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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2011年4月

2011年4月21日 (木)

「親」の研究

基本的に、親というのは将来のある子供の利益のためになるからこそ子供を拘束するという構造がある。一方で、社会に対して自分の子育てのありようを説明しなければならないとされる。それは「世の中」からの信託を受けて子供を育てているからだとされるようだ。内向きには子供の利益を、外向きにはしっかりとした説明が求められるとされるようだ。これは基本モデルであり、親子にまつわるいろんな仕組みを作るうえで大事な視点だ。生物学的な理由から親を説明すると、子供を親の所有物であると説明することが容易になってしまうことから、生物学的な理由は「親である」という説明にしかならないと考えるのが主流のようだ。
一方で、「育ての親」という観点を強調すると、より子供の利益のために親が行動する可能性が高い。子供を育てるのは親だけではなく様々な社会とのつながりを通じて行われるものであることから、親による拘束という観点よりも、親への信頼という観点が強くなるのだ。
しかし、「お腹を痛めて産んだ子」という説明はいまだに強力であることから、「育ての親」という説明は、その基盤の説明が求められている。ましてや、代理出産が可能になった現代においてはなおさらそれは必要になっている。また、父親にとっても、子供とのつながりを強めるには、「お腹を痛めた」女性との親密さが要求されるのではないかとされている。「育ての親」という説明もそれだけではなかなか「親」であるという理由としては弱い部分があるのだ。
そこで、「その子供を欲していたから」親であるという説明が有力になされている。この視点は今までの議論に新たな展開をもたらした。この「子供を欲していた親」という観点は、夫が妻に自分の精子を人工授精させて出産させようとしたところ、精子の取り違えがなされて別の男の遺伝子を持った子供が生まれた、という事例を極端事例とみなして研究がすすめられた。親はその子供の遺伝子に関しては意図してはいなかったが、「その子供を欲していたかどうか」は遺伝子のつながりとは別の説明が可能であるとされたのだ。
この事例に対しては、子供が両親の存在を前提にしている以上、ボランティア精神でもなんでもなく、夫は子供の親になる義務があるだろうという割り切りをする見解がまず提示された。
また、最初は「養子に出してしまえ」と思う夫も、子供が生まれて15分しかこの気持ちは続かないとも言われる。生まれたばかりの子供を15分見ているだけで「本当の親」になれるという主張があるのだ。
さらに、「子供が生まれてくる原因となったから」親であるという説明もある。この説明では、性交渉による妊娠も、代理出産も「生まれてくる原因」を与えた親という説明が可能であるという意味で非常に広い概念だ。しかし、ここまで議論を拡散させると「尻尾が犬を振っている」ような議論になってしまうと批判されている。現在においては「親の説明」の到達点はこのあたりで収束しているとされる。
親であることは「出産をどう考えるか」が核心部分にある。「共産主義的保守派」は「優生学重視」で、「リバタリアン・リベラル」は「性の開放」に近い。しかし、リベラルの中にも「ベビーブーム」「ダウン症」などを野放図にはできないだろうという発想があり、性をコントロールしようという「ポリシー・リベラル」という発想がある。リバタリアンは「自己実現」を強く志向するが、ポリシー派は「普通の社会の一員」を志向するという違いがある。家族は大きく分けてこのように分類できる。
どのような家族の形態をとるにしても「女性の立場は悪くなる」とされる。あらゆる説明をしても、女性が出産をする以上、その結論は避けられないのだ。必要な視点は結局、自治と平等・社会の助けだとされているのだ。テレビ局に電凸するおばさんが一番頭がいいのだ。
【書きかけ項目】
参考「親であること」スタンフォード哲学百科事典

2011年4月19日 (火)

フリッカーの基本~ボクシング

フリッカーをあえて言語化すると、
①左腕を左に振ると同時に前足を上げる。
②左腕を右に振ると同時に前足をおろす。
この動作を大きめにやってみてほしい。これがフリッカーの「タイミングの取り方」なのだ。それをどんどん小刻みにしていくと実戦投入できるタイミングの取り方になる。フットワークの中にこの動きを巧みに組み込んでいくのだ。
このフリッカーの動作にうまく後ろ足も連動させてみる。体がタイミングを覚えなければ瞬間には対応できない。「フリッカー使い」は子供のころ野球をやっていたり、音楽が好きだったりするという経験が大事だということが分かる。
このフリッカーは何もずっとこれをやらなければならないというわけではない。「タイミングをとる技術」として使いたい時に使えばいい技術なのだ。フリッカーを覚えるのに一番いいのは「スパーリング」という修羅場で体にとっさにこのような防御本能を取らせることだ。そうすればいかに合理的な動きかが分かると思う。
フリッカージャブ(自宅でのトレーニング映像)
久々のジムワークの映像(フリッカーも実践しています)

2011年4月11日 (月)

東大ボクシング部一年生が今やっていること

ボクシングのフットワークの基本を春先に大学一年生が教わる。基本は簡単だ。「進行方向から踏み出す」ということだ。進行方向から常に踏み出せば、相手にとって行動予測が最も困難なステップとなることから、ボクシングの基本として東大ボクシング部に引き継がれている。ジムで撮影しようかと思ったのだが、自宅の畳の上で撮影してみた。映像を回転させる技術がなかったので見づらいかもしれません。
前後のフットワーク
「EMS_0010.wmv」をダウンロード
左右のフットワーク
「EMS_0011.wmv」をダウンロード
正方形に動くフットワーク
「EMS_0012.wmv」をダウンロード
高速化しても基本を守る
「EMS_0014.wmv」をダウンロード
単純な原理だが、ボクサーは完全にこれを身に着けなければならず、東大ボクシング部の一年生は5月ごろまでこの作業を延々と繰り返すのだ。単純さの中に「奥義」があると思ってほしい。

ダブルの研究フォーマット用紙(参考までにダウンロードして利用してください)
「DoublePunchs.docx」をダウンロード

ダブルの理論の思想の基本を動画にしてみました。
起点は12種類ありますが、ジャブを起点にするとこうなります。
YouTubeの映像
解説もぜひ読んでみてください。
私が実践したのはここの赤い部分だけだと思ってくれれば分かります。

「ダブルの理論」(右ボディフックを起点に)
ジョージ・フォアマンなんかはこのボディを起点としたラインに詳しそうだ。
YouTubeの映像
図表ではこうなります


2011年4月10日 (日)

ボクシングのトレーニング~ジャンプロープ

自分で実践できないのが残念だが、Youtubeでボクシングのトレーニング技術の一つであるジャンプロープ(ロープスキッピング・縄跳び)の映像を見つけた。このジャンプロープの映像も、小学生で学習したもの以外の特殊技術は一つだけだ。
まず、「交差+右に流す+左に流す+右に流す+正常化」という技術がすべてだ。
なわとびはなにも足の下を通さなければならない義務はない。左右に流しても反則でも何でもない。そのことから、複雑な動きの一発目は交差とびだ。その後はハイスピードで左右に流して正常化しているだけなのだ。
Youtubeの映像

「友情」の本質

友情というのは、我々の生活において友人が重要な役割を演じる現実がある以上分析が求められるものだ。お互いに干渉しあい、お互いの利益のためにふるまう構造があるが、一方で、相手に慰めを求めることと、相互間にモラルの維持が求められることは時に衝突することがある。相手に過度の依存をし、モラルを破壊する行為を行った場合は、自然と疎遠になり時には絶縁することになる。これが「友情」の基本だ。愛の研究でも明確にしたが、妻や夫を愛する場合は性的動機も含んだうえで個性に着目している(エロス)。一方、家族を愛する場合は、基本概念としては個性に着目しないとされる(アガペー)。また、アガペーの対象が国家や人類一般に及ぶ場合をフィーリアと呼び、これも個性に着目してはいない。では、友情というのはどうであろうか。個性に着目しているものの、性的動機から来るものではない。そのため、愛の分類においては、家族を愛する感情に近いことからアガペーであるとされるようだ。これはキリスト教およびギリシャ哲学での議論だ。愛と友情に関する議論は興味深い。友情の場合は、共通の経験基盤や関心事などをもとに、相手から何らかの報酬が与えられることが当然視される。しかし、恋人や妻を愛するときには、少なくとも一定の空間においては報酬など期待しない愛が存在しているのではないかとされている。アメリカ人は真面目である。「友達のエリアからはみ出した君の青いハイヒール」(ロマンティックが止まらない:CCB)は、愛が「性的動機」を持ったことを意味し、キリスト教概念においては説明可能である。しかし、「性的動機」で愛と友情を区別するのが主流ではあるものの、友情の場合に相手に要求している「心理的なアイデンティティー」は「親密さ」に限界はなく、限りなく愛情に近づいてしまう場合がある。果たして、性的動機だけで区別可能なのであろうかと議論された。時には性的動機すら凌駕した親密さがあるのではないかと言われる。アリストテレスは、「楽しみを共にする」「能力を共にする」「美徳を共にする」という3種類の友情の形を提示している。しかし、この3種類を明確に区別して友情が生まれるわけではなく、複雑に絡み合って「あいつはつかえる」という形で相互に利益をもたらすものをアリストテレスは念頭に置いていたのだろうと考えられた。しかし、それでは「楽しみ」「能力」を友人が失ったらどうであろうか。概念上はこの形態の友情は不完全さを示すことになる。その友人の持っている高潔さ、人徳などの「美徳」からくる友情だけが真実の友情なのではないか。概念上はこのように議論されるのだ。友人の美徳を愛するというものの価値を見出した哲学者は、それならば「国家への友情」「子供への友情」も生まれるのではないかと議論を進めたがこれには否定的な考えが強い。あくまでも「対等」である関係が友情なのだとされる。
以上が「友情の本質」という議論だ。
スタンフォード哲学百科事典「友情」

「家族」の研究(フェミニズムは割愛)

まず、アメリカの研究は、「男児は女児よりも成長するにつれ優位に立つ」という事実を承認している。女性が男性より「背が低い」「心理面で異なる」などの事実を、その国の社会がどう受け止めるかが反映される。家族は、生物学的なつながりと心理学的つながりを持つが、ルールは法律で決められる。しかし、「政治的であるかどうか」は議論されている。女性が男性より「子供を育てるのを好む。家事を好む」というのはそのような性質を本来ともなっているとも言われる。「社会で男性と対等でありたいと願う女性には野心がない」とまで分析されている。法律が、教育の平等や、雇用の平等というシステムを作っても、女性が子供を育て・家事をこなすという構造までは変わらない。これは通常の野心のある女性がそれを望むからだ。家族は「愛情」によって正当化したほうがあらゆる問題を解決できる。「正義」によって正当化すると、家庭内が政治の場となってしまうとされる。家族の役割は「次世代の市民を育てる」という側面があるが、たとえ、法律で決められていても「愛情」で正当化したほうがうまく行く。愛情で正当化された家族には政治が入り込む余地はないのだ。どんな人間も、何らかの家族に属することで人生をスタートさせている。そこで、何が正しくて何が間違っているのかを学び、また、自分がいったいどのような人間になり、またなりうるのかを知る。家族は人生の初期においてはまさに学校であり、不公平や従属と言ったものを正義を度外視して学習させられるのだ。しかし、民主主義国家の一員として、他者をコントロールするすべをやがて覚えていき、他者に優越する力量を身に着けるとはどういうことかも学習する場を提供するのだ。プラトンは、「すべての家族には改革が必要だとみんな思っている」とする。しかし、正義を家庭に持ち込むことは家族を機能させなくすることをプラトンは認識していた。社会に適応する「個」を育てるのは正義の概念であるが、それを家庭に持ち込むのとは意味が異なるのだ。親が子供の道徳心を育てるのに大きな役割を果たすのは事実であるが、国家がこれに様々な役割を果たしている。教育の場を提供したり、感染症から子供を守ったり、最低限の生活を守っている。子供はそのようにして読み書きを覚え、経済に貢献するようになるのだ。国家は、経済においては女性の子育てや家事に依存していることになる。しかし、貧しくとも、女児であろうとも、社会の構成員としての立場を認知されるうえではやはり国家が役割を求められている。
自分のまわりにいる「きれいなお姉さん」を見てみればいい。彼女たちがどのように国家に守られて生きてきたかを考えてみるのは有意義な作業だ。その「きれいなお姉さん」も、社会に出ると「フェミニズム」という思想の存在を知る。自分の生活は家族に縛られているのではないか?男性が一家の主となると子供への関心は薄まる効果があるのではないか?というような問題意識を抱くようになる。ここで、女性たちは自分の考えを確立していく。フェミニズムとどう付き合うのかを明確にするのだ。
あとは「フェミニズムの研究」のようだ。家族の研究はいったん打ち切る。
「フェミニズムの観点からの子育てと家族」スタンフォード哲学百科事典

2011年4月 4日 (月)

1999年の「カリスマ」が生まれた理由

竹下一郎は、基本的に実話雑誌の編集長なのだが、入社当初、エログロナンセンスが常識だった実話雑誌の編集を任されたんだ。「好きなことをやってくれ」といわれたので、今までの記事を「つまらないからやめろ」と言って、自分が渋谷の恋文横丁でバラで集めた海外の膨大な資料を利用したんだ。当時のアメリカの雑誌と日本の実話雑誌の「情報格差」を「語学で埋めた」という点で俺の思想の基盤になった。竹下一郎で注目すべき点は、「背景に学問があった」という点だ。興行師的なライターはどんどん切り捨てていった。しかし、竹下自身が外国語ができずに「大学の学者をつかまえていた」と言っていた。この部分は俺は自分の語学力でフォローしたのだ。竹下一郎の「膨大な秘蔵資料」を、インターネット草創期の「アメリカのネットコミュニティー」に置き換えて実践したのが、俺が時代を制した理由だったのだ。背景には英語力と、ボクシングの知識、いろいろなものがあったんだ。基本はそういう図式なんだよ。黒騎士がどれだけ「勘違い」をしていたかがこれだけでも明らかだろ。俺は大人の仕事をしていたんだ。結局、竹下が出した「別冊実話特報」は、日本の雑誌市場でも初めての「重版」を記録したのだ。まさに、俺が時代を制したのと同じ構図だったのだ。竹下一郎氏は1999年当時のインタビューで「2年前に暮れまでもつまいと言われた」と語っていたので、俺は師匠と慕いながらも、葬儀には参列できなかった。俺が「自分の文章は権威である」とまで自信を深めた背景には、法学教室があったんだ。あの雑誌で文章に力を持たせる技術を覚えたんだ。一時代を築いた理由は「師匠がいた」ということだ。それを別の方法で実践したこと。ネット草創期のアメリカが背景にあったこと。いろんな条件が重なって皇室が俺の獲得に動いた。でも、俺は淡々と法学教室を読み続けたのだ。今ではジュリストも読んでいる。「俺をここまで育てた媒体だから」今でも読んでいる。真似したければ神を味方につけるんだな。1999年に俺に神が宿ったのは事実だ。3月に発言を連打し、5月にはWOWOWが俺の近所の取材活動を始めた。そのあとネット社会でどんな存在になったかはNHKで3時間ぶち抜きで報じられている。しかし、背景には時代が求めた「発想」があった。強運にも恵まれたのだ。
当時、俺の発言が、日本のボクシング界に爆弾を放り込む行為であるという自覚はあった。だから怖かったのは事実だ。しかし、俺があえて爆弾を投げ込んだ背景には「月下の棋士」という漫画があったのだ。23巻の音色という一冊だ。該当箇所はあえて伏せる。しかし、この国がどうにかなってしまう行為であることから、半分命がけだった。
「2ちゃんねるからの転載です~糖質談話」

中国をめぐるレアアース

鉱物と言っても「美しさ」だけが尺度ではないのだ。おカネが絡む鉱物の代表例。
コークス・・鉄鋼の原料
ボーキサイト・・アルミニウムの原料
蛍石・・製鉄融材、レンズ材料
マグネシウム・・軽量化・添加剤
マンガン・・特殊鋼
シリコン・カバイド・・耐火材、研磨剤
金属シリコン・・半導体、太陽電池
黄リン・・半導体、食品添加物
亜鉛・・自動車用特殊鋼
セリウム・・HDD、液晶パネル等用研磨剤、排ガス浄化用触媒、二次電池
ネオジム・ジスプロシウム・・モーター用磁石、二次電池
タングステン・・超硬合金、フィラメント
アンチモン・・タイヤ等難燃剤
モリブデン・・特殊鋼、耐熱材
インジウム・・蛍光灯、透明電極、液晶パネル
1990年代には中国はレアアースの輸出を奨励していたのだ。しかし、中国国内の技術発展を背景にこれらの鉱物の使い道を見つけた中国は輸出に規制をかけるようになった。1998年から輸出許可・割当制を採用し、2006年には輸出税をかけるようになったのだ。
2008年以降、10%だった輸出税が25%にまで跳ね上がった。
2009年に総輸出量が5万トンとされ、このころから日中ハイレベル協議が展開された。
2010年に中国商務部が総輸出量を3万258トンに抑えることを通告してきたのは日本にとって衝撃であった。尖閣諸島問題で脚光を浴びたレアアース問題は、それ以前から日中間の懸案であり、中国は「許可証を出さない」「積み荷の全品検査の実施」などの事実上の嫌がらせをやってきたのであり、外交ルートを通じた規制をかけてきたわけではなかったのだ。日本はレアアースに関しては中国に過度に依存していることから、オーストラリアやベトナム、カザフスタンなどでの鉱山の開発に協力するなどしている。これらの投資の保護が今後の課題となる。アメリカは中国との間でGATTの条項に関する議論の応酬を展開している。
ジュリスト2011年3月15日号「中国による鉱物資源の輸出制限と日本の対応」川島富士雄

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