最近のトラックバック

2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

« アラブ・イスラムの神秘主義思想【第一部】 | トップページ | フォーリンアフェアーズ英語版~ダイジェスト »

2011年7月 4日 (月)

インド・チベット仏教の倫理【第一部】

序文
仏教はつい最近まで、西洋の哲学の影響を全く受けずに「豊かな知恵の文化」を育んできた。人間がどのように生きるべきか、このような場合にどう対処すべきかという問題への多様な答えを提供するものだったのだ。また、魂を純化させて、人を愛するということを大事にする教えでもある。多様な宗派があるが、個人の魂の救済や「世界の苦しみを癒す」という点では共通していると言っていい。仏教の道を歩むものは、規律にしたがうことが求められ、破壊的行為への戒めを守らなければならない。しかし、一度、魂が高いレベルまで到達すると、規律を超越して行動も自然に他人の利益のためになるとされる宗教なのだ。
仏教は、非常に高尚で厳格な倫理的価値を提示している。そして、それを現実世界に広めなければならないと考えているのだ。仏教徒の価値観では「動物とはすばらしいものだ、そしてさらに人間とはすばらしいものだ」と考えている。そのために殺生を禁じているのだ。菜食主義を基本とし、暴力を避け、自然との共生をしながら生きていくのを美徳とする。しかし、人間はどうしても暴力や殺し合いをするものだ。そのような場合にどのように情熱や人間愛と共存するかという研究がまさに仏教の核心なのだ。
仏教は、人間がどうやったら苦痛から解放されるのか、我々の心が悪い感情や考えからどのように抜け出すことができるのかを探求した。結局、破壊的行為への戒めを守り、周囲の人への思いやりという心を非常に重視する。仏教の答えは「他人を思いやり、助けてあげればみんなが幸せになるだろう」というものなのだ。人々が殺し合う世界でこの思想を実践した人間がもっとも尊いと考えられた。「信者」と言われる人間がこの思想を実践する以上、その共同体は安定する。人々を愛し、安定を望む人は、この共同体に属することを望んだのだ。その「人々が殺し合う」現実がある以上、他人を思いやり、人を助けた人は結局、霊的に高い位置にいた人だった、と説明されるしかなかった。現実の世界ではそう説明しないと、その人は救われないのだ。仏教徒は「良いもの」「技術的に優れたもの」「美しいもの」への称賛を惜しまない。それらを生み出すには修行が必要なことが分かっていたのだ。そのような共通認識のある共同体は好ましい方向に物事が進むのだ。規律にしたがわないと「良いもの」「技術的に優れたもの」「美しいもの」は生まれない。だからこそ、規律を守り、他者を害しない共同体を強烈に志向したのだ。そういう規律を守った人が救われる概念が「輪廻転生」に他ならなかった。
「仏教における地獄絵図の哲学」
怒りや憎しみの中を生きた人は、体を引き裂かれ、燃やされ、凍らされる。体を引き裂かれ、燃やされ、凍らされるというのは「怒りや憎しみの感情」が人間にとってそのような意味を持つという意味がある。欲望のままに生きた人は、巨大な腹を抱えて、小さな口でひたすら食べ物を探す。小さな口にも入る食べ物を見つけて口に入れると途端にそれが火に化ける。これも「欲望」というのが人間にとってこのようなものであることを表現している。愚かなふるまいを繰り返した人は動物にされる。愚かさは本能のままに生きていたことをこれで表現している。結局、「地獄」というのはただの拷問ではなく、自分がどのように生きてきたかを端的に表現するという哲学があるのだ。生きていれば「誰も見ていないだろう」という部分があるだろうが、そういうものを地獄というものは「要するにこのように生きてきた」という表現をするのだ。
閻魔大王は、現世での権力者だった人がなるのだ。常に極楽に嫉妬し、何度も戦を仕掛けては常に負ける。閻魔大王は地獄ではいい暮らしができるが、上の階級には行けないことを示す。自分より格下のものを顧みず、上ばかり望むが決して手に入らない。権力のために盲目になっている人間を地獄ではこのように表現するのだ。「要するにこのように生きてきた」ということなのだ。
このような、地獄界と人間界と極楽浄土を輪廻転生するのが人間であるが、人間界だけが特殊なのが分かる。「目を覚ましている」という意味で特殊なのだ。人間は、あらゆる輪廻転生を繰り返していても、人間界にいるうちは自由以外の何物でもない。この時に「怒りや憎しみの中を生きるか」「欲望のままに生きるか」「愚かに生きるか」「権力者としてふるまうか」「自分の利益だけを考えながらも少しは人を助けるか」など、すべて自由に行動を選択することができる。
仏教では、悪い感情が6つ挙げられているが、ほとんどの仏教徒は、世界はどのように成り立っているのか、自分が死んだらどうなるのだろうか、ということを考えていて、日常生活の行いに関しては「下の階層には行かないようにしよう」と考えるにとどまり、モラルにしたがって生きることを心掛けたのだ。
いろいろと戒律のある仏教であるが、細かい決まりはあるが、要は、それさえ守っていれば人間は自由であり、自尊心をもって生きることができるという目的がある。細かい宗派がどのような伝統をもっているかという問題になる。

仏教は三つの方向に分かれたとされる。テラヴェーダ・マハーヤーナ・ヴァジルヤーナの3つである。テラヴェーダ(長老の教え)が仏教の主流で、スリランカやタイ・カンボジア・ミャンマー・ラオスに広まった。マハーヤーナ(偉大な道)はインドを起源としつつ、中国や日本・韓国・ベトナムに広まった。マハーヤーナはインド・チベット仏教を論じるこの論稿の射程外であるが、インドの起源として存在した仏教である。ヴァジルヤーナ(ダイヤモンドの道)はヒマラヤ地方やチベット・ネパール・ブータン・モンゴルに広まった。日本でも少数派がヴァジルヤーナに属しているとされる。
テラヴェーダとマハーヤーナの違いは、その最終目的にあるとされる。テラヴェーダでは人々は聖者になることを望むのだ。聖者になる人は最終的には涅槃に入るとされる。しかし、一部の宗派の人は仏陀の再来を望んでおり、世界に失われた真実を人々に説いて回ると信じているとされる。その宗派では「仏陀になることは聖者になることよりも難しい」と位置付けられている。
一方、マハーヤーナでは、人々は仏の道を歩むことで共同生活を営む営為を重視しており、人々に大変な利益をもたらした人を「解脱」した人と位置付け、死後にブッダになると説明する宗派だとされる。いろいろな宗派があり、説明は多様であるが、問題は、共同体で同じ美徳を共有するということが大事だとされている。
ヴァジルヤーナも、共同生活を重視しているが、共有している美徳や偶像や瞑想技術がマハーヤーナと異なるのであろうとされている。しかし、「秘儀」を用いる点に特色がある。
マハーヤーナが広まった国が繁栄したこともあり、それでも根強く生き残ったのはテラヴェーダだけだとも言われる。マハーヤーナに属する学者がテラヴェーダを「小乗仏教」と名付けたのであり、おのずとマハーヤーナは「大乗仏教」と呼ばれることになった。「小乗」というのは「小さな乗り物」という意味であり、弟子が聖者になる道がより困難だと考えるのが小乗仏教であることから、大乗仏教というのも「弟子が通る道が小乗仏教より広い」宗教だと解釈され、仏教界のメインストリームとなった用語である。
大乗仏教は、聖者となった弟子だけが涅槃に至ればいいと考える小乗仏教を「大乗仏教に劣る思想」と批判した。大乗仏教は涅槃に至る道を広くとらえたことから、彼らの信仰心に強烈さが失われ、むしろ、「地獄に落ちたものの切り捨て」という発想が根付いたとも言われる。
しかし、大乗仏教からの小乗仏教への批判は、そのシステムへの批判であり必ずしもフェアではないと言われる。「慈愛」「憐み」「喜び」「心の平穏」といった小乗仏教がもっている価値を正当に評価していないとされたのだ。慈愛は、他者に心を開いたり、他者の命を尊重することであるし、憐みは苦しんでいる人がその苦痛から自由になることを願うものだし、喜びは、幸せを志向するものであり、他者の幸せを願うものでもある。また、心の平穏は、自分を見つめ、他人に侮辱されることのない世界を求めるものである。こうした価値を広めようという側面を小乗仏教がもっていることも無視できないのである。

仏教では、人間の感情や経験は「道」と表現される。その「道」という概念は悪い感情も含むし、神聖なる感情も含む概念として用いられたのだ。小乗仏教では「メッタスッタ」(慈愛の道)という文献で、慈愛こそが尊い価値であるとしている。しかし、小乗仏教とは異なり、大乗仏教では有名な「六道」という分類がなされている。「六道」の意味は「六つの完成・完全・極地」というような意味である。
①寛大さ
②道徳的な規律。
③慎み深さ。
④忍耐・不屈の努力。
⑤中庸的な安定性。
⑥知恵。
慎み深さという概念をアメリカ人が英語に翻訳するのには苦労したようだ。"Forbearance"という難解な単語になっている。「どんなに不快な感情にとらわれても、物事に耐え、心を落ち着かせて、自分の方向性を決める」日本語の「辛抱」という言葉などが紹介されている。他者が自分に不快な思いをさせても、決して怒らずに、安定を保つ能力が「完成」されている人はそれだけで幸せであり、あえて「慎み深さ」としたが、六道の中では最も重要な位置を占める。なぜなら、それができれば他は必要ないものであるからだ。他者に侮辱された人はこの「道」によって怒りをこらえ、報復をしないようにするのだ。しかし、もっと尊いのは「そもそも怒らない」ひとであるとされる。また、この感情は「常に落ち着いている人は真実を冷静に見ている」という意味でも六道の核心に位置付けられているのだ。
忍耐・不屈の努力は、強烈な目的意識をもって力を自分や他の人々の利益のために用いることであり、自分の安定だけではなく共同体への利益というものも考えた概念のようだ。中庸的な安定性も、心の安定と明晰さを保つのに役に立つ。知恵という言葉は非常に抽象的であるが、目の前に展開される「現象」の本質を見抜き、真実の姿を冷静に見抜く能力だとされる。この言葉もアメリカ人は翻訳に苦労している。
宗派によっては「道」というものを「完成・完全・極地」という意味を超えて「超越」と解釈することもあるようだ。俗世を超越しているというような意味であろう。
【第一部完結】(三部構成で行く予定です)

「インド・チベット仏教の倫理」スタンフォード哲学百科事典



« アラブ・イスラムの神秘主義思想【第一部】 | トップページ | フォーリンアフェアーズ英語版~ダイジェスト »

スタンフォード哲学」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: インド・チベット仏教の倫理【第一部】:

« アラブ・イスラムの神秘主義思想【第一部】 | トップページ | フォーリンアフェアーズ英語版~ダイジェスト »