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2011年2月 4日 (金)

愛の探求(総集編)

スタンフォード哲学百科事典で「愛」に関する現代哲学の最高水準の研究を調査してみた。エロスというのは「相手に個性がある」「欲望と結びついている独善的なもの」とされているが、アガペーというのは「相手に価値があろうとなかろうと生じる」「相手の個性に関係ない」感情であるとされる。アガペーこそがキリスト教の伝統で語られる「愛」なのだ。「価値があろうとなかろうと」愛するというのがキリスト教の本質だ。そういう観点は「異性を愛する」ことと「家族・友人を愛する」ことの違いから発見されたのだ。「愛」には「エロス」「アガペー」「フィーリア」があるとされるが、「アガペー」こそがキリスト教で言われる「愛」だが、では「国を愛する」というのはどうだろうか。性的情熱にもとづくものでもなく、かといって、国家には個性がともなうのでキリスト教で言われる「愛」ではない。これを「フィーリア」と分類するのだ。一応、「愛の研究」はこの三つの概念をめぐって展開されるのだ。「価値のないものを愛する」という行為は、「愛の対象に価値を与える」とされる。これはキリスト教における核心ともいえる考えなのだ。
しかし、現代の哲学者は、ここで思考停止するほど怠慢ではなかった。さらに議論を進め、「共同体に存在する愛」「愛の衝突」「愛の価値」「人間の感情」の四つに議論が収斂していったのが現代哲学の「愛」の議論だ。
「愛」には「深さ」が存在するだろう。
「我々」という意味の中にも愛は存在するだろう。
愛は衝突することがあるが、それは「愛の深さ」や「長続き」するかどうかと密接に結びついているだろう。
「価値のないもの」を愛するのが人間の素直な心なのだろうか。
このような観点が分析しきれれば「愛」に関する現代の哲学の到達点だといえる。
共同体と愛の関わりの研究は興味深い。人は他人に愛されることで存在する。さらに、「一組のカップル」を想定してみても、二人はそれぞれ「個」であるが、それぞれが自分の共同体に属している。会社であったり、地域のコミュニティーであったりだ。二人ともその共同体で認知されているから、そのカップルは「ゼロサムゲーム」を演じてはいない。どちらかが提供しどちらかが受け取る関係にはなっていないのだ。お互いが共同体を背景に相手にいろんなものを提供し合っている。そういう意味では、夫が給料を持ってきたのなら、妻は「奥様方」の話を提供したいと思うのもモデルとしては成り立つかもしれない。いずれにせよ、各自が属する共同体から得られるものをカップルが内部に持ち込む構図が出来上がっている。人間が社会的存在であることから「一組のカップル」を分析した一つのモデルと言える。このことは、日本政府が「女性にも仕事を持ってもらいたい」と考えている国策の基盤として念頭においてもいいだろう。
人間はそれぞれ自分がやりたい趣味や活動がある。一方で、自分が愛する人の利益になる存在でありたいと思う。逆に、愛する人が自分の趣味や活動を制約しあいながら存在せざるを得ない。この「制約」がうまい具合に節度を保たなければならない。そうでなければ愛は衝突を起こすのだ。たとえば「愛する人が死んだ」事例を考えてみればいい。死んだ人はもはや二度と自分を制約しない。だからこそ死者への追悼の思いは強いのだ。しかし、生きている人間同士はお互いに制約しあいながら存在している。その「制約」がうまくマッチしあったカップルの愛は永続するし、それが「愛の深さ」につながるとすらいえるのだ。
参考:「愛」スタンフォード哲学百科事典

中篇:「愛と価値の関係」
まず、「愛」はその人の価値を評価しているという側面の研究がある。では、その価値とはなんだろうか。「値段」ならほかの人と比較できるが、「尊厳」なら他者との比較はできない。問題は「なぜその人を愛するのか」「なぜ他の人ではなくその人なのか」という点にある。値段を愛する分には分析など必要がないくらいに簡単だ。しかし、その人の尊厳を愛したという場合は非常に難しい分析がなされる。この場合、まず「愛」と「尊敬」の区別もできないし、逆に言うと「犬が好き」という感情とも区別がつかない。尊厳を愛した場合はその人が今そこにいなくても感情は残存する。なぜその人を愛したかというのは、その人が持ち合わせているものに対して自分の感性が脆弱だったといえる。自分がその人を愛しているからと言って他の人もその人を愛するとは限らない。それが「尊厳」を愛するということだ。そういった意味では「美男美女」という尺度は「値段である」と言ってもいいぐらいの簡単な理屈であるといえる。
一方で、「愛」はその対象に価値を与えるという側面もある。そもそも「愛する」ということは何の目的もなく行われるものであるが、また、どのように正当化することもできないものだとされる。さまざまな快楽が得られるから「愛している」とは必ずしも言い切れないものがある。愛するということはその対象が「何に興味があるのか。何を考えているか」に関心を抱くことが基本にある。またその対象への「利益になるふるまいをしたい、守りたい」とも思うのだ。愛することはその人を「よく見る」ことから始まる。「何か意味不明なものにしたがう」というものではないのだ。対象をよく見ているのだ。愛は盲目ではない。いいところも悪いところもよく見て価値を与えている。しかし、なぜ価値を与えるかという説明はできないし正当化もできないとされる。ただ一つだけ言えることは「世界を肯定的にとらえている」ということだ。

後篇:「愛の複雑さ」
「愛」が「好ましい感情」であるというのは論を待たないと思われる。しかし、この「感情」がどのように形成されるかは非常に分析が難しい。「怒り」という感情にも対象があるが、原因は明確であるのが通常だ。また「恐怖」を特定の人に感じる場合も、自分に対して攻撃的な態度を取られたりした場合に生じる感情なので説明はたやすい。しかし「愛」という感情がどのように生じるのかは困難な研究が必要だ。「愛」というのは端的に言うとある種の「情熱」であると説明が可能だろう。しかし、「情熱」という感情は「外部の刺激によって人間に生じる」ものであることが明らかになっている。人間はつまり、外部の刺激によって「愛」という感情を生じさせているものと考えられている。「愛の研究」で非常に難しいのは「類似した感情が存在しない」というところにある。しかし、哲学者は、「愛の対極」にある感情である「憎しみ」という感情も「愛の研究」に取り入れた。「愛」と「憎しみ」は対極にある感情なのだ。もちろん「愛」が「好ましい感情」であることは明らかであろう。人間の「憎しみ」という感情の存在があるからこそ「愛の研究」は深まったといえる。
さて、「愛」に関する議論は核心に近づくほど混乱してくるのだ。大雑把に分けると、「愛は育むもの」と考える立場と「価値観があう」と考える二つの立場が考えられるのだ。どちらの説明も日本人に広く受け入れられているだろう。しかし「愛は育むもの」という説明は「愛」という感情を非常に複雑にさせるといわれる。たとえば、男女は常に「喜怒哀楽」をともにするわけではない。男が女をからかったり、女が男に冷たい態度を取って傷つけたりすることも愛情表現だとすると、「愛」という感情は、人間の個性によってかなり違う現れ方をすることがわかる。ましてや、「愛を育む」というと、カップルの歴史にまで立ち入ることになる。そこには、怒りや絶望、哀しみ、喜びなど様々なものも含むことになってしまう。この考え方は、愛という概念に「男」と「女」の二人の存在が必ず必要になることになる。双方が欠けても「愛」は存在しないことになるのだ。さて、それでは「価値観があう」という「愛」の存在はどうだろうか。この考えだと「愛は育むもの」と考えるよりも、よりシンプルに「愛」を説明できる。しかし、価値観というのもいろんなものを含むのであるから、いずれにせよ「愛の複雑さ」だけはどちらの立場に立つにせよ同じであることになるのだ。
注)この文章は、スタンフォード哲学百科事典の「愛」(Love)という項目を参考に私が編集したものです。


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