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Foreign Affairs

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2011年7月25日 (月)

アグリッパの生涯~オカルトの哲学の研究者

2ちゃんねるのオカルト板にお世話になった以上、一度は大型プロジェクトを動かそうと思う。
「ハインリッヒ・コーネリアス・アグリッパ・フォン・ネッテスハイム」という長い名前の人物がいる。スタンフォード大学もこの人物だけは無視できなかったようで、膨大な研究を行った。この人は「オカルトネタでいかに女性にモテるか」を研究した人だと言っていい。今後、この人の研究を行いたい。
「スタンフォード哲学百科事典」
ネッテスハイムは二つの側面の研究を行った。マジックやオカルト芸術の研究と、あらゆる分野の真面目な学問の研究である。彼は、宗教の偽善や、腐敗などを批判し、一方でアリストテレスの流れをくむ自然科学に対抗する潮流を生み出している。世界と、世界の魂を、マジックの秘儀と錬金術の研究で動かそうとしたのだから、オカルト板の根本哲学を作り出した16世紀の人物と言っても過言ではない。宗教やモラルの偽善を批判する彼の研究は、同時代の人々に衝撃を与え、彼の「まじめな学問の本」と「オカルト本」は、なぜ同じ人物がこのようなまったく異なる本を書いたのだろうかと人々を不思議がらせた。彼は「古代エジプト」「ペルシャ人のゾロアスター教」「ユダヤ人のカバラ」などを研究し、ルネッサンス時代に確立した「知」の潮流に「古代の叡智」で挑戦したと言える。その中に「マジック」や「スピリチュアル」が含まれていたわけである。今後は彼の名前の表記は「アグリッパ」で統一しようと思う。
彼の生い立ちは同時代の人が彼の文献を大事にしていたことから、生まれた日から家庭環境まで明らかになっている。彼はケルン大学で文学修士をとっており、おそらくこの時に研究したアルベルトゥス・マグヌスが、彼をオカルトの世界に導いたのだろうとされている。あくまでも学問が背景にあった。彼が文学修士以降取得した学位は明らかではないが、彼はのちに「医学博士・法学博士」を自称している。公式レコードではこのような記録は残っていないが、彼が「熱心に法律を勉強していた」という証言が残っている。しかし、彼の文献からはあまり医学の知識は感じられないとされている。しかし、当時は、数か月の講義だけで医者になれるという仕組みがある町があり、彼は実際にヨーロッパの各地で内科医をしていたようだ。それを彼は「医学博士・法学博士」と呼んでいたとされる。
アグリッパのイタリアでの学業生活の記録だけはあまり明らかではなく、また、スペインへの軍事遠征にも参加したようだ。彼の手紙にはフランス人の著名な人物の名前がたびたび登場する。彼がドール大学で講義した記録が残っており、ヘブライ語の聖書の講義を行い、キリストはメシアであり「ジーザス」という言葉そのものに力がある、としたことから、保守的なキリスト教徒の反感を買い、ユダヤの犬と呼ばれてドール大学を去っている。彼は再びケルンに戻ったのだ。彼は、ザルツブルグでスポンハイムのトリテミウスにオカルトの秘儀を教わっており、のちのアグリッパの著書にも多く引用されている。また、マクシミリアン一世に仕え、イングランドとの外交交渉にもあたった。この時に、ロンドンのセントポールでの講義も受けたようだ。のちに、彼はイタリアへ行っている。「イタリアと反教皇派のピサ委員会との戦闘に参加した」と語っているが、おそらくマクシミリアン一世が彼を参加させたものと考えられている。アグリッパは7年間のイタリア滞在で、多くのオカルト研究者との交流を深め、新プラトン主義・神秘主義・カバラ主義などの知識を多く受けている。このイタリアでの研究は彼に多大な影響を与えている。しかし、イタリアの裁判所の判事になるための試験には不合格になったようだ。このイタリアでの経験を経て、彼はふたたび北ヨーロッパに帰って行った。まさに、神聖ローマ帝国がイタリア人文主義の影響を得て、宗教改革の荒波にもまれようとしている時期であった。
アグリッパは次の6年間を、神聖ローマ帝国の西部のフランス語圏で過ごしている。メッツ・ジェネヴァ・フライブルクである。いずれの地域でも、弁護士や内科医として過ごしながら、彼の関心事である人道主義やオカルトに興味のある仲間を集めている。これらの地域でルターやエラスムスや他の前衛主義的な人々の著作に触れている。歴史家は、アグリッパは宗教改革に最も影響を受けたのはジェネヴァであろうとしている。彼の仲間が宗教改革に好意的だったのだ。しかし、決して急進的ではなかった。ジェネヴァで彼はイタリア人である最初の妻を病気で亡くし、二人目の妻をその地域でもらっている。メッツで彼は、ルター派による魔女狩りに直面している。彼はその女を救うために裁判官とルター派の癒着を追求して見事成功している。しかし、彼はその女を救うことでちょっとばかりの金儲けをしたかっただけだとも言われている。いずれにしても、彼が宗教改革のさなかでそのような出来事があったのだ。さらに、彼は、レフェブルという論客が書いた著書で「聖母マリアは聖書にのっとっていない」という論争に関与した。その知らせはすぐにメッツに届いた。レフェブルは、聖母マリアの母親の聖アンヌが、一夫多妻制の妻であったという主張を行ったため、パリの神学者たちに糾弾されたのだ。彼はこの対立でレフェブルを擁護する論陣を仲間とともに張ったが、本は出版されなかったようである。いずれにせよ、この時に生じた宗教論争の怒りがおさまらずに、彼はすぐにメッツを去り、ケルンに戻っている。宗教改革のさなかに彼は二つの大きな経験をしたと位置づけられている。
彼は、職業の面では、法律家から内科医に転じ、開業する資格も得ている。よほど腕がよかったのか、ジェネヴァとフライブルクでは市の病院の院長にまでなっている。しかし、フライブルクは、ジェネヴァやメッツよりも宗教的に保守的であり、ルターの本を所持することを禁じてしまった。彼はフライブルクを去っている。しかし、金銭的には豊かになったため、より良い仕事場を求めて引っ越したとも言われている、
アグリッパはフランス王室の医者になることに成功している。国王の母親であるサヴォイのルイーズの主治医になった。イタリアとの交戦中であったため、首都とされていたリヨンに移った。国王がイタリアでの戦争でパヴィアの地で敗れ、スペインに連行されたことから、リヨンの地ではアグリッパはフランス統治の中枢に仕えていたことになる。彼は、国王に影響力のあった妹をパトロンにしようともくろんだ。妹のナヴァレのマルガリーテは詩人であり、宗教改革にも親和的だったからだ。結婚式のためにラテン語とフランス語で結婚をたたえる文章を書いたが、パトロンにするのには失敗している。フランス王室における彼は、最初は希望に満ちていたが、次第に金銭面に窮することになる。国王がスペインへ連行されたために王室の財政が悪化したのだ。1526年の夏に彼は金銭的な窮地を脱するために「手品芸」に関する本を出した。それをみた、国王の母は占星術に心酔していたため、彼に「占星術の予言をするように」と命令したが、彼はこれを拒否している。10月にアグリッパは自分の名前が、俸給支払リストにないことを知り、やむなくフランスを去っている。アントワープへ移ったのだ。フランス王室のライバルであるハプスグルク家の庇護を求めたのだ。
ネーデルラントにおいては彼は二番目の妻をプラハ熱で失っているが、私生活で失ったものはあったが、ネーデルラントの統治者であるオーストリアのマーガレットの庇護を受けるのに成功している。彼はハプスブルク家の公文書保管係と歴史編纂係を担当した。そこで彼は1530年の神聖ローマ帝国によるネーデルラント支配に関する記録をまとめあげ、さらに、マーガレットのための弔辞も彼が用意したのだ。しかし、彼の力を強めたのは、イタリア時代に書き溜めた論文や演説集が出版されたからだ。アグリッパはどんな本でも執筆してよい立場におかれたために「オカルトの哲学」と「手品芸」を出版した。しかし、これが思わぬ論争に巻き込まれることになる。彼が統治機構に関わっている以上、「手品芸」という著作を出したのが失敗だった。托鉢僧がこのような芸を見せてお金を集めることにつながりかねず、そのような教会秩序から強烈な批判を浴びたし、ルター派異端とも位置付けられたのだ。マーガレットも対処に困り、神学の権威に見解を求めたが、「不敬は免れない」との回答を得て、議会からも批判を浴びた。アグリッパは王室の職を辞さるを得ず、著書も発売禁止にした。しかし、彼はただ屈服するだけではなく、「修道僧への戦争」を宣言したことが彼の王室での立場をますます悪くした。修道僧が手品芸を見せてお金を集めるつもりなのかという部分に根差した論争だった。この問題の現実的な解決法は、新たなパトロンを探すことだった。アグリッパはケルンの大司教選出委員のヘルマン・フォン・ウィードがオカルトに興味をもっていたことから「オカルトの哲学」を献呈し、庇護を得ることになった。ウィードは穏健な宗教改革支持者でもあった。しかし、借金の未返済などで投獄されたこともあり、その後も逮捕の危険にさらされたことから、彼はボンに移動している。アグリッパは、ヘルマン・フォン・ウィードの庇護のもとで1532年から1534年ごろまで快適に過ごしたようだ。また、ヘルマンの家族ともオカルトの研究を共有するなどした。ケルン市の委員会が「オカルトの哲学」の完成を妨害してきたが、もっぱら、神学の見地から人文主義的な研究を憎んでいた勢力による妨害であった。しかし、ヘルマン・フォン・ウィードがこれらの勢力を政治力で沈黙させ、アグリッパは1533年に「オカルトの哲学」を完成させて出版している。アグリッパは、修道僧との議論に果敢に応じ、「戦争」という言葉を用いたが、人々の対立に「戦争」という表現を持ち込んだのはエラスムスであり、当然、アグリッパもエラスムスの影響を受けて「修道僧への戦争」という表現を用いたのだ。このことから、エラスムスまでがアグリッパを批判する勢力のやり玉に挙げられてしまった。アグリッパは、エラスムスやレフェブルほど歴史に残る業績を残したとは言えないが、彼らと同じぐらい有名かつ悪名高い学者となっていた。彼の家の前に「墓から生き返って歩いてきた死体」が置いてあったこともある。実際は、死亡した浮浪者を誰かが置いて行ったようだ。また、愛犬を殺されるなどしたため、彼はとうとうドイツを捨てて、フランスへ移った。ここで彼は生涯を終えるのであるが、彼の業績が残ったのはパオラ・ザンベリがアグリッパを評価し、死後にも業績を残そうと主張したからであり、ローマの異端審問者ライブラリーにその資料のすべてが納められている。
これが、アグリッパの生涯であるが、彼の業績を具体的にスタンフォード大学は研究している。論文の三分の一を彼の生涯の描写で終え、残り三分の二で彼の業績の研究の地平について描写しているのだ。
【生涯編-完-】

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