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2011年2月15日 (火)

ボクシングと心の研究【第一部】

「ボクシングの心理学」
ボクシングにおけるボクサーの心の探求が本稿の目的である。ボクシングにおいてはまず念頭に置いておきたい「4つの前提」がある。もちろんこの「前提」をときには批判し、時にはこれらを基盤に理論を構築するのである。
① 人間の体は物質である
② 人間の心はスピリチュアルなものである
③ 心と体は連動する
④ 心と物事の結果は連動しない
これを前提に議論を進めていきたい。
ボクサーというのは「自分の肉体以上のものを望む」宿命を持った生き物だ。
一方で、ボクサーは自分の肉体の動きに何らかの「説明」を与えながら戦っている。肉体以上のものを望みながら、肉体に様々な説明を与えるという構造が基本にあるのだ。
「心と体の連動」の考察
デカルトは、心と体の連動に関して、心はそんなに体とかけ離れた存在ではないとした。体を正しく制御しているのであるからそんなに突拍子もなく体とかけ離れたものではないとするのだ。人間の体にたとえば動物の心を入れたら「突拍子もない」動きをするだろうとデカルトは推測する。しかし、人間の心はそうではない。
心と体には「連結」が存在し、原因と結果があると考えられる。デカルトの哲学においてはそのように簡単なモデルが想定された。
「自分の知らない動きはできない」
たとえば、ボクサーが「右を打て」「左を打て」と心で思ったことに肉体が同じように反応するだろう。心が「右を打て」と言っているのに体が左を打つことはない。これが何を意味するだろうか。ボクサーが用いる動作はすべてボクサーが心にすでに「想定済み」のものなのだ。自分が心に思い描いた物以上の動作はできない。
「相手の動きに反応する」
ボクサーが「自分から仕掛ける」という言葉がよくつかわれるが、通常は自分の動作に「ロック(鍵)」がしてあり、相手のなんらかの動作がこちらの様々な動作の「鍵」を外す作用を与えているのではないかともいわれる。これが「相手の動きに反応する」ということであり、私もボクサーの日々の練習から生まれる成果を超える論考を書くつもりはないのだ。
以下では「完璧なコンディション」とはどんな状態かを若干考察したのちに「心の問題」に立ち入っていきたい。
基本的に、ボクサーは劣勢の立場のボクサーでも「事実と異なることを思い込む」という反応をしている。あるいは「現実逃避」の問題であったり、人間の心が重層的にできていたりする問題が、ボクシングと深いかかわりを持つのだ。
「完璧なコンディション」の定義をしておこう。
「すべての肉体反応が、十分な肉体的理由を持つ」状態を「完璧なコンディション」と呼ぶ
人間は「体の動き」を学習したその人の歴史を持っている。ボクサーも当然そのような歴史を持っているのだ。肉体が「今までやってきたこと」に十分に反応するかどうかが「コンディション」の度合いだといっていい。
ボクサーはお互いに「相手の動きの蓋然性」に反応し合っている。私が以前語った「どうしても反応できない部分」もそのような複雑な展開の中から生じてくるのだ。「相手の動きの蓋然性」に反応している以上、「めずらしい動き」「独特な動き」には反応しづらい。これはメジャーリーグで岡島が通用したことでも有名だ。そういった意味ではボクシングでも「サウスポーの有利さ」が存在するかもしれない。人間の動作にもし「複数の決定要因」が存在したのなら、人間の肉体は「動けない」という仮説がある。相手の動きの蓋然性が複雑であり、予測不能であれば、こちらは動きを「選択」しなければならず、「複数の決定要因」をそのままにしていたら人間は「動けない」のだ。
このような「相手の動きの予測不能」「複数の決定要因が存在すると動けない」などの人間のメカニズムを考えると、ボクシングにおける「ガードを上げる」行為の合理性が説明できるのだ。
人間の動作に「複数の決定要因」が存在したら、人間は何らかの行動を「選択」しなければならず、選択できない人間は「動けなくなる」という現象を追求した哲学者を「デュアリスト」というのだが、とにかく「動けない」としかいいようがない。スタンフォード哲学百科事典では「それ以上の追求は行わない」としているようだ。ボクシングには「コンビネーションブローを組む」という作戦があるが、基本的に意図してそのようなものを組まない限り、人間の心に「法則」を見出すのはきわめて困難であるとされている。
心は物理的なものに影響を受ける。物理的影響と心の関係は「法則」で説明できる。レバーパンチの効果、キドニーの効果、ジョー・テンプル・チン、これらへの打撃の効果はボクサーが専門だ。しかし、物理的なものを離れた「心の動き」の予測には法則はない。これがボクシングの醍醐味でもある。この予測不可能な「心の働き」の分析をしようとした「高度な」科学は、人間の心の複雑さの前にことごとく敗北しているのだ。むしろ「低いレベルでの」心の分析のほうがより的確に人間の心を分析できるとすらいえるのが現状なのだ。むしろ、人間は自分の心の働きを「クセ」として外部に表現したり、その人特有の行動パターンとしての「クセ」が存在するということは一面的には言えるだろう
また、人間は「嘘」をつかれると、より高度な学習をすることが弁証論から説明できる。このことは「フェイント」技術がボクシング技術で占める重要性を説明するものだ。

・心の作用は肉体と相互に関わっている。
・肉体的な出来事は心に「厳密な法則のもとに」影響を与える。
・心の反応は予測不能だし説明不能である。

心と体の関係の説明は、この三つの原則の「緊張関係」で説明できるとされる。相手に殴られたら、自分の心がどう反応するかは「説明不可能」「予測できない」とされる。浜田剛史氏は「自信をもっていると効かない」というし、ファイティング原田氏は「根性」という。人間の心のリアクションを説明するうえでは「高度な科学」はことごとく敗北し、割と低いレベルでの「自信」「根性」という説明に屈しているのが最先端の研究でも明らかになっている。
物理学の世界も高度な説明さえしなければ「厳密なルールに従っている」といっていい。しかし、マテリアルワールドは同じでも心がどう反応するかは分からない。これを「変則的な一元論」とデービットソンは呼んでいる。
肉体的な出来事が心にどのように影響を与え、また、心で考えたことがマテリアルワールドにどのような影響を与えるかを決めるのは「トゥルースメーカー(真実創造機:TM)」が行っているのだろうとされている。手を挙げればタクシーが止まる、マッチをすれば火がつく。タクシーを止めるつもりがないのに道で手を挙げる人はいないだろうし、マッチを叩いて火をつけようとする人もいない。それらはすべて「トゥルースメーカー(TM)」という概念で説明しようというのだ。
我々の世界で、心と肉体の世界の間の「トゥルースメーカー(TM)」が、時に「それは事実ではない」という現実に直面することがある。この時に人間の心は新たな展開からの「学習」が始まるのだ。人間は、心と肉体、そして外部の世界の関係に「満足」していれば、「それ以上の学習はしない」とされている。相手を殴ろうとしてパンチが当たればそれ以上の学習はしない。パンチが当たらない、相手のパンチがよけられない。そういう経験から「心と肉体、外部の世界」の関係を学習しなおそうとするのだ。
「トゥルースメーカー(TM)」が思うように機能しない時に人間は、何が必要なのか、それに対応するためにどのような訓練が必要なのかを探求し始めるという指摘がなされた。これは、デービットソンの提示した理論に新たな展開をもたらした。
このことから、相手にパンチを当てる、相手のパンチをよける、などの訓練を積んだボクサーが蓄えたものは「資産」であるとされる。資産は「心」にも「肉体」にも蓄積されるのだ。単一的な「心と肉体」の理論から「満足できないこと」が生じ、そこから訓練・学習が行われ「資産」を獲得する。アスリートはこのような過程を経ているのだ。
ボクシングの世界を支配するのは「物理学」である。しかし、心の探求をしなければ分からないことが多い。パンチが「効いた」というのがどういう状態かは物理学のみでは説明できない。「俺が倒れるつもりがなければ倒れない」と思っているボクサーが勝つのではないかという疑問にどうこたえるのであろうか。
今後もこの論稿は続けたい。

参考:スタンフォード哲学百科事典「心の作用」

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