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2011年6月30日 (木)

愛国主義の哲学

愛国主義にはどのような根拠があるのか? 義務なのか、避けるべきものなのか。ナショナリズムとはどう異なるのか。かつてはフィヒテぐらいしか論ずる者はいなかった。近年ではロールズに代表される個人主義的・自由主義的政治道徳哲学に答える形で現れたコミュニタリアニズムの復権がなされている。愛国主義を政治メカニズムにどのように組み込むのが好ましいのか。以下にスタンフォード大学の見解をまとめてみたい。
愛国主義の定義は大体以下の四つにまとめられている。
1、自分の属する国への特別な情熱。
2、自分と国とがどのような関係にあるかという意識。
3、自分の国の「善」に対する特別な関心。
4、国の利益のために自らを犠牲にしようとする姿勢。

ここで、1番目の定義であえて「愛」ではなく「情熱」としたのには意味があるのだ。愛するということは愛の対象の「あり方」に介入するのは必ずしも必然ではない。しかし「情熱」をもつということは、その対象の「あり方」に関わっていくことを意味し、時には自分を犠牲にしてまでその「あり方」と探求することになるのだ。自分の国が得たものへの喜びや、犯した罪への恥がともなうのが「情熱」だとされる。もちろん「愛国主義」と呼ぶ以上、国への「愛」と表現するしかないが、それにはその国と自分がどのようにかかわっているのか、また、その国や国家の構成員の「善」への重大な関心をともなうものであるとされるものなのだ。これはあくまでも定義であるが、この論稿は、愛国主義を網羅して論ずるものではない。どのような利益が国家に求められ、彼の国を取り巻く過去や未来の物語が、彼をどのように位置づけるのかとか、社会的・政治的条件がどのように愛国主義の流れを形成するのかとか、愛国主義の社会的影響などを論ずるものではない。あくまでも哲学的考察なのである。
ナショナリズムと愛国主義は、多くの論者が区別をしないで論じている。また、区別をした人も、全く逆の見解を唱えたりした人がいる。たとえば「ナショナリズムは感情や本能に根差したものであり、愛国主義は道徳心に根ざしたものである」とした人がいる。つまり、ナショナリズムは人種などにもとづくものであり、自然的・肉体的なものに由来するのに対して、愛国主義は、政治的共同体への道徳的義務に根差したものであるとする。一方、逆の見解は、「ナショナリズムは個人の政治的自由を根拠にする哲学的・政治的意思表明であるが、愛国主義はセンチメンタルな国家への愛情に過ぎない」とした人もいる。これらの議論の混乱を一定の方向にまとめたのがジョージ・オーウェルだった。オーウェルは「思想の攻撃性」の強さでナショナリズムと愛国主義を区別したのだ。ナショナリズムは権力を志向する。自分の国がより富を得て力を得ることを要求するのがナショナリズムであり、愛国心は、自分の住んでいる場所で自分の信じる者のために生活することを求める発想であるとした。まさに、攻撃的なのがナショナリズムであり、防御的なものが愛国主義だったのだ。そこにある主語の違いは「我々と彼ら」の違いであり、我々に目を向けるのが愛国主義で、彼らに目を向けるのがナショナリズムだとしたのだ。この考えは広く政治の世界に共有されるようになった。「彼ら」を論ずるのがナショナリストであり、「我々」を論ずるのが愛国主義者だとしたのだ。ナショナリズムと愛国主義の違いは、一方で「対象の違いに過ぎない」という議論もある。"patria"の倫理的文化的議論をするのか、"natio"の議論をするのかという分け方がある。ともに、歴史や祖先や文化的な背景を語るのだが、対象が異なるだけであり、信念や姿勢の「強度」で分けるのでもなく、感情対理論で分けるのでもないとするのだ。
愛国主義への批判はあらゆる方面から浴びせられ、それらの言論はいろんな意味で敬意を払われている。たとえば19世紀のトルストイは「愛国主義は愚かであり不朽である」と言っている。自分の国がもっともすぐれているという発想は、世界に国が一つではないという意味で「愚か」ではあるが、自分の国に価値を認め、より良いものにしていこうという発想は、戦争というものも含めて「不朽の」発想であるとしたのだ。アメリカではトルストイの言論を受けて、「愛国主義は二重の間違いを犯している。人の死に関する間違いと、精神状態の混乱という間違いだ」という議論がなされた。愛国心はまず最初に、死ぬことと殺すことを想定しているのだ。それは他の国に対して向けられる。しかし、どの国も「死んでもいい命の集合体ではない」という現実があるのだ。さらに、国境線の限界を認識せず、正しいものと間違ったものを頭の中ですり替えてしまうとされる。頭の中で歴史は純粋化され、そういう「抽象的なもの」のために人は死んだり殺したりするのだ。すべてイマジネーションのもとに行われるとする。
一方で、愛国主義を正当化する議論もある。「実際に国家の利益になる発想である」「実際に我々の国は優れている」という議論から、「国家には死んでもいい命があるではないか」というシビアな議論もある。また、国家は小さな村ではなく「抽象性」をもつのは当然であるとも言われる。しかし、道徳的観点から「愛国主義の正当化」はなかなか難しいとされる。
たとえば、愛国主義者に「なぜあなたは国を愛するのですか?」と聞くとしよう。聞かれた方は「あなたの国にどんな愛すべき価値があるのですか?」と聞かれたと思うであろう。これはその愛国者の「美徳とそれによって得られるもの」を問いただすことを意味する。これは他の見解がある中でなぜそれを信じるのか、信じることの価値という倫理的な問いかけになるのだ。人は家族や友人を愛し、誠実であろうとするが、その個人的な親密さの中には国家のプライドや個人の性質はあまり関わりをもたない。もし国家が家族や友人などに非常に有意義なものをもたらしているのなら、人は実体験として国を愛する美徳やそれによって得られるものを語ることができる。たとえば、ここで隣の国が「愛国主義の強度」を高めてきたらどうなるだろうか。自分の国に実体験としての美徳がなくても、その人にとって自分の国は自分の国であり、何も得られるものがなくても最優先で国を愛する理由ができる。今まで実体験として愛していたものと論理が逆転するのだ。本当に国を愛していた根拠はもはや隠されてしまい、これは「悪い忠誠心」となってしまう。国を愛することは美徳にも悪徳にも化けるメカニズムが潜んでいるのだ。人はしまいには「この国は私の国であり、私の家であり、それ以上に理由はない」と言うようになる。しかし、これは十分な答えではない。十分な答えとは「私に性欲があるように愛国心がある。それ以上に理由はない」という答えになる。非常ににエゴに満ちていて、非理性的な答えが正解になってしまうのだ。

このような問題点をはらむ「愛国主義」について、「さまざまなカタチ」を以下に論じたい。
【つづく】
「愛国主義」スタンフォード哲学百科事典

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