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Foreign Affairs

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2010年3月 7日 (日)

レーニンとスターリン

文藝春秋の「昭和天皇」福田和也には、なぜか社会主義あるいは共産党の記述が多く見られる。そこに、レーニンからスターリンへの権力の継承の経緯が書かれていた。
大正11年(1922年)スターリンは共産党書記長に選ばれた。党組織の実務を軽視していたレーニンは、スターリンの権力が肥大していくことを目の当たりにし、部下への認識を改めざるを得なかった。しかし、その年の2月と12月の2度にわたってレーニンは脳卒中を起こして治療を余儀なくされた。スターリンはレーニンを半ば軟禁状態に置いたが、レーニンの妻・クルプスカヤにだけは封緘した手紙を渡すことが出来た。これに危機感を抱いたスターリンがクルプスカヤを電話口で怒鳴ったことから、レーニンは「ジノヴィエフとカーメネフ」という二人の実力者の知るところとなっていると言ってもはやスターリンを信任していないことを明確にした。しかし、党幹部はそれぞれの思惑があり、スターリンを糾弾しようという動きは表面化しなかった。
1924年1月21日にレーニンは3度目の発作を起こして死亡した。党大会直前の中央委員会で、未亡人のクルプスカヤは「レーニンの覚書」を読むことが許された。読み上げたのはジノヴィエフだったが、内容は「スターリンは故郷であるグルジアで民族主義に対する弾圧をするなど粗暴な面があること」「権力を慎重に行使することに確信が持てないこと」「もはや信任しておらず、別の人物を後継者とすべきこと」が記されていた。ところが、読み上げたジノヴィエフが意外なことを言った。「もはやレーニンは正常な判断力を失っていたのだろう。同志スターリンへの非難は根拠のないものだ」と。クルプスカヤは怒りのまなざしを向けた。カーメネフも同調した。ジノヴィエフもカーメネフも、スターリンよりもトロツキーを怖れていたのだ。3年後、スターリンによって、トロツキーもろともこの2人は党を放逐された。30年後、スターリンが死んだあとに、机の中にレーニンの遺書が残されていたが、繰り返し読み返されていてボロボロになっていたそうだ。
文藝春秋2007年10月号

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コメント

スターリンの台頭のトロツキーの失脚は、歴史の因果律がそうしたとも考えられる
レーニンの社会主義政策(ソビエト)は、国力の充実や産業の育成には効果的だが軍事的側面を
軽視する動きが存在した。
スターリンの頃のヨーロッパ情勢は、ヒトラー台頭と言う非常に困難な状況下であった、故に独裁的ファシズムの波がロシアにも影響したと言える。

エレベーター氏。コメント有難うございます。文藝春秋の「昭和天皇」には、トロツキーが追放される場面の記述もありました。モスクワを離れるときにもみんな同情的だったそうです。賛同者が多かったからこそ「怖れられた」のかも知れませんね。

文藝春秋2008年4月号の「昭和天皇」で、トロツキーのアルマ・アタ(現アルマトイ)への追放の場面が書かれています。カザフスタンの首都です。スターリンの唱える一国社会主義と、トロツキーの永久革命論との路線対立が、スターリンの勝利で決着したのです。いずれ機会があったらまとめておきます。

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