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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2011年3月

2011年3月29日 (火)

石井への挑戦状~デブでもできるボクシング

私のシャドウボクシング風景を公開します。携帯で撮影したので、方式は各自の方で対応願います。
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連打連打!
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スピードバッグ高速打ち
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ジャブの連打連打!
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左右のフックの覚え方(自説):大きく振って練習・実戦で小さく。
「EMS_0004.wmv」をダウンロード
実は「アッパーとフックの間には境界線がない」実践映像。
「EMS_0006.wmv」をダウンロード
レバーブロー。大橋も竹原もこの技術で人生が変わった。できるもんならやってみやがれ。
「EMS_0007.wmv」をダウンロード
コンビネーションブローの組み方は「二つのパンチの組み合わせ」の蓄積だ。一番簡単な例を挙げよう。「ジャブ+右ストレート」という二つのパンチがある。さらに「右ストレート+左フック」という二つのパンチがある。これを合体させると「ジャブ+右ストレート+左フック」という有名なコンビネーションブローが生まれる。さまざまなパターンが考えら、長谷川穂積は80種類程度を学習しているとされる。
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「右ストレート・回転型」
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「右ストレート・倒れこみ型」
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2011年3月22日 (火)

「嫉妬」の研究

大した問題でもないことを問題にしているとストイックな者は考える。
嫉妬は疑わしいものだ。
女性が持っているものと、ライバルはそのものがすでに完成されたものなのだから、他者が持っているものが不運な形でもたらされると、嫉妬したものが不幸になる。
その時に断罪があるだろう。
女性は、「ライバルがどんな素晴らしいものを持っているか?」表現するし、「私がどんな素晴らしいものを持っているか」を表現したい。
この危険性は、「人々の自尊心を失わせる可能性がある」ということだ。
「言い訳できるみんなの嫉妬」は、社会の秩序を悪化させる。
「ローカルな話ではないか?」という姿勢が重要だ。

嫉妬は非合理的で、非理性的で、悪意があり、「好ましくない」感情であるが、非常に複雑な感情であるとされ、分析してみると非常に興味深い。。政治哲学においては「嫉妬」は、突出するものをみんなで叩くことを意味するが、この原理は「全人類平等主義」という機能を果たしていることが指摘されているのだ。世界に天才などいない。みんな平等だ。そういう意味で「嫉妬は正義」でもあるとされる。「嫉妬」とは、対象が「もっているモノ」を、ライバルたちが持っておらず、その「モノ」が「良きもの」である時に起こる「感情」である。嫉妬は「感じるもの」ではなく「感情」なのだ。その「モノ」は、財産であったり、幸福であったり、心の状態であったり、いろいろなものが考えられる。「対象」「ライバル」「良きもの」の三つが嫉妬という感情を引き起こすのだ。この「良きもの」は、ライバルにも「もつ可能性があった・ある」ことを条件とする。常識的には「悪い感情」とされるが、政治の場では、別の説明がなされ、また、ロールズなどは「私の理論には何ら影響は与えない」と言っている。
アリストテレスは「嫉妬」とは「他者が持っている良いものに対して感じる痛み」と表現した。
カントは、嫉妬とは、自分に何ら害を与えるものではないにもかかわらず、他者が持っている良きものに対して抱く感情であり、他者が持っている良きものに自分が落胆させられることを言うとした。人間は自分がどんな生活をしているかを他者と比較することで確認しており、人間は内心では他者の資産を破壊したいと考えているとする。
アダムスミスは、嫉妬とは、本当にそれに値する資格がある人が持っているモノに対して、資格を度外視して人々が抱く劣等感である、とした。いろいろな哲学者が論じてきたのだ。
嫉妬とジェラシーはどう違うか、という問題がある。通常は同じ意味だろうと思われるが、厳密にいうと違うのだ。嫉妬は「対象者」「ライバル」「良きもの」の3つが存在すると言ったが、ジェラシーは「3人の登場人物」が存在するのだ。つまり、「対象者」「ライバル」「愛されている人」だとされる。良きものと対象者の間に「愛情」が存在することがジェラシーなのだ。ジェラシーを抱く人は「愛されたい」と願うのであって、3人の登場人物がいる。しかし、嫉妬の場合は「良きもの」が人でない限り、2人の人物でも成立するのだ。概念上はそのように区別することができる。ジェラシーは「愛されている人」が「愛を失いたくない」として抱くこともある。いろんな意味で「嫉妬」とは区別される感情なのだ。「嫉妬」には、「救いようのない」悪意のあるものもあるが、なかには「好ましいのではないか」とされる多様な形態の嫉妬が存在することが明らかになっている。ライバルを一層努力させ、競争させる効果がある嫉妬は正当化できるし、魅力的でもあるのだ。しかし、「救いようのない」悪意のある嫉妬は魅力的ではありえないのだ。嫉妬は「対象者」「ライバル」「良きもの」の三つの要素からなるとされるが、厳密には必ずしもそうとは言い切れないことが分かっている。女性が他者の綺麗な洋服に嫉妬する。男が隣の家のメルセデスに嫉妬する。厳密にはそのような働きをすることがある。それは「洋服」「メルセデス」に価値を見出す人により異なるものなのだ。人々は、美徳と強い意志によって嫉妬を克服して何かを獲得した人を「好ましいもの」と考える。このような人が獲得したものを「失わせよう」と考える人はほとんどいない。高潔な発想で何かを獲得した人は人々に「何か」を与える役割すら果たす。このような人にまで嫉妬する行為はネガティブにとらえざるを得ないだろう。大事なのは「嫉妬には好ましいものがある」という事実だ。
嫉妬と憎悪というのも似ている感情だ。しかし、憎悪は道徳的な感情であり、何ら生産的ではない。嫉妬という感情は「道徳的評価」を必ずしも受けない感情であるという意味で憎悪とは異なるとされる。このように、全人類平等主義とは異なる次元で、嫉妬は道徳的評価を必ずしも受けない感情であるという理解が大事だ。一般的には「悪い感情」だと思われていても、好ましい感情もある。不平を嘆き、嫉妬する「救いようのない」悪意をともなう場合もあるのだ。
以下では「嫉妬の合理性」についてさらに探求してみようと思う。
人々の感情を推し量り、何かアドバイスを与える場合には、その感情がどれだけその人にフィットする感情かを把握しなければならない。そういう意味では「嫉妬」という感情を人に薦めるのは好ましいものではない。自尊心を失わせたり、嫉妬を抱いた自分に嫌悪感を感じさせたり、何らかのマイナスの影響を与えてしまうことがあるからだ。しかし、嫉妬がモチベーションに代わることが明らかな場合は確かに存在するのだ。嫉妬の対象者が持ち合わせていて、自分に欠けているものがどれだけ明確かを正確に理解しているのならば、嫉妬という感情は非常に合理性を持った感情に化けることがある。問題は、感情を引き起こす要因が明確であることであり、その明確さが現状を打開して環境を変えていくうえで有効に機能することがあるということだ。
この「感情がどれほど明確か」という問題は、ライバルにとって嫉妬という感情が自分の利益になるか否かの死活問題であるために、アメリカの哲学者も膨大な研究を行っている。以下に述べようと思う。
嫉妬の対象者が持っている「良きもの」とは、その周囲の状況の解釈、評価、考え方、受け止め方によって「良きもの」とされるものだ。しかし、たとえば人間が「ハッタリ」に怯えたりするように、本当は存在するかははっきりしないものにも人間は「嫉妬」するといわれる。まるで共同幻想のように「あるのかないのか分からない」ものにもまで人間は嫉妬することがあるのだ。基本的に「人間の差異」というものを否定的に考えるのが「嫉妬」という感情であるが、この「差異」が人々に広く受け入れられているときはあまり嫉妬という感情は生じないのではないかとされる。対象者が良きものを持っていたところで、ライバルは何ら危険にはさらされないのだ。自分に何ら危害を及ぼすものではないし危険ではないのに人間が生じさせる感情が嫉妬の本質だと言っていい。哲学者の多くは、「嫉妬」という感情を「不合理な感情の典型」と位置付ける。自分の心が落ち着かない状態を意味するとする。世界の出来事の自分にとってたいして問題ではない物事を問題にするようなものであり、哲学者はストイシズムに解決法を求める人が多い。嫉妬という感情は人々が持っているものの違いを悪しきものとする考えが基本にある。
また、嫉妬の解決法は端的に言うと、対象者ではなくライバルの方が「良きもの」をもつようになるか、両者ともに良きものを持たないかの二通りしかない。「良きもの」が両者にないよりもどちらかにあったほうがいいと一般的には言える。しかし、これはどのように、全世界の納得を得る形でライバルが良きものを獲得するかという問題をともなう解決法となるのだ。もし、対象者が与えられた「良きもの」を、イージーな手段でライバルに移転したらそのライバルは何らかの審判を受けると言える。たとえば財産を守る罪に該当したりする。結局は、急進的な「全人類平等主義」というありえない選択肢を追求することにもなりかねないのだ。強引に人から物を奪いたいという解決法を望む「嫉妬」は、むしろ、本来異なる概念である「憎悪」と感情が類似しているのではないかともされる。
「嫉妬」は、本来「良きもの」を持っている対象者(嫉妬を受ける側)にも悪影響をあたえてしまう。自分が「良きもの」を持っているのが悪なのではないかという感情を引き起こすのだ。彼は何ら悪いこともしていないのに、存在しない「悪」を突きつけられてしまう。これは何ら生産的ではない。
結局、「嫉妬」を考察するうえで「幸福」とはなんであろうかという考えが重要になってくるのだ。それぞれの人が異なる価値観や能力を持って異なる立場で生活している以上、「傑出した人」が生み出したものが人々を幸せにすれば、嫉妬される側も幸福になるし、嫉妬する人も減っていくであろうという議論は可能であろう。
以下では「嫉妬に正義はあるか」について簡単に論じてこの論考を終わりにしようと思う。
【つづく】
「嫉妬」スタンフォード哲学百科事典


2011年3月18日 (金)

国盗り物語

法学教室の2007年4月号~2008年3月号の連載「行政組織法・公務員法」宇賀克也をにらみながら、今後も各官庁に電話を打ち込むことにする。今晩はまだ時間があるので今までの総括を行いたい。
たとえば、県知事のようにかなり偉い人の権限とされている判断を、知事の名において、しかし実際には課長が処理する権限を内部的に委任しているような例は多く、これを「専決」と呼ぶのだ。この場合は「課長クラスを相手にすればいい」ことになる。
一方で「代決」というのがある。これは、決裁権者が出張または休暇その他の事故により不在であるとき、特に至急に処理しなければならない決裁文書について、局長の決裁事項であれば総務課長、課長の決済事項であれば総括課長補佐のように、決裁権者のあらかじめ指定する直近下位者が代理の意思表示をして決済することを意味する。代決したものは事後すみやかに決裁権者に報告しなければならないのだ。しかし、実際はこの代決が「内部代理」として用いられることが多く、軽微な事案では「常時代決」というのも行われている。しかし、あくまでも直近の部下がやることなのだ。
上司の違法な訓令にしたがった場合、「上司に言われた」という言い訳で常に懲戒処分を免れるというわけではない。形式要件を欠く訓令にしたがう義務は負わないのみならず、したがわない義務すら負う。宮崎県では、上司に犯罪行為に該当する訓令を受けた場合は、他の上司への相談や公益通報を義務付ける職員の倫理規定を設けている。この規定に違反した場合は懲戒処分の対象となる。(2007年9月施行)
大臣官房には「官房3課」と呼ばれるものがある。「文書・人事・会計」だ。
文書においては「内閣法制局」が代表例だ。法律面での重要な管理機能を果たす。
人事においては「総務省行政管理局」「人事院」が代表例だろう。
会計においては「財務省主計局」「財務省理財局」が重要な役割を果たす。
どの「総括管理機関」もこの「文書・人事・会計」の役割を基本として持っているのだ。
「ボトムアップの一例」
たとえば組織のボトムアップは以上のように行われる。
係長→業務担当補佐→法令担当係員→法令担当補佐→総括補佐→主管課長→総務課法令担当係員→総務課法令担当係長→総務課法令担当補佐→総務課総括補佐→総務課長→審議官→局長というルートで起案書が順次回覧されていくのだ。
この決済で組織の意思が確定していく。これが「稟議制」の基本だと言っていい。
内閣府には「防災担当」の政策統括官がいるようだ。特命担当大臣を補佐し、重要会議に関する会議の事務局としての職務も行っている。
内閣府は「知恵の場」・内閣官房は「戦略の場」と呼ばれるが、内閣官房は、内閣の統括機能全般を補佐し、その企画立案・総合調整機能は特定事項に限定されず、行政各部の施策のすべてにわたるとされる。なにかあったら内閣官房が頼りになるのはこの点にあると言える。
内閣府の「特別の機関」に「日本学術会議」というのがある、この日本学術会議は「学者の国会」とも呼ばれ、学問の尊重の観点から内閣総理大臣の所轄のもとにおかれ、職権行使の独立性を保証している。なにかあったらここに相談するのも手かもしれない。
以上、ポイントをまとめてみました。東京大学の宇賀克也先生に感謝します。

2011年3月16日 (水)

中国と戦後補償の理論

「日中戦後処理:外務省と最高裁の異なる見解」
まず前提として、全面戦争に突入した日中間の戦争がいつ終結したのかという議論があるが、「日華平和条約により終了し、これを一回限りの処分行為としてサンフランシスコ条約・日華平和条約・日中共同声明を密接不可分のものとする」三位一体論が存在するが、最高裁はサンフランシスコ条約を中国と結びつける論理として採用したのが「サンフランシスコ条約枠組み論」であった。
日本の戦後処理を決めたのはサンフランシスコ平和条約であるが、サンフランシスコ講和会議には中華人民共和国は招聘されておらず、締約当事国にはなっていない。日華平和条約は、日本と中華民国との間で締結された条約であって、これをそのまま中華人民共和国国民に適用できるものではない。それを踏まえて、サンフランシスコ平和条約と、平和条約の実質を有する日中共同声明をどのように解釈するかが問題となった。
外務省は比較的早い時期に見解を示している。
1951年10月26日の国会答弁で西村熊雄条約局長は、「サンフランシスコ平和条約の拘束を受けないで自由に日中間の平和解決ができる」と答弁した。その背景には、日本が平和条約と同一または実質的に同一の条件で非署名国と二国間条約を締結する義務は、平和条約の効力発生後三年間に限られる、とされており、三年間経過後は「いかなる内容の条約も締結できる」と解釈した前原光雄教授の見解が背景にあった。これは「日中共同声明五項に、明記されていない中国国民の加害者に対する損害賠償請求権の放棄までは認められない」とする主張の根拠とされ、広島高裁もこの立場をとった。個別的な請求権を認める立場だ。
最高裁は、「広島高裁判決の誤り」を指摘し、「サンフランシスコ講和条約一般の解釈論と戦後処理の枠組み論」を示している。この「枠組み」の中で、日中共同声明第五項を、日華平和条約11条および、サンフランシスコ平和条約14条(b)による、「中国国民の日本国およびその国民に対する請求権の『放棄』を含むものとして、中華人民共和国がその『放棄』を宣言したもの」と判示した。
最高裁は、ベルサイユ条約の失敗を引用し、当事国がその国内部での調整を経たうえで、国家間で統一的に解決を図ったものである、ということを前提とし、被害を受けたその国民は、賠償を受けた当該当事国の国内問題として、各国がその財政事情等を考慮し、救済立法を行うなどして解決するもの、としたのだ。
この論理は「サンフランシスコ条約の枠組み」と呼ばれる理論で、「日中共同声明において、戦時賠償及び請求権の処理について、サンフランシスコ条約の枠組みと異なった取極めがされたものではない」とするものであり、いかなる理由で「非当事国」である中国をこの枠組みに組み入れるかに関しては、「公表されている日中国交正常化交渉の公式記録や関係者の回顧録等に基づく考証を経て、今日では公知の事実となっている交渉経過等を踏まえて」考えた、とした。
わが国は、オランダ人元捕虜等事件をきっかけに「外交的保護権のみ放棄論」から「請求権放棄論」へと転換したとされるが、この最高裁判決はそれを基本にしながらも、「個別的請求権に関しては、債務者側において任意の自発的な対応をすることは妨げられない」と結論付けた。
もともと、日本は6年半にわたって占領下におかれ、日米安保条約・日華平和条約・日韓基本条約を含めて「なし崩し的にサンフランシスコ体制を構築」したと中国は認識し、周恩来外交部長は、対日講和会議以前から「日本帝国主義を復活させ中ソを敵視し、アジアに脅威を及ぼし、新たな侵略戦争を準備する条約に他ならない」と強く批判してきたのだ。これが「占領下にある日本」に対する中国の見方だった。しかし、占領下にあった時と1972年9月の日中共同声明の時では国際情勢は大きく異なる。占領下にあった時は、日中ともに「同じ認識」をしていたのだが、西松事件最高裁判決においては、現状に合わせて、外務省見解とは異なる解釈を最高裁はとったことになる。
法律時報80巻4号「サンフランシスコ条約と中国」五十嵐正博

自然災害と「心」の問題

自然災害体験者のうち、PTSD(外傷後ストレス障害)に罹患する人は男性では3.7%、女性では5.4%とされる。PTSD以外にも、うつ病やパニック障害、社会恐怖、アルコール・薬物関連障害などの精神疾患の有病率も数値は明らかではないが高くなるとされる。PTSDの治療で有効だとされているのは二つある。
(1)選択的セロトニン再取り込阻害薬(SSRIs)による薬物療法。
(2)トラウマ体験への暴露を含む認知行動療法。
であるが、現在の日本の精神医療ではどちらも使いにくいとされる。SSRIsは、現在日本では、うつ病、抑うつ病、強迫性障害、パニック障害などでは保険適応されているが、PTSDの疾患名での保険適応はなされていない。日本でのPTSDの有効性を示すエビデンスが十分に報告されていないからだ。PTSDは合併疾患の多い疾患であり、約80%が何らかの精神疾患と合併する。そのため、うつ病の薬として処方されたりするのだ。精神医療の現場では、70%の医師が「PTSDでの保険適応が必要」と答えている。退役軍人のような集団を持たない日本ではこのような現状があるのだ。認知行動療法は1回90分から120分を必要とし、10回から12回のプログラムを行う。そのため多忙な精神医療の現場ではコストに見合わないのだ。「通院精神医療法」に該当し診療報酬点数は1回330点から360点だ。いい加減な療法を適当に20分やってもこの診療報酬は請求できてしまう。現場でしっかりと120分の認知行動療法を行おうと積極的になる医療機関はないのだ。また、臨床心理士が行った場合は全額自己負担で1回1万円にもなる。診療報酬の改定も必要となるのだ。
ジュリスト2008年3月1日号「犯罪被害者への精神医療に関する検討会報告の役割と課題」中島聡美

2011年3月15日 (火)

防災と行政の仕組み

2005年に「国民保護法」というのができていて、各行政全般の問い合わせはともかく、「自分の安全」に関する情報は「総務省-消防庁」が担当だ。その消防庁が国民目線で防災に果たした役割は大きい。
2009年に首相官邸の危機管理センターに「情報連絡室」が設けられた。消防庁は、国民保護や防災・地方自治体との連絡調整の役割を「国民保護・防災部」で行っていたが、この部署の「国民保護運用室」に「情報連絡室」を置いた。国民保護運用室は、地方自治体との連絡調整を行うものだ。国民が「電話相談」できる部署ではなく、行政としての連携を図る部署であり、警察・消防を中心とする災害対策を実施する場合は「応急対策室」あるいは「防災情報室」を設置する。このシステムは2009年に北朝鮮が弾道ミサイルを発射した時に出来上がった国民目線での災害対策システムだと言っていい。日本政府は、北朝鮮を巧みに利用して日本のシステムを構築したことになる。
すべての通信手段が麻痺したら、携帯で消防庁の「防災情報室」に電話を打ち込むしかないかもしれない。アメリカの2001年の9・11テロを受けて、消防庁は各都道府県に「危機管理指針」の策定を求めた。2009年に北朝鮮の弾道ミサイル落下の危険にさらされた岩手県はこの時策定した「危機管理対応方針」にしたがって対応している。一方で、災害に関しては「災害対策基本法」というのがあり、各都道府県は都道府県地域防災計画を作っている。岩手県の事例では危機管理指針にしたがった「総合防災室」が県内の防災の主導的役割を果たしている。しかし、危機管理指針は消防庁が都道府県に策定を求めた内部の指針であり、条例や行政の長の定めた規則ではないという側面もあるのだ。
現在は中央集権型の防衛法制にしたがって防災も行われており、これを地方自治型の警察法制に切り替えていかなければならないということは言えるであろう。「地元の電車が止まった」なんてことを中央政府に言ってみても無意味なのだ。地方自治型の方がうまく機能するのだ。
法律時報81巻9号「事態対処法制と災害対策法制~そのはざまの問題」市橋克哉

2011年3月 9日 (水)

「子供」の研究

子供に関しては科学哲学や、歴史哲学、宗教哲学などの分野でも今まで語られてきたものであるが、たとえば芸術哲学においてとりわけ、関心がもたれてきた。児童文学であったり、絵本であったり、絵画であったりで、子供というものが関心の対象になってきたのだ。この論稿では、子供がどのように認識を発展させていくか、モラルを発展させていくか、子供にとって「良いもの」とはなにか、子供は社会のどこに位置づけられるべきかを研究してみたい。
中世においては、子供というのは「小さな大人」と位置付けられてきた、また、地域によっては呪術信仰の対象になってきたところもあるが、子供の研究においては太平洋の島嶼地域における「子供の呪術信仰」は存在自体タブー視されているようだ。アリストテレスは単純に「人体が未成熟・未発達な存在」と位置付け、現代の我々は常識的にアリストテレスの考えを受け入れているとされている。しかし、教育の現場では、ルソーを出発点とする「段階(ステージ)理論」というものがあり、たちまちこの分野の主流として理論が精緻化されていった。子供は、成長するステージがあり、どんどんそのステージをあがってくるという考えだ。我々は、子供の「能力の欠如」に着目するのではなく、たとえば「外国語を覚えるのが早い」とか「芸術の領域での能力」とかさまざまな点に着目すべきであり、また、大人と子供の「コミュニケーションの可能性」にももっと着目していいのではないかとされる。
子供がどのように認識を発展させるかは古典的な議論としてはデカルトが自己と世界の区別がつくようになるというモデルを作ったが、ジョン・ロックがこれに着想を得て、「白紙」の状態に知識や理性を描いていくのが子供だろうとした。プラトンのような「子供は前世で知っていたことを思い出しているだけだ」などという議論は痛烈な批判の対象となったのだ。
しかし、研究が進むにつれ、子供の認識は「言語」と不可分なものなのではないかとされるようになった。時間・空間・物事の因果関係の認識は言語の発達とは切り離せないものと考えられたのだ。
ステージ理論もたとえばこのような「ステージ」が想定できる。
①生きるということは「活動一般を意味する」
②生きるとは「動くことである」
③生きるとは「自発的に動くことである」
④生きることは「動物と植物にだけ与えられるものである」
幼児教育においてはこのようなモデルの提示が試みられたが、さまざまな論争を引き起こすことになった。ハイハイから始まって、お遊戯から始まって、自分で考えて動くことへ移行し、動植物を育てる、という幼児教育のモデルは、しかし子供の研究においては重要な指摘だった。20世紀に入り、我々はもっと子供を顧みてもいいのではないか、それだけの基盤は整ったのではないかとされたのだ。また、子供は知的な領域では、自分を満足させたり、必要に駆られて学習するのではなく、「型にはめられた」知識を学習することから始めるとされる。高度な知識に対応する能力に関して子供が大人に劣るのは現実であり、複雑さや完全さという意味では大人にはかなわないし、型にはめられたものを学習するという手法をとる以外に「高度な知識」は学習できないのだ。

モラル(道徳心)の涵養に関しては、古典としてはプラトンもカリキュラムを組んでいるし、アリストテレスは、体系的な倫理学の本を残している。また、多くのストア派哲学者たちが、ダイナミックにモラルの涵養に関する分析を行っていた。
ルソーは、モラルの涵養の領域においてもステージ理論の構築を試みている。
基本的に5段階に分けた。
①生後から2歳まで
②3歳から12歳まで
③13歳から思春期(性的成熟)まで
④思春期から20歳まで
⑤21歳から結婚・社会的責任がともなうまで
ルソーはこの研究で興味深い指摘を行っている。幼児にしつけをするのは当然のことであるが、子供が「道徳心」という概念を明確に理解するのは13歳ごろなのではないかとするのだ。それ以前に道徳心を確立することを子どもに要求するのは「無理である」としている。この考えは必ずしも正しいとは言えないが、モラルに関する「ステージ理論」の基盤としてその後の理論が形成されていった。
コールバーグという哲学者が、このステージ理論を6段階に精緻化した、
【レベルA】前段階
ステージ1:しつけや服従に適応する時期
ステージ2:ナイーブに物質的な享楽を望む時期
【レベルB】日常のモラルに従う
ステージ3:良い子として他者といい関係を築き上げ、承認してもらいたい時期
ステージ4:権威をともなう道徳心に目覚める時期
【レベルC】社会で確立したモラルに従う
ステージ5:約束を守る。他者を害しない。みんなの意見を聴くなどの法的概念の理解
ステージ6:個を確立し良心の原則に従った道徳心を抱く
コールバーグは実は「ステージ8」まで作っていたのだが、「大人ですら」ステージ5まで到達していない人がいる現状がある、としているのだ。
このコールバーグの見解には「ルールにとらわれすぎだ」という批判もあるのだ。たとえば、女子などは「あまえたい、かまってもらいたい」という育ち方をすることもあり、そのような女子にこのステージ理論を押し付けると「葛藤」を引き起こすともいわれる。
子供にとっての保護者の必要性は、その国の政治的あるいは社会的な条件にも依存するものだが、純粋な愛情から出た公正な保護を必要とするものと考えられている。子供が他の兄弟よりも冷遇されたとのちに考えるようになることが明らかであるような扱いでない限り、あまり神経質になることはない。保護者の存在が子供の道徳心に影響を及ぼすことになる。家族が子供に及ぼす影響は「家庭の倫理学」として研究されている。しかし、子供の「最善の利益」を常に保護者に要求するわけではないことをアメリカやイギリスは認識したのだ。12歳のグレゴリー・キンズレーという少年が恵まれない境遇の中で育ち、この年齢でありながら家庭裁判所に「養子縁組」の申し立てを立派に行ったことが有名になり、必ずしも、親の育て方は子供にはあまり関係ないのではないかとされた。極端な研究では、難病の子供が「自分の避けられない死」を親と話題にもせずに生活できる事例を研究した人もいる。必ずしも「育て方」「家庭の倫理学」は「最善のもの」でなくてもいいのではないかという研究なのだ。
子供の描く芸術は、どんな大人よりも「子供らしい」というところに価値がある。20世紀の有名な芸術家で、子供の作品のコレクターもいたそうだ。親は、子供が描いたものを無条件に受け入れ、冷蔵庫に自由に落書きをさせるのがアメリカの慣習でもある。子供が物事を「表現する」のは「大人にするのを助ける」という意味があるようだ。しかし、ゲームや楽器などの環境にどんなに恵まれても、さほど意味はないようだ。ある哲学者は、「夢が人生をどの程度実際に反映しているかは割り引いて考えなければならない」とし、子供時代がどのようであれ、成熟した大人にとっては「夢のような」効果を現在に与えるに過ぎないという指摘もある。
子供と親の会話の事例集があるが、あくまでもこのような要領で相手をしてやればいいという意味のようだ。深く考えることはないのである。

子供「お父さん。僕が今見ているのは夢なのかなあ。全部夢なの?」
父「う~ん、まあ、夢を見ながら、これは夢だと言って回る人はいないんじゃないかな」

しかし、子供は時に哲学的な議論をすることが知られている。
先生「宇宙の始まりはありますか?」
子供「それはビッグバンです」
子供2「でも、ビッグバンも宇宙の中にあったんじゃないか。」
子供「ビッグバンの前には何もなかった。地球にも太陽にも星にも始まりがあるよ。宇宙にも始まりがあるよ」
子供2「世界はどこにでもあるし、宇宙もどこにもあるよ。始まる前にも宇宙はあったよ」
先生「では、ビッグバンの前の宇宙はどんなふうなものなのかい?」
子供2「それは僕には分かりません」

このような議論は、大人の議論のような洗練されたものではないが、「子供らしい」という意味で子供のお絵かきと同じように教育的効果があるとされる。あくまでも「子供を成長させる」ためのものであるという認識が必要なのだ。

児童文学に関しては、親にも教師にも、また子供にとっても哲学的な問いかけを子供の知性、社会性、道徳の方面から年齢のレーティングに応じて投げかけるものだ。いろんな技術を作家は持っているだろうが、哲学的な問いかけや風刺というものの価値が問われるという評価は可能だろう。子供が追いかけているのは「ストーリーの一貫性」だけであり、そこにどのように子供の心に働きかける問いかけを含ませるかが作家の力量だと言える。
「子供時代」スタンフォード哲学百科事典

2011年3月 6日 (日)

日米を支える「巨大な経済ブレーン」

日米を支える巨大な経済ブレーンがこいつらの背景にいる。
「連邦準備制度理事会」
http://www.federalreserve.gov/
「米議会予算局」
http://www.cbo.gov/
「商務省」
http://www.commerce.gov/
「米国労働統計局」
http://www.bls.gov/
「日本銀行」
http://www.boj.or.jp/
「経済産業省」
http://www.meti.go.jp/
「厚生労働省」
http://www.mhlw.go.jp/
「内閣府」
http://www.cao.go.jp/

ミクロ経済学さえ勉強すれば、あとはこれらの官庁が出す情報で「常識の範囲内で」経済の動向は理解可能なのだ。今の経済に不満があるとしても、それは、これらの経済ブレーンの「熟慮」の末に起きている事態であり、必ずしも政治の責任ではない。今、我々が考えなければならないのは、菅直人君の能力にも限界はあるだろうが、日本国全体の動向はまさに巨大な船であり、すべてを政治の責任にしてはならないということだ。現在、「巨大な経済ブレーン」を掌握しているのは民主党であり、「経済を完全にコントロールした国は存在しない」という観点からも菅直人君の長期政権を私は望んでいるのだ。

2011年3月 4日 (金)

「音楽」の研究

音楽の本質は「表現力」「理解力」「価値」にあると言っていい。表現する側も「価値を理解して表現する」。受け止める側も「表現力に感化されて価値を理解する」という仕組みかもしれない。楽器が他の雑音と区別されるのは「ホワイトノイズ」と呼ばれるサウンドを出していて、リスナーに暗喩的に特定のイメージを伝達する仕組みを果たしているようだ。音楽が表現される空間は「力のフィールド」と呼ばれる。ライブなんてのはその理屈で成立しているのだろう。アーティストは「楽曲制作において、サウンドに秩序を持たせることで、人々の経験を豊かにし、凝縮する」という作業を行っているとされる。音楽業界を見てみればわかるが、なかなか「革命的」なことは起こらない仕組みなのだ。「歴史を踏まえた保守的な」創作活動が音楽であるという特徴がある。この「豊かにし、凝縮する」という見解には「もっと気楽にやっている」などという批判もあるが、基本的にすべてのアーティストの悲願であり目標でもある。音楽を探求した哲学者の中には「沈黙」こそが音楽にとって重要な位置を占めるとする人もいるようだ。「表現」を聴いた後の沈黙にこそ人々は価値を見出すとするのだ。非常に深い考察と言ってよい。音楽を「仮想の対象との疑似体験」だとする人もいるが、すべてのリスナーがその楽曲をきいて同じポジションに自分の立場を置くとは限らないとされている。また「特定の見解をたとえ間違いであっても確立する効果がある」ともいわれる。楽曲のスペルが間違っていても、内容が虚偽であっても、それが「確立する」とされるのだ。どのような見解に立つにせよ、音楽が創作である以上「フィクション」を含むことは否定できないだろう。いずれにせよ、楽曲は表現されてしまえば「存在は否定できない」ものであり、現実と理想がないまぜになって作品として存在するのだ。存在論「オントロジー」という概念は哲学のどの分野でも語られるようだ。音楽による表現に関しては「行動理論」というのがある。「何か特別な」行動なのか「特定の種類の」行動なのかの対立はあるが、いずれにせよ、アーティストは「行動」を起こしており、この行動理論は非常に広がりのある論争となったことがある。現在のところ、音楽は「現実を抽象的に表現している」というリアリズムに立つ説が有力だとされる。しかし、技術を重視する説など様々な説があり、いずれにせよその国の主要な文化の構成要素であることは間違いないのである。

音楽には様々な時代背景がある。バッハのブランデンブルグ協奏曲第五番がハープシコードで演奏されることを想定していたことからもこれは明らかだ。では、現在においても我々はハープシコードで演奏しなければならないのだろうか。モダンピアノで演奏してもかまわないだろう。我々は、芸術表現において明らかにバッハの時代よりも恵まれた環境を享受しているのだ。音楽においては、求められる「水準」があるという説明と、単純に「良いもの」であるという説明がある。演奏技術を身に着けるのには「水準」が要求されるだろうが、それを重視するのか、あるいは「良いものだ」と評価するのかが問われる。音楽大学を脱落してセールスマンをやっていた男が、ショーで喝采を浴びたりする事例は、芸術的表現が「水準」ではなく「良いものだ」という評価を受けたことを意味する。演奏は、描かれた構図と正確な表現によってなされるという考えがあるが、ジャズは「即興」でなされるものだ。この「即興」と「作曲」も哲学者は議論した。しかし、即興であろうと作曲にもとづく演奏であろうと、芸術表現としては相対的な違いしかないのではないかと考えられている。ジャズが音楽の「存在論」への挑戦であったことは事実だと言える。しかし、特定の楽器により構成される表現である以上、それも限定的なのではないかとされている。ジャズが「作品」としての地位を認知されても、クラシック音楽の地位を否定することはできないだろうとされた。また、音楽の分析で有名なのが「リズム」「メロディ」「ハーモニー」だと言われるがこの分析も絶対的なものではありえず、懐疑論にさらされる宿命であった。懐疑論は主に、音楽の存在意義に関してはそもそも議論の余地はないとし、価値を論ずるのも、存在論を議論するのも、音楽の「芸術性」を高めるのに何ら寄与しないとする。しかし、我々は音楽の価値を論ずるからこそ、音楽の世界はより磨かれるものではないかとされた。同じ作品の演奏でもいろいろなアーティストの演奏を比較したり、評論したりするのも、芸術性を高めるためにやっているのだ。もっと根源的には、交響曲に着目した人もいる。交響曲は作品全体を評価するのであって、各パートの細かい演奏ミスなど気にしない。交響曲というものへの全体的なイメージを我々は持っているとする。音楽はイメージであるというのも「存在論」への懐疑論として用いられたのだ。音楽の「存在論」への懐疑的な考えはあるものの、音楽も含めてあらゆる文化に関して言えるのは「形而上学的」議論の展開の余地があるということだ。
以下、「音楽と人々の感情」の研究が展開される。

「音楽と感情」
まず、この問題を考えるうえで、なぜ音楽は人々の感情に影響を与えるのかという根本的な問題があるが、さらには、「なぜ悲しい感情を引き起こすことができるのか」というより深い探求がなされた。感情だけでなく「悲しさ」まで表現できるのだ。アーティストは、楽曲表現に「ふさわしい歌詞」をのせる技術を使っている。楽曲と、それにふさわしい歌詞というのがあるのだ。それも哲学的に研究された。それを以下、かなり膨大な研究であるが紹介したい。感情というのは心理学的な要素だ。感情と音楽のつながりの探求は、まず人間は感情を表現する、というのが基本にあるが、音楽はさらに「表現力」というものをいろんな技術で磨くことができる。たとえば、画を描く場合も、悲しさを表現するのに泣いている人を描く人はいないだろう。もっと複雑な表現手法で悲しさを表現する。音楽も同様に「表現力」というものが創作技術によって表現される。「頭にくるぜ」「やってられないぜ」という表現も確かに存在するが、これがどのような芸術的評価を受けるかは分からないし、技術的に優れているかも議論の余地がある。作曲家や演奏家が楽曲により感情を表現するわけであるが、演奏家や歌手の感情を離れて楽曲は独自に感情表現が可能なのであろうか。作曲家の言うとおりに演奏すれば感情は表現可能なのだろうか。さらには、演奏家や歌手が「経験したことのない感情」まで、作曲家は表現可能なのだろうか。このような議論が「表現理論」と呼ばれるテーマだ。表現理論によれば、もしへたくそな作曲家が自分の感情をうまく表現しきれなかった場合に、楽曲は一体何を表現することになるのだろうかと言われる。感情と音楽を議論するうえで形成された理論が「表現理論」だった。また、表現理論とは別に、楽曲を実際に人々に聞かせてみて反応を見るしかないとする「覚醒理論」というのも主張された。実際には存在しない「恐怖の対象」を楽曲に表現して人々に恐怖を引き起こしたりできるだろうか。そういう実践を人々に聞かせることでアーティストは常に観客の反応を見て学習するしかないというのが覚醒理論だ。しかし、その楽曲に観客全員が聞き入るのは、特別な才能を認められたアーティストにのみ認められる特権であり、誰にでもできる作業ではない。まさにアーティストの表現力が試されてしまうのだ。それがこの覚醒理論の限界だとされた。一方で、我々はもっと日常に立ち返って音楽を受け止めるべきではないかという主張がある。「観念連合説」と呼ばれる説は、たとえば、戦場でスネアドラムが兵士を鼓舞するように、楽器の音が単純に人々に何らかの作用を与えるのではないかとするのだ。難しく頭を悩ませてまで「表現」を探求する必要はないとするのだ。楽器やテンポを駆使するなどする手法が人々の感情に影響を与えるとするのだ。この理論は「覚醒理論」を基盤にさらに探求を進めたものだ。

「詩の研究」
ウォークマンを聴くときに、歌詞が「どんなキャラクターが」「どんなアクションをとっているか」を聴いてみるといい。その「キャラクター」と「アクション」が、生活や心を反映しているのが分かる。それを踏まえて聴いてみれば上達すると思う。俺もまだ研究中だけどな。歌詞が「恋愛ドラマ」なのか「コメディ」なのか「悲劇」なのかを考える。そのあとに「構成が統一されている」ことを知る。そういうのを踏まえたうえで、詩のフレーズを出来るだけ「クリーン」にするのだ。フレーズを選び「すべての情報は乗せない」という技術を使う。
そうやってテキストはまとめられていくのだ。

クラシック音楽というのは
「ハイドン・ベートーベン・ストラビンスキー・バルトーク」の「ハイドンカルテット」と「83人の弟子」が作り上げたものだ。
室内音楽においてはもはやこれ以上の作品は生まれないとされている。なぜなら「国家レベルの資金」を投入して作ったからだ。そういう音楽を少しでも聴いておくのはいいことだよ。
音楽というのは「力のフィールド」と呼ばれていて「魂と肉体を一つにする」のにちょうどいいからな。


「音楽」スタンフォード哲学百科事典





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「性奴隷」と批判した建前・・・

「エンタープライズ艦内でわいせつビデオ放映」
空母エンタープライズの艦内において、艦内限定のTV放映システムを使用してわいせつなビデオを放映していたことが明らかになった。これは空母の司令官が主導したものだったことから、問題になっている。司令官は「適切なものだとは思っていないが、長い航海の過程では必要であるという判断だ」と述べている。船員たちも「悪い冗談」と受け止めていたようだ。軍のモラルの低下が指摘され、批判されている。米軍の「体質」の問題として周辺国に認識されることを恐れているようだ。
ワシントンポスト3月4日付


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