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Foreign Affairs

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2010年9月

2010年9月26日 (日)

意外と面白いトマス・アクィナス

「Body&Soul」
スタンフォード百科事典は非常に長く、興味のある部分だけ読んでみた。たまたま、アイドルグループSPEEDに同タイトルの曲があったからだが。トマス・アクィナスは、霊魂と肉体の関係を考察するに当たって、二元説に立つとされたが、トマスは興味深い描写をしている。たとえば、「腕」を人間から切り離したら、腕は存在するものの人体として機能しないだろうということから、人間の霊魂も、これと同じように考えるというアプローチをとる。さらに、人間の理性を動物と比較する。合理性という意味では、神も天使も決して合理的な存在ではない。しかし、理性という意味では人間は動物とは一線を画し、神や天使に近いとする。トマスは「食事」「出産」の側面では人間と動物は同じではないかという問題意識があったようだ。トマスは霊魂と肉体の議論では、二元論に立ちながら物理主義者だったとされているようだ。英語文献は、決して衒学的ではなく、非常に読みやすい。それにしても、トマスは少年の頃「主要7科目」の教育を受けたとされるが、その中に「音楽」があるのだ。チャイコフスキーを聴きながら奇妙な気分になってしまったな。一体どんな教育を行っていたのだろうか。
「知覚と思考」
まだ最初しか読んでいないので、あとでちゃんとまとめておこうと思うが、トマス・アクイナスは、見る・聞く・触るなどの知覚に関しては独特の考えを持っていた。見るというのは、見ていない状態に比べると「色を認識している」とする。触るというのは、例えば手で物を触ると「体温の移動がある」とするのだ。実に独特の考えで、現在の通説とは思えないが、たとえば、靴の裏にガムがついても我々は気がつくが、あれは体温の移動はないだろう。非常に興味深い人物だ。知覚に関しては、人体の器官によって行うということをトマスは上記のたとえで表現したが、物質的でないものをどのように知覚するかということを、アリストテレスを引用して「考える」という知覚の方法をとるとした。しかし、これでは、キリストが死んで、再び肉体を得たことを説明できない。ギリシャ哲学とキリスト教の接合はまさにこの部分に存在する。人間の「魂」(Soul)という概念を生み出しているのだ。これが「Body&Soul」の議論の基盤になっている。
「キリスト教と哲学」
トマスが哲学者であり理論家であるという部分には疑いはないが、キリスト教信仰は、ときに、考えることをやめてしまう。信仰には考える余地はない部分がある。しかし、トマスは哲学者であった。彼に信仰への忠実さがあったのは事実だが、トマスは「批判に耐えうる」哲学を構築しようとしたのだ。それは、それまでの議論の蓄積を踏まえていなければならず、彼にとってそれはアリストテレス哲学だった。物質主義的に物事をとらえ、ギリシャ哲学の「考える」ということばの意味を探求しながらも、彼は、人間が不朽の存在であるというキリスト教の教義を踏まえていた。それが彼の哲学の基盤だったのだ。
「トマスとアリストテレスの関係」
トマスの業績を哲学と理論学に分類した場合、哲学の分野ではアリストテレスの影響がきわめて強い。しかし、彼は新プラトン学派にも造詣が深く、哲学の蓄積を踏まえていた。そうでなければ、彼が「哲学者」として歴史の一ページに刻まれることはなかった。しかし、トマスはアリストテレスに直接影響を受けていたのだ。
「哲学の探求の意味」
トマスにとって、哲学は「科学を覆う傘」であった。数学にせよ、理論物理学にせよ心の働き=考えるという作業が基盤になければならないとした。しかし、トマスは理論物理学にも「経験」を要求していたのだ。実践がなければ科学は意味を成さない。一方で、トマスは形而上学を、神聖なるもの、の発見をするうえで、哲学のゴール地点ですらあるとする。
「物理的存在について」
この、トマスの物理学に関しては、時代の制約もあり、かなり陳腐化しているのは否めない。しかし、アリストテレス哲学にもとづいて物理的存在の定義を行っている。物体がどのような過程を経てどのように変化するかは、我々の認識にかかっているとする。物があることが知覚でき、その「物」が我々の知っている法則によって支配されていることを物理学と呼んだようだ。物が混乱の中から分類可能になるのは、まるで赤ん坊がすべての男性を父親だと思い、すべての女性を母親だと思うことから、やがて特定の男女を、父親・母親と見分けがつくようになるようなもので、人間は物体をそのように認識しているのだろう、とする。この記述は、トマスもアリストテレスの解釈で非常に悩んだそうだ。時代の制約というものだろう。
「神」
トマスは「神は存在する」ということばを問題にする。神が存在するかは「分かるわけがない」。しかし、この「神は存在する」という言葉自体が神の存在を前提にしているではないかとする。神の存在がどのように証明されるかは「5つの方法」をトマスは発表しているらしいが、結局は、キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、イスラム教であれ、各自の「信心深さ」に求める以外にないとするのだ。世の中にはいろんな経験が満ち溢れている。その中で各自が見出せばいいだけのことだとする。
非常に頭のいい人ですね。
「トマス道徳哲学」
人間は、どんな職業についていようが、その役割をしっかりと果たそうとする。その職業においては、彼の健康状態がいいか悪いかなどは問題にならない。役割を立派に果たすことが「良きもの」とされる。人間は良き人間になろうと思うし、幸せになろうと願う。しかし、忘れてはならないのは、現世での幸福は不完全であるということだ。人間は理性と美徳にしたがって生きることにより、現世では不完全な「幸福」が、来世では完全な幸福になる。しかし、どんな人間も完璧に理性と美徳にしたがって生きることは出来ないのだ。それは人間が天使に劣る部分でもある。誰だって間違いは犯すものだ。聖人君子のように生きれば来世に完全な幸福が得られるとまでは要求しない。もっと緩やかに「理性と美徳」を念頭においておけば、来世には完全な幸福が得られるようになっているのだ。
これが「トマス道徳哲学」の概要だ。
参考:トマス・アクィナス(スタンフォード哲学百科事典)

2010年9月23日 (木)

三位一体(英文ウィキペディア参考)

この父・子・聖霊は聖書のどこに書いてあるだろうかと言う端的な問いがあると思うが、マタイ[28:19]などが代表的な例とされている。キリスト没後300年ほど経って開かれたニケーア公会議の際には、アリウス派が「キリストは預言者である」として神性を否定していたのだ。しかし、各宗派のメインストリームとして三位一体は位置づけられることになった。父なる神と、神の存在の現れとしての聖霊、そして人間として遣わされた子なるイエス。しかし、人としてのイエスの神性は増していった。
三位一体という言葉を最初に使ったのは、アンティオケのテオフィリスだとされる。彼は、「私は、神と言葉と叡智と、そして男が存在すると考えており、それは三位一体のようだ」と語った。これが三位一体という言葉の起源だろう。テオフィリスは2世紀の人物だが、3世紀に入ってタートゥリアンが「父、子、聖霊が一つのエッセンスとして一人の人格に宿った」とした。これがニケーア公会議で認められたようだ。ニケーア公会議では「神は神、光は光、大いなる神は大いなる神として存在し、作られたものではなく、一体となって父の中に存在する」というドクトリンが公表された。キリスト教の初期の段階では、聖霊は伝道を行ううえでの「神の力」を意味したようだ。「父、子、聖霊の名の下に伝道を推進すべきである」とされた。
ヨハネの福音書では「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という。ことばはイエス・キリストを喩えているとされるが、神「とともに」あった、神「で」あった。という表現の「矛盾」も指摘されているようだ。
新約聖書においては「三位一体」という記述はないが、この考えを基盤にしているのは明らかであるとされる。キリスト教初期の伝道者たちは、神の力が自分たちにあると信じ、それを「聖霊」と呼んでいた。やがて、父と子、聖霊の教えを伝道する偉大なる任務を自分たちは担っているという確信に変わっていく。一方で、ユダヤ教などでは「神とキリスト」という対置がなされたこともあり、この三位一体という発想は必ずしも必然ではなく、一つの「考え方」として相対的に考えることも出来る。
旧約聖書においては、「主のことば」(詩篇[33:6])「主の霊」(イザヤ書[61:1])「知恵」(箴言[10:1])などの「3つのことば」がみられ、創世記18章でアブラハムの前に現れた人が三人であり、預言者や律法者であったことから、この3つのことばが「父」「子」「聖霊」と解釈されたのだろうとされている。しかし、旧約聖書から「三位一体」を導き出すのは「無理があるのではないか」というのが現在の通説のようだ。
三位一体を語る上で、ヨハネ[14:25-26]は重要な意味を持つ。イエスが「父があなたがたに聖霊をつかわし、すべてを話す」と言っているのだ。このことは、父と聖霊が別の存在であることを意味し、また、イエスとも異なる存在であることを意味するのだ。キリスト教社会の共通認識としては、これらを前提にしながらも、「父」も「子」も「聖霊」も「神」であるが、この三つは異なる存在であるとされるのだ。異なる存在でありながら、一つの神格に属するのだ。
ヨハネの手紙第三では、イエスの王国と、現在の社会の双方においてイエスは救い主であるとされている。このヨハネの手紙第三は何世紀にもわたり三位一体に関する論争の的となった。しかし、イザヤ[9:6]を参照して議論を終息させた。イザヤではイエスは「力ある神、永遠の父、平和の君」とされており、イエスの王国のみならず、現実社会にも君臨することが明らかになったのだ。
英語では「4番目のゴスペル」と書いてあったので「ヨハネの手紙第三」と解釈しましたが、皆さんの方が詳しいかも知れません。しかし、「現実社会にも君臨する」かどうかは、各宗派が「教義によって解決した」とされているようです。
後世の芸術家は、父と子、聖霊を、3つの人物として描いたりした。教会を守る彫刻としてそのような作品があるのだ。しかし、ヨハネ[10:30]で、イエスは「わたしと父とはひとつです」と言っている。いろんな角度から議論された歴史があるのだ。以上のことから、聖書の記述でもっとも影響力のある記述は、マタイ[28:19]なのだ。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け。」

2010年9月18日 (土)

ゼロ式戦闘機

ことの発端は、海軍航空廠から要求書が出たことだった。最大速度500キロ以上、航続距離は巡航時間で八時間、空戦運動力を向上させた上で、二十ミリ機関銃二挺と7.7ミリ機銃を備える、というものだった。重装備と航続距離の増加という課題を三菱重工名古屋航空機製作所は課された。海軍側も必死だった。シナ事変の進展により、蒋介石軍は退却し、戦域は拡大していた。海軍は陸上攻撃機により、中国側の基地、根拠地を爆撃し、機能不全にし、制空権を取ろうともくろんだ。けれども、陸上攻撃機は運動能力も速度も低く、敵戦闘機による迎撃を免れなかったのだ。陸攻は出撃するたびに多くの損害を負った。そこから、速力も航続力もある戦闘機で攻撃機を擁護し、敵基地を攻撃するという発想が生まれた。
過酷な要求をクリアするために安全率を引き下げたが、機体強度試験は最大の力をかけても問題はなかった。実際の試験飛行となると多くの項目がある。地上運転試験、離着陸、宙返りなどの特殊飛行、増設タンク落下実験など十数項目に及ぶ。
875馬力の瑞星13型発動機が爆音をたて、プロペラが回り始める。大きく芝生の上を8の字に走って、パイロットの志摩勝三が「ブレーキ不調!」と叫ぶ。修理を終え、志摩は「ジャンプ飛行可能!」と叫び、十メートルの高さを保ち500メートルほど飛び、着陸した。主翼に足をかけて志摩が下りてきた。みんなが志摩に注目する。珍しく照れたような表情を志摩が見せた。その後、6回の慣熟飛行ののち、車輪を格納して飛行した。その姿は今までの戦闘機とはまったく違う、スマートなものだった。
新戦闘機は、翌年の紀元2600年の末尾をとって、ゼロ式戦闘機と名づけられた。
文藝春秋2010年10月号「昭和天皇」福田和也


米韓の急接近~普天間基地をめぐって

7月25日に、朝鮮半島に近い日本海で米韓合同軍事演習「不屈の意思」が始まった。米原子力空母ジョージ・ワシントン、イージス駆逐艦ジョン・S・マケインを始め、ロサンゼルス級原子力潜水艦など、米韓両軍の主力艦二十隻以上、さらに朝鮮半島での演習は初参加になる最新鋭のF22ステルス戦闘機を含む軍用機二百機以上が集結、米韓両軍兵士8千人が参加した。今回の演習は、今年3月に起きた北朝鮮による韓国の哨戒艦撃沈事件を受けたものだ。この軍事演習は過去最大規模だ。北朝鮮は「核」を持ち出して反発し、中国も独自に軍事演習を行った。演習に先立つ7月21日に、米韓初の外務・防衛閣僚の「2+2」の会合が行われている。これまで東アジアでアメリカと「2+2」を行ったのは日本しかない。これは、米韓関係が眼前の北朝鮮への圧力という意味だけでなく、東アジア地域全体の安全保障における新たな機軸とすることを内外に示したものである。米韓の接近は、オバマと李明博の個人的親密さに負うところが大きい。2012年4月にアメリカが韓国に移管することが決まっていた戦時統制権を、李明博は2015年12月まで延期することにしたのだ。6月のトロントサミットでのことである。日米関係は「コーナーストーン」と呼ばれ、米韓関係は「リンチピン」と呼ばれる。日米関係の方が重みがあることを意味する。しかし、トロントサミットで李明博は、「普天間の韓国移設」を持ち出していたのだ。これは日米同盟の根幹を揺るがしかねないきわめて高度な政治的・軍事的問題だったのだ。このことはホワイトハウスでも緘口令が敷かれた。オバマ大統領は、有言実行のともなう指導者を好むとされている。朝鮮半島有事を念頭に置いた米韓軍事同盟と異なり、日米同盟はアジア太平洋地域全体の安全保障を担う、より戦略的なものだ。台湾海峡を含む中国の軍事的台頭をも意識しているからこそ、韓国への普天間基地移設という選択肢はアジア太平洋地域全体に影響をあたえる。実際に、アジア諸国では不安定な日米同盟の弱体化を懸念する声が大きい。「コーナーストーン」と「リンチピン」が入れ替わるようなことはわが国にとってあってはならないことなのだ。
文藝春秋2010年9月号大城俊道

2010年9月16日 (木)

会計監査

以前、NHKの土曜日のドラマで、監査役の話があった。企業で不正がなされているのに、現実に妥協して計算書類を承認してしまう監査役の話だ。
監査役は計算書類を受け取り、適正意見なり不適正意見なりを付して決算取締役会にかける。監査で適正意見がついていれば、取締役会で承認し、株主総会に報告する。
問題は、不適正意見がついた場合だ。これが何を意味するだろうか? 基本的に、次の会計年度の決算が確定しなくなる。株主の配当金に影響を与える。という二つの問題があるのだ。そのため、不適正の意見がついたら、株主に監査役が説明し、株主総会での承認をするのだ。不適正意見は決して企業に犯罪が存在することを告発するものではない。株主の利益のために存在するので、株主に説明し、承認を求めればいいのだ。
NHKドラマはいろいろと勉強になる。
なお、補足であるが、上記の記述はあくまでも会社法の問題であり、法学教室2010年11月号の記事によると、金融商品取引法では、違法行為を見つけたら、会社に是正を求め、最終的には内閣総理大臣(事実上は金融庁長官)まで通告しなければならないそうだ。けっこう面倒なことになることが分かった。また、取締役の任務解怠責任が生じることも別の問題として存在する。

2010年9月 2日 (木)

ボクシングを楽しむ視点

昔、NHK教育で「ボクシング講座」があったのだが、ピンポン球を投げてかわしたり、一本のゴムひもをかいくぐりながら前進するという練習法を公開していた。一応、理にかなった練習ではあるが、ボクシングの基本はそういうものではない。
「左腕を目いっぱい伸ばしてみな」
「これがお前のボクシングワールドだと思え」
これが、初心者に与えるべき指導法だ。あとはひたすら練習あるのみだ。一応、ひたすらジャブのワールドの訓練をするのだが、本来利き腕の右ストレートは初心者も楽に打てる。それでジャブをフォローする力は自然に存在することになる。そこから「左フック」を覚える。左フックは、シャドウボクシングやサンドバッグで、胸と肩を接続する筋肉の「ひっかかり」を利用するのだが、その筋肉を作らないといけない。一度ひっかかりの筋肉が出来ると、「魔力」のように左フックに取り付かれる。左フックとどう付き合うかがオーソドックススタイルのボクサーの課題となる。さらに右ストレートを磨き上げる作業を怠るボクサーもいる。
そのあと「左アッパー」を覚える。左フックの場合は、左ひざをちょっと前に出して横(内側)に倒すが、左アッパーの場合は、左ひざをいきなり横(内側)に倒す。パンチは基本的にシャドーボクシングで覚えるのだ。リズムに乗ってちょこまか手を出す練習をするのではなく、「一発一発のパンチと向きあう」訓練だ。同じパンチを延々と繰り返すシャドーボクシングの存在を知らないといけない。
次の課題が「ボディーへの左アッパー」だ。この動きは、人間の日常生活に存在しない動きなのだ。「左腕を水平に倒して、前に押し出す」のがボディーへの左アッパーだ。最初はアホみたいに「押し出す」作業を繰り返す。いつしかそれが「強打」に化けるのだ。「肝臓を狙う」パンチはこのパンチのことを主に指している。
基本哲学は以上だ。あとは、右フック・右アッパー・ボディ攻撃をいろいろ研究する。攻撃パターンが多いほど、相手の防御は萎縮する。各パンチをどのように組み合わせたらいいかも研究する。それぞれの組み合わせで体重移動も異なる。体で覚えるしかないから、「コンビネーションブローを組む」攻撃が存在する。
腕を一直線に伸ばして、思い切りふってみればいい。これが「ロングフック」の原型だ。ロングフックも手をほとんど伸ばした状態のものを「スイング」と呼ぶのだ。「スイング」が撃てれば「ショートフック」も撃てる。大は小を兼ねるというやつだ。
左フックと左アッパーは同系統のパンチだ。左フックの方がややエネルギーを使う。そのため、左フックからやや「格下げ」して、左アッパーとの中間をとって、斜めに打ち上げるパンチがある。「はじめの一歩」では確か「ガゼルパンチ」と呼ばれていたし、アメリカで「スマッシュ」と呼ばれたこともある。アマチュアの世界では「ジョイント」と呼ぶ昔の専門家もいた。このことを考えると、左フックと左アッパーの間には「境界がない」ことがわかり、どの角度からでも撃てることがわかるのだ。
昔、大和武士というボクサーが、相手が頭を低くしてくるので「どこを撃っていいか分からない」と言って反則を繰り返したことがある。頭を低くしてくるボクサーはアッパーの格好の餌食なのだ。国内王者クラスだとこのアッパーの技術を知らない人もいるのだ。基礎体力トレーニングはずば抜けていても、技術論では国内はたいしたことないのだ。
カウンターというのは、一番分かりやすいのが「フットボールのたとえ」だろう。フットボールでは、攻撃する権利を持ったチームがオフェンダーの陣形を取り、守る方がディフェンダーの陣形を取る。もちろん選手の入れ替えがあるのだ。ところが、カウンターは「攻撃モードに入っている相手に攻撃を仕掛ける」ことだ。つまり、防御が完全に崩壊する瞬間を狙うのだ。これが「カウンター」だと思って欲しい。ボクシングには「攻撃する権利」も「防御する権利」も自由に存在する。双方が「攻撃」を選択した瞬間にカウンターが生まれるのだ。長谷川穂積は「カウンターには20~30種類ある」と言っていたが、世界王者クラスでは「攻撃対攻撃」にそのくらいの数のパターンを想定していたようだ。

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