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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

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2011年2月

2011年2月27日 (日)

韓国芸能界~スターダムの暗部

実践的時事英語 ザ・デイリー・ヨミウリを読むBook実践的時事英語 ザ・デイリー・ヨミウリを読む

著者:藤重 仁子,藤原 郁郎,西川 秀和,佐藤 伸
販売元:大学教育出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

チャン・ジャヨン(Jang Ja-yeon)という女優が、2年前に自殺した。この時に彼女は7ページにもわたる遺書を残しており、「チャンノート」と呼ばれる重要な資料となった。彼女は、韓国芸能界の女性がディレクターや会社の経営者などとのセックスを強要されていたことを個人名まで挙げて残していたのだ。このことから捜査局は、マネージャーを起訴し1年間の懲役刑に処すると同時に、芸能界の現状を調査した。女性タレントの6割が「枕営業」をしたことがあると答えた。韓国では軍事クーデターが起きた頃から芸能界の闇の存在が指摘されてきたが、今では韓国芸能界は拡大を続け、「お金がものをいう」世界になっている。美容整形を強要されるのは当たり前で、テレビに出ている人が一番の被害者だともいわれる。現在でも、TVXQ(東方神起)というユニットが長期契約の違法性を訴える紛争が有名になっている。
デイリーヨミウリ2011年1月31日付

2011年2月20日 (日)

カントってなに?【第一部】

カントは、なぜ「所与の命題」を設定することが必要なのかという観念論を探求した。
①まずは数学における命題の設定の探求
②つぎに、他の自然科学における命題の設定の探求
③そのうえで、形而上学における命題の設定の探求
なぜ、みんなが「当たり前」だと思っているものは設定できるのかを追求したことにより、カントの業績は後世に不朽の名を残すことになった。カントは、デカルト的な「自分に固有の領域が存在する」という言説を破壊した。その後に、超越論的な分析も破壊したのだ。カントは、目の前に存在するもの、をしっかりと受け止めようとしたのだ。時空を超える、空間を移動する、などという発想をバカげたものであるとしている。これがドイツ観念論哲学の基盤にあることは間違いない。我々は、目の前にあるもの、からいろんな知識を引き出しており、そこからいろんな想像を膨らましている。中には超越論的な議論を始める者もいる。しかし、あくまでも節度を保った議論が必要であるとして、それを「理性」に求めたのだ。日本人は「超越論的な飛躍」を好む人が多い。冷静な議論を求める法学者が「ドイツ」を志向する理由はおそらくカントが基盤にあるのだと思う。形而上学とは「神聖なるもの」を発見することを最終目的としているが、カントは「自分で感じることができるもの」を欠いた概念は空虚なものであるとする。
前提にもとづいて構築された理論から前提を外して、理性によって再構築する。これがカントの学問の核心と言ってもいいのだ。
カントは「形而上学的議論に前提条件が与えられるのならば、”絶対的無条件”も当然存在する」とした。これは今までの形而上学の議論が誤りを含むことを白日のもとにさらすのみならず、超越論のまぼろしに攪乱されていたことも示すものだった。知識というものは我々にとって経験可能なものでなければならないとカントは考えた。しかし、超越論的な「まぼろし」が必要な領域ももちろんあるだろう。だが、それらはあくまでも理性の支配下になければ成立しないのだ。前提命題のない「理性」が成立しえないのは必然だ。人間は理性を経験によって学習する。「魂」「世界」「神」などの一見無条件の存在も、人間は経験によって学習するのだ。無条件の「知識」はリアリティーに欠け、我々をただ悩ませ、時間を無駄にさせるだけだ。知識には必ず条件があり、経験があるのだ。弁証論が「心理学」「宇宙学」「神学」の3つの方面を深化させたのは事実だ。それぞれが「魂」「世界」「神」という形而上学的な知識に関する法則を探求した。しかし、これらはいずれも「超越論」となってしまったのだ。対象がリアリティーを失い、これらの探求が一体我々とどうかかわるのかが不明確になった。いわば「頭の中のフィクション」となってしまったのだ。これらの知識もあくまでも理性という枠の中で行わなければならなかったのだ。
カントにとって「私」とは、自分が今見ている風景の主体であり、「意識の統合体」であるとし、知識や教養などの「器」であるとした。カントは「私が存在する」という発想を、超越論的自我とした。自分が今見ているものから知識を得るのではなく、論理を超越させ、飛躍させた「意味のない議論」と見なすのだ。「私」とはあくまでも器であり、いろいろな経験から知識を引き出すことができる器にすぎないのだ。人間は「瞬間的には」学者だろうが凡人だろうが同じ「私」である。学者が知識を引き出すのも「仕掛け」を自分で作って引き出しているとされる。
カントは、人間は目に見えるものから知識を引き出す、という発想を前提としたが、決して「経験主義者」ではなかったのだ。巨大なスカイツリーの展望台に上がると「経験主義者」の世界観は壊れることになる。そのため、カントは自分が見ている世界を「暫定的なもの」ととらえたようだ。カントは「大きすぎるもの」に対する考えと同様に「小さすぎるもの」も我々の直感で感じることにも限界があることを認識していた。「大きすぎるもの」「小さすぎるもの」をどう説明するかがカントの課題となったのだ。
カントは「我々の議論」への超越論は戒めたが、物質の存在が「超越的」であることは認めざるを得なかった。たとえば核分裂を引き起こす「核兵器」などというのは超越的以外の何物でもない。そのような問題意識が「超越論」と「超越的」という用語の関係だと現時点で私は考えているのだ。カントの世界観は「より大きなもの」の創造の余地を残し、「より小さなもの」への探求の余地を与えた。あくまでも時代は過渡期にあることを示し、世界観も経験主義に比べるとオープンなものだった。
カントは、目の前にある物から知識を得る、という人間の学習方法を前提とすると「数学」というものが説明できないことを問題にする。そこで出てきた概念が「命題」だと言っていい。命題をもとに成立しているものであれば洗練された数式も、我々の実体験に基づくものではないにしても、成立することを論じているのだ。
また、カントは、人間は目の前のものから学習するとしながらも、「二つの嘘」の存在を明確にしていた。まず、目の前にあるものは「時間と空間」に制約されている、ということ。さらに、小さすぎたり気体であったりして目に見えないものもあるということ。この二つの嘘が自分の前提に存在することを理解していた。この「二つの嘘」は、しかし、どのみち我々の思考力にも限界があることから人間生活は調和がとれているとされる。この「二つの嘘」は、宇宙は無限なのか有限なのかという研究が求められたし、物質の最小単位はなんなのかという研究も求められた。しかし、カントは言語でこれを解決した。「有限であろうが無限であろうが『世界』である」としたのだ。
【第一部】つづく
参考:スタンフォード哲学百科事典「カントの形而上学への批判」「カントが考えた理性とは

2011年2月18日 (金)

ネット上の大統領・ミネルバ

韓国社会を騒がせた「ミネルバ」という男がいた。インターネット上に2008年ごろに登場し、リーマン破綻やウォン急落などを次々と的中させ、韓国社会はこの「ミネルバ」を「韓国の経済大統領」ともてはやした。韓国はネットの普及率も高く、影響力は大きい。韓国経済に陰りが見え始めた頃からミネルバの人気は絶大なものとなり、彼が新しく投稿すると10万ページビューを記録し、1000を超えるコメントが付いた。2009年に韓国の検察が動いた。ミネルバが「政府が主要金融機関と輸出入関連企業にドル買いを禁止する通達を出した」と発言したことから、これを「虚偽情報」と判断し、ミネルバの身元を割り出した。為替市場を混乱させ、政府の外貨準備高に大きな影響を与えたからだ。ミネルバの正体はパク・デソンという経済学を学んだこともない30歳の男だった。結局、ミネルバは無罪となった。「虚偽」という言葉があいまいだったり「公益」を害するという意味も明確ではなかったからだ。この無罪判決に言論界は喝采を浴びせた。しかし、韓国司法当局は、北朝鮮の延坪島砲撃の際にもデマが飛び交ったことから、ネット上のこのようなものを放置しておいていいのかと考えているところだ。
ジュリスト2011年2月15日号「ネットでの虚偽情報流布と表現の自由」臼井京

2011年2月15日 (火)

ボクシングと心の研究【第一部】

「ボクシングの心理学」
ボクシングにおけるボクサーの心の探求が本稿の目的である。ボクシングにおいてはまず念頭に置いておきたい「4つの前提」がある。もちろんこの「前提」をときには批判し、時にはこれらを基盤に理論を構築するのである。
① 人間の体は物質である
② 人間の心はスピリチュアルなものである
③ 心と体は連動する
④ 心と物事の結果は連動しない
これを前提に議論を進めていきたい。
ボクサーというのは「自分の肉体以上のものを望む」宿命を持った生き物だ。
一方で、ボクサーは自分の肉体の動きに何らかの「説明」を与えながら戦っている。肉体以上のものを望みながら、肉体に様々な説明を与えるという構造が基本にあるのだ。
「心と体の連動」の考察
デカルトは、心と体の連動に関して、心はそんなに体とかけ離れた存在ではないとした。体を正しく制御しているのであるからそんなに突拍子もなく体とかけ離れたものではないとするのだ。人間の体にたとえば動物の心を入れたら「突拍子もない」動きをするだろうとデカルトは推測する。しかし、人間の心はそうではない。
心と体には「連結」が存在し、原因と結果があると考えられる。デカルトの哲学においてはそのように簡単なモデルが想定された。
「自分の知らない動きはできない」
たとえば、ボクサーが「右を打て」「左を打て」と心で思ったことに肉体が同じように反応するだろう。心が「右を打て」と言っているのに体が左を打つことはない。これが何を意味するだろうか。ボクサーが用いる動作はすべてボクサーが心にすでに「想定済み」のものなのだ。自分が心に思い描いた物以上の動作はできない。
「相手の動きに反応する」
ボクサーが「自分から仕掛ける」という言葉がよくつかわれるが、通常は自分の動作に「ロック(鍵)」がしてあり、相手のなんらかの動作がこちらの様々な動作の「鍵」を外す作用を与えているのではないかともいわれる。これが「相手の動きに反応する」ということであり、私もボクサーの日々の練習から生まれる成果を超える論考を書くつもりはないのだ。
以下では「完璧なコンディション」とはどんな状態かを若干考察したのちに「心の問題」に立ち入っていきたい。
基本的に、ボクサーは劣勢の立場のボクサーでも「事実と異なることを思い込む」という反応をしている。あるいは「現実逃避」の問題であったり、人間の心が重層的にできていたりする問題が、ボクシングと深いかかわりを持つのだ。
「完璧なコンディション」の定義をしておこう。
「すべての肉体反応が、十分な肉体的理由を持つ」状態を「完璧なコンディション」と呼ぶ
人間は「体の動き」を学習したその人の歴史を持っている。ボクサーも当然そのような歴史を持っているのだ。肉体が「今までやってきたこと」に十分に反応するかどうかが「コンディション」の度合いだといっていい。
ボクサーはお互いに「相手の動きの蓋然性」に反応し合っている。私が以前語った「どうしても反応できない部分」もそのような複雑な展開の中から生じてくるのだ。「相手の動きの蓋然性」に反応している以上、「めずらしい動き」「独特な動き」には反応しづらい。これはメジャーリーグで岡島が通用したことでも有名だ。そういった意味ではボクシングでも「サウスポーの有利さ」が存在するかもしれない。人間の動作にもし「複数の決定要因」が存在したのなら、人間の肉体は「動けない」という仮説がある。相手の動きの蓋然性が複雑であり、予測不能であれば、こちらは動きを「選択」しなければならず、「複数の決定要因」をそのままにしていたら人間は「動けない」のだ。
このような「相手の動きの予測不能」「複数の決定要因が存在すると動けない」などの人間のメカニズムを考えると、ボクシングにおける「ガードを上げる」行為の合理性が説明できるのだ。
人間の動作に「複数の決定要因」が存在したら、人間は何らかの行動を「選択」しなければならず、選択できない人間は「動けなくなる」という現象を追求した哲学者を「デュアリスト」というのだが、とにかく「動けない」としかいいようがない。スタンフォード哲学百科事典では「それ以上の追求は行わない」としているようだ。ボクシングには「コンビネーションブローを組む」という作戦があるが、基本的に意図してそのようなものを組まない限り、人間の心に「法則」を見出すのはきわめて困難であるとされている。
心は物理的なものに影響を受ける。物理的影響と心の関係は「法則」で説明できる。レバーパンチの効果、キドニーの効果、ジョー・テンプル・チン、これらへの打撃の効果はボクサーが専門だ。しかし、物理的なものを離れた「心の動き」の予測には法則はない。これがボクシングの醍醐味でもある。この予測不可能な「心の働き」の分析をしようとした「高度な」科学は、人間の心の複雑さの前にことごとく敗北しているのだ。むしろ「低いレベルでの」心の分析のほうがより的確に人間の心を分析できるとすらいえるのが現状なのだ。むしろ、人間は自分の心の働きを「クセ」として外部に表現したり、その人特有の行動パターンとしての「クセ」が存在するということは一面的には言えるだろう
また、人間は「嘘」をつかれると、より高度な学習をすることが弁証論から説明できる。このことは「フェイント」技術がボクシング技術で占める重要性を説明するものだ。

・心の作用は肉体と相互に関わっている。
・肉体的な出来事は心に「厳密な法則のもとに」影響を与える。
・心の反応は予測不能だし説明不能である。

心と体の関係の説明は、この三つの原則の「緊張関係」で説明できるとされる。相手に殴られたら、自分の心がどう反応するかは「説明不可能」「予測できない」とされる。浜田剛史氏は「自信をもっていると効かない」というし、ファイティング原田氏は「根性」という。人間の心のリアクションを説明するうえでは「高度な科学」はことごとく敗北し、割と低いレベルでの「自信」「根性」という説明に屈しているのが最先端の研究でも明らかになっている。
物理学の世界も高度な説明さえしなければ「厳密なルールに従っている」といっていい。しかし、マテリアルワールドは同じでも心がどう反応するかは分からない。これを「変則的な一元論」とデービットソンは呼んでいる。
肉体的な出来事が心にどのように影響を与え、また、心で考えたことがマテリアルワールドにどのような影響を与えるかを決めるのは「トゥルースメーカー(真実創造機:TM)」が行っているのだろうとされている。手を挙げればタクシーが止まる、マッチをすれば火がつく。タクシーを止めるつもりがないのに道で手を挙げる人はいないだろうし、マッチを叩いて火をつけようとする人もいない。それらはすべて「トゥルースメーカー(TM)」という概念で説明しようというのだ。
我々の世界で、心と肉体の世界の間の「トゥルースメーカー(TM)」が、時に「それは事実ではない」という現実に直面することがある。この時に人間の心は新たな展開からの「学習」が始まるのだ。人間は、心と肉体、そして外部の世界の関係に「満足」していれば、「それ以上の学習はしない」とされている。相手を殴ろうとしてパンチが当たればそれ以上の学習はしない。パンチが当たらない、相手のパンチがよけられない。そういう経験から「心と肉体、外部の世界」の関係を学習しなおそうとするのだ。
「トゥルースメーカー(TM)」が思うように機能しない時に人間は、何が必要なのか、それに対応するためにどのような訓練が必要なのかを探求し始めるという指摘がなされた。これは、デービットソンの提示した理論に新たな展開をもたらした。
このことから、相手にパンチを当てる、相手のパンチをよける、などの訓練を積んだボクサーが蓄えたものは「資産」であるとされる。資産は「心」にも「肉体」にも蓄積されるのだ。単一的な「心と肉体」の理論から「満足できないこと」が生じ、そこから訓練・学習が行われ「資産」を獲得する。アスリートはこのような過程を経ているのだ。
ボクシングの世界を支配するのは「物理学」である。しかし、心の探求をしなければ分からないことが多い。パンチが「効いた」というのがどういう状態かは物理学のみでは説明できない。「俺が倒れるつもりがなければ倒れない」と思っているボクサーが勝つのではないかという疑問にどうこたえるのであろうか。
今後もこの論稿は続けたい。

参考:スタンフォード哲学百科事典「心の作用」

2011年2月10日 (木)

私とはなにか(第一部)

「私とはなにか」。古来、哲学者は「外の世界」と「自分」を明確に区別して理解していた。しかし、自己への探求を進めたのはデカルトだった。主に「心は何によって成り立っているか」「心に関する存在論」「個のアイデンティティー」の3つが研究されたのだ。
まず「自己」をどのように「認識」するかという観点からの研究と、「認識論」を離れて「自己」は説明可能であるかという研究。さらに、そんなに深刻に「自己」を追求する必要はあるのだろうかという懐疑論へと研究は進んだ。さらに「心」に関しても、虚心坦懐に自分の心を観察することから始まり、他者との交流で心はどう変わるか、自分の理性とはなんだろうか、決断を行うとは何か、心を表現するとはどういうことかなどの研究も進んだ。「個のアイデンティティー」に関しても、概念的な研究から始まり、結局「個」は物質に支配されているのではないか、あるいは単純なものではなく、重層的なものなのではないか、などの研究が進んだ。その上で、「自分を偽っている」とはどういうことなのかがかなり本格的に研究された。
まず、自己の探求をするうえでポイントとなる点を4つ挙げてみたい。
誰にも知られることなく行える安全な作業であること。
各自が自分の心の状態を独特な方法で語ること。
各自が自分の心をコントロールする独自の方法を持っていること。
各自が語る自分の心の状態は、どんな表現であれ、真実を含んでいること。
これをまず前提としておきたい。
まず、誰にも知られずに行えるということは、自己が存在することを端的に意味し、各自が独特の言葉で語るということは、自己の探求の手法が各自の考えによって行われることを意味し、心をコントロールできるということは、心が「対象」になりうることを意味し、各自が語る自己の心の状態が多様でありつつ真実を含んでいることは、他者とのコミュニケーションを可能にする。このように「4つのポイント」は完結しているのだ。
哲学は難しいものでありながら、簡単なものであることがわかる。
ここで指摘しておきたいのは、「その人」の専権事項である領域はだけだということだ。それ以外には他者は自分の心をいろいろな方法でコントロールできるし、自分の心の状態を他者が語るのも自由なのだ。
人間は、自分の心に関してはたとえ独特の形であっても、無謬であり全知全能であると言われる。もちろん、病気であれば別であろうが。人間は、情熱・感情・嗜好に関しては自分のことを明確に知っているし、自分でもそれを自覚している。だが、それ以外の「心」に関しても無謬であり全知全能であるという仮説がある。 だからこそ、人間は「間違えたくない」のだ。しかし、「正しい方がおかしい」とウィトゲンシュタインは言う。 だが、他者と接することで、自分に認識可能な「情熱・感情・嗜好」のみならず、さまざまなことが、間違いであるという認識に至ることを反復するにつれ、人間は自分の心に対しての「無謬性」「全知全能」の意識を擦り減らせていくのだ。
人間が思い込んでいたことがかりに事実に反していた場合、自分の心が「内向き」な人は事実に反することを思い込み続けることを選択し、「外向き」な人は、事実を学習することができるといえる。このような過程を経て人間は学習していくのであるから、一番心が安定するのは「~である」という確信ではなく、「~らしい」という心の持ちようではないかとされる。そうすれば間違っていた時に気持ちを切り替えて新しいことを学習できるのだ。
デカルトの「我思うゆえに我あり」という議論は、自分の内面がだいたい~のようなものであろう、と「我」が考えることに対しての介入は「どんな悪魔的な天才ですら不可能」であるという意味のようだ。これは、上記のへの介入が不可能であるという意味であり、家の書斎で考える「我」に対して介入するには、電話をうるさくかけるとか、ネットで罵倒するなどのの領域で何らかの方法を取らざるを得ないという意味だろう。
「自己」を語るうえで「内省」という概念が役に立つ。外の世界と自己の境界線を分けた場合に、外の世界の認識の方法を「知覚」というが、自己を認識する内省という行為の分析をしてみると、外の世界の認識の方法と異なることがわかる。それは「二つの直接性」だとされる。一つは、自分の心の状態を感じるうえで「意味に頼らなくていい」という部分が「直接的」であるとされる。二つ目は、何の介入も受けずに考えや対象が心に湧き上がってくるということだ。「雨が降っている」「のどが渇いた」「雨が降るだろう」「のどが渇いたと感じる」いろんなものが自然に心に湧き上がってくる。ここで考えなければならないのは「記憶」というものは、「意味に頼るものである」から記憶を探求する行為は直接性が失われ、「内省」とは呼ばないということだ。
ラッセルはこの「内省」という行為について、「真実を探求する作業ではなく、自分が”よく知っている”心の中の物にのみ立脚してその人が心の状態を維持することである」とする。この「内省」という作業においては、その人は無謬であり、全知であるといえるのではないかとされているのだ。
さて、以上の説明はデカルトの「コギト・エルゴ・スム」という言葉に代表されるいわば「存在論」に立脚した「私」の説明である。しかし、存在論の立場にあえて立たずに「私」を説明することができるのではないかという主張があるのだ。
次のように説かれる。「私」というのは、自分の心のありように「最初の人間」として反応するものであり、また「最初の人間」として自分の心に働きかけるものである、と説明するのだ。この「最初の人間」という説明は、デカルトを出発点としながらも、さらに「私」というものの研究を発展させることになった。この「最初の人間」は自己の心の権威であり、何が正しいのかを自分で確かめ、他者に何が不合理で何が間違っているかを指摘する力を持っている。「雨が降っている」と考えるのも、他者に「それは違うでしょう」と指摘するのもこの「最初の人間」が自分の心の権威だからこそ行えるのだ。 「最初の人間」は自己への働きかけを行う特権的地位を持っている。しかし、それはデカルトのような「存在論」の立場に立つ説明ではないのだ。「誰にも知られずに安全に」自己への働きかけを行っているとするなら、デカルトの説明に似てくるが、その立場には立たない。「最初の人間」は他者の介入に甘んじなければならず、さまざまな「他者との違い」に泣かされ続けて生きなければならないのだ。それが、「最初の人間」という発想が決して存在論に立脚するものではないという意味である。
以上が、「私」に対する二通りの説明であるが、存在論に立つにせよ、そうでないにせよ、この両者の説明は「懐疑論」から批判されたのだ。何も無理をして「私」を探求することはないのではないかという批判だ。しかし、懐疑論も以上に述べた「私」の探求の成果を踏まえて展開されたものであることも知らなければならない。
【第一部完】
参考:スタンフォード哲学百科事典
"Self-Knowledge"
"Self-Deception"

2011年2月 4日 (金)

愛の探求(総集編)

スタンフォード哲学百科事典で「愛」に関する現代哲学の最高水準の研究を調査してみた。エロスというのは「相手に個性がある」「欲望と結びついている独善的なもの」とされているが、アガペーというのは「相手に価値があろうとなかろうと生じる」「相手の個性に関係ない」感情であるとされる。アガペーこそがキリスト教の伝統で語られる「愛」なのだ。「価値があろうとなかろうと」愛するというのがキリスト教の本質だ。そういう観点は「異性を愛する」ことと「家族・友人を愛する」ことの違いから発見されたのだ。「愛」には「エロス」「アガペー」「フィーリア」があるとされるが、「アガペー」こそがキリスト教で言われる「愛」だが、では「国を愛する」というのはどうだろうか。性的情熱にもとづくものでもなく、かといって、国家には個性がともなうのでキリスト教で言われる「愛」ではない。これを「フィーリア」と分類するのだ。一応、「愛の研究」はこの三つの概念をめぐって展開されるのだ。「価値のないものを愛する」という行為は、「愛の対象に価値を与える」とされる。これはキリスト教における核心ともいえる考えなのだ。
しかし、現代の哲学者は、ここで思考停止するほど怠慢ではなかった。さらに議論を進め、「共同体に存在する愛」「愛の衝突」「愛の価値」「人間の感情」の四つに議論が収斂していったのが現代哲学の「愛」の議論だ。
「愛」には「深さ」が存在するだろう。
「我々」という意味の中にも愛は存在するだろう。
愛は衝突することがあるが、それは「愛の深さ」や「長続き」するかどうかと密接に結びついているだろう。
「価値のないもの」を愛するのが人間の素直な心なのだろうか。
このような観点が分析しきれれば「愛」に関する現代の哲学の到達点だといえる。
共同体と愛の関わりの研究は興味深い。人は他人に愛されることで存在する。さらに、「一組のカップル」を想定してみても、二人はそれぞれ「個」であるが、それぞれが自分の共同体に属している。会社であったり、地域のコミュニティーであったりだ。二人ともその共同体で認知されているから、そのカップルは「ゼロサムゲーム」を演じてはいない。どちらかが提供しどちらかが受け取る関係にはなっていないのだ。お互いが共同体を背景に相手にいろんなものを提供し合っている。そういう意味では、夫が給料を持ってきたのなら、妻は「奥様方」の話を提供したいと思うのもモデルとしては成り立つかもしれない。いずれにせよ、各自が属する共同体から得られるものをカップルが内部に持ち込む構図が出来上がっている。人間が社会的存在であることから「一組のカップル」を分析した一つのモデルと言える。このことは、日本政府が「女性にも仕事を持ってもらいたい」と考えている国策の基盤として念頭においてもいいだろう。
人間はそれぞれ自分がやりたい趣味や活動がある。一方で、自分が愛する人の利益になる存在でありたいと思う。逆に、愛する人が自分の趣味や活動を制約しあいながら存在せざるを得ない。この「制約」がうまい具合に節度を保たなければならない。そうでなければ愛は衝突を起こすのだ。たとえば「愛する人が死んだ」事例を考えてみればいい。死んだ人はもはや二度と自分を制約しない。だからこそ死者への追悼の思いは強いのだ。しかし、生きている人間同士はお互いに制約しあいながら存在している。その「制約」がうまくマッチしあったカップルの愛は永続するし、それが「愛の深さ」につながるとすらいえるのだ。
参考:「愛」スタンフォード哲学百科事典

中篇:「愛と価値の関係」
まず、「愛」はその人の価値を評価しているという側面の研究がある。では、その価値とはなんだろうか。「値段」ならほかの人と比較できるが、「尊厳」なら他者との比較はできない。問題は「なぜその人を愛するのか」「なぜ他の人ではなくその人なのか」という点にある。値段を愛する分には分析など必要がないくらいに簡単だ。しかし、その人の尊厳を愛したという場合は非常に難しい分析がなされる。この場合、まず「愛」と「尊敬」の区別もできないし、逆に言うと「犬が好き」という感情とも区別がつかない。尊厳を愛した場合はその人が今そこにいなくても感情は残存する。なぜその人を愛したかというのは、その人が持ち合わせているものに対して自分の感性が脆弱だったといえる。自分がその人を愛しているからと言って他の人もその人を愛するとは限らない。それが「尊厳」を愛するということだ。そういった意味では「美男美女」という尺度は「値段である」と言ってもいいぐらいの簡単な理屈であるといえる。
一方で、「愛」はその対象に価値を与えるという側面もある。そもそも「愛する」ということは何の目的もなく行われるものであるが、また、どのように正当化することもできないものだとされる。さまざまな快楽が得られるから「愛している」とは必ずしも言い切れないものがある。愛するということはその対象が「何に興味があるのか。何を考えているか」に関心を抱くことが基本にある。またその対象への「利益になるふるまいをしたい、守りたい」とも思うのだ。愛することはその人を「よく見る」ことから始まる。「何か意味不明なものにしたがう」というものではないのだ。対象をよく見ているのだ。愛は盲目ではない。いいところも悪いところもよく見て価値を与えている。しかし、なぜ価値を与えるかという説明はできないし正当化もできないとされる。ただ一つだけ言えることは「世界を肯定的にとらえている」ということだ。

後篇:「愛の複雑さ」
「愛」が「好ましい感情」であるというのは論を待たないと思われる。しかし、この「感情」がどのように形成されるかは非常に分析が難しい。「怒り」という感情にも対象があるが、原因は明確であるのが通常だ。また「恐怖」を特定の人に感じる場合も、自分に対して攻撃的な態度を取られたりした場合に生じる感情なので説明はたやすい。しかし「愛」という感情がどのように生じるのかは困難な研究が必要だ。「愛」というのは端的に言うとある種の「情熱」であると説明が可能だろう。しかし、「情熱」という感情は「外部の刺激によって人間に生じる」ものであることが明らかになっている。人間はつまり、外部の刺激によって「愛」という感情を生じさせているものと考えられている。「愛の研究」で非常に難しいのは「類似した感情が存在しない」というところにある。しかし、哲学者は、「愛の対極」にある感情である「憎しみ」という感情も「愛の研究」に取り入れた。「愛」と「憎しみ」は対極にある感情なのだ。もちろん「愛」が「好ましい感情」であることは明らかであろう。人間の「憎しみ」という感情の存在があるからこそ「愛の研究」は深まったといえる。
さて、「愛」に関する議論は核心に近づくほど混乱してくるのだ。大雑把に分けると、「愛は育むもの」と考える立場と「価値観があう」と考える二つの立場が考えられるのだ。どちらの説明も日本人に広く受け入れられているだろう。しかし「愛は育むもの」という説明は「愛」という感情を非常に複雑にさせるといわれる。たとえば、男女は常に「喜怒哀楽」をともにするわけではない。男が女をからかったり、女が男に冷たい態度を取って傷つけたりすることも愛情表現だとすると、「愛」という感情は、人間の個性によってかなり違う現れ方をすることがわかる。ましてや、「愛を育む」というと、カップルの歴史にまで立ち入ることになる。そこには、怒りや絶望、哀しみ、喜びなど様々なものも含むことになってしまう。この考え方は、愛という概念に「男」と「女」の二人の存在が必ず必要になることになる。双方が欠けても「愛」は存在しないことになるのだ。さて、それでは「価値観があう」という「愛」の存在はどうだろうか。この考えだと「愛は育むもの」と考えるよりも、よりシンプルに「愛」を説明できる。しかし、価値観というのもいろんなものを含むのであるから、いずれにせよ「愛の複雑さ」だけはどちらの立場に立つにせよ同じであることになるのだ。
注)この文章は、スタンフォード哲学百科事典の「愛」(Love)という項目を参考に私が編集したものです。


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