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2010年12月 3日 (金)

神の前で嘘をつけるか

バンジャマン・コンスタンという人が1797年に刊行したパンフレットで、「嘘をつかないで日常生活を送ることはできないのに、本当のことを言うのが義務だと主張するドイツの哲学者がいる」と指摘した。この「ドイツの哲学者」とはカントのことであった。「たとえば友人が殺し屋に追跡されて逃げ込んできたのでかくまっても、殺し屋たちに真実を告げなければならないのか」というのだ。カントはこれに答えて「そのとおりだ」という。しかし、カントは「友人を殺し屋に引き渡せ」と言ったわけではなかった。「あいつはここにいるか?」と聞かれたら、「(目の前には)いない」と答えろというのだ。宗教改革以降の、紛争の頻発でこの問題は切実なものだったようだ。たとえば、異端審問官に「あなたの信じている宗教は何か?」と聞かれたら「あなたと同じ宗教を信じています」と答える。審問官が「私はカトリックを信じている」と言うと「私はそれを信じています」というというのだ。プロテスタントでも「同じ宗教」には変わりはないし、審問官がカトリックを信じていることを信じていると答えることに嘘はない。こうした「みせかけ」「空とぼけ」に関しては聖書にも一定の根拠があるそうだ。復活したイエスは、弟子たちに対して目指していた村よりさらに先へと赴く様子をみせたし(『ルカによる福音書』24:28)、全知のはずであるのに、最後の審判の日がいつか知らないと弟子に述べている(『マルコによる福音書』13:32)(『マタイによる福音書』24:36)
これを論じたのは憲法学者の長谷部恭男である。謝罪広告を新聞に掲載するようにという判決が出ることがあるが、本当は悪いとは思っていない人間に「謝らせる」ことができるのだろうか。ごめんで済むなら済ませようと言う人もいるだろう。しかし「神の前で嘘をつく」ことを要求してしまうケースもあるのではないか。このような問題は哲学的な議論から説き起こしていく性質のものなのだ。
法学教室2010年12月号「続・Interactive憲法~B准教授の生活と意見」長谷部恭男

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