最近のトラックバック

2019年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

« 英国と北アイルランドの歴史 | トップページ | 国際会計基準の採用について »

2010年3月13日 (土)

伏見宮博泰王

昭和5年に締結されたロンドン海軍軍縮条約において、日本は米英に比して5:3の比率に主力艦を抑えられていたが、その改訂を翌年に控えていた昭和9年に伏見宮が昭和天皇に文書を手渡して、ワシントン海軍軍縮条約以来の米英に対する「主力艦・補助艦の保有量制限」の廃棄を主張した。海軍において東郷平八郎亡き後の伏見宮の権勢は他に並ぶものがなかった。しかし、それは皇族という立場によるものではなかった。生粋の船乗りとして常に前線に居続けた事が宮の権勢を強めていた。また、ヨーロッパ留学体験に基づき、独・英といった海軍大国の実情を正確に理解していたとも言われる。そうした伏見宮に対しては、すでに明治期から明治天皇が期待をかけていて、明治天皇の名代として清国の光緒帝への表敬や、シャム国皇帝戴冠式への参列をさせていたほどだった。皇太子時代の大正天皇にとっても博泰王は「兄貴分」のような存在だった。長い海上経験を有する伏見宮が、国際協調を尊ぶ海軍省の軍官僚からなる「条約派」ではなく、海上の軍人を中核とする「艦隊派」を支持したのは自然な成り行きだった。ワシントン条約以降、主力艦隊がアメリカに対して劣勢に立ったと認識した海軍は、アメリカの対日侵攻作戦に対して、夜戦による漸減作戦を根幹において、厳しい訓練を繰り返していたが、昭和二年に、夜間訓練中の衝突事故で美保関沖で死者が120名出て、大佐が責任を取って自決した。この葬儀にも伏見宮は軍令部長の反対を押し切り参列し、艦隊派を勢いづけている。こうしたワシントン条約破棄を主張する勢力にも、昭和天皇は「会議を成立せしむべし」といって譲らず、伏見宮と一言も口を利かずに退席させている。これに対して西園寺公望は「もはや陛下は幼沖(幼い)な天子にあらず」と語っていた。
文藝春秋2009年7月号「昭和天皇」福田和也

« 英国と北アイルランドの歴史 | トップページ | 国際会計基準の採用について »

文藝春秋」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 伏見宮博泰王:

« 英国と北アイルランドの歴史 | トップページ | 国際会計基準の採用について »