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2011年4月10日 (日)

「友情」の本質

友情というのは、我々の生活において友人が重要な役割を演じる現実がある以上分析が求められるものだ。お互いに干渉しあい、お互いの利益のためにふるまう構造があるが、一方で、相手に慰めを求めることと、相互間にモラルの維持が求められることは時に衝突することがある。相手に過度の依存をし、モラルを破壊する行為を行った場合は、自然と疎遠になり時には絶縁することになる。これが「友情」の基本だ。愛の研究でも明確にしたが、妻や夫を愛する場合は性的動機も含んだうえで個性に着目している(エロス)。一方、家族を愛する場合は、基本概念としては個性に着目しないとされる(アガペー)。また、アガペーの対象が国家や人類一般に及ぶ場合をフィーリアと呼び、これも個性に着目してはいない。では、友情というのはどうであろうか。個性に着目しているものの、性的動機から来るものではない。そのため、愛の分類においては、家族を愛する感情に近いことからアガペーであるとされるようだ。これはキリスト教およびギリシャ哲学での議論だ。愛と友情に関する議論は興味深い。友情の場合は、共通の経験基盤や関心事などをもとに、相手から何らかの報酬が与えられることが当然視される。しかし、恋人や妻を愛するときには、少なくとも一定の空間においては報酬など期待しない愛が存在しているのではないかとされている。アメリカ人は真面目である。「友達のエリアからはみ出した君の青いハイヒール」(ロマンティックが止まらない:CCB)は、愛が「性的動機」を持ったことを意味し、キリスト教概念においては説明可能である。しかし、「性的動機」で愛と友情を区別するのが主流ではあるものの、友情の場合に相手に要求している「心理的なアイデンティティー」は「親密さ」に限界はなく、限りなく愛情に近づいてしまう場合がある。果たして、性的動機だけで区別可能なのであろうかと議論された。時には性的動機すら凌駕した親密さがあるのではないかと言われる。アリストテレスは、「楽しみを共にする」「能力を共にする」「美徳を共にする」という3種類の友情の形を提示している。しかし、この3種類を明確に区別して友情が生まれるわけではなく、複雑に絡み合って「あいつはつかえる」という形で相互に利益をもたらすものをアリストテレスは念頭に置いていたのだろうと考えられた。しかし、それでは「楽しみ」「能力」を友人が失ったらどうであろうか。概念上はこの形態の友情は不完全さを示すことになる。その友人の持っている高潔さ、人徳などの「美徳」からくる友情だけが真実の友情なのではないか。概念上はこのように議論されるのだ。友人の美徳を愛するというものの価値を見出した哲学者は、それならば「国家への友情」「子供への友情」も生まれるのではないかと議論を進めたがこれには否定的な考えが強い。あくまでも「対等」である関係が友情なのだとされる。
以上が「友情の本質」という議論だ。
スタンフォード哲学百科事典「友情」

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