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2011年8月 5日 (金)

心理学主義~スタンフォード哲学百科事典

日本の教育は、言語学に「英語」を選択しているが、そもそも「文法」というもの自体が「心理学」の知識を借りている。"will"は予定や推測、意思を表し、"can"は可能を表し、"must"は絶対の確信や義務を表す。これは心理学の知識を借りないと分析できない。言語学と心理学はどう関わっているのだろうか。これが巨大な哲学ビジネスになっている。
ジョン・スチュアート・ミルは、言語も心理も「経験」から形成されるとしている。彼は言語学を「真理を探究するうえでの人類の共通了解を扱う科学」であるとしている。世界には「物」があり「内容」があり、「行動」がある。これらを言葉で説明することは可能だが、人間の心理を言葉で説明するのは「思考の過程」を一定程度説明できるに過ぎないとしたのだ。
粗削りな議論だが、ミルの議論は、その後の「哲学産業」を非常に豊かなものにしたのだ。心理学の核心は「その人がどういう判断をするのか」ということにあるが、その背景には「どういう概念をもっている人なのか」「どういう予測を立てられる人なのか」という分析も必要なのだ。ここに言語学も絡んでくる。政治家は政局を読む上で個別のファクターのこの部分をどこまで読み切れるかを「政局カン」と呼んでいる。
今では「言語学こそが心理学である」と主張する論者はおらず、言語学は一定限度で心理学に準ずるものであるというのが通説なのだ。
「フレッジの心理学主義への反論」
フレッジは、ミルの主張に数学の証明があらゆる言語による証明に勝るという議論が含まれていたことを徹底攻撃した。数学で一定の数字を証明したからと言って、言語学的に、あるいは世界を物質的に証明することになるのだろうか、としたのだ。数字が現実社会とどう関係するのかとも主張した。現代で言えば、パソコン(計算機)がどれだけ計算機能が優れていても、それだけでは何も証明しない。ユーザーの能力で何かを証明しなければならないだろう。そのような観点から、フレッジは「数学と言語学」の関係を疑わしいものとして批判したのだ。さらに、フレッジの批判は法律に向けられた。正しいと考えられるものが法律だとすれば、我々は法律のように考えなければならないのだろうか。小さなアパートと賃貸契約を結んだからと言って、自分がそのような契約を結んだということに、我々の心理は何ら制約されない。法律上説明されることから我々の心理を拘束することはできないという趣旨のことをフレッジは言っている。
「フッサールの心理学主義への批判」
フッサールは、言語学を、現実的規範的実践であるとし、その理論的基礎は少なくとも心理学ではないとし、その言語学の理論的基礎はどこにあるのかを論じた。
以下では、なぜ、言語学の理論的基礎は心理学ではないのかを記述したい。
フッサールは、言語学は「現実的規範的実践」であるとし、それは、あらゆる科学が科学に関する理論を探求したのと同じだとする。問題群にどのように科学者はアプローチするのか。どのような条件で方法論はうまく機能するのか。それぞれの科学に内在する概念の構造とはどんなものか。それらがどのように関連するのか。そして、科学者はどうやって「間違い」を避けるのか。このような「科学の方法論」の探求から「言語学と心理学」の関係も探求したのだ。
フッサールは、言語学は非常に確かであり明確さをもっているのに対して、心理学はあいまいさをもっていることに着目する。そのため、言語学の法則は、心理学の法則にはのっとっておらず、あくまでも、人々の「経験」が言語学の基盤にあるのだろうとした。また、言語学の法則を探求するうえで、研究者が心理学の法則を参照している事実はないとし、言語学の基盤は心理学ではないという論証を行っている。また、数学では真理は永遠のものであるのに対して、心理学での真理は永遠ではないという点にも着目している。この議論をするうえで、フッサールはスペンサーの議論を参照している。
スペンサーは「明るい雰囲気というのは暗い雰囲気を前提にしているし、暗い雰囲気も明るい雰囲気を前提にしている」としている。言語学的には「明るい」「暗い」は対義語とされているが、これを言語学が心理学を基盤にしているというのはトートロジーでもある。しかし、フッサールはスペンサーを批判してはいないようだ。スペンサーの「矛盾でない原則」というこの「明るい」「暗い」の議論はそれなりに評価していたようだ。
フッサールは「三段論法」にも着目している。言語学上の三段論法は非常に明快だ。しかし、心理学的にはどうであろうか。人間が心で描く三段論法は、ときに明確であり、ときに曖昧であることが分かる。いろんな観点から「言語学と心理学」の研究は可能なのだ。
フッサールは結局、心理学とは、個々の人の相対論であり、人類学であるとすべきとした。「真実とは相対的である」という主張も相対的であり、ばかげた部分があるが、その人にとって真実であるものが他の人にとって真実でない、あるいは他の人には別の真実がある、という意味で、誰も世界を正しく定義できないという事実を心理学は念頭に置くべきであるとし、それが心理学の宿命であるとした。フッサールの哲学者としての地位は、心理学というものを追求したことで確固たるものとなった。
フッサールは、結局、言語学というのは一定の法則をもつことで、人々の心理に影響を与えるにとどまるとした。また、各自が確信したものは他の人にとっては真実ではないかもしれないけれども、各自の確信は真実にすら勝ると結論付けている。
以下、フッサールの議論に対する批判を論じたいと思う。
「フッサールへの批判」
フッサールは、言語学には「~すべきである」という命令法があると論じていた。しかし、新カント派の論者が、結局「~すべきである」というのは価値を根拠にしているのではないかと論じたのだ。
馬をうまく乗りこなすには、しっかりとまたがりうまく馬を制御すべきである。
・しっかりと馬にまたがり制御すれば馬をうまく乗りこなせるだろう。
戦士は勇敢であるべきである。
・勇敢であることは戦士の美徳である。
のように、「~すべきである」というのは、結局「価値」を根拠にしており、それに反論するのも自由であることが分かる。これはサイエンスとしての言語学に、非常にいい視点を持ち込んだのだ。
フッサールは「~すべきである」という言語学上の発想に「他者の反論を許さない論理」を見出していたのだが、それが新カント派の批判を浴びたと考えていい。言語学上の法則には、やはり心理学的な背景があり、その基盤には、我々の実験や人生を通した、あるいは日々の経験や、意識の現象などがあるのではないかとされた。つまり、数学のように明確な法則を言語学は持っていないことになる。
新カント派の論者は、言語学は何らかの抽象性を基盤にしているとしたのだ。我々の心が経験したことも人それぞれバラエティをもった抽象性をもっており、その人がどのような判断をしたのかという判断の基盤はなんだったのかを議論していくべきだとした。そうすれば、おのずと言語学の基盤は心理学でありそれが抽象性をもっているから人それぞれ多様であることが分かるとした。
フッサールは「三段論法の明確さ」に注目し、新カント派に反論した。三段論法が人々の心理を基盤にしているのならば、人々は判断を間違えるはずがない、とし、つまり、三段論法は心理学を基盤にしてはいないとする。言語学と心理学の関係に関する議論はフッサールを中心に展開されたのだ。

【つづく】
「心理学主義」スタンフォード哲学百科事典

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