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Foreign Affairs

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2011年7月18日 (月)

死後の世界~高齢者と死の意識

序文:
人間は年老いたら死ぬし、体は朽ち果てる。しかし、死んだ後も自分は不滅であるという考えは「死の否定」とは別の意味で広く共有されている。しかし、多くの人は「深く考えない」という対応をとっているとされ、中には「死を考える必要はない」とする人もいる。しかし、この重要なテーマに対して「考える必要はない」と言い切るわけにもいかず、この論稿はその「死」と向き合うものである。大きく分けて「自分は死んだ後も生き残れる」という発想と「何か別の世界に行ける」という発想をみんな取っているとされる。「生き残り」と「別の世界」という発想が死に向き合った人の共通の考えなのだ。「別の世界」という発想は、自分が死んだ後にも何か新たな体験があるのだろうと考えるものであるが、「生き残り」という発想は、自分が生きていたコミュニティーで記憶として残るという点を重視する。この「生き残り」という発想を考えたのはギリシャ哲学だ。実際に生きている人は、すでに亡くなった人を記憶として残しているのは実感している。だから当然、何らかの批判に耐えうる人生を歩んで自分も人々の記憶に残りたいと考える発想があって当然だ。これは宗教以前の説明になる。仏教では「輪廻転生」「涅槃」などという説明があるが、涅槃に関しては一体どういうものかという詳細に関しては仏教界の中枢は沈黙しているとされる。生きているうちに目撃した「他人の死」から学ぶ方法と、宗教の方面から研究する方法があることが分かる。宗教の方面からの説明は多様なものがあり、その人の信仰に委ねるとして、本稿ではより現実的に、「人々の記憶に残る」という発想への「二元論からの批判」「「唯物論からの批判」「臨死体験の研究が人々の死生観にどのような影響を与えるか」「形而上学的な”死”の探求」に関する記述で本稿を終える。政治家のおじいちゃんたちは「歴史に残る業績を残せばいつ死んでもいい」と考えるだろうし、庶民は「さんざん贅沢したらいつ死んでもいい」と考えるだろう。それぞれ「二元論」であり「唯物論」だ。
「二元論について」
まず、「死んでも人々の記憶に残るではないか(生き残り)」という視点が、人間の「死」とどう関わっているかが二元論の立場から批判された。二元論は「心と体」を二元的にとらえ、もし人が死んだら、物質的には体は消滅する。では、人々の心に残るものとはなんであろうか。少なくとも「魂」までは残らない。ほとんどの人がその人の魂までは知らないのだ。せいぜい「外見の印象」であったり、肉体に関する記憶を残しているに過ぎない。そしてその肉体は死んだらすでに消滅しているのだ。まずこの観点から「生き残り」は批判されることになった。
しかし、この「二元論からの批判」もさらに研究が必要だった。その人が生きている間に、人々は「その人」と認識しており、なぜ亡くなった途端に「心と体」に二元的に区別するのだろうか、という形而上学的な批判にさらされたのだ。死をきっかけになぜ急に二元的になるのかと批判されたのだ。認識論の観点からも同様の批判があった。
二元論の立場からは、生きている間も人間の「魂」は肉体をはなれて存在しており、物事を考え、信じ、何かを望む営みもすべて魂の作用であるとし、それは死んでも不朽のものではないか、としたのだ。魂の不朽から「人々の記憶に残る実体がある」と説明したのだ。しかし、「魂の不朽」とまで議論を始めると、実際に死に直面している人にとっては何のリアリティも持たない議論になる。人間のDNA識別をするように、個々の魂をどうやって識別するつもりなのか。非常に抽象的な議論になってしまい、この「魂が人々の記憶に残る」という主張は急に切れ味が悪くなるのだ。人が死んだら「魂が抜ける」という発想は、アメリカ人にはなじみがあまりないらしく、「なぜ死んだら魂は肉体を放棄して抜け出すのか」と議論する。その議論なりイメージなりが「死」に直面した人が本当に想定しているのだろうか。漫画でそのように描かれていても、死に直面した人が体感するものであるということは証明できないだろうとするのだ。
H・H・プライスは、「死んだら魂が抜ける」という説明に一定の答えを与えた。1953年の著書だ。人々は死んだらテレパシーで交流し合う一つのイメージの世界を構築するのであり、そう考えるのはイメージとして受け入れやすいとし、もしそうは思わないのであれば思わなければいいだけだとした。
注)手塚治虫の「ブッダ」で描かれている「宇宙」とは、人間の魂のかたまりが球状に一つになっていると説明されており、これが「ブッダの知りたいことだったはずだ」とブラフマンが説明する。しかし、これは、プライスが1953年に論じた議論とまったく同様の説明であったことになる。
論者は、このような説明では、たとえば個々の魂に記憶はあるのだろうか、とし、多くの部分で問題の多い議論であるとみなした。たとえばさまざまな宗教で説明される地獄界などの説明を一切省略していたりするのだ。しかし、この発想の世論の受け止め方はむしろ「唯物論」からの説明に比べてはるかに好意的だった。
「唯物論からの批判」
死んでも人間は生き残る(人々の記憶に残る)という説明は、唯物論からも批判された。しかし、唯物論は当然「魂の不朽」は相手にしないだろうが、批判の標的は「復活」に向けられたのだ。死後の「復活」があるのなら、当然、いずれ復活するであろう死んだ人を人々は記憶にとどめておくことになる。この「復活」はユダヤ教・キリスト教・イスラム教などにおいて共通の発想であるが、発想の基盤はそれぞれに異なるものだ。唯物論から見る「復活」に対する議論が「死んでも人々の記憶に残る(生き残り)」の議論の中心テーマとなったのだ。
唯物論者は、死んでも魂は永続するという発想を根拠のないものとし、そのため、死んだ人が復活するというのは、死んだ人と復活した人をどのように同一人物であると識別できるのかとした。人は老人になって死ぬだろう。それが若者として復活するのだろうか。そういった部分が全く詰め切れていないし、追究すれば説明できないことばかりなのだ。
この批判に対して、「神は人を死んだときの姿でよみがえらせる」とした人がいたが、「神が」行うのならばなぜ死んだときなのか、若い時ではいけないのか、他の選択肢も神ならば採用できるだろうと批判した。また、死んだときの姿で「復活」するという考えをとるのならば、他の人の臓器移植を受けていた場合はどうなるのかとされる。ドナーも「死んだときの姿」で復活すると説明するとたちまち議論は困難なものとなる。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の核心に関わる議論であるからこそ、哲学の方面からもなんだかバカバカしく思えるような議論を真剣にぶつけたのだ。
「死んだときの姿でよみがえる」という説に対して、まず、神は全知全能であることから、たとえば、457年に燃やされてしまったはずの聖オーガスティンの論文が、神の手によって翌年復元されたとされる言い伝えに着目する説がある。神は細部に宿るともいえる説だが、一人一人の、「全体の第一印象」で人々は「復活」するのではないかとされたのだ。一般に、その人の同一性はその人の肉体にはないとし、その人の「印象」が復活するとされたのだ。その人の同一性は肉体にはないとしてしまうと、その人の持っている考えや判断力で区別されるようになるが、それではみんな似たり寄ったりのものが大勢「復活」するのかとも議論された。同一性は「肉体」に依存する部分が大きいのだ。そのため「全体の第一印象」が復活するとされた。
一方で、人が死んで、別の肉体として復活するという考えに反対する説もある。なぜ人は別の肉体に乗り移るのだろうか、とし、そもそも神は人間をこの世に「生まれさせている」という点に着目するのだ。この力は神の強烈な力であり、復活だって「二度目に生まれる」ことが可能だろうと考えるのだ。神の強烈な力によってふたたび生まれるのが「復活」であり、それがどのような形になるかを追究するまでもないとするのだ。
唯物論は人間が死んでも「復活」があるから人々は死んでも記憶に残るという現象を自らの立脚する立場から批判的に検証したが、唯物論者にもキリスト教徒はいたのだ。復活を信じる唯物論者の中には、人が死んだら、その肉体が朽ち果てるまでに、神はその人の脳や主要な肉体の厳密な検証を行い、それに基づいて復活がなされるのだろうとした。しかし、現代のあらゆる医学をもってしても「主要な臓器」から新たな生命を作ることはできず、「神の領域」に全部委ねる理論には変わりがなかった。そのため、この論者も、「何らかの主要な臓器の連続性があるのだろう」と発言を後退させた。しかし、この議論が唯物論者の公約数的な見解となっているようだ。
さて、二元論の立場や唯物論の立場から「人間は死んでも人々の記憶に残る」という点を説明してきたが、さらに検証が必要なのが、やはり「臨死体験をした」などの体験談が「死に最も近づいた人」である以上、死を語るうえでは無視できないのだ。そのような点を研究してみようと思う。

なぜ、「死」を語るうえでスタンフォードが「臨死体験」に注目したかというと「経験主義」的に死を語るのなら無視できない存在が臨死体験だったのです。
テレパシーなんていうのも、生きている私たちが「死の体験」を経験主義的に語るうえでの貴重な経験になります。「肉体が消滅しても何かあるのではないか」というのが死の研究でもあります。哲学的には「死んだ後も自分のことを覚えておいてもらいたい」という発想だろうと割り切れるあらゆる思想も、経験主義からアプローチするのなら「臨死体験」「テレパシー」などから切り込んでいくしかないのです。
臨死体験の証言者の研究をするうえで重要なのが、彼らは望んでそのような経験をしたのではないということと、多くのデータが存在すること、証言がおカネ目的ではないということが大事だとされます。これらの基盤があればかなり真面目な研究ができるのです。哲学がいくら理屈を言っても「経験者は無視できない」ということも背景にあります。
臨死体験に共通するのは「平和で痛みがなかった」「光に包まれた」「人生を振り返った」などだとされる。これらの経験は実は登山家の言う「最終落下」と共通していて、薬物や酸素欠乏などでもたらされる症状であるとも言われます。彼らは「臨死体験」からは、「何も教訓は得ない」「人生を変えるわけではない」としていて、「肉体に戻るのは嫌だった」と証言している。
臨死体験を研究することは、「死後の世界」を論じるあらゆる形而上学的説明を弱体化させると言われる。「別の世界は想定できない」というデータが出ているのだ。ある説明では、知識や五感の作用で得られる感覚はあるけれども、それらの情報に対して感覚がなく無責任になっている状態が「臨死体験」ではないかとされる。しかし、実は臨死体験というのはかなり希望の持てない研究であり、あらゆる人々から批判を浴びなければならない研究でもあるのが現状だ。

【つづく】

「死後の世界」スタンフォード哲学百科事典

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