美の概念
「美の概念の要約」
とにかく、人間が「美しい」と感じるのは「直接的」である。他人に薦められてとかいうものではない。しかし、「その道」の探求をした者しかわからない「美しさ」もあり、とにかく「興味がある」という点も重要だ。「美しいもの」「美しいふるまい」「美しい判断」「美しい経験」この4つについてまとめた論稿がこれである。女性の美しさから始まって、三島由紀夫の自殺の美しさまで、幅広い議論の基礎にある研究だと言っていい。
序文:人々が「美」の概念と「特別なもの」の概念を明確に区別したのは18世紀末だとされる。「美しいもの」をどのように評論するのか、どのように賛否が分かれるのか。あるいは「美しいふるまい」と「合理的なふるまい」はどう異なるのか。「美しい経験」とは、何かの型にはまったことを意味するのか、それともある現象に直面したことを意味するのか。「特別なもの」と「美しいもの」を区別する議論のたたき台になったのは西洋の絵画であった。しかし、いろんな方面に発展した哲学的議論である。美術鑑賞を自分の様々な美意識まで発展させるのにふさわしい研究です。英語のできる方の協力を求めています。「合理性」と「美しさ」の比較、「エゴイズム」と「美徳」との比較、こういったものが「美術鑑賞」の研究と深くかかわっています。「合理主義」は「美しさに説明を求める」という特徴がある。これはデカルトが数学こそがあらゆる言語よりも説得力がある、とした考えに由来するもので、18世紀には完全に人々はこの考えに支配されたと言っていい。しかし、これはヨーロッパ大陸系の考えであり、イギリスでは次第に批判が出るようになった。「美」とは「味わうもの」であり、原理や概念を超えているのではないか、とされたのだ。つまり、イギリスで「美しさとは直接感じるものである」という発想が生まれたのだ。イギリスでは、良いものは直接判断できるだろうという主張があり、たとえば、コックが、肉や野菜をごたまぜにしたシチュー(ラグー)を、独自のレシピで作っても、それをおいしいというかマズイというかは我々にまかせられているだろう、とされた。ずいぶんイギリスでは大雑把な議論がなされたが、大陸の方ではカントがこれを引き継いだ。詩人が作った詩に誰も共感しなくて、批判が浴びせられたら、詩人は布団を頭からかぶって黙っているしかない。どんな芸術も人々がどう感じるかに委ねられているという意味で、イギリス側の「美の直接性」という説明に同意する、としたのだ。カントは、そのような場合、その詩人の寄って立つ立場より優れたものが存在するというものを認めるか、批判こそが間違いであるとして、より良いものを作るしかないとした。しかし、このような「美の直接性」という議論に対して、さらに「合理主義」の側からの批判がなされた。ラグーに比べて、詩や絵画は複雑性をもっているとし、先人の業績や法則性に満ちた世界であり、その評価もすぐには分からないことが多い、としたのだ。「美は直接味わうものなのか」という論点は、デカルトの合理主義に、イギリスが提示したものであり、それにカントが同調し、さまざまな論者を呼び込んだのだ。「美の直接性」という議論は結局、ヒュームが結論をつけたと言ってよい。芸術作品の評価は、その手法が確立していなければならず、その対象をいかに適切に評価するかは、理論の発展を待つほかはないだろう。他の作品との比較や、多くの先人の業績の蓄積、その複雑さの解明が必要だ。もちろん、大自然の美しさの表現にまで合理性を求めることはできないが、「ファインアート」の世界では、やはり合理性が必要であり、また、その一環として我々の感性が用いられるのである、としたのだ。
注)女性の「美しさ」も、自然に由来するものならば「直接感じる」ものであろうが、「ファッション」「化粧」などの「ファインアート」ならば「合理的な説明が可能」ということだろうか。しかし、美容整形も「ファインアート」だと言える。どこまでを「自然」とみなし、どこまでを「ファインアート」とみなすかは性別や・その人によってさまざまであり、俺は「ファインアート」すら「自然」に分類しているので女性に付け込まれることが明らかになった。
「美の概念」には、エゴイズムと美徳という観点からのアプローチがある。たとえば、人々のエゴイズムは周囲に不利益をもたらすが、美徳は人々に安心をもたらす。そういう美徳にしたがった表現に人々は喜びを感じるのではないか、という説が唱えられた。美徳の中に喜びを見出すのが「美」であるとするのなら、それは「自分の利益だけを考えたものではない、私心のなさ」が「美」の根拠にあることになる。エゴイズムと美徳の観点の導入は「私心のなさ」こそが人々を喜ばせるという観点を生み出したのだ。芸術における「私心のなさ、公平中立」という観点も18世紀に一大論争を引き起こしている。「私心のなさ」というのは感じるものなのかもしれないし、技術の探求の中に見出せるものなのかもしれない。しかし、「私心のなさ」というのはモラルの問題でもあり、モラルと美がどのように関わるのかが問題になってしまう。モラルと美の関係が「美の根拠は私心のなさにある」という仮説におけるテーマとなった。人々が「美を堪能したい」「喜びを感じたい」というのは自分の利益を求めているし、アーティストが創作活動というアクションを起こすのも「表現したい」という自分の利益を求めている。しかし、作品から喜びを見出し、美を見出すことの根拠は「私心のなさ」にあるという仮説は、人々のふるまいや判断をその方向にもっていく効果があるとされる。人々は芸術作品を見て「美しいふるまい」「美しい判断」がしたいと願うのであり、そこにはやはり「私心のなさ」があるのではないかとカントは主張したのだ。カントが「美の概念」の先陣を切る形で「私心のなさ」という仮説を打ち立てたが、この主張は「概念として狭すぎるのではないか」と批判された。美には「判断」「感情」「質」などが含まれており、感じたり、言葉で表現したり、自分の内面や外部のいろいろなものから感じるものであり、ときに人々に「希望」すら与えるものであることが明らかになり、「私心のなさ」だけで果たして説明可能なのかが議論された。しかし、今日にいたるまでこの仮説は根強く残る強さをもっていたのだ。
注)美容整形のCMで「世界平和」という言葉が流れるが、美は「私心」がないのであろうか・・・。
これからは翻訳という形ではなく、理解したものを大雑把に書こうと思いますが、総論で提示した「美しさとは直接感じるもの」「私心がない」という二つの観点を我々は「極端までに推し進めたらどうなるだろう」という実験をすでに終えているということが大事だ。フォーマリズムがこれを終えている。我々は、科学の進歩などの時代背景の異なる時代に描かれた作品を見ているのだから、その時代背景も考慮するのか、あるいはその必要はないとするのかという視点もある。フォーマリズムは「過去の作品のデータの蓄積は必要ない」とまで言い切ってこの「二つの視点」を究極まで追求するという実験を行い、人類に経験をもたらしてその役割を終えている。美術館に行ったら「係員にことばで説明してもらう」のが正解なのか、見ればわかるというフォーマリズムに立つのかの違いがあった。20世紀の中ごろまでにはこの実験は終了したと考えられている。それから芸術の世界は新時代に入ったのだ。
ケンドール・ウォルトンが「カテゴリー・オブ・アート」という有名な著書で、フォーマリズムを批判した。彼は、ピカソのゲルニカをどう評価するつもりか、と論じたのだ。「暴力的で、ダイナミックで、躍動感があり、破壊的だ」というのと、ただ「ゲルニカである」というほど意味が違うではないかという点を指摘したのだ。ただ「ゲルニカである」というのではそこいらの壁紙と何も変わらないとした。フォーマリズムの時代に生きながら、ピカソは時代に全く異なるものを発信していたのではないか、とウォルトンは論じだのだ。ウォルトンは「美しいものを美しいと感じるという意味ではフォーマリズムは正しいが、共通了解をもたなければ意味がない」としたのだ。
アレン・カールソンは「美術を鑑賞する際には、美術ソサエティの共通了解を知るべきである」とした。クジラを見て、なぜアメリカ人はあれほど愛着を持つのかというと、ナチュラルサイエンスの知識があるからであり、そうでなければ魚と哺乳類の区別はしないだろうとした。
アイゼンバーグは言った。たしかに、芸術作品がどのような基盤に立脚し、どのような要素に分解できるかを評論するかは可能であるが、しかし、もしそれらに完全な法則があるとするなら、私の仕事はもっと簡単になるのだが、現実の「美」はそんなに単純なものではない、と。
しかし、芸術家にも「ランキング」があるだろう。これを評論家はどのように判断しているのだろうか。アイゼンバーグは「一定の方向性を示している」とするにとどめている。細部を分析し、パーツの構成を考え、対象のパターンをグループ分けするなどしているとしているのだ。
美の評論と価値の評価の手法を詳細に展開したのは21世紀に入ってからフランク・シブレーが著書で明らかにしてからである。かなり詳細な著書があるようだ。
「美の概念」スタンフォード哲学百科事典。
Approach to Aesthetics: Collected Papers on Philosophical Aesthetics 著者:Frank Sibley |
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