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2010年4月19日 (月)

「宴のあと」~日本で最初のプライバシー裁判

1959年4月に東京都知事選挙が行われた。保守派(自民党)は東龍太郎を擁立し、革新派(社会党)は元外務大臣の有田八郎を立てた。両派は激しい選挙戦を展開し、特に「怪文書」の応酬が凄まじかった。有田夫人の私生活の暴露はかなり露骨に行われ「般若苑マダム」などと言われるほか、有田死亡説も流された。当初、優勢を伝えられていた有田だが、徐々に劣勢にまわり、最後には182万票対165万票という結果で落選した。選挙後、有田は、時の総理岸信介や幹事長川島正次郎などの実名を挙げて選挙妨害の実態を暴露したり、「般若苑マダム」との結婚生活や離婚の経緯を雑誌に寄稿した。翌年、中央公論で三島由紀夫が1月号から10月号まで連載したのが「宴のあと」だった。これは、法学部卒の三島にとってプライバシーの問題とされるのははなはだ不本意だったようだ。すでに出回っている資料をもとに、様々な創作を加えたものだったのだが、判決では「私生活上の事実だと受け止められるおそれがある」とされたのだ。この一文は今だに学生に重要な影響を与えている。中央公論では「この小説にはモデルがいない」という記述もあった。つまり、今のテレビドラマでいうと「このドラマはフィクションであり・・」という言葉が何の意味も持たないこととなった。三島は「有田氏の承諾もある」と主張したりしていた。この事例がなぜ「プライバシー裁判」として日本で初めてとなったかというと、有田側の弁護士の森長英三郎が、民法学者の戒能通孝のアドバイスを受けていたからであるとされている。プライバシーを1960年代に持ち出したのは、先駆的研究を参照したからだったのだ。
法学教室2010年4月号「不法行為判例に学ぶ~社会と法の接点」大村敦志

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