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2010年3月 8日 (月)

文藝春秋「昭和天皇」で描かれる共産党

文藝春秋の福田和也の「昭和天皇」では共産党に関する記述が多い。
大正12年6月の大検挙で、共産党は壊滅状態に追い込まれ、特高警察も共産党はほぼ消滅したと認識していた。昭和2年7月、渡政・徳田・佐野文夫ら中央委員はモスクワを訪れ、コミンテルンから「27年テーゼ」を示された。「大衆の前に姿を現し、精力的に活動するように」と命じられたのだ。この背景には、コミンテルンから資金を引き出すために、実際は400人ぐらいしかいない党員を「4万人」と水増しして申告していたことがあったといわれる。各国の共産党にとってコミンテルンの指示は絶対だ。逆らえば失脚させられるし、最悪の場合粛清される。そうして昭和3年に初めての普通選挙実施を迎えることになる。普段、まったく活動の出来なかった共産党も、選挙の時期なら集会も出来るし、演説もさえぎられることが少ない。しかし、あくまでも「広報の場」としてしか利用できなかった。無産政党諸派からは、鈴木文治、山本宣治、安部磯雄など八人が当選したが、南喜一は次点、徳田球一は千余票しか取れなかった。
昭和7年前後に日本共産党に対してコミンテルンからの連絡が途絶し、また、大森ギャング事件などによる共産党への信頼低下などから、日本共産党は資金不足がひどくなった。そのために目をつけたのが「華族や財界人の子弟を党に勧誘し、財産を提供させる」という戦略だった。結局、起訴されたのは、岩倉靖子(岩倉具視の子孫)、森俊守(父は子爵)、八条隆孟(父は子爵)だけだったが、他にも多数がいた。
この、華族子弟の赤化事件に対応するために、宗秩寮審議会が開催された。宗秩寮とは華族の監督機関である。この検挙された子弟の中の、亀井茲建の行く末を昭和天皇が案じていた。なぜかというと、茲建の父である茲常は昭和天皇の欧州行啓に同行して、かなり厳しい環境のなかを天皇に尽くしたからだ。結局、処分は木戸幸一内大臣秘書官長に委ねられたが、天皇は和歌を託した。最終的に、森俊守だけを華族から除き、位記の返上を命じた。亀井茲建以下六名は譴責にとどまった。亀井だけをあまくするわけには行かなかったのだ。亀井茲建はその後、東北開発株式会社の総裁となった。前衆議院議員・亀井久興は茲建の三男である。
治安維持法の下、非合法組織である共産党は地下活動を主体とせざるを得なかった。自らの正体を隠し、世間の目を欺くために、家庭を偽装する必要が生じる。その必要を満たすために、女性党員が党幹部と生活をともにし、その活動を支えるという戦法が生み出された。こうした活動に従事する女性を「ハウスキーパー」と呼んだそうだ。大泉兼蔵にも熊沢光子というハウスキーパーがいた。ある事件が起きた。光子のもとに党員が訪れて、大泉の所持している文書などを洗いざらい見せるようにという尋問を受けたのだ。主導したのは宮本顕治だった。この査問で、大泉が、党組織の全容・どの工場にどの細胞が潜入しているかなどといった、中央委員の最古参だけが所持することが許される書類を持ち出していたことが明らかになった。小畑達夫もスパイに関与したことが分かり、拷問で三日後に死亡してしまった。光子は大泉と共に自殺をする意思を示し、玉川上水の林で首をつる予定だった。しかし、下目黒のアジトで大泉は「人殺し!助けてくれ!」と逃げようとしてわめいたため、警官が窓から飛び込んできた。騒ぎを聞きつけた家主が通報したのだ。
こうして「リンチ共産党事件」は発覚した。リンチ共産党事件は、昭和8年に戦前の最後の共産党委員長・野呂栄太郎が逮捕された間隙を縫うように宮本顕治が主導したものだった。

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