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2010年3月 7日 (日)

宮中某重大事件

大正七年に久邇宮良子女王が東宮妃殿下に内定したことを新聞各紙が報じた。その後、良子は「御学問所」でご進講を受ける毎日だったが、二年経過した大正九年に杉浦重剛は、宮内省御用掛の眼科医が執筆した意見書を見せられた。「良子は色盲の遺伝を有しているので、皇太子と結婚した場合、その男児が色盲となる可能性が高い」と記してあった。ここから久邇宮家と山縣有朋の間で深刻な争いが生じた。「宮中某重大事件」である。
色盲の人間は軍務につけないことになっており、皇子が軍人になれないというのは由々しき問題であった。山縣は久邇宮邦彦王に辞退を求める手紙を書いた。邦彦はどんな手段を使ってでも山縣を退ける覚悟を決めた。杉浦に意見書を見せたのもその手段だったのだ。その他にも、宮家属官の分部資吉が、黒龍会と関係する大陸浪人に「宮内省の横暴不逞」という怪文書を執筆配布させたり、久邇宮家周辺は国粋主義者との関係を深め、かなりきわどい手段で山縣周辺を揺すぶろうとしていた。怪文書の執筆者には北一輝も含まれていた。
結局、新聞各紙はご婚約に変更がないことを報じ、中村宮内大臣は辞職した。山縣はすべての官位爵位の返上を大正天皇に申し出たが却下されて、死ぬまで小田原の屋敷から外に出なかった。山縣をはじめ、良子の色盲遺伝子を理由に婚約を取り消そうとした元老、政治家はすべて失脚するか、意見を翻していた。しかし、貞明皇后は、邦彦王への怒りをもち続けていた。「不純分子の皇統に混入することの恐れ多き事」「皇統は不窮にて出来るだけ純潔ならざるべからず」という文書を牧野に手渡していた。邦彦王は、長男の朝融王の婚約解消を、良子の婚約問題が解決するまでひた隠しにしていた事実もあったそうだ。邦彦王が死んだ時は国葬とはせずに、皇室葬儀令に従って執り行われた。
では、久邇宮良子の「色盲の遺伝子」はどのように発見されたのだろうか。まず、久邇宮家の家族構成であるが、当主の邦彦王以下、朝融王、邦久王、邦英王らの息子たち、そして、良子、信子、智子らの娘に、家令や乳母、侍女たちがいた。もちろん母である俔子もいた。学習院で身体検査を行った軍医草間要は、三男邦英王が色盲であることを発見してしまった。草間は、久邇宮家と、邦英王の母方の島津家を調査して、邦英王の兄である朝融王と、その叔父である島津忠重公爵も色盲であることをつきとめた。島津忠義の側室であった山崎寿満子が色盲の遺伝子を持っており、その息子である島津忠重と久邇宮家に嫁いだ娘の俔子(ちかこ)に遺伝したのだ。久邇宮家に色盲の遺伝子を持ち込んだとされた良子の母、俔子の受けた衝撃も大きかったといわれる。それが「軍務」と関わる皇室の問題として発展してしまったのだ。実際に「色盲」だったのは、俔子の「弟」「息子二人」だったことから、「娘」である良子にも遺伝したであろうということだ。
この山縣の行動を長州閥の薩摩への反発ととらえる見方は少なくとも福田和也はとっていなかった。国家の見地から本当に「軍務」への危惧をしていたと見ているのだ。
文藝春秋2006年6月号「昭和天皇」福田和也

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