。これらの研究が、「いまだ理論化されていない」「無視された障害」の存在を浮き上がらせている。障害に関しては、ロールズも障害者の正義を論じたが、その議論の明確な失敗が指摘された。哲学的アプローチへの疑問すら寄せられたが、女性の経験を探求するフェミニズムが障害というものへのアプローチに非常に有効であることが分かったのだ。しかし、フェミニズムと障害の探求はときに「障害など女性にとって有害でしかない」という見地から、フェミニズムに嫌われるテーマでもあったのだ。いずれにせよ、障害児の存在はその子供を育てる母親がまず最初に直面する問題であることから、このテーマは避けては通れないものとなった。
伝統的な哲学は、「女性の経験・人生」というものに無関心であった。自らが論ずる哲学には当然、女性も含まれるだろうと考えてはいたが、女性特有の生に関して十分な分析を行ったわけではなかったのだ。しかし、たとえば、障害児を抱えた母親の研究というのは、まさにフェミニズムにとっても非常に重要な位置を占める研究となった。問題が如実に表れる現実こそが哲学を深めることが明らかになったのだ。障害児とフェミニズムの研究が哲学のすそ野を一気に開拓した。女性らしいふるまいやあり方をはじめとして、心と体の関係といったスポーツの世界にまで波及する研究も進んだし、個人と社会の関係や、人生にとって大事なものなどが障害者と向き合うことによって明らかになったのだ。このことが、欧米で障害者という存在への認識を変え、日本が「周回遅れ」となっている現状を示すことになった。また、女性は男性に比べて肉体的に劣るのかという見地から、1980年に「女性らしいボールの投げ方」という論文がアイリス・ヤングによって発表され、「女性らしさ」の探求が進んだ。日本ではまさに松田聖子が独自にその方面を探求していた時期である。

男性の方が女性よりも肉体的・精神的に強いであろうという雰囲気の中で、障害者の世話はもっぱら女性の役割とされているという現状が、すべてのこれらの問題群の出発点だったのだ。障害者の存在が女性を不利にするという現実は、世の中の問題をより顕著に表現するものに他ならなかった。
また、障害者が、生物学的に不利な状況にあるのは紛れもない事実であるものの、それがどこまで「社会の実践」に由来するのかも探求されたのだ。

フェミニズムの見地からは、従来の哲学がどれだけ女性の生を説明ができるのかという限界に直面し、肉体的に劣ったものと考えられたとするのなら、男性の障害者はどうなのかというアプローチがなされたのは事実のようだ。そういう意味でフェミニズムはかなり厳しい手段を障害者に対してとったことになる。また、一方で、女性は、物事の学習の仕方や考え方が男性とは異なるのではないかという研究もなされた。状況説明や、文脈のつくり方、真実のニュアンスがどのように男性と異なるのかが探求された。

ある哲学者は、生まれながらに盲目の人が「赤」という概念を認識できるかを議論した。おそらく目が見える人とは異なる仕組みで「言語によって」理解しているのだろうと解するほかはないが、あらゆる国で、盲目の人が「口伝」などで、文章に類まれなる記憶力を示していることが語り継がれている。言葉のコミュニケーションでは能力は卓越しているのだ。ベルギーの警察当局は、盲目の人を雇っているとされる。盲目の人に録音した音声を聞かせると、どのような場所で録音したかを識別でき、また、言語も、アルバニア訛りかモロッコの訛りかなどを判別できるとされ、これは目が見えるベルギー人にはない能力だと言われている。盲目の人は健常者とは異なるものの認識の仕方をしているのだ。
障害者を認識論的には「劣ったもの」と感じるのは当然である。しかし、ダウン症の患者が記憶力や知覚力で優れた能力を見せることもあるし、ウィリアムズ症候群の患者は、通常の人間よりも、社会的・感情的スキルで優れた能力を見せることがある。音楽家の才能が優れていたりするのだ。しかし、通常の理性のある人間から見たら「鈍さ」だけを認識してしまうのだ。哲学者は、彼らが謳歌している知的な体系を理解できない障害者を「劣っている」として、その実態を分析しようとはしなかったのだ。知的な体系こそが優れていて、障害をもっている人がどのように世界を認識し、どのようにより良い人生を生きることができるかを探求することを怠ってきたのだ。
障害者は「障害者というグループ」に分類され、知的な基盤を持たない集団として、彼らは共通の経験を持つとされた。これにフェミニストが目を付けたのだ。女性も社会的に「知性」から排除された共通の経験を持つ「グループ」に入れられており、社会が与えている構造は同じであると考え、その方面からフェミニズムの探求を進めようとしたのだ。
20世紀の初めごろまでは、生物学的な制約がその人の能力を決めると考えられており、そのために、サバイバル能力では女性は男性に劣るとされていた。
生物学的なアプローチにうんざりした哲学者は、社会がどのように女性を扱うべきかという観点からのアプローチを始めたのだ。今の女性雑誌が「いろんな女性のライフスタイル」を提示するようになるのはこの研究がベースになっている。20世紀に入ってからの話なのだ。生物学的な違いに社会がどのような位置づけを与えるのか、どのようなライフスタイルを提示するのかという面で、障害者の存在は明らかに、女性の生き方の研究に貢献している。生物学的に劣ると考えられた男性障害者の存在がそのカギを握ったのだ。
プロ野球の始球式で女性アイドルが起用されることがある。女性特有の「ボールの投げ方」があるとされ、それがプロフェッショナルの修羅場での「癒し」になると考えられているようだ。これが「女性らしさ」の研究の原点なのだ。女性が肉体的に「できない」ことがあるというのが出発点であり、これは障害者にも言えることだ。この「できない」ことの研究が「女性らしさ」の研究であり、障害者の研究からもたらされた視点だと言っていい。

この「できない」という特徴を持つのは個人に着目するのではなく「グループ」に着目するのだ。障害者も「できない」という特徴を持つグループだが、女性がもつ特徴とどのように異なるのだろうか。障害者の「できない」という特徴は魅力でも何でもない。その探求から入るのがまさに、フェミニズムと障害者の研究の核心である。
人間というのは、若い時期に「できない」ことが「できる」ようになる。また、年老いたらその逆に物事が「できない」ようになる。それを含めたら世界で6億人もの人が「できない」という特徴をもっていることになる。この事実を、「できない」ことが女性のアイデンティティーだとするフェミニストの論客は説明しなければならない。
ある人は、「そのグループ」には期待されている水準があり、それに能力が追い付かないと嫌悪されるのではないかと考えた。つまり、女性には期待されていないことも、男性には期待される。その期待に応えないという点で、男性の障害者と「女性の魅力」は異なるのだろうと考えたのだ。

女性のアイデンティティーが「できない」ことにあるという議論には批判が浴びせられた。たとえば、女性が「母親であること」は決してこのようなアイデンティティーには立脚していないとする。しかし、芸術作品で「若い女性」が描かれることが多かったのはどう評価すればいいのだろうか。これも、女性の「アイデンティティー」を論ずる上では決して目を背けることのできないテーマだった。
この「芸術作品で描かれる若い女性」に関しては、その娘に「限界がある」ことを踏まえたうえで、一定の社会的分類なり役割が与えられているのだろうという説明がある。
しかし、女性のアイデンティティーを論ずる上では、障害を持った子供が生まれた時のことを考える人もいる。脳に障害を持った子供が生まれたことを知った親は、その子供がどのような能力を持ち合わせていないのかに不安になり、将来を描くことができなくなる。先進国ではありえない議論だが、発展途上国では「女児が生まれる」ということはこれに類似しているとすらシビアに議論されているのだ。
発展途上国では随分ひどい発想がとられているが、「発展途上国は先進国の鏡」ともいわれ、先進国では埋もれている問題を露骨に表現しているのではないかとされた。


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