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2011年2月20日 (日)

カントってなに?【第一部】

カントは、なぜ「所与の命題」を設定することが必要なのかという観念論を探求した。
①まずは数学における命題の設定の探求
②つぎに、他の自然科学における命題の設定の探求
③そのうえで、形而上学における命題の設定の探求
なぜ、みんなが「当たり前」だと思っているものは設定できるのかを追求したことにより、カントの業績は後世に不朽の名を残すことになった。カントは、デカルト的な「自分に固有の領域が存在する」という言説を破壊した。その後に、超越論的な分析も破壊したのだ。カントは、目の前に存在するもの、をしっかりと受け止めようとしたのだ。時空を超える、空間を移動する、などという発想をバカげたものであるとしている。これがドイツ観念論哲学の基盤にあることは間違いない。我々は、目の前にあるもの、からいろんな知識を引き出しており、そこからいろんな想像を膨らましている。中には超越論的な議論を始める者もいる。しかし、あくまでも節度を保った議論が必要であるとして、それを「理性」に求めたのだ。日本人は「超越論的な飛躍」を好む人が多い。冷静な議論を求める法学者が「ドイツ」を志向する理由はおそらくカントが基盤にあるのだと思う。形而上学とは「神聖なるもの」を発見することを最終目的としているが、カントは「自分で感じることができるもの」を欠いた概念は空虚なものであるとする。
前提にもとづいて構築された理論から前提を外して、理性によって再構築する。これがカントの学問の核心と言ってもいいのだ。
カントは「形而上学的議論に前提条件が与えられるのならば、”絶対的無条件”も当然存在する」とした。これは今までの形而上学の議論が誤りを含むことを白日のもとにさらすのみならず、超越論のまぼろしに攪乱されていたことも示すものだった。知識というものは我々にとって経験可能なものでなければならないとカントは考えた。しかし、超越論的な「まぼろし」が必要な領域ももちろんあるだろう。だが、それらはあくまでも理性の支配下になければ成立しないのだ。前提命題のない「理性」が成立しえないのは必然だ。人間は理性を経験によって学習する。「魂」「世界」「神」などの一見無条件の存在も、人間は経験によって学習するのだ。無条件の「知識」はリアリティーに欠け、我々をただ悩ませ、時間を無駄にさせるだけだ。知識には必ず条件があり、経験があるのだ。弁証論が「心理学」「宇宙学」「神学」の3つの方面を深化させたのは事実だ。それぞれが「魂」「世界」「神」という形而上学的な知識に関する法則を探求した。しかし、これらはいずれも「超越論」となってしまったのだ。対象がリアリティーを失い、これらの探求が一体我々とどうかかわるのかが不明確になった。いわば「頭の中のフィクション」となってしまったのだ。これらの知識もあくまでも理性という枠の中で行わなければならなかったのだ。
カントにとって「私」とは、自分が今見ている風景の主体であり、「意識の統合体」であるとし、知識や教養などの「器」であるとした。カントは「私が存在する」という発想を、超越論的自我とした。自分が今見ているものから知識を得るのではなく、論理を超越させ、飛躍させた「意味のない議論」と見なすのだ。「私」とはあくまでも器であり、いろいろな経験から知識を引き出すことができる器にすぎないのだ。人間は「瞬間的には」学者だろうが凡人だろうが同じ「私」である。学者が知識を引き出すのも「仕掛け」を自分で作って引き出しているとされる。
カントは、人間は目に見えるものから知識を引き出す、という発想を前提としたが、決して「経験主義者」ではなかったのだ。巨大なスカイツリーの展望台に上がると「経験主義者」の世界観は壊れることになる。そのため、カントは自分が見ている世界を「暫定的なもの」ととらえたようだ。カントは「大きすぎるもの」に対する考えと同様に「小さすぎるもの」も我々の直感で感じることにも限界があることを認識していた。「大きすぎるもの」「小さすぎるもの」をどう説明するかがカントの課題となったのだ。
カントは「我々の議論」への超越論は戒めたが、物質の存在が「超越的」であることは認めざるを得なかった。たとえば核分裂を引き起こす「核兵器」などというのは超越的以外の何物でもない。そのような問題意識が「超越論」と「超越的」という用語の関係だと現時点で私は考えているのだ。カントの世界観は「より大きなもの」の創造の余地を残し、「より小さなもの」への探求の余地を与えた。あくまでも時代は過渡期にあることを示し、世界観も経験主義に比べるとオープンなものだった。
カントは、目の前にある物から知識を得る、という人間の学習方法を前提とすると「数学」というものが説明できないことを問題にする。そこで出てきた概念が「命題」だと言っていい。命題をもとに成立しているものであれば洗練された数式も、我々の実体験に基づくものではないにしても、成立することを論じているのだ。
また、カントは、人間は目の前のものから学習するとしながらも、「二つの嘘」の存在を明確にしていた。まず、目の前にあるものは「時間と空間」に制約されている、ということ。さらに、小さすぎたり気体であったりして目に見えないものもあるということ。この二つの嘘が自分の前提に存在することを理解していた。この「二つの嘘」は、しかし、どのみち我々の思考力にも限界があることから人間生活は調和がとれているとされる。この「二つの嘘」は、宇宙は無限なのか有限なのかという研究が求められたし、物質の最小単位はなんなのかという研究も求められた。しかし、カントは言語でこれを解決した。「有限であろうが無限であろうが『世界』である」としたのだ。
【第一部】つづく
参考:スタンフォード哲学百科事典「カントの形而上学への批判」「カントが考えた理性とは

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コメント

弁証法→弁証論
理論学→神学
超越的と超越論的の区別はついていますか?

カントの第一批判の頂点は「超越論的分析論」にあると思います。
カントの認識論を支えるのはカテゴリや原則といった超越論的な概念や原則ですよ。
破壊するとはどういうことでしょう。

眼前に与えられたものから引き出された知識はまったく超越論的ではありません。
理性(非経験的なもの)だけから推論されたものが超越論的です。
だからカテゴリや理念は超越論的といわれるです。

神も自由も不死もまったく理性からだけ引き出されるのであって
経験のうちに対応する直観がないのであり、
それゆえにその存在を経験から学習することはありえません。
あとこれらの対象の探求は理論的には理性の越権であり
超越的(≠超越論的)なものになってしまいますが、
実践においてその実在が確保されるとカントは言います。

とおりすがりさん、情報源はどのような文献でしょうか。私はドイツ語の翻訳本は「病的言語」が多いと聞いて、たまたま自分が理解できる英語媒体から情報を取ったのです。なかなか「超越論的」「超越的」という区別を見出すのは難しかったです。まだ哲学は初学者の状態ですが、自分の理解できる範囲内で書いています。情報源は示しておりますので、引き続き勉強をしたいと思います。気が付いた点があればコメントいただけるとありがたいです。

情報源ですか。多少の入門書と併せて、
カント事典や岩波文庫版の第一批判を読めば十分わかることだと思います。
リンク先の英文でも「transcendent」(独transzendent 超越的)、「transcendental」(独transzendental 超越論的)と使い分けていますね。

超越的は内在的との、超越論的は経験的との対義語です。
カントは理性を超越的な(理性に内在的でない)仕方で使用することはよろしくないと考えているが、
自身の哲学は超越論的だ(経験に先立っている)と言います。
この区別の説明は非常に難しいので研究者の間でも見解に相違があるところです。
特に「超越論的」の説明をしろとなると一言では言えないところがあります(私も不勉強です)。
ただ、どちらも経験的な要素が混入しない点では似たような意味ではありますので、
その点に関してコメントさせていただきました。

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