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2011年3月 9日 (水)

「子供」の研究

子供に関しては科学哲学や、歴史哲学、宗教哲学などの分野でも今まで語られてきたものであるが、たとえば芸術哲学においてとりわけ、関心がもたれてきた。児童文学であったり、絵本であったり、絵画であったりで、子供というものが関心の対象になってきたのだ。この論稿では、子供がどのように認識を発展させていくか、モラルを発展させていくか、子供にとって「良いもの」とはなにか、子供は社会のどこに位置づけられるべきかを研究してみたい。
中世においては、子供というのは「小さな大人」と位置付けられてきた、また、地域によっては呪術信仰の対象になってきたところもあるが、子供の研究においては太平洋の島嶼地域における「子供の呪術信仰」は存在自体タブー視されているようだ。アリストテレスは単純に「人体が未成熟・未発達な存在」と位置付け、現代の我々は常識的にアリストテレスの考えを受け入れているとされている。しかし、教育の現場では、ルソーを出発点とする「段階(ステージ)理論」というものがあり、たちまちこの分野の主流として理論が精緻化されていった。子供は、成長するステージがあり、どんどんそのステージをあがってくるという考えだ。我々は、子供の「能力の欠如」に着目するのではなく、たとえば「外国語を覚えるのが早い」とか「芸術の領域での能力」とかさまざまな点に着目すべきであり、また、大人と子供の「コミュニケーションの可能性」にももっと着目していいのではないかとされる。
子供がどのように認識を発展させるかは古典的な議論としてはデカルトが自己と世界の区別がつくようになるというモデルを作ったが、ジョン・ロックがこれに着想を得て、「白紙」の状態に知識や理性を描いていくのが子供だろうとした。プラトンのような「子供は前世で知っていたことを思い出しているだけだ」などという議論は痛烈な批判の対象となったのだ。
しかし、研究が進むにつれ、子供の認識は「言語」と不可分なものなのではないかとされるようになった。時間・空間・物事の因果関係の認識は言語の発達とは切り離せないものと考えられたのだ。
ステージ理論もたとえばこのような「ステージ」が想定できる。
①生きるということは「活動一般を意味する」
②生きるとは「動くことである」
③生きるとは「自発的に動くことである」
④生きることは「動物と植物にだけ与えられるものである」
幼児教育においてはこのようなモデルの提示が試みられたが、さまざまな論争を引き起こすことになった。ハイハイから始まって、お遊戯から始まって、自分で考えて動くことへ移行し、動植物を育てる、という幼児教育のモデルは、しかし子供の研究においては重要な指摘だった。20世紀に入り、我々はもっと子供を顧みてもいいのではないか、それだけの基盤は整ったのではないかとされたのだ。また、子供は知的な領域では、自分を満足させたり、必要に駆られて学習するのではなく、「型にはめられた」知識を学習することから始めるとされる。高度な知識に対応する能力に関して子供が大人に劣るのは現実であり、複雑さや完全さという意味では大人にはかなわないし、型にはめられたものを学習するという手法をとる以外に「高度な知識」は学習できないのだ。

モラル(道徳心)の涵養に関しては、古典としてはプラトンもカリキュラムを組んでいるし、アリストテレスは、体系的な倫理学の本を残している。また、多くのストア派哲学者たちが、ダイナミックにモラルの涵養に関する分析を行っていた。
ルソーは、モラルの涵養の領域においてもステージ理論の構築を試みている。
基本的に5段階に分けた。
①生後から2歳まで
②3歳から12歳まで
③13歳から思春期(性的成熟)まで
④思春期から20歳まで
⑤21歳から結婚・社会的責任がともなうまで
ルソーはこの研究で興味深い指摘を行っている。幼児にしつけをするのは当然のことであるが、子供が「道徳心」という概念を明確に理解するのは13歳ごろなのではないかとするのだ。それ以前に道徳心を確立することを子どもに要求するのは「無理である」としている。この考えは必ずしも正しいとは言えないが、モラルに関する「ステージ理論」の基盤としてその後の理論が形成されていった。
コールバーグという哲学者が、このステージ理論を6段階に精緻化した、
【レベルA】前段階
ステージ1:しつけや服従に適応する時期
ステージ2:ナイーブに物質的な享楽を望む時期
【レベルB】日常のモラルに従う
ステージ3:良い子として他者といい関係を築き上げ、承認してもらいたい時期
ステージ4:権威をともなう道徳心に目覚める時期
【レベルC】社会で確立したモラルに従う
ステージ5:約束を守る。他者を害しない。みんなの意見を聴くなどの法的概念の理解
ステージ6:個を確立し良心の原則に従った道徳心を抱く
コールバーグは実は「ステージ8」まで作っていたのだが、「大人ですら」ステージ5まで到達していない人がいる現状がある、としているのだ。
このコールバーグの見解には「ルールにとらわれすぎだ」という批判もあるのだ。たとえば、女子などは「あまえたい、かまってもらいたい」という育ち方をすることもあり、そのような女子にこのステージ理論を押し付けると「葛藤」を引き起こすともいわれる。
子供にとっての保護者の必要性は、その国の政治的あるいは社会的な条件にも依存するものだが、純粋な愛情から出た公正な保護を必要とするものと考えられている。子供が他の兄弟よりも冷遇されたとのちに考えるようになることが明らかであるような扱いでない限り、あまり神経質になることはない。保護者の存在が子供の道徳心に影響を及ぼすことになる。家族が子供に及ぼす影響は「家庭の倫理学」として研究されている。しかし、子供の「最善の利益」を常に保護者に要求するわけではないことをアメリカやイギリスは認識したのだ。12歳のグレゴリー・キンズレーという少年が恵まれない境遇の中で育ち、この年齢でありながら家庭裁判所に「養子縁組」の申し立てを立派に行ったことが有名になり、必ずしも、親の育て方は子供にはあまり関係ないのではないかとされた。極端な研究では、難病の子供が「自分の避けられない死」を親と話題にもせずに生活できる事例を研究した人もいる。必ずしも「育て方」「家庭の倫理学」は「最善のもの」でなくてもいいのではないかという研究なのだ。
子供の描く芸術は、どんな大人よりも「子供らしい」というところに価値がある。20世紀の有名な芸術家で、子供の作品のコレクターもいたそうだ。親は、子供が描いたものを無条件に受け入れ、冷蔵庫に自由に落書きをさせるのがアメリカの慣習でもある。子供が物事を「表現する」のは「大人にするのを助ける」という意味があるようだ。しかし、ゲームや楽器などの環境にどんなに恵まれても、さほど意味はないようだ。ある哲学者は、「夢が人生をどの程度実際に反映しているかは割り引いて考えなければならない」とし、子供時代がどのようであれ、成熟した大人にとっては「夢のような」効果を現在に与えるに過ぎないという指摘もある。
子供と親の会話の事例集があるが、あくまでもこのような要領で相手をしてやればいいという意味のようだ。深く考えることはないのである。

子供「お父さん。僕が今見ているのは夢なのかなあ。全部夢なの?」
父「う~ん、まあ、夢を見ながら、これは夢だと言って回る人はいないんじゃないかな」

しかし、子供は時に哲学的な議論をすることが知られている。
先生「宇宙の始まりはありますか?」
子供「それはビッグバンです」
子供2「でも、ビッグバンも宇宙の中にあったんじゃないか。」
子供「ビッグバンの前には何もなかった。地球にも太陽にも星にも始まりがあるよ。宇宙にも始まりがあるよ」
子供2「世界はどこにでもあるし、宇宙もどこにもあるよ。始まる前にも宇宙はあったよ」
先生「では、ビッグバンの前の宇宙はどんなふうなものなのかい?」
子供2「それは僕には分かりません」

このような議論は、大人の議論のような洗練されたものではないが、「子供らしい」という意味で子供のお絵かきと同じように教育的効果があるとされる。あくまでも「子供を成長させる」ためのものであるという認識が必要なのだ。

児童文学に関しては、親にも教師にも、また子供にとっても哲学的な問いかけを子供の知性、社会性、道徳の方面から年齢のレーティングに応じて投げかけるものだ。いろんな技術を作家は持っているだろうが、哲学的な問いかけや風刺というものの価値が問われるという評価は可能だろう。子供が追いかけているのは「ストーリーの一貫性」だけであり、そこにどのように子供の心に働きかける問いかけを含ませるかが作家の力量だと言える。
「子供時代」スタンフォード哲学百科事典

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