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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

2019年12月10日 (火)

プラグマティズム~君主の真似をして生きる。

世の中には、高校時代に恋をする「恋派」と、恋を追い越していくエリート(愛派)がいる。
しかし、愛派が、「恋派にもわかるように話す」ことをプラグマティズムと呼ぶ。
つまりは、大統領であり君主である。
人々は、笑って君主や大統領を支持した。
酒井法子 恋と愛のニュアンス

「人間が何を共有しているか?」に気が付かなければ大統領にも君主にもなれないのだ。
人間は、「譲れないもの」(意思の自由のないもの)つまり「エゴとフェチ」を持っているが、譲れるもの(意思の自由のあるもの)で非常に興奮すれば笑って大統領や君主を支持する(記号論)。
デューイは、1931年に「ノーベル平和賞」というものを考えたが、何を見ていたかというと「記号論」(人々を興奮させる文章・芸能界)を理解しているかどうかだった。
その後、ノーベル平和賞は、ニューディール政策や東西冷戦を経験した。
ニューディール政策をやったルーズベルトやヒトラー、あるいは東西冷戦下の世界の指導者が「肉声を語らなくなった」のである。
なぜなら「自分よりも頭のいい指導者が世界にいると戦争になる」からである。
また、守るべき家庭があると、なかなか「恋派の合意を得ることができる愛派」は生まれなかった。
そこで、自分に子供ができたときに、愛派はようやく「柔らかく」なることを覚えるのだ。
「子供が誘拐されたときの、いざという時」を覚悟するから柔らかくなると考えられている。

1870年に、ハーバードでウィリアム・ジェームズは「女心(形而上学)クラブ」というものを作っている。
「タフなハートを持って噛み砕こう」をモットーに、哲学を柔らかくしていったのだ。
それは、神聖ローマ帝国を滅ぼしたライプニッツ・ナポレオン系の英語よりも、さらに「柔らかい」ものであった(1907年)。
なによりも、「私の子供たちに理解してもらいたかった」とジェームズは語っている。
我々は、そもそも「ノイズのない、音符でできた言葉」を話せるのだろうか。
音符でできた言葉ならば、そのまますべてを貫通してしまうだろう。
松田聖子 四月は風の旅人

愛派は「セックスに至るまでの複雑な理論、セックスした後の複雑な理論」には詳しいだろうが、「性の作法」を語るようになるのならばラカン以来の、大統領であり君主である。
「ドピュッとやるだけが人生」と語る坊主に、その前の複雑な理論とそのあとの複雑な理論が理解できるかはその人の力量であろうが、結局、「恋派」はそれにしか興味がないのかという達観が得られた。

理論と言っても、貧乏セックスは犯罪だということから、クラミジアを研究して、「NHKの集金人が貧乏人にあしらわれて、蜘蛛を家に放り込んでいる」とか、「NHKに出演すると尻の周りがかゆくなる」(青銅の蛇)などを理解することが必要でもあるし(梅毒)、それ以外にも恋愛論は山ほどあった。
音楽作品は「プロポーズを頂点とするもの」であった。
しかし、「性の作法」(セックス崇拝・キリスト教)は、真理として確定しているではないか?
日本国の「神道」もそのことに気が付いていた。
「おばあちゃんが必死でいじめを食い止めてくれている」(祖先崇拝)、何を見ても太陽(男)が月(女)を理解して、世の中を動かしていくものだということの学習も必要だった(自然崇拝)。
高橋由美子 おみくじ

記号論にとって、「哲学の敵は反知性(イビド)」であり、常に和解の道を探っていた。
結局「男の人気」に書き換えるしかないんだよね。
チャールズ・サンダース・パースは、そのようにジェームズのプラグマティズムを発展させていった。
「記号論とは、人々を興奮させる文章であり、芸能界でもある」
芸能人を多く見た結果、変態や狂気と接することになるであろうし、それでも、公約数的見解は「性の作法」にあることを知るのだ。
彼らを見た結果「自分が何をやったらいいのかを悟る」これが必要だった。

ウィリアム・ジェームズで完成していた理論が、プラグマティズムであり、記号論であったが、それはあくまでも「土台」であり、ジェームズは「処女の向こう側、お父さん以外の男に裸を見せる女」(セカンドラブ)にまで深く立ち入ってはいなかった。
中森明菜 セカンドラブ

処女とセックスするのは難しい。
何故だろうか?
セックス崇拝をしている連中が男に「硬いもの」を窓から放り込んでくるからである。
「恋派のバカども」と言いたくなる気持ちをこらえきれなかったら大統領や君主にはなれない。
警察は「赤い息を吐くな」で済ますことができる話が、政治の世界ではそれでは収まらなかったのだ。

処女とセックスすることが難しい、恋派の連中の納得を得なければならない。
このことと向き合ったのが、チャールズ・サンダース・パースだった。
自分は子宝に恵まれ、「パワフルな政治」が可能になるが、それでも厳しいスポーツになる。
自分の学問がスポーツとして成立したのならば、本当のメジャースポーツにも生きるようになる。

このような経緯を経てできたのが、共和党だった。
自由民主党と公明党が「共和党」を名乗ることは可能であろうか?
このあたりは「神と仏」の学問となり、非常に勉強になる覇道である。
つまりは、「横文字」をうまく日本語に翻訳する才能だけがそれを可能にするだろう。

一人上手と日本経済一人勝ち理論

アベノミクスはこれから始まる。

いずれにせよ、プラグマティズム(君主の真似をして生きること)が、記号論と出会って、恋派と愛派の妥協点を見出すことを「真理」と呼んだ。
クンバカが真理だとする連中と、セックスが真理だとする連中の「真理は同じ」ということを知らなければならない。
民青(中堅校出身の東大生)と、原理研(一流高校出身の東大生)に妥協点はあるのだろうか?
一流高校の連中は、カマまで掘られて生き残っていたのだ。
妥協点は抜き差しならぬ問題とならざるを得ない。
それを「真理」と呼ぶのだ。
愛派には、「常識に戻ろう。恋の生み出すお金は無視できないだろう?」という問いかけがなされた。
この問いかけを行わなければ、愛派が「ギリシャ哲学」を振り返ることもなかっただろう。
「男が勇敢な形で敗北する」「反則を使った神が無様な姿で負ける」
これを「笑顔でノーサイド」と呼んだ。
「恋」だけは彼を見捨てなかったからだ。
笑顔でノーサイド 宮前真樹

 

2019年12月 2日 (月)

神道・天皇家新時代に向けて。

ミシェル・フーコーが、1970年に「クリニックの誕生」において、生まれた時に「あなたは男の子、あなたは女の子」とする以前は、子供の頃は皆、少年であり、「おじ」(ペテロ)がいるかどうかで性概念は決まった。
「男系男児なんてナンセンス、おじにどれだけいじめられるかだ」
おじからのいじめは「おばあちゃん」が食い止めていた。
おばあちゃん崇拝(祖先崇拝)がなければ、男になれただろうが、適当に付き合っていかなければガンになる。
私は1970年以降の生まれとして、おばあちゃんと関わっている。
この「ペテロ」(おじ)からのいじめと、おばあちゃん崇拝を欠くことが「男」を作ってきたのであり、「男系男児」などという話を持ち出すこと自体、世界史を知らないとしか言いようがない。
トイレの神様

2013年の伊勢神宮の式年遷宮は、私もファイナンス係を務めさせていただいたし、その後も、伊勢神宮の人格的統治者として、「女心」を明らかにしてきた。
山崎闇斎の垂加神道(伊勢神宮とヤマトヒメ)という神道の歴史を理解しないと、なかなか伊勢神宮に若い女性ファンを集めて、自らの権力基盤にするという発想は生まれない。
令和の「次」をもし想定するのならば、2033年の式年遷宮のファイナンス係をいかに務めるか?
あるいは、私は現在、伊勢神宮の担当を離れ、日枝神社を担当しているが、「王子になるのならば伊勢神宮に女性ファンを集めなければならない」ということをどれほど理解するかが問われる。
私は「日枝神社は、天皇の長寿をお祈りする所」ということを踏まえて、医学の知識を拡散させている。
NHKの問題もその一環である。

男・ちんちんというものは「仕事・勉強・いじめ」から作られている。
しかも、「世界を敵にすると勃たなくなる」つまり、「仕事・勉強・いじめ」が実を結ばないとちんちんも意味がなくなる。
「仕事・勉強・いじめ」の中に「真理」がある以上、「男崇拝」を宗教と呼ばざるを得ない。
「男が女心を語る」のは自身の影響力を高める方法であり「政治」と呼ばざるを得ない。

文法さえあれば、女たちが「悔い改める」(失恋する)ことから、自在に「言葉」を作ることはできた。
女たちが「言葉」を作り、言葉と脳は似たような構造を持ち、言葉が追いつかないような出来事は「スローモーション」になったため、新たな言葉を作った。
はじめに言葉ありき、それは「女づくりが先、男作りはあと」という意味でもあった。
中森明菜 スローモーション

14世紀のイギリスは「人口5万人の島」だったが、薔薇戦争を経た上で「貴族」「階級」が定められた。
英国紳士の誕生だ。
イギリス身分制社会において、「移民の受け入れは困難」つまり「男づくりが先、女作りはあと」という政策は打てない、どうしても「移民」=「風俗嬢」という文化が出来ざるを得ないことからイギリスの「EU離脱」という問題が議論されている。

「フェミニストの作り方」はいろいろあるが、「新カテゴリー」と呼ばれるジャンルは、「従姉妹に対してシャイであった」ことにそれを求めた。
さらには、「父親がいて、青年時代に友人を亡くし、姉が結婚した」ことに求める新左翼もいる。
ribbon 真夏のフェミニスト

従姉妹には兄がおり、カネにものを言わす形で、妹のヒロイセと関係を持っていた。
1999年に「女心は日本国のJ-POPで、出尽くした」と言われた。
SPEEDが、「女はパートナーがいても、知恵や知識を生み出すために異なるパートナーの声を聞きたがっている」というキューリー夫人(女性して初めてノーベル賞を複数受賞した人)の見解を紹介した時に、「女心は出尽くした」という議論がなされた。
SPEED Deep Blue & Truth

和辻哲郎が1960年に死んでから、東京は「今まで見たことのない風景」を見た。
「セックスと革命の嵐」である。
安保闘争で外国人を見せしめに日本政府が殺し、谷中の「レッドゾーン」に、「樺美智子さん」として大々的に報じ、埋葬した。
三里塚で「死人が出た」と言っては、「都合の悪い人物」を東京湾に沈めてきたのも日本政府だ。
日航機墜落事故が1985年にあったが、それが「成田発」であったことから、その前の「機長逆噴射事件」が「東京湾の呪いである」という説が払しょくされ、日本政府は安堵したのが現状だった。
日本政府は「人を殺してまで体制を守ろうとした」のは事実である。
それが、ミシェル・フーコーの「1970年」まで続いた。
福山雅治ラジオ

私の祖母の、遊佐道子(香淳皇后)が、弟にサンミュージックの社長をやらせていたが、松田聖子は、「久保」系であり、昭和天皇の後妻の「国友」系の「顔が嫌いだった」つまり、香淳皇后の薩摩の臭いが嫌いだったとされている。
いずれにせよ、1986年に岡田有希子が「芸能界最後のトラブル」を引き起こした時も、「五分間もだえ苦しんだ」岡田有希子に対して、電話で笑いながら実況するもの、パンツを脱がしたもの、ブーツを盗んだものなどがいて、香淳皇后は、「人物を特定して」朝の新宿の歌舞伎町で死体として晒した。
今は、平成を経て、令和の時代になったが、昭和という時代は、1960年の和辻哲郎(小野達郎)亡き後、まるで修羅場だったではないか。
香淳皇后は、現在の私と同じで、夫である昭和天皇が「死と身近に接していた」ことから、昭和天皇の「源氏物語のセールス」が、時の政権の「国会対策費・メディア対策費」として用いられており、現在の羽毛田信吾宮内庁参与のように「その送金を邪魔してやろう、できるだけ多くの人間を巻き添えにしよう」という考え、つまりは「田舎者」の考えとは異なり、「自衛隊(日本軍)は日本国民の命を守るためにある」という統制派と、「自衛隊は天皇から政権の側への送金を守るためにも存在しうる」という皇道派の対立があったことをよく理解していた。
安倍政権は、臨時国会を無事に終えようとしている。
しかも、安倍晋三の再選には、二階幹事長も「異論はない」としている。
もし、安倍政権が窮地に陥ったら、「羽毛田信吾宮内庁参与」はどう責任を取るつもりだったのだろうか?
他にも、「上皇・上皇后」「山本信一郎宮内庁長官」「西村泰彦宮内庁次長」「出雲大社の千家国麿・典子夫妻」「川嶋龍彦学習院大学名誉教授」が「政権の敵」であり続けながら、安倍晋三や菅義偉と共存し「天皇に政治的権能があるのか?」という議論が詰め切れずに立ち往生している。
政治とは「女心を定義するもの」であると言ったはずだ。
「文学者・哲学者として小説のセールスがある限り、政治的権能はある」と言うしかない。

私は、昭和天皇の後妻の系統の孫なので、薩摩の男のような顔をしているが、松田聖子や志村けんは、前妻の系統なのでファッショナブルな顔立ちをしている。
私は、前妻の久保の系統の昭和天皇の長女が「紫の上」として描かれた「美智子上皇后」ではないかと考えている。
アレキサンダー大王に「少年愛」が知られているが、昭和天皇も「少年愛」がいつしか少年に「フルート」をくわえさせて、「美少女」を作ったものと考えている。
美智子上皇后は、松田聖子や志村けんの実母である。
男たちはみんな「ふたなり」だった時代。
男になるためには「仕事・勉強・いじめ」が必要だった。
3年B組金八先生

男女の「性の違い」というのは、そもそも、ダーウィンが「精子と卵子がぶつかる速度の違い」を指摘していて、速度が速いと男の子が生まれ、遅いと女の子が生まれるとしていた。
これは、生まれる直前に「電気が胎内で流れ」「全身脱毛される」ことから「女の子」が生まれるという指摘であった。
毛深くない「性」が「女の子」という指摘であり、それはのちに「女らしさ」の特徴の一つをかたちづくることになった。
しかし、それでも「性概念」は相当混乱していた。
一昔前までの医学書では、「あなたの子供が生みたい」と言ったら女性はオーガズムに達していたが、
現在は「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」と女性が自分で言うとオーガズムに達するようだ。
この辺は、ヒトゲノム解析が終わる前の経験論である「あなたの子供が生みたい」が正解なのか、それとも、ヒトゲノム解析が終わった後の「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」が正解なのかは実験が必要だ。
いずれにせよ、「親密な関係」にならないと、言えないことが「性欲の発信源」となっているため、カントの「女の口説き文句」は医学の世界も受け入れざるを得ない。

「大丈夫、痛くない」
と女性が自分で言うのも有効だ。
その前に、「クリトリスから先がいいわ?」という前戯も基本として覚えよう。

おさらいしておこう。

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫。痛くない」 若さに自信のある女の子は「若い女性ホルモンを感じて?」と言ってもいい。

これを覚えよう。
「あなたの子供が生みたい」も適宜用いよう。
ribbon さよなら

ロールズの「正義論」を読むと、「いかに女を高く売るか?」が株価を決めているとしている。
不感症の女をなくすと、株価が高く出るか安く出るかは明らかではない。
いずれにせよ、激しくあえぐ女がいる限り「デフレ」状態が続かざるを得ない。
現在、デフレ状態にあると言っても、感じない女性を感じるようにする政策を「デフレ脱却」とも言い、インフレ退治との区別は明確ではない。
レズビアンや、シスコンが大勢いる中で、本当に現在「デフレ状態」なのかは議論の余地がある。
インフレ退治が自由民主党の仕事として、「現在、仕事はうまくいっている」というメッセージを明らかにするしかないだろう。

エロビデオを見て「女が嫌がっているじゃないか」と考える政治的弱者もいたのだ。
CoCo メロディー

ここで、アベノミクスの正体は「デフレ脱却株高」政策であるとも言え、もはや「生活水準はバブル期並み」という指摘も可能なのである。

株価が赤、為替が赤ならば、女たちは「男からの電話を欲しがっている」のだ。
日経平均株価チャート

電話のベルが黙った夜が素敵、という夜は株価が上がり続ける。
安倍なつみ ひとりぼっち

セックスは「敵がいない」状態でしか、女は「感じない」のである。
「セックスはムードですもの」という理由はここにしかない。
清潔なベッドに、安心できる環境がなければ、女がオーガズムに達することはない。
工藤静香 奇跡の肖像

一人上手を覚えた女の子は、教科書を読んでいても、文字が男に見えてムラムラ来るとされる。
女性が便秘になる原因は「セロトニン不足」であるが、本屋に行っただけで便秘が解消されたりするのは、ひとえに「一人上手」のおかげである。

小野光太郎講演会。日本経済の将来と女子力について。

プラトンは本来「五分間のパフォーマンス」を音楽作品を通じて行っていたが、勇気・自制・セックス・神聖さ・友情そして「治めること」を、もっと長時間描きたくなった。
「国家」においては「~って何?」という問題が多く、そのことへの回答を与える必要があったのだ。
「許しって何?」
それは、キリスト教においては「多数派工作に成功する」(サルベーション)ことであった。
嵐の女神

 

「舞台」「映画」のヨーロッパでの誕生は五世紀のことだった。
「知識って何?」
これを舞台・映画を見た人は「登場人物全員悪人っすよ」などと語り合い「知識」を得ていった。
「ソクラテス(女心に詳しい男)」を中心に映画は作られている。
女たちは「ソクラテス」を見てマスターベーションしていたのであり、ソクラテス(君主)の真似をしてくれる男でなければ「主人公」にはなれなかった。
再建論者は、ソクラテスを殺して我々で一から作り直そう、と言った。
しかし、舞台・映画・ドラマは容赦なく「ソクラテスの側」に立ち、女性たちを魅了し、君主の命を守った。
再建論者は、20世紀のパリにおいても、「フランス革命とは何だったのか?」と150年以上たった後に、ルイ16世を超える人物はいなかったではないかと批判されている。
「だって君主はモテるだろ?だから主人公に真似させたんだよ」
これを「暖かい風は吹いている」と呼ぶ。
風は吹いている

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫、痛くない」

これを知っているソクラテスに、勇気・自制・セックス・神聖さ・友情そして「治めること」を語らせたのだ。
映画を見た後に、「完璧な知識」を得たよ。
体制側の君主は舞台・映画・ドラマに守られながらも、常に「冷たい風」に晒されていた。
風に吹かれて

舞台・映画・ドラマには常に注意を払っていた君主であったが、風は暖かいときも冷たいときもあった。
暖かい風がメディアを席巻すると、自分の周りには冷たい風が吹き荒れた。
みんな「ソクラテス」(君主)になりたかったのだ。
このことから、再建論者という立場が生まれざるを得ない。
ソクラテスも「子供が生まれたから」自分の立場が守られたことはよく理解していた。
しかし、娘を利用して自分の立場をよくしようとした「リア王」になるつもりはさらさらなかった。
王子様と雪の夜

「舞台・映画・ドラマの感想を聞かせてくれ」「知識というものはそういうものだ」
これが、暖かい風・冷たい風にさらされた「君主」の仕事となった。
リア王だって「ルパン三世」「ガンダム」の主人公であり続けた。
ルパン三世 エンディング

湾岸戦争のときに「国連平和維持軍」を日本国は作れなかった。
この時に、ルパン三世とガンダムは終わったとされている。
再建論者には「五年熟成させたワインが一番うまい」と教えた。
暖かい風と冷たい風の双方を知っている「五年熟成ワイン」を知らなければ「再建」しようがなかったのだ。
君主がつまらなければ舞台・映画・ドラマもつまらない。
毎日が退屈すぎるのであれば、クーデターでも企てろ。
そうでなければみんなテレビを楽しんでいるから、悪だくみの座に乗ってこない。
私が王子の頃は、暴走族すら赤信号で停車して、私の横断を待った。
今は「確変」を終えて、暖かい風も冷たい風も存在するため、暴走族が過ぎ去るのを待つしかないだろうが、当時は、私に「自信」があったのは事実だ。
とにかく、舞台・映画・ドラマがなければ「体制が維持できるとは思うな」というのは君主への教訓である。
いい宣伝効果が君主にもたらされるからである。
テクノロジーの進化も「君主の資金力」の賜物である。
インターネットというものを世の中に知らしめたのは最初は私であった。
二人目の子供が生まれたときに「何かのちの世に残そう」と考えた。
三人目の子供が生まれたときに「この子はテレビで学べばいい」と思った。
人々が見る「夢」は眠っているときの夢でも起きているときの夢でも、君主にとっては危険なものだった。
周りの人が舞台・映画・ドラマの主人公になら「俺でもなれる」と思うからだ。
それならば「読め」としか言いようがなかった。
君主に「俺でもなれる」と思ったら、図書館の膨大な本に病気にさせられるからだ。
再建論とはそれほど危険なものなのだ。
文章のセールスが伸びなければおのずと悩むようになっている。

国王は、東からの「冷たい風」をイスラエルにもたらし、王子は「西からの風」をイスラエルにもたらす。
西からの風は、国王にとって暖かかったのだろうか?
そのあたりは、取材が必要であるが、伝説的な名曲は存在する。
王子は「君主の真似をする人」「一流アスリート」が演じるしかない。
これが君主制である。
魅せられて ジュディオング

女子高生の女の子は、「男は賢い方がいい、女は美しい方がいい」という形而上学の結論から、「父と娘」という問題と直面していた。
お父さんを倒す力がないから、「娘」なのだ。
お父さんにはお母さんがいたし、女の子は高校生になって「クラスメートの男の子」に救いを求めていった。
高校生の男の子が仮に「仲間が多い、何かやってくれそう」であるのならば、女の子は恋に落ちた。
彼女の前では彼氏は「神」であったし、高校生レベルの見識や知識でも「完璧」でなければならなかった。
このことから「恋派」は、恋を追い越していったアブラハム(愛派)を、「お前には何を言っても分からない」と批判した。
この「恋派」の男の立場を「懐疑論」と呼ぶ。
恋と愛のニュアンス 酒井法子

星が太陽の十倍の輝きを見せる瞬間がある。
そのような「愛派」のスターを「神」と呼んでいたが、「恋派」は、あまりにも数が多く、天の川のような輝きを見せていた。
これじゃどっちが神かわからないな。
そのような対立のもとに、懐疑論というのは「天の川」の輝きとして「神」の立場をかなり集団主義的にアピールした。
天の川の膨大な記憶はそれ自身が巨大な富であり、懐疑論を否定することはファイナンスの立場からも得策ではない。
松任谷由実 卒業写真

男子高校生は、「大人のセリフ」を真似して女を口説いていた。
それならば、「昭和の恋」「平成の恋」「令和の恋」は全く異なるものであるはずだ。
「平成の恋」を経験した者は、令和天皇には常に批判的であった。
「これが完璧なのかがわからなかったからメールにも残せなかった」
これが「懐疑論」である。
BoA Is this love?

「昭和の恋」を経験したおじいさんは、案外明るく「入れて!出して!」とラカンを語っていた。
第二次世界大戦の狂気を経験したラカンが考えた「性の作法」が知られていたのだ。
しかし、平成には特に特徴らしいものはない。
令和は明らかに新時代だった。

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫、痛くない」

性の作法が異なるのだ。
さらには「女性と親密になる方法」など、令和天皇は平成の時代からかなり広く人々に語ってきた。

思春期の頃の恋は、「女の子にとってはいい思い出」というのは毛沢東も宮本顕治も認めていた。
しかし、男の子が「明日昇る太陽」「新時代」を受け入れなくなっていたのだ。
檸檬の年頃

デカルトは「鏡を見ながらマスターベーションすると、テレビに出ている異性とセックスする夢を見る」とも言っている。
テレビに出ている女の美しさは、昭和・平成そして令和へと進化し続けている。
ゼブラや創価学会の主婦は「天皇についてどう思う?」と東大生との昼食会で語った。
ゼブラや創価学会の主婦は、お食事会の費用を経費で落とせた。
その理由は、教団本部が「東大生とのお食事会を主婦がやっている」というだけで、子会社に社債を出させることができたからだ。

主婦層は、東大生の将来を予言したり噂したりしていた。
お食事会にはお母さんも同席しているだろうから、本人の口からは言えないが、周囲の主婦層が、

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫、痛くない」

って言って?
と「おねがい」することは可能だ。
忘れてはならない。
音楽プロデューサーや、芸能プロダクションの社長、レコード会社の幹部などの奥さんが普通の「主婦」としてお食事会に紛れていることを。
私は、瀬能あづささん(本名は別にあります)の家庭教師を高校時代にやっていた。
お父さんが小林亜星だったのだ。
瀬能あづさ 君の翼

大企業の社長の奥様に可愛がられたら就活どころではないだろう。
どの奥様も「噂づくりの達人」であり、しかも「予言を外したくない」と考えていた。
そのため、噂と予言のメインストリームに身を置くことが必要だった。
私は、小林亜星にたいそう可愛がられた。
直接の面識は小学校の時以来なかったと思う。
CoCo 横浜Boy Style

一方で、懐疑論(恋派)は、東大生になるのは極めて困難であるため、
別の「資金調達の方法」を考えなければならない。
ハロウィンパーティーやクリスマスパーティーを主催する「ゼブラ」が社債を出して、娘に「どの男の子を呼びたいかは自由に決めなさい」と言って、「恋派」「アンチ東大派」として、高校時代を謳歌しようという立場である。
アメリカでは、広い邸宅を持った家庭の奥様は、娘が高校生ではなくなっても、邸宅をハロウィンパーティーのために開放しているようだ。
ゼブラのメンバーなのだろう。
資金は、日枝神社・日吉大社から持ってくるのだ。
あるいは創価学会だろうか。
高校生は「バック」までは知らなかったため「スカーレット」とグループのことを呼んでいた。
高橋由美子 レイニーデイ×3

現在の日本国においては、「東大に入れなくてもスタンフォード大学を出たのと同じ」学識を身に着けることが可能となっており、大学入試を頂点とする学校知とは「別のルート」が当然存在してもいい。
しかし、男が予算を公布する(予算法律説)ことの必要性や、マザーファッカー(両刀使い)・オカマの攻撃性は理解しておかなければならず、つまりは「人事」も学ぶことになる。
ふだんは攻撃性・違法性をもって組織で人気を博していても「いざとなったら逃げだす連中」だということは人事を理解するうえで必要不可欠だ。
ノンケの男こそが「法律であり宗教である」ということを知らなければならない。
さて、組織ができ、お金の裏付けが得られたのならば「面白いことをやろう」(コンテク派)という立場に立つのは当然である。
男女は「2対2ならば必ず割り切れる」ということを踏まえて、NBAのスターみたいなやつも仲間に加える必要がある。
避暑地の森の天使たち

「ゲームの話題」「マンガの話題」などを話してばかりいる連中を「コンテク派」と呼ぶが、コンテク派が好きだという女は確実にいる。
昔は「パラパラができない男は無理」という女がいたのだ。
コンテク派は常に「懐疑論」(恋派)であり、東大生のような「愛派」とは相いれない存在だ。
高卒ルーキーと大卒ルーキーを区別する理由も「恋派」(懐疑論・コンテク派)と「愛派」の区別をするためである。
懐疑論者には「逆指名」する権利がなかった時代もあったのだ。

しかし、君主の肉声がある時代には「キャリア制度は解消に向かう」とも言われ、天皇が何を言っているのかがわかるのならば高卒も大卒も「変わりはない」という指摘がある。
高卒こそが、令和天皇の長寿をお祈りし、大卒は「あんなに勉強したのに」と思うこともあるだろう。
しかし、ゼブラにせよ、予算・人事にせよ、「ほとんどは大学で学んだよ」という仕組みも残されている。
いずれにせよ、実力主義を採用するのならば「28歳ぐらい」が一番戦力になる。
しかし、「高度な政治意思」の調達のためのキャリア制度が残る限り、「38歳ぐらいが一番戦力になる」とされている。

スポーツにせよ勉強にせよ、裁断的なルールをいかに精密に構築するかが問われ、人々の支持も必要だった。
アスリートや学生・生徒は常に「裁量的な」世界で訓練を積んでいたのだ。
「人が死んで勝つことほど情けない政治家はいない」
これは命という裁断的なものに依存した「裁量的なものに弱い」人物像を抉り出す。
誰もが「裁量的な」技術や技を磨いていたため、ビッグマネーは裁量的なものからもたらされるのだ。
資本論(男論)が、唯物論(女論)に詳しくなり、メジャースポーツの世界で「予言」ができるようになる。
これは、アリストテレスの、男(ファースト)、女(セカンド)、予言(サード)と何ら異なることはないが、マルクス主義者や、「資本論」という四冊の本の完成度の高さを見よ。

子供も、10歳になるまでは「ひたすら楽しみたい」と考えるだろうが、10歳を過ぎると、裁断的なルールに従わないとモテないことを悟る。
その後、自分の選んだ道で「裁量的な」訓練を積むのが人生となる。
技術革新などの裁断的な組み換えはなされるだろうが、その後、すぐに裁量的な「技」をみんながすぐに磨き始める。
裁断的なものを動かすのならばプレスリリースが必要になる。
それに応じて裁量的な「技」も変わってくるのだ。
裁断的なものはあくまでも「世界の支持」が必要であり、なにも「日本人に勝てなくしてやろう」というばかりが裁断的な変更ではなかった。
日本という国はそんなに弱い国ではなかったのだ。
大人たちは、裁断的なものを動かすことの背景にも「おカネ」を要求していたのだろう。
とにかく、平成天皇のように、邪魔者にすぐ「自殺しろ」というような裁断的ないじり方は失脚に直結した。
裁断的なものを動かすことの背景にもおカネが必要であった。
裁量的な世界で動いたビッグマネーを背景に、裁断的なルールで妥協しさらにおカネを得る、
これが「日本人に勝てなくするためのルール変更」の正体である。
「イリーガル」(反則だ!)と指摘するのは子供の基本であり、モテることにつながる。
あとは自分の技を「どの言語で」作っていくかが問われる。
このあたりは国際関係論であろうが、私の発言は常に英語から作られている。
島国に「英語で作られた技」を持ち込めば革命が起こせることは、どのトップアスリートも理解していると思う。
英語は素晴らしい言語であるが、アメリカ人は、「革命騒動」に興味ないんじゃないかな。
Perfume Edge

それを踏まえたうえで、
「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫、痛くない」

という言葉も、最終的には必要になるだろう。
裁量的な技を磨いた男が、あくまでも裁量的な「発言」をする世界なのだ。
反則などどこにも存在しない。
この「女の性欲の起源」は私もYouTubeで発言したが、何らのルール違反の指摘もない。
「裁量的なもの」「言葉のスポーツとして成立している」という判断を受けているのだ。
裁量(最良)の人になるか、裁断(祭壇)の人になるかは人それぞれだが、かつては裁量的な世界で鳴らさなければ、裁断的な世界で金儲けすることはできない。
裁断的な「ルール変更」をすると、今までの実績のすべてを失い、死人が出る世界もあるのだ。
117+136=253
これをどのように発音するつもりか?
私は当然、日本語で発音している。
それならばそれが「母国語」であり、その国で生きていった方がいい。
しかし、その「母国語」にどのような改造を施すかは人それぞれだ。
なぜ彼は強いのか?八百長ではないか?
そう思うのならば、アメリカのESPNを丹念に追ってみた方がいい。
世界はそんなに甘くはないのだ。
平成天皇を退位させたのはESPNなどの海外メディアなのだ。

資本論(男論)と唯物論(女論)があり、「予言」がなされるのが哲学の世界であり、とくにマルクス主義や、イスラム教シーア派は、それを宗教の柱とするものである。
ところが「負けることがある」のだ。
この時に「フィクション」というものが生まれた。
「負けることから始まる物語」のことをフィクションと呼ぶ。
CoCo さよならから始まる物語

「神がいないのならば私たちが発明するわ?」
これがフィクションである。
私は、アメリカの高校でタイプライターの先生と折り合いが悪く、それでも、私の英語の学習への真摯な姿勢を目撃されていた。
仲の悪かった先生が、私が帰国すると聞いて、上機嫌で話しかけてきた。
「そんなに別れが嬉しいのか」と思ったが、のちに「中国人は窓に向かって英語をぶつぶつを話して勉強している」という噂を聞いた。
あの先生が作り出した神学なのだろう。
ribbon 三つの願い

この時に、アメリカの女たちは「親日派」ではなく「親中派」という想像も取り入れている。
神を作るのは「女たち」という側面があり、純文学ではなく「語っていて楽しい」ことを女たちは自由に創作していた。
純文学は「女たちが語っていて楽しい」創作の世界ではない。
しかし、フィクションは「自分たちの好みの神を生み出せる」世界である。
ここで、「ニッポンのコータロー」と言うか「中国人」というかの違いが純文学かフィクションかの違いにすぎないであろうが。

純文学は、国家の企画立案に用いることも可能である。
しかし、フィクションは「純文学よりもより長期的な」視野で企画立案に用いることができる。
彼とは真剣勝負だった。
しかし、別れた時は嬉しかったし、私が高校二年生の時にアメリカに留学した時は、高校一年生の時の女の子が、終業式の時にはしゃいでいて、のちにこの曲を作っている。
酒井法子 窓際の恋飛行

その後、私は代々木ゼミナールの東大文系コースに入ったが、酒井法子ファンの男たちはみんな私のことを「小野光太郎か」と言っていた。
酒井法子 エアメール

真剣勝負のあとの別れは嬉しいものだ。
みんな筆が進んで止まらなかった。
このことから、プロスポーツとフィクションの共存も始まった。

女の「性欲の起源」は男よりも複雑であるが、すでに説明は終えている。
男の性欲の起源は、女が喘ぎながら「ああ貴族!ああ官僚!」というところにある。
ベルサイユの薔薇

 

お笑いの秘訣は「性欲を刺激する」ことであるが、男の性欲を刺激するうえで「男の体を褒める」ことがどれほど有効であろうか。
女の声で「キレてるよ!」「チョモランマ」「そこまで絞るのには眠れぬ夜もあったのだろう」などと言うのが有効だ。
あるいは「トイレ」と性欲の関係も指摘できる。
女が「トイレ行きたい」ということも重要である。
ボディビル掛け声

松田聖子の赤いスイートピーほど、「男の性欲」という基本を理解した曲はない。
セックスはどうしても「男による女の支配と従属」という関係を取らざるを得ず、それがそのまま、「男の性欲」となっている。
たとえば、男に「ああ貴族!ああ官僚!」と言って喘ぐことや、男の方が女よりも「体が大きい」ことを口に出して指摘するなど、「キレてるよ、チョモランマ、そこまで絞るのには眠れぬ夜もあったのだろう」など、あるいは、男社会では「女性用トイレ」に制約が多いことを活用して「トイレに行きたい」などといういことを、うまく「ポエム」に混ぜ込んでいかなければならない。
松田聖子 赤いスイートピー

小野光太郎講演会2 ラカン以来の性の作法とアベノミクス

2019年11月20日 (水)

今こそ「哲学入門」を。

アリストテレスは、「男」(ファースト)が「女心」(セカンド)を語り、「予言」(サード)を行うというモデルを確立した人物だ。
プラトンのように「音楽作品を聞いて感化される」という密教とは異なり、数学によってスポーツのルールを決め、物理学によって技術を磨き、生物学によって選手のコンディションを考えるという用い方を行い、それは顕教と呼ばれた。
「仕事」というものは横浜スタジアムや、国立競技場を中心に生まれるものだと考えたのだ。
しかし、アリストテレスが「スタジアムや競技場」を見ていたとしても、プラトンの「コンサートホール」の大観衆の存在に依存していた側面は否定できない。
女は「子を宿した」時にはじめて男にたいして優位にたてる。
しかし、男女という概念の相対性はすでに述べたとおりである。
松田聖子 抱いて


「スタジアムや競技場」の感動の再生産は、常に時代によって「やり方」が異なったし、「コンサートホール」の動向も気になった。
東京ドームでエアロスミスが、後楽園ホールで名護と松倉が戦っていた時代は、まだ、ショービジネスも各人の仕事も安泰だった。
しかし、コンサートホールが冷え込んだらどうなるのだろうか?
スタジアムや競技場が「やり方」を考え直さなければならなくなる。
松田聖子は「仕事・勉強・いじめ」の三つによって「男」というものは生まれるという時代の人てあり(1970年以前の誕生)、生まれながらにして「男」ってわけではないとし、男性崇拝を推し進めた。
松田聖子 赤いスイートピー


発展途上国においては「障害を持った子」が生まれたら「女の子だ」としている。
貧乏セックスのことを「犯罪」と呼ぶが、カネがないのに勃起することから犯罪というものは生まれている。
しかし、勃起すれば「女の子たちが奪い合う」、勃つのならば哲学に興味を持てるという意味では、犯罪の撲滅は可能なのだ。


コンサートホールにおいては、常に「男と女をぶつける」(弁証論)ことを考えていた。
モーニング娘。ファンタジーが始まる


しかし、スタジアムや競技場においては、「男同士」「女同士」がぶつかり合っていた。
コンサートホールにどのような「知識」をもたらすかは、哲学者の日々の女たちとの対話が必要であり、実践のともなわないものてあってはならない。
スタジアムや競技場においては、数学、物理学、生物学の世界となっており、審判の卍のために両チームの経済ブレーンが、常にコンサートホールの動きをにらみながら、キュレーション(評論)を競いあっていた。
審判卍


NHKがとうとう「毒親」という言葉を出してきた。
TOPIXの値段すらセックスでもらえない「家庭内の女」がいて、女がノイローゼになっていたのだ。
高橋由美子 僕をぶたないで


男が「女心」を語り、「予言」をする、その哲学の基本を示したのがソクラテスであり、コンサートホールを作ったのがプラトンであり、スタジアムや競技場を作ったのがアリストテレスである。
女の子はみんな「障害者と同じ」という扱いで女となっており、それでもステージの上にあがる美しい女はいた。
コロッセウムなどがローマ帝国では知られているが、数学と物理学、生物学がなければ「みんなが熱狂することはなかった」とも言われ、デュープロセス(フェアプレー)は、ローマ法に属することになる。
この仕組みが哲学界で知られているときに「体重73キロのソクラテスは走っている」と表現された。
ホルモンは「見た目と勃起」からおのずと定まってきた歴史がある。
つまり、フィリピンの少年で「美しい・仕事・勉強・いじめを経験していない」場合は胸が大きくなってくることになる。
ホルモンという概念もアリストテレスが考えたものだ。
フィリピン美女


あとは、「女は胸を隠す」という文化が普及すれば、ギリシャ哲学は完成したと言っていい。
「その方が気持ちがいいから」というのを目的的行為論と呼ぶが、家の鍵は出掛けるときには締めている、忘れ物はしないなどの生活習慣は「その方が気持ちがいい」というところから来ている。
目的的行為論は「女は胸を隠した方がいい」という方向に向かい、これはそのままグノーシス派と呼ばれ、人類に「20世紀の到来」を約束した。
20世紀以降は?と言われるとどうしてもミシェル・フーコーの存在がクローズアップされる。
「あなたは生まれたときから男の子・あなたは女の子」という文化がポストモダニズムをもたらしている。
なんで「仕事・勉強・いじめ」を経験すると勃起するの?と思うだろうが、それは「頭を使うから」としか言いようがない。
そこで「あなたは生まれながらの女の子」と言われているのに「仕事・勉強・いじめ」に耐えられる「美しい女」がいるわけがないことも
理解しなければならない。
美しい女は「仕事・勉強・いじめ」を経験していない。
「歌って踊れば美女になる」という言い伝えもあり、お稽古事が生まれた。
SPEED Body&Soul


「仕事をしている私だって美しいわ?」と思う女性もいるだろうが、「コンサートホール」「スタジアムや競技場」が「仕事」を生み出しているとした以上、「女心を定義する」(政治)ことを仕事と呼ぶしかない。
矢野顕子


一人の統治者の独壇場の場合は、ファミリーに委ねた方がいい。
そうでないと暴君になる。
「女心を定義する」のが「政治」だとするのならば、それは出版するなどして民主主義にしなければならない。
出版しないから、「ファミリー・暴君」は生まれるのであり、文壇があるのに「暴君」などいるわけがない。
さて、勃起するおちんちんは当然、女の子への挿入に向かうわけであるが、ここで、「音楽作品の大ブレイク」がもたらされた。
男同士の知恵比べ(モード)にまで発展することもある。
SPEED Deep blue&truth


ソフォクレスもユーリピデスも、女の子として真剣に生きています、という芸術作品を発信した。
子供は全員が少年である。
しかし、どの家庭にもエディプス王がいたのだ。
エディプスコンプレックスは「男の子の話」ではなかった。
女の子として生きなさいというお父さんからのメッセージのことを言ったのだ。
女の子としていきることに決めることを「カタルシス」とも呼んだ。
真夏のフェミニスト ribbon


カタルシスには、女カタルシス、セックスカタルシス、勉強カタルシスがあり、自分から「女の子の文化が好き」と考えるか、お父さんに「従属の対象」にされたり、「だって勉強嫌いだもの」と考えるものがある。
いずれにせよ、政治(女心の定義)や、男らしさ(宗教)を理解する上で、「女の子の生い立ち」「女とは生まれるものではなくなるものだ」ということを理解しなければ、「予言」もできないのが男であった。
このあたりを「哲学入門」と位置付けたい。


レーニンは、あくまでも「プロポーズという名の全体主義」を推し進めていた。
たとえ男女の「性」が相対的なものであっても、社会主義というものはそういうものだと考えたのだ。
しかし、1924年にレーニンが死んで、スターリンが権力を握ると、社会主義ではなく、「プロポーズからはぐれた男女のより洗練された文化や芸術」が志向された。
フーコーの「1970年」以降に、レーニン主義(プロポーズという名の全体主義)が先進国において確立するのは目に見えていたが、1924年にはまだそのような「確立した性概念」はなかった。
そこで、「いじめのなき貧困」などのように「仕事・勉強・いじめ」を経験しないから女になるというアプローチがとられ、たとえ新カント派が「有名な芸能人女性を口説くのがうまい神」を標榜したとしても、スターリニズムは、女になることを「悲劇の誕生」としたのだ。
レーニン主義と戦うドン・キホーテというのがスターリニズムであり、今でもニューミュージックや絵画などに表現されている。
ribbon 愛してジャスティス


「社会主義には仕事・勉強・いじめがない」などと皮肉ったのはスターリンであり、つまりは「男がいない」という意味であった。
スターリンが「レーニンの」社会主義のことをボルシェビズムと呼び、スターリニズムは、プロポーズという名の全体主義を、「まだ、その時期ではない」と考え、「処女と神学(男らしさ)」を強烈に打ち出した。
処女フェチ・男フェチがスターリニズムの正体であり、日本では「プロポーズという名の全体主義」と同じくらいの影響力を「処女フェチ・男フェチ」は持つことになった。
恋するフォーチュンクッキー


「仕事・勉強・いじめ」つまり「男」を生み出すのはブルジョアではないか?とも言われ、貧困層は「処女」を生み出せばいいとスターリンは考えていた。
レベッカ チープヒッピーズ


マルクス主義を振り返ってみると、やはり「囲い混み運動」(エンクロージャー)をやって、多くの処女を、牧場で「生産」したのが思い出深い。
「仕事・勉強・いじめのない空間」さえ作ればよかった。
このエンクロージャーは、唯物論(マテリアリズム・女主義)とも呼ばれ、ロンドンを世界一位の都市にしている。
カタルシス(女として生きようと決めること)をどのように作るかも問われた。
ローリングストーンズ アンジー


女の「美しさ」のことをプラトンは「カロン」と呼び、深く知らない間柄の女でも、「勉強をしている男」にエネルギーを与えるために作り笑顔をする。
よく人柄が知られるようになると、会ってもニコリともしないのが女であるが、最初、会ったときの作り笑顔は「男の噂」を背景にした「高貴で」「美しく」「癒される」ものである。
所詮、作り笑顔だなどと考えてはならない。
最初、会ったときの作り笑顔は「すでに噂で知っていた」から作ったものなのであり、女は「興味のない男には60%ポジティブ」な表情を向けるものだ。
表情を作ることそのものが「高貴な」ものなのである。
絶対解ける問題 松浦亜弥


プラトンは「コンサートホール」の研究をした人物てあるが、唐突に「ステージを降りた女」との交遊関係を語り始めた。
宮前真樹は、「なにか作業をしていたので話しかけなかった」と私のことを語っていたが、「女はパートナーがなぜ自分とセックスしたがるのかの説明を与えている」という論文を読み、宮前真樹作詞の曲は「ガラクタたちが教えてくれる」としているという調査などを私はやっていたのだ。
シャボンのため息 宮前真樹


男たちという「ガラクタ」の愛の対象になると、セックスで感じなくなる、料理できない、掃除できないという女になるが、本来、女は「多くの女を代表して男に抱かれている」という側面があり、「女友達の多さ」を競いあっているのだ。
日本中の男たちが「勃起した」女が気持ちいいのかと言われると、「女友達の多さ」に依存しており、しかも、男が射精をする前に声を変える瞬間に「想像」モードに入ったことを意味し、できるだけ多くの女を想像できた方が気持ちがいい。
そのため、日本中の男たちが勃起した女が必ずしも気持ちがいいとは言えないのだ。
しかし、日本中の男たちが勃起した女とパートナーになったら、女の「音楽作品の意味」を探求すれば、掃除や洗濯、料理などは「他にやってくれる人がいる」ということも可能だ。


プラトンは、ステージ上のパフォーマンスは「ホメーロスやヘシオドスの問題」としてあえて議論はしていない。
それよりも、「料理できない、洗濯できない、掃除ダメ」という女にとって「大切な人」になることを語っている。
松田聖子 スター


まあ、哲学をやるのにも英語が分からなければならないし、詩を作るのも「ミメシス」と呼ばれる、いわゆる「パクリ」を理解しなければならない。
いずれにせよ英語が分からなければ何も始まらない。
哲学をやるのならば「酷いいじめ」(ウルトラソウル)を経験しなければならないため、ウルトルソウルがないのならば詩をやればいい。
ウルトラソウル


1980年代から2007年のモーニング娘。まで「ミメシス」(英語の詩の翻訳)は、常に正解であり続けた。
詩だけでなく、サウンドもミメシスに頼っていた。
今のコンサートホールはミメシス(欧米からの輸入)をどう思っているのかが明らかではない。
柔らかくてデカい体をした哲学者が薬を飲みながら研究するのが哲学だ。
しかも、酷いいじめ(ウルトラソウル)がなければ哲学を研究する理由がない。
女と男のララバイゲーム


現在、神社がキリスト教の吸収を行っている。
街を歩いている女ならば日経平均株価(2万3千円程度)を支払わなければセックスしてはならず、付き合ったのならばTOPIX(1690円程度)は支払わなければ「犯罪」であり、支払わなければ、女が病んできて男が犯罪を犯すとされている。
米津玄師 レモン


米津玄師は、男友達は「財産」であり、女友達は「担保」であるとし、男の「非犯罪化」を進めたが、それを実践したのは神社であり「教会ではない」という強烈なメッセージを歌に込めた。


ミメシスとウルトラソウルは、天皇のものであり、それはつまり「天皇を敬え、政府にしたがえ」という神道となっていた。
政府にしたがえと言っても「犯罪」を抑止する「男友達」(財産)、「女友達」(担保)を男に与えるのが仕事だ。
所有が「男友達」で、占有が「愛という概念をともなった関係」を意味し、男にとって「男友達」は財産であり、「女友達」は担保であるということを踏まえて、「男女がどのようにして二人の関係を深めていくか?」という学問が債権法であることを理解しているのならば法律を勉強してもいい。
「愛の法律」(債権法)が、物権法(おカネの裏付け)に優越すると我妻栄は考えていたが、キャンパスで何を得ることができるのか?は理解しないといけない。
また、セックスをしたら「友達のラインを越え、恋人になる」という基本を踏まえ、刑法・民法と向き合っていかなければならない。
三浦理恵子 グッバイフレンズ


詩の発展は、ギリシャ哲学の頃からなされていたが、ミューズの女神(ミュージック)の発展はバロック音楽の登場を待たなければならなかった。
本当に「最後の審判」「決戦の時」が怖くなくなったのはバロック音楽ができてからだ。
スコアや弦は「計算するためにある」ということも理解しなければならない。
すべての世界が「アメリカ合衆国を真似する」時代になっている。
いいものを真似することを恐れてはならない。
ピカソの「イカれた」絵画もいろんな人の絵を真似て、イカれた頭で描いただけなのだ。
頭がイカれたら、イオニアの空でも眺めるしかない。
そういう世界なのだ。
モーニング娘。 歩いてる


ウォルター・ベンジャミンは、私の父の「先生」でもあり、夜の街に堕ちていく男たちを尻目に王道を歩む男の子の研究をした人物である。
SPEED Another sweet field


ベンジャミンは、ハインリッヒ・リッカートや、ゲオルグ・シンメルなどと交遊を深め、カフカの小説にも触れた。
どのように「男は化けるのか?」、それがベンジャミンのライフワークとなったのだ。
ボルシェビキ・ラトヴィア劇場で「プロポーズという名の全体主義」を見て、人生の勝者というものがだいたい分かった。
彼は1939年に戦争が始まると、フランスで「ドイツ人である」として政治犯収容所に入れられているが、すぐに解放されている。
女の願いが「プロポーズ」だとするのならば、その世界の「優等生」を作りたかった。
のちに女は「出産の方が大事だった」と気がつくとしてもだ。
真冬の観覧車


くだらない人生、周囲はそう呼んだが、大人になってからの「パフォーマンス」にはみんな避けて通っていた。
「男女の経験などカントを読めば全部書いてあるだろう」という思いがあった。
あくまでも「カント」を前提に、人生のすべてはすべて本に書かれていることを前提にベンジャミンは、「アーケードプロジェクト」というものを考えたのだ。
ぺピン


私も、父の指導にしたがい、そこのけそこのけお馬(聖徳太子)が通る、と言われるように、アーケードのなかを歩いただけで東大文一に受かっている。
他に優秀なやつは腐るほどいたが、みんな「消えた」としか言いようがなかった。
夜の街に堕ちていっていたのだ。
かなりメシアニック(救世主待望論)的な発想であったが、カフカだけでなくフィヒテまでこれに賛同してしまった。
今でもCDショップは、メインストリート(アーケード)に堂々と店を構えている。
「遊ぶカネをやらない」というのが私の祖母や父の考えだったようだ。
その代わり、CDでは「歌のモデル」にしてもらうなど、案外楽しい時代だった。
私が21歳で心を病んでも、祖母はこのような作品を書いている。
酒井法子 エアー


朝のうちにマスターベーションを終わらせておくこと(モーニングプレイ)も、必要だった。
とにかく、祖母は私の従姉妹の酒井法子を強烈にアピールしてきた。
秘密のガーデン 酒井法子


従姉妹の女は、クラスメートの女よりも簡単にセックスできる。
しかし、祖母はあえて酒井法子を私から「遠ざけた」のである。
祖母はカルヴァン派(オランダ美人)として、「処女のアイドル」だった薩摩藩の娘として、酒井法子を認めていなかったのだろう。
薩摩藩の出身の祖母にとって、私が「アメリカに留学した」「帰国後3ヶ月で大検に受かった」時点で、ソウルメイトとして「CDショップを通じて」キャッチボールをすることは決まっていた。
なにしろ香淳皇后には「権力」があったのだ。
酒井法子 エアメール


私は、祖母との「対話」に夢中になったし、熱心に酒井法子も聴いた。
勉強もした。
なにしろ、私の「勉強」のために動いたものが大きすぎた。
生魚を食べたら誰だってアニサキスで下痢をするだろうが、私は排泄する時間すら惜しんで勉強した。
おかしい、体調が悪い、疲れる。
私は寿司をたらふく食い過ぎたせいで肝臓に虫がたまっていたのだ。
「顔の赤い痩せたソクラテス」
祖母は認知症になり、「マンモス」というアルバムを最後に、私との「対話」を打ち切っている。
自身の薄れ行く記憶を頼りに、先妻の娘・美智子とその娘のことを歌っている。
酒井法子 平気!平気!


28歳の時(1999年)に、ホリフイールドと、レノックス・ルイスが戦い、私は「インターネットの情報力」を世界に紹介した。
この時に、香淳皇后は、私と「美智子の娘」との結婚を認め、しかし、香淳皇后は次男に殺害されている。
次男は令和の改元の前日に自害している。
2000年に香淳皇后は亡くなっているが、母方の祖母が2005年まで必死で「身内の私への造反」を食い止めていた。
2005年に母方の祖母が亡くなったら、もう、家庭内のいじめは「戦争状態」となった。
私はそのメンバーを「ぺテロの葬列」という記事にしている。
ペテロの葬列


香淳皇后は認知症と戦いながら、無我夢中で生きた。
昭和天皇の「戦争」と同じ、戦争を私が経験し、暗愚なものたちが歴史に名を残すように、ユネスコやスタンフォード大学に「後始末」だけは頼んでくれた。
ノーベル賞の数など今さら数えようとは思わない。
私は「おばあちゃん子」だったのだ。


精神病の原因の探究は新時代を迎えている。
マスターベーションが「普通の女」を対象としたものではないこと、女を知らないこと、その女と日常を過ごしていないこと、などが精神病の原因として指摘できる。
「今は言えなくて、きっと傷つけて」
CoCo メロディー


統合失調症にせよ、うつ病にせよ、強迫性障害にせよ躁病にせよ、「女とは何か?」を知ることで治すことができる。
これは、精神病の女にとっても「女とは何か?」を理解すれば精神病が治るという意味では同じことだ。
男(ファースト)が、女心(セカンド)を語り、予言(サード)をするというのは、プロスポーツを楽しむごとにみんなが健康になっていくことを意味する。
女心を語るというのは、男にとっても健康であり、女にとっても健康なのだ。
「男が女を愛する気持ちを利用するのが経済学」であるが、それはメンタルの「健康」を基盤としたものであり、精神医学の世界にせよカントにせよ「男心」ではなく「女心」に常に注目してきたことにはこのような理由がある。
女の子は思春期に「仕事したくない、勉強したくない、いじめられたくない」という三つの要件を揃えて、「美しく」なる。
この「正直」を伝えないのが大人の恋だと思ったけど、いろんな現実もあったし、大人に近づくたびにみんな「男に頼って」美しくなっていた。
愛の炎 田中れいな


要するに「男女の間の神経伝達」が男には必要であったし、女は「女らしさ」を表現する必要があった。
女らしさは「仕事をしない、勉強をしない、いじめられない」ことからもたらされる。
しかし、「女心」を知ることは、男にとっても(もちろん私にとっても)「仕事」と呼ぶほど厳しい作業ではなかった。
脳がダメージを受けたら「女性芸術」「処女芸術」に心が向かうのは当然だったのだ。
男は「男女の対話を」、女は「女らしくある方法を」知る必要がある。
「君が僕の子孫を残すのかと思うと緊張するんだ」
恋じゃなくなる日 Bz


このような「読書」は、学校の勉強とは違うと思われる。
このような「男が女と対話する」あるいは「女がより女らしくなる」ことを「税収領域」と呼び、「どうしたら病気ではなくなるの?」という問題を明らかにするだけで、人々は「お金の蒸発」から守られ、手元にお金が残り、さらに納めた税金はしっかりと財務省に届いた。
「気分がいいから読んでいる」というのがもっとも好ましい税収領域であり、「神・男の完全性を議論すると爽快感がある」などのように、よりシンプルな形で、「精神病患者のいない」豊かな国を作ることができる。
赤いスイートピー


精神病になっても基本的には問題はないのが、「周りにアイドルたちが普通にいる」というところにある。
「仕事・勉強・いじめ」から自由になることが「女らしさ」を生み出すし、逆に「仕事・勉強・いじめ」が男のちんちんをどんどんデカくする。
男女の対話は「1970年生まれ」以前と以降では意味が異なる。
1970年生まれ以降には確実に精神病患者は減ったし、今ではデジタル化の時代そのものが、「家庭」と呼ばれる芸能人を病気から自由にする技術によりさらに減った。
つまり、「地上波デジタル」の時代には「新しい患者さん」はほとんど想定していないのだ。
「周りが自分の噂をしている」「私のことを笑っている」
それは「幻聴」と呼ばれたが、人々は実際に噂していたし、笑っていた。
周囲は「なぜ、女の子ともっと話をしないのか?」「女は男に頼らないのか?」と不思議がった。
これが精神病の正体だったのだ。
ICD-10は、「周囲は最終的には勃たなくなる、異性に興味が持てなくしてやる、と考えていた」としている。
異性の気持ちが分からない、これが重篤な精神病につながる。
しかし、カントは「男心」の研究にその答えを見出したのではない。
あくまでも「女心」さえ分かればいい、というよりシンプルな答えを見つけたのだ。
女ネットワークが、有名男の「噂をした」「笑っていた」のは本当なのだ。
しかも、「相手にしてくれないのならば、完膚なきまでに勃たなくしてやろう」と考えたのも本当だった。
かつては「痩せすぎ、高熱、覚醒剤、低身長」などの特徴が統合失調症には見られた。
しかし、要するに「有名男が弱った瞬間をみんなが狙っていた」ということなのだ。
このあたりは、「娘ができれば、女心に興味を持つだろう」と考えたソシュールや、実際に、病院で「バカウケ」する話をして自信をつけていくしかないと考えたフッサールにまで遡らなければならない。
男がどのように「女心」に興味を持つかは「謎が多い」とされている。
「どっか連れてってくださいよ?」と言われたら、それはいじめであるし、男としては「赤と木」つまり、赤い花と木を見せて「これが男なんだよね」と語れる上級者ならばいいが、そうでないのならば、「大きすぎるもの、小さすぎるもの」(超越論的)が女の美学だと心得て、「天文台と海岸」「ランドマークタワー」などの「答え」を用意していなければならない。
中嶋美智代 天文台と海岸


私も、東大に入って有名になった時に、女性たちが私の噂をしていても、顔を真っ赤にして寝たふりをしてしまった。
これが、もっとも最悪なパターンである。
なぜ、そのような「チャンス」に女の子に話しかけないのか?
私も、電車で女の子たちに「俺、東大哲学科」と言っていろんなインタビューが出来るようになるのに時間がかかった。
心ならば「女の側に開かせよう」というのがカント以来の伝統であったし、それがそのまま精神病の治療につながるのだ。


「心の痛み」は確実に脳にダメージを与える。
このことから、周囲は「脳への攻撃」に容赦はしないだろう。
電話をガチャンと切られることにすら慣れていないのが若者なのだ。
「俺、スターなのに?」と思ったら大間違いだ。
育ちが違えばよそ者である。
脳にダメージを与えるためなら周囲は何でもやる。
外科内科的理由が鬱病の原因だとされていたが、今では「お育ち」がかなり無理を強いてくると「ディスチミア」という鬱病になる。
お育ちがいいのならば、これも周囲の攻撃材料になる。
「仕事・勉強・いじめ」から自由になった「女らしい」女性はこれほどまでに「男に頼りたい」し、「男を潰す力を持っている」のだ。
「女にも分かる話をしてよ?」
学者たちは精神病院通いに大忙しだ。
「有名」「女と話すのが苦手」これだけで心を病んでしまうのだ。
東大としては「英語と第二外国語は教えたからな?」という国際関係論と呼ばれる言い訳は成り立った。


かつては、「統合失調症になると精子の価値は49%になる」と言われたが、私が「20世紀JーPOPレジェンド」たちとの交友関係を明らかにしたことは、「マッドプライド」と呼ばれて精神医学の世界に衝撃を与えた。
男にとって「男友達」は財産であり、「女友達」は担保である、とし、男友達同士で「口説き文句」を取引し、女友達にそれを話してみるという物権法の世界を経て、
モーニング娘。男友達


セックスをするのであれば「おカネが必要」というのが債権法の世界であり、刑法の世界であるとした。
街を歩いている女の子ならば日経平均株価(2万3千円程度)、家庭内ならばTOPIX(1690円程度)が必要と考えられる。
男友達同士で「口説き文句の取引をしている」と言っても、電話口ではなく、まとまった論文が必要だ。
1948年の世界人権宣言を経て、21世紀に入って国際刑事裁判所でもこの「やり方」は認知された。
日本国の神道が先にこのことに気が付いたのか、それとも「キリスト教社会が既に知っていた」のかは明らかではない。


レズビアンの女と会った。
「理想の男の夢を見ない」「周囲の異性が自分をどう思っているかに興味がない」
つまり「あなたの痛みは消えないわけですね?」というと「内科的なものですから」という。
レズビアンの「おカネ」と、ハンターとしての本質、さらに彼女にとって「愛情とはどのようなものか?」このあたりがテーマとなる。
むしろ彼女は「純粋な少年」なのかもしれない。
プルタークの英雄伝にも興味がないだろう。
あるいは、自分が「英雄」なのかもしれない。
「処女に興味はあるか?」と聞いたが、本来スターリニストならば興味があるはずであるが、それも「ない」と言う。
「理想の男」に興味がないのならば、とんでもない財産的損失を被ることになる。
旧約聖書では「理想の男」は語っていたが、レズビアンを議論したのは新約聖書である。
「処女」=レズビアン=カトリックは、「階級闘争」と深く関わっている。
異性でマスターベーションできない人を相手にしたのはナポレオンだった。
女の園、それは指原莉乃のためにあった。
指原莉乃のソドムがAKB48だったし、スターリン以前にナポレオンが「カトリックの資金力」に目をつけていた。
1969年に「ビリティスの娘」と呼ばれる今のAKBグループに警官隊が突入した。
ミシェル・フーコーの「1970年」の前の年だ。
階級格差は、指原莉乃のソドムであるAKBグループが解消する。
同性愛に執着を持つリーダーが卒業した時点で、グループはおしまいだ。
ソドムにはストイシズムしかなかった。
「膣セックス」以外の「可能性」が必要だった。
「勉強」を愛さなければリーダーではなかった。
「勉強を愛しているふり」をしなければ、ソドムのリーダーではなかったと思った。
これが指原莉乃の正体だった、という夢を見た。
指原莉乃、それは非常に興味深い研究テーマとなった。
実年齢は50歳を過ぎているだろうか?
つまり、「なぜあしたのジョーで、矢吹ジョーを応援する子供たちの中に女の子がいるのか?」という問題とぶつかる。
カントは「子供の頃、非常に可愛がられた」とされているが、
「1970年」以前の生まれである指原莉乃は「フルートガール」つまり、ちんちんを口に入れられていたのだ。
日本国の神道のように「勉強崇拝」をしていたのがカントの両親であり、森の巨木をちんちんとみなし、「これが勉強の目的よ?」と教えていた。
生まれながらにして「皇帝の後継者」とされたカントは、6歳ぐらいでクリニックで勉強を教わった。
勉強と言っても、父が書いたテキストで常に「おカネの話」を聞いていた。
指原莉乃のような「同性愛多数派工作」がカトリックであるとするならば、プロテスタントはもっと「おカネ」に敏感だった。
「国の汚い部分をなんとかしてくれ」も言われたら、政治家は「プロテスタントの美しい歌声」に頼るしかない。
映画「タクシードライバー」の、大統領候補パランタインは「簡単な問題ではない」と答えているが、ニューヨークの汚らしい側面は「プロテスタントの美しい歌声」こそが解決する問題だったのだ。
インディゴブルーラブ


痛みに関しては、とにかく「休むこと」が必要であったし、それでいてかつての自分の「伝説」を異性がどう思っているのかを知る必要があった。
しかし、指原莉乃は「女の子」が自分をどう思っているのかを知る必要があった。
しかし、世の中の「波紋」は毎日のように混乱し、また、干渉しあっていたため、メディアで少なくとも「自分がどう思われているか?」を知ることはできなかった。
そのために「街やクリニック」で他者と交流する必要があった。
いろんな男たちがいたが、一言でいうと「神」という共通項が見つかる。
男は「勃てば」どの男も、時代の寵児と変わらなかった。
指原莉乃も「休養をとり」「アフロディーテのために祈れば」内科的疾患や顔の浮腫もなくなるのだろう。
酒井法子 涙が止まらない


私も、激務で体が痛いが、「常にセンターであり続けること」よりも、その時代の寵児のために祈る必要がある。
人間は「食べると得をする」とされる。
私とて、他の宗教家の「勢いとエネルギー」にいつまでも勝ち続けられるわけではない。
イエスは「祈らない、笑わない」存在だった。
しかし、もし私が休養を十分にとり、しかも祈れば、人生に悩みなどないことになる。
「この宗教家の勢いは止められないね」
そう思ったら、私も、ようやく宇宙のメンバーとして、貯蓄ができるのだろう。
誰だって「一人勝ち」の時はある。
しかし、指原莉乃は「次世代アフロディーテ」のために祈れなかったのだ。
男は、女をめぐる「仕事・勉強・いじめ」によって男になっている。
つまり、ちんちんがデカくなっている。
一方で、女はこれらの作業から自由である代わりに、男の話を聞くようにできている。
そこで、「1970年生まれ以前」は、男と女が「知性によって」つながっていたのだ。
この「つながり」を断ち切ればどこか健康に異変をきたすだろう。
今は、「電話」「スマホ」という便利なものがあるではないか?
「すべての人間がつながっている」
これが健康な社会というものだ。
少なくとも、指原莉乃は、「男に心を閉ざした」のである。
しかし、「男に心を閉ざした女」がカトリックというものを作ったのだ。
「私は動物なのかな?子孫を残せないのかな?」という気持ちから、AKBのメンバーは、普通にクリニックにいたし、男(ファースト)、女(セカンド)は、男が女心を語ることで女たちの支持を得て、スポーツの世界などで予言(サード)を行うことでみんなが健康になった。
資金集めのうまい陣営をみんなが応援したし、結果を見て笑顔で家路についた。
1755年にリスボンに津波が襲い、7万人が死んだ。
しかし、カントはこのことを「予言」していたのだ。
「地震という断層運動のズレも人間がやることなんだよ」
地震が起きたら、気象庁や宮内庁に苦情を言っていい。
数学がスポーツを作り、物理学が技術論を作り、生物学がコンディショニングを考えた。
地震など、スポーツビジネスの失敗でしかなかった。
地域住民が「メンタルな健康」を見失ったら地震が起きる。
ノストラダムスの大予言というものがあったが、平成天皇は「おの」の登場によって救われている。
20年後には、すべての日本人が「アメリカ化」するのではないか?という期待感もあり、天変地異を免れたのだ。
皇室と関わっていると「ブーメラン」という言葉を目にする。
「意思の自由のないものは、自分のことをまるで相手のことのように語る」のである。
皇室のメンバーに意思の自由がないことからこれは生じるのだろうが、宮内庁関係者も在日や部落民などで構成されており、「意思の自由がない」という意味では皇室のメンバーと文化は変わらない。
国語の「問題文」を答案に書いてしまうことは、東大不合格を意味する。
「なぜか?」ときかれたら「~だから」と答え、「どういうことか?」ときかれたら「こういうこと」と答える。
問題文を答案に書いてしまわないことを覚えただけで、私は東大二次試験の現代文で満点を取っている。
すべて「意思の自由」を確認されたのだ。
意思の自由のない「統治体」ほど危険なものはない。
21歳より下ならば「教わったことしかできない」ものだ。
私も、東大現代文の「法則」は、模範答案の研究を綿密に行なった上で発見している。
若さを楽しみたまえ、若者よ。
モーニング娘。


なにしろ「ブーメラン」は、男と女の「知性によるつながり」から排除された障害者のような連中が返してくるのだ。
「我々のアイデンティティは純潔にある」という保守派が多く、女が「その言葉は欲しくない」と思ったら、全部「相手のこと」になっているのだ。
宮内庁には低学歴が多いとされるが、要するに「プレイヤー」(皇族)の動きが緩慢で鈍いのだ。
どの組織もスピードアップは嫌いである。
女の配置も定まらないまま、ピョンピョン話を進められても困る。
巨大組織は、サプライズを引き起こすのを苦手としている。
スピードアップが嫌いならば、プレイヤーはみんな皇族みたいな連中になり、動きがのろい者が出世する。
大企業や官庁の不祥事ばかりが報じられ、男と女が知性によってつながっているような連中は大企業や官庁を発信源に病んでくる。
これが1755年のリスボンの津波の予言の意味である。
みんなが死にたがっていたのだ。
女の「死にたい」発言は「ちんちんのついている男の側の責任」なのだ。
「高度な政治意思」ってあるのかね?
高度統治行為ってあるのかね?
これが「巨大組織」を率いる者の結論である。
吉田茂は、池田、佐藤、山崎の3名の閣僚の署名をもって那須に向かった。
これで憲法7条解散が戦後はじめて行われたのだ。
「批判に耐えられんか?」しかし「3名だけか?」
最高裁はこの苫米地事件に「憲法判断回避」を行なっている。
昭和天皇の源氏物語のセールスが伸び悩んだり、国会対策費・メディア対策費が足りなかったことから、昭和天皇の「男女の知性によるつながり」が疑問視されざるを得ないからだ。
巨大組織はとにかくスピードアップを恐れている。
教祖というものも、その「のろさ」をよく理解しているし、「意に反する薬の服用」を行い、神道信者公称9500万人のトップならば、常日頃から女性とコミュニケーションをとっておかなければならない。


寝てる時に「痛み」で目を覚ます。
夢で見るのは「理想の男」であり、「理想の恋人」と付き合っている。
しかし、指原莉乃が見た夢は「女の子たちに囲まれている」ものであった。
おとぎ話のような話であり、人間はレム睡眠の時に「痛みで目を覚ます」あるいは持病を持っている人は発作を起こす。
酒井法子 おとぎ話のシンデレラ


とにかく眠っている時に見る夢は「大きすぎる」のだ。
これをそのまま「AKB48」としてオンエアしても、それが「当たり前」になるとむしろのちの人生には「痛み」が待っている。
夢はひとりみるものじゃない


夢で見たことを他人に押し付けると、むしろ有害であることもある。
今の知識に疑いを持つ必要がある」のである。
夢で見る「女」は皆、処女のようだった。
私の夢を絵にしてみよう。
印象派は、そのように考えてのちの世代の評論を待った。
印象派ルノアールのように


眠っている時に見た「夢」は実現できるのか?
私は「俺を殺してくれ!」と夢でうなされて寝言を言った。
「心」には合格点はない。
大学に合格した、就職の内定が出た、それだけで叶う夢が果たしてあるのだろうか?
Do It Now


夢を見ている時のレム睡眠は、人間が「休む」という通常の体勢ではないとも言われる。
起きている脳に麻痺した筋肉とされている。
試しに体に痛みを与えて眠ってみたところ、夢を見た瞬間に私は「エンコ詰めろ!」と怒鳴っていたそうだ。
日常の職場で「エンコ詰めろ!」と言っている方もどうかしているが。
そこで研究者は、夢を見る時間帯にはなんら法則のようなものはない、とし、「ゆっくり休める睡眠を」と研究テーマを変えていった。
なぜならば「自分が怯えているものが夢で実現することもある」からである。
夢を見た瞬間、麻酔が切れて痛みを感じるのならば「現実とのギャップ」の存在も指摘できる。
夢と論文とスタジアムという生活は、現実社会から離れ、体に痛みをもたらす。
寝てるよりはデートの方が意味があるだろう。
ribbon 変な愛のカタチ


また、白黒の夢とカラーの夢があるとされ、カラーの夢ほど「嘘が多い」とされる。
夢は「女にたどり着く道であり、戦いである」とも言われる。
それならば、指原莉乃は「自分にたどり着くための戦いなど必要ない」と考えているだけであり、「理想の男を夢見る」というフロイトの説はすでに克服されたのではないだろうか?
ユングやフロイトの場合


夢は、始まった瞬間に「ゲームとして成立させよう、長続きさせよう」と脳が判断している。
また、「夢を見るならば健康だ」とも言われる。
コンサートホールにカネを払ったら、夢で倍返ししてもらえるという説もある。
アンデルセン童話も、寒い国の印象派なのだろうか?
マッチ売りの少女


また、夢を食べるのは「バク」ではなく「女の胸」であるとされ、もっとも疲れが癒える睡眠は女の胸からもたらされるとされている。
指原莉乃は、貧乳なだけ、そもそも夢を見ない、という仮説も十分に成り立つ。
私は、夢で「女にたどり着く道、戦い」を見て「俺を殺してくれ」と寝言を言った後に、本能的に、魔除けとしてアイドルのポスターを壁に飾った。
「勃つために夢は必要」とする学者もいる。
そもそも、キリスト教(セックス崇拝)が真理であると確定したのも、「夢がそうだったから」ではないだろうか?
また、夢を見ると「余計な情報がカットされる」という説もあり、余計な情報を取り除くために、あえて眠りが必要な人もいる。


巨乳女と長時間過ごすと疲れる。
しかし、巨乳は魅力的である。
このことから、朝ドラや映画など長時間のパフォーマンスをする女は貧乳の方がいい。
一方で、歌などの「5分間のパフォーマンス」をするだけならば巨乳の方がいい。
これらの原則を「デシプリン」と呼ぶ。
デシプリンは、1500年代中頃に、日本の能や歌舞伎、文楽などが知っていたとされる。
これは「人生の伴侶」というもっとも長時間のパフォーマンスにも影響を与えるものであった。
藤原紀香 CM


映画で貧乳女に癒される。
そんなカップルはよくいるだろうが、巨乳女との日常に帰っていかなければならない。
シアターを都合よく使わないカップルはいないし、テレビでもそれは同じである。
見つめてあげたい


彼女が貧乳ならば、生活をともにしても疲れないだろうが、男は時に不幸に見舞われたら「揉みたく」なるものだ。
そのような時は、ソープランドやポルノシアターなど、かなり「偏見」をともなう場所に行かなければならない。
とにかく胸とは女性にとって「私とは何か?」という問題であったし、男はそのことと常に向き合わなければならなかった。
なんにも言わずにI Love you


能や歌舞伎、文楽が世界に発信した「私とは何か?」という問題であったが、
貧乳女を観客全員で追いかけた後にはみんな爽快感で喝采を送った。
タクシードライバー


国民的アイドルはみんな貧乳であったし、視聴者に「巨乳女との理想的セックス」を約束するものであった。
「私とは何か?」というものを正確に理解し、文化との接し方さえ理解していれば、男は浮気をする必要もなかった。


愛も深まるのと同時に、「文学座」などはジャズを好み、「このフルートはどうやって使いこなすの?」というような素材を放映していた。
「何かが難しかった」のだ。
「不倫は文化」というよりも「文化に委ねなければなくならない問題」であると言えた。
「巨乳は疲れる」「紀香が重い」
そのために、映画館は常に「カップルの集いの場」でなければならなかった。
映画館の数の減少と言っても、家での「重さ」を解消する意味合いもあった。
まあ、DVDでもいいだろう。
rebecca trouble of love

伊豆の踊子で、踊り子が学生さんに「学生さんがいっぱい大島に遊びに来るね」というと学生さんは「それは夏でしょ?」という。
踊り子は目を伏せたように「冬でも・・・」という。
おばちゃんが「おかしな子だよこの子は」という。
実は、冬の海での「男女の秘儀」を踊り子は言っていたのだが、学生さんはショーペンハウエルを知らなかったのだ。
父と子の問題も「僕は身寄りがない」と言ってニーチェを理解する才能を疑わせた。
哲学科であることからハイデガーが「読め」と言った本は読むだろうし、ただあてもなく旅をしているということからキルケゴールの道を歩んでいた。
踊り子は「いい人はいいね」と話していた。
この帝国大学の学生は、実は和辻哲郎をモデルにしたものと思われる。
兵庫県姫路市出身で、旧制一高(現在の東京大学)に入り、その後、東京帝国大学に入っている。
「西洋化」
それは、和辻哲郎も夏目漱石も向き合った問題だった。
夏目漱石は「行人」において「孤独で孤独で仕方がなく家に帰った」イチローという人物を描いている。
男の子は「男」になるために「仕事・勉強・いじめ」に耐えなければちんちんがデカくならない。
また、和辻哲郎は、バイロン、テニソン、シェリー、キーツなどの詩を学んでいる。
美男美女になるために「古寺巡礼」を書いたが、みんな子供の頃は「美少年」であって、日本精神史研究において、日本国の「男」はいかに「仕事・勉強・いじめ」を経験して男になるかを描いた。
桂離宮の「制作過程の考察」を行い、ものづくりこそが「男」を作ってきたとした。
ハイデガーは、「ザインとゾレン」において、「ただあるがまま」の存在を「女」とし、苦労を重ねた人物を「男」としていた。
偶像細工によって「女は女らしく」を描いている。
偶像細工がなければ、日本国の株価が上がらなかった。
「悪の天才」ほど「小柄な人間」になる。
駆け引きを知らない人間は図体がデカくなる。
いろんな意味で、明治維新以降に「性概念の確立」を試みたのが和辻哲郎であった。
尾崎豊 シェリー

「女は女らしく」これが人類未体験ゾーンであってはならなかった。
「昔から女らしい女性はいた」
これを万葉集で描くことが必要だった。
和辻哲郎は、1960年に死んでいるが、1960年代に「セックスと革命の嵐」が吹き荒れた。
仏教が「美男美女」を生み出していた。
しかし、美男美女が「セックスをする」というモデルが「全国民のもの」となったのだ。
徳川将軍が70人も子供を作る時代ではなくなった。
「男の誕生」
それは宗教であったが、1960年代に「男たち」が荒れ狂ったのだ。
1970年代には少年非行は沈静化に向かった。
ミシェル・フーコーの「1970年」を待つまでは、我が国も革命の恐れがあったし、「暴力革命」つまりプロポーズという名の全体主義を通じて、
「自然革命」つまり「処女と男」の確立を行わなければならないと思われた。
しかし、西側陣営の一員として、日本国は「1970年」に、生まれながらの「男の子・女の子」を決めることにしたのだ。
和辻哲郎を失った1960年代の日本国のことを「シチリア島」にたとえて、ゴッドファーザーは作られている。
ゴッドファーザー 愛のテーマ

「男に何ができるのか?」
それは21世紀、しかも令和の時代になっても「まだ実験中」であった。
世界レベルで、男(ファースト)、女(セカンド)、そして「女心を語ることによる予言」(サード)は、発展段階にある。
和辻哲郎が「人間存在」において、「男の誕生」を書かなければ、日本国は西側諸国、準白人国家としては存在していなかった。
ボクシングの世界においては、いまださいたまスーパーアリーナとラスベガスは「条件は同じ」ではない。
低血圧の人が好むスポーツのまま、熱が覚めたり燃え上がったりしている。
まだ、ボクサーやジムが「論文」のセールスを行う世界ではないのだ。
そのような意味では、デトロイトスタイルやタイソンストリートに30年は遅れをとっている。
ファースト、セカンド、サードが、誰も「小野光太郎の発明」であることを認めたくないまま、世界の哲学は動き続けている。
阪神電鉄は「球場周辺のいかなるビジネス」も手がけ、読売新聞は「日曜版」のセールスを見ていた。
横浜DeNAベイスターズはそこに割って入った。
三浦理恵子 日曜はダメよ

第二次世界大戦終結の5ヶ月前に、和辻哲郎は「鎖国~日本の悲劇」を書いている。
これも、「令和天皇ならば違うやり方をしたのだろう」と改竄されている。
アジア初の近代帝国でありながら、膨張路線を取り、それでいて「ファースト、セカンド、サード」という概念を明確にしきれなかったのだ。
「令和に入ってもまだ、男女の性概念は流動性を持っている」
「株価ポテンシャルはまだまだある」
これは、私も日常的に「シスコン女」と接していることから理解している。
お母さんの作る食事が美味しすぎる、愛よりも食べ物、このような系統と、お父さんに幼い頃いたずらされた、という系統、いろんな「女になりきれない女」のポテンシャルがあるのだ。
どの母親も「娘に嫌われたくない」と思っている。

2019年11月15日 (金)

怖い婆さんの扱い方。

美智子上皇后が、たいそうお怒りらしい。
美智子さまにとって娘は「おちんちん」(ピエロくん)であり、それを私に持っていかれたことから、「去勢」(キャストレーション)を経験し、思春期のメランコリーがぶり返したのだ。
しかし、「声をかけられクルリ振り向けば、素敵な人が立っている」という思春期のキャストレーションとは異なり、自分の姿はもはや「ネズミ」であった。
さよなら失恋ピエロくん


フロイトの去勢(キャストレーション)論争は「100年続いた」とされるが、マスオとフネの論争は、イケメンとネズミが絡んだ難しい議論であり、ネズミである自分は、もはや対立する母もなく、美の探求にも関心は向かわない。
娘のいる高齢女性特有の悩みを解決するのが今後の哲学の方向性なのだろうか?
カントが「永久平和のために」を記したのならば、この「ネズミの救済」は論点にならざるを得ない。
50歳以上はふたなり、という私の議論と、女性は51.4歳で生理を終えることから、抜群のタイミングで、美智子上皇后は同世代のご婦人たちに「悩み」を打ち明ける格好となった。
ニーチェは、「悲劇の誕生」において、ネズミの救済を取り上げ、ウォルト・ディズニーは、ディズニーランドをそのような高齢女性のために作っている。
「夫をなくした翌日にディズニーランドにいた」という女性もいる。
ディズニーランドの木や山は、素敵な男たち、エリートを表現しており、アメリカではミネラルキングバレーの「ディズニーランド造成計画」は、「悲劇の誕生」を根拠に合憲判決が下されている。
私は中学の卒業旅行は、東京ディズニーランドであったし、留学の卒業旅行は、ロサンゼルスのディズニーランドであった。
「いつかカントやニーチェが分かってくれれば」という大人たちの願いが込められていた。
ribbon 卒業旅行


カントが「あそこの婆さん怖いから気を付けろ」と言ったときに、「国家の資金の流れ」が決まった。
カントは、「女心」を探求し「プロスポーツに生かす」ことがライフワークだったが、「怖い婆さん」だけは、自身の政治活動の障害物だった。
そこで、ニーチェはのちに「ディズニーランド」を構想したが、カントは、「ボールパーク」(野球場)を想定していたようだ。
ボールパークの婆さん。


カントのポリシーは「処女をうまく使う」「頭を使う」というものであり、その上で「勃つ」のが男であるとし、「カネで治める」ことで体系化されている。
この体系こそが「実践理性の定言命令」と呼ばれるものだ。
そのコツは、カネを最後に婆さんに集めて放出させる、というものだった。
男だって女だって、最後に頼るのは「婆さん」だということを知らなければならなかった。
おカネの動きは決して「男性的・合理的」な動きはしていない。
カントは、自分がいくらおカネを儲けても、怖い婆さんに乱暴かつ非合理的に浪費されていくのを見た。
「予算編成」など女の仕事ではなかったのだ。
予算法律説はここから生まれている。
予算をうまく組んだ者を、「上流階級」と呼び、それには男が関与する予算法律説を採用しなければならない。
予算法形式説でも、予算行政説でもない。
この順番に「階級社会」というものは出来上がるからだ。
私は東大ボクシング部(大学3部リーグ)で、予算担当の三年生が自分のマンションやバイクを購入しているのを見ている。
カントは、しかし「女も四人集まれば男と変わらないね」とし、福祉の文書家(法律家)・会計家を間にいれれば、「乱暴なおカネの使われ方」は防げるとしている。
おカネの使い方における「怖い婆さんの独裁」だけは予算行政説であり、最貧困層の考えることだ。
美智子上皇后にはこのような「テレビに出ている私が使い道を考える」という予算行政説の発想がある。
男がちんちんに値段をつけるのならば「上限はない」と言っていい。
それを理解しないのが予算行政説であった。
主権(予算を決めること)を法律としない限り、天皇にその「公布する」権能はなく、美智子上皇后が予算行政説にまかせておカネを浪費している限り、宮内庁は三流官庁・最貧困層であり続ける。
最後には「社会契約論」に答えを見いだすしかない。
「うちの会社は一流だよ?三流だよ?」それだけの違いだ。
リクルートメントに救いを見いだすしかないのだ。
「アニキ、強いってどんな気持ちですか?」
予算法律説が一位、予算法形式説が二位、予算行政説が三位、それだけだよ。
一家に一冊「憲法」が置いてあるのならば、天皇が「予算を作る」訳ではないが、予算法律説にしたがって一家の大黒柱や、誰よりも強さを探求した主将が、予算を「公布する」必要がある。
さて、「予算」について話したが、「一流家庭」と「三流家庭」の予算の違いが明かになった。
そうなると、やはり見えてくるのは「芸能界」(公務員)の世界であろう。
公務員は皆、テレビに出演し、まるで話す言葉がすべて「詩」のようであった。
しかし、いざ「人権」となると閉鎖病棟で看護士に反抗し、他の患者に「こんな奴やっちまえよ」と発言するなどの「煽り行為」に違法性を求め、さらに看護士に反抗することへの違法性を求めていた全逓東京中郵事件のような、「主婦層が芸能人におおらかだった時代」を終え、全農林警職法事件においては、「公務員の一切の人権」に司法(恋ばなをする世界)は心を閉ざしたのだ。
ニーチェは、ワーグナーと若い頃はピアノの腕を競いあったが、いずれそれはワーグナーという天才への尊敬に変わり、最終的には哲学に目覚めている。
モーレンドルフは、のちに歴史的評価を見てからではあるが、「ニーチェの膝元に豹や虎がひざまずくであろうと思った」と語っている。
勉強ができない、それが理由で「私を快楽のため、そしてあなたの面倒を見るために使ってください」と言える。
これが「女」であることの告白である、という意味すらわからずに1970年以降の世代は歌を歌っていた。
大人のいう通りにしなければ生きていけない。
でも、トーク番組に出なければならない。
このことから「恋ばなの得意なおっさん」の話を熱心に聞いた。
愛の炎 田中れいな


 


1970年生まれ以前の男は「ふたなり」であるということも一部の風俗上がりの女しか知らなかった。
若い女のなかにはそもそも「ふたなり」「シーメール」という言葉すら知らないものもいた。
「五分間のパフォーマンス」で「人生の結論」を歌わされたあとには、知識への渇望と、落ち着かない人間であるという残酷さ(人間、あまりにも人間的すぎる)が残された。
私も、東大に受かったあとにアカシジア(体を左右に揺する症状)が止まらなかった。
東大生と芸能人は同格であったし、合格発表とアイドルの「五分間のパフォーマンス」は同じ意味をもった。
「結論が先、知識はあと」
これが「悲劇の誕生」という意味である。
ニーチェは、ツァラツストラはかく語りき、において「ありとあらゆる醜い男」を描いている。
「これが東大生の悲劇の誕生よ?」
優秀な後輩すら、東大を避けるようになった。
「醜い男と、美しい女」が共存する、これが芸能界だった。
キルケゴールが「読め」と言った本を読むのはニーチェも同じだった。
即位の儀式を終えた令和天皇は「汚い歯をしてタバコ臭い部屋」にいた。
「結論が先、知識はあと」
このような「悲劇の誕生」はまだ免れた部類だろう。
あとでゆっくり歯の治療をすればいいのだ。
ブレーンがいる、などという「夢物語」が「悲劇の誕生」を誤魔化すために用いられている。
そんなブレーンなどいない。
新ドイツは、「悲劇の誕生」とともに作られた。
それにしたがわない指導者など存在し得なかったのだ。
「悲劇の誕生」を知らずに、「完全に潰したと思った」と語る主婦もいたが、「休養とそれにともなう復活」に怯えた。
私が語った「ネズミ」は、美智子上皇后のことてあるが、あの婆さんとて「結論が先、知識はあと」という世界に放り出されて、しかも「キルケゴールが読めといった本を読まなかった」のである。
その姿は「滑稽な芸人」に過ぎなかった。
しかし、シラーは悲劇の誕生と、それからはぐれた「滑稽な芸人」を歓迎していた。
なにもかもうまくいく、そんな女に寄り添うつもりはさらさらなかったのだ。
いわば、「キルケゴールが読めといった本を読まなかった」人間たちが芸能界を盛り上げた。
中森明菜 リフレイン


のちに「悲劇の誕生」と直面する羽目になる男たちも「深刻な歌」を聞いて言葉が豊かになった。
シラーの詩に、カントまでもが「俺はそういう気持ちが分からないんだ」とファンレターをよこした。
カントからの手紙は「カリラスレター」と呼ばれ、女心というものをいっそう深めることになった。
令和天皇がカントだとするのならば、上皇后美智子はシラーだったと言える。
「うちの王子は、殺すと脅かすとものすごく悲しい歌を歌うのよ」
皇族全員が中森明菜のリフレインを覚えた。
「いじめられる痛みは、失恋する痛みと同じなのかしら?」
無敗の王者であるカントも、いじめられる痛みならばいやというほど知っていた。
CoCo 優しさに帰れない


自然災害の猛威や、人々の恐怖に共感できる人になってもらいたい、それが「滑稽な芸人」に映った女性の気持ちであった。
秋篠宮眞子も、「ショパンの雨だれ」を「好きな曲」のひとつに挙げている。
ショパン 雨だれ


悲劇の誕生、つまり「結論が先、知識はあと」という立場におかれたものは「悲しい旋律」を好む。
カントからの「カリラスレター」は、女の悲しみを知るとますます「女心」の研究が深まった、と深い感謝の言葉が記されていた。
カントは「女の悲しみ」を知る必要に駆られて「エステティックレター」と呼ばれる一連の手紙もよこすようになった。
「私は今、女の悲しみの研究に没頭しています」と書かれていた。
ribbon さよなら


カントからの手紙は20通以上におよび、24通目では「私の寿命が伸びました」と記されていた。
カントにとって「勉強しすぎて失ったものが、女らしさ、だったということがバレたら大変だ」という思いがあったのだろう。
「なんにも知らず無邪気に生きている女」を口説くのは、カントにとっても喜びであったし、私も、1970年以降に生まれた女が「ふたなり、両性具有」という言葉すら知らなかったことは、驚きでもあったし、楽しかった。
ショーペンハウエルは、「結論が先、知識はあと」という悲劇の誕生を受け、「没頭するからファンができるんだよ」としている。
この考えに、ニーチェ、ワーグナー、ブラームス、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、ホルクハイマー、ハーディ、マン、リルケ、プルースト、トルストイ、マーラーなどが影響された。
その「道」を極めるために、気がついたら「世の中のだれともつながっていない」状態にすらなった。
数少ない友達は大事にした。
酒井法子 風邪


世の中の「知識」はすべてがすべて「人気のあるもの」ではなかった。
「結論が先、知識はあと」
それが東大生であったが、駒場には「結論」すら得ていない左翼が学内をうろちょろしていて、恥知らずのようにビラを配っていた。
「俺は中卒とどう違うんだ?」
そんなことすら考えた。
しかし、女たちはそうは思ってはいなかった。
「東大生」
それは憧れだったのだ。
「結論すら得ていない左翼はどうせ、俺、頭悪いからと言い訳をするからね」と女たちは見ていた。
「お前が東大に受かった時は、一族が沸いたな」
周囲がそのように「結論」を与えるものだから「没頭すること、知識を得ることは宿命」とみなされた。
「結論」がある以上、食い物にも酒にも困らなかった。
あとは「今の時代には何もない」というような「大人たちの無責任」だけを回避するだけだった。
悲劇の誕生、それは「天才と気狂いは紙一重」とするものだ。
少なくとも、平成の法律学者は無責任だった。
「司法試験の受かり方」は教えてくれても、女一人口説けない、芸能人(公務員)に通用する話ができなかったのだ。
「悲劇」それは時代が生み出すものであり、英語さえできれば、かなりの部分は克服できるものだった。


女には「仲間・女友達」が大勢いた。
美しいからだを比べあい、男の快楽の対象となった。
二人の女がいれば必ず「体を比べあって」いたのだ。
そのため、セックスとは女にとって「仲間を代表して」行われるものであった。
ribbon Virgin snow


すべての女の「からだ」は、印象に過ぎなかった。
女の多数派工作からもたらされたものだ。
女の多数派工作の動向次第でセックスの気持ちよさが変わったため、その多数派工作は熾烈を極め、男の仕事は横浜ウォーカーで「おいしいお店」を探すことだけになった。
仲間の多い女はとにかく「気持ちがよかった」ために、男は「おいしいお店」を覚えたのだ。
酒井法子 天使の館


気持ちいいセックスのために男が生きているとするのならば「横浜ウォーカーを読む」のが正解だ。
東京ウォーカー、横浜ウォーカーだけで気持ちいいセックスが約束されるのが男だ。
「悲劇の誕生?」
結論が先、知識はあと?
そのような学歴社会、身分制社会をも揺り動かしたのが「おいしいお店」だった。
女は女友達が多ければ多いほど「いい女」「気持ちのいい女」だとするのならば、ヒュームは「悲劇」を嘲笑った。
長嶋茂雄のように「腹が一杯になれば幸せ」という男は、とにかく努力家でなければならない。
読売ジャイアンツドラフト一位ならば、おいしいお店なんて覚える暇もない。
悲劇の誕生をヒュームは「おかしいな、セックスさえ気持ちよければいいのにな」と思ってみていた。
「外食産業の売上」は、「女の多数派工作の動向」を示していた。
外食産業の売上が落ち込むと、女たちが孤立感を高めたことを意味する。
それは、悲劇の誕生でもあり、令和天皇のように「知識を求める生き方をしたい」と思うのならば、「セックスよりも気持ちいいものがある」と男たちが考えたことを意味する。
酒井法子(1971年生まれ)は、1970年以前に生まれた男が「ふたなり」であることを受けて、
知識を愛する(ソフィア)者が男であるとし、ソフィアを持っている男とそうでない女の関係を「愛情」と呼び、ソフィアを持っている男同士、持っていない女同士の関係を「友情」と呼んだ。
酒井法子の特徴は、「上の世代に心を閉ざす」というところにあり、時代の過渡期に「友情などよく分からない」としている。
酒井法子 オールライト


男を愛することは、知識を愛した男(ソフィア)を愛することであり、ribbonの永作博美(1970年生まれ)は、「愛情と友情を比べることなんて出来ない」と歌っている。
ribbon 君ならば大丈夫


プラトンは友情を「リシス」において、愛情を「シンポジウム」において語っている。
松田聖子(1970年以前)となると、娘とて「子供の頃は少年」に見えたのだろう。
アレキサンダー大王は「少年愛」が知られているが、どの子供も生まれたときはみんな少年であり、勉強ができないことから「私を快楽のため、あなたの面倒を見るために使ってください」という「告白」を経た上で「女」として認定してきた。
このことから「愛情と友情」論争も始めなければならなかったのが世界史だった。
松田聖子 時間の国のアリス


ソクラテスは「裁判」(ソクラテスの弁明)を終えて聴衆の喝采を浴びたあとに、監獄に戻った。
囚人仲間のアルキビアデスが「あなたのような知恵があれば」(ソフィア)と言ったことから、ソクラテスとアルキビアデスは激しく愛し合った。
1970年以前に生まれた男にとっては「愛がすべて」という言い分は当然なりたつのだ。
ハウンドドッグ フォルテシモ


年配の女性にとって「根性なし」の男を「ちんちん切れ」というのは常識であった。
ミシェル・フーコーが「愛」という概念にとんでもない影響力をもったのは明らかであった。
ビートルズ All you need is love


台風撃退の歴史を知らないと「宗教史」を見失う。
ミシェル・フーコーを知らないと「文化史」を見失う。
知識を愛した者、根性のある者以外に「愛される資格がない」というのが「男の歴史」であった。
職場における「男女別コース」も合憲とされている。
年配の男性芸人の中には「ウォシュレットのビデが気持ちいい」と赤裸々に語る人もいる。


源氏の君は「紫の上」という「少年」にご執心だった。
この頃から「風呂に入っていない、靴を履いていない、美しくない」少年が、「愛されるために」志すのが学問であるとされるようになった。
そのような意味では紫の上は「美しい少年だった」ものと思われる。
美しさのために美を捧げるのが男とも言われ、哲学を学ばない男は、そもそも「世代間ギャップ」を埋める力量がないのだ。
アレキサンダー大王の「少年愛」は、今で言う「美少女マニア」という意味であった。
知恵の分だけ男は勃起する。
学問を志すかどうかで、クリトリスがおちんちんと呼ばれるようになるかが決まった。
水を浴びると少年が美少女になるというのは「黒いシャリオット」と呼ばれる少年の現象であった。
さて、「神・男の完全性を語り合うと爽快感がある」「男らしさを語り合う論壇のことを宗教という」ということの意味が理解していただけたであろうか?
また、美少年が失っていくものの代わりに得るものが男の魅力ということの意味が、世界史においてどのような意味を持つのかも明らかになった。
また、紫の上は「パトロンがいたから髪を伸ばした」とも言われ、
ミシェル・フーコーの「1970年」以降の女で髪の短い女は「未成熟な膣に挿入を受けた」あるいは「そもそもおカネに酔っている」と言われた。
しかし、アダルトビデオ産業は「勉強という名の宗教」を背景に、1970年以降に生まれた男たちに「手術」を施して巨大なロッドを競い合わせた。
自分の学識に自信のない男の子たちは、性に奥手になり「草食系」と呼ばれた。
「東大に入ってもこのサイズだ」という達観が求められる。
幼い頃に「しゃぶらされた」少年は「フルートガール」と呼ばれ、「女として生きるという結論が先、知識はあと」という「悲劇の誕生」を経験した。
ミシェル・フーコーによって「性の簡略化」が行われるまでは、このような強烈な「知識崇拝」があったし、「男性崇拝」(宗教)が存在した。
「男でなければ天皇は務まらない」
それは、予算の公布の都合のみならず、資金力が違ったり、予言力が異なったり、さまざまな理由がある。
ミッシェルガンエレファント パンテオン神殿に「理想の男」を祀り、シェークスピアは、男たちが「女心」を理解して、予言を行うというストーリーを練った。
「リア王」は、女心を理解しない暗愚な王として描かれ、「リチャード二世」から「リチャード三世」までのつづきものは、「なぜ王朝の断絶がイギリスにおいて生じたのか?」を描いた。
チューダー朝のエリザベス女王は、常にリチャード三世を気にしていたし、「マクベス」においては、王家の女が犯されたことから、男たちが夜を徹して猛抗議を家の前で行い、明け方になってなんだか虚しくなったという話である。
「ハムレット」においては、「墓を荒らすシーン」が描かれ、地球は世界で一番美しい、生きていることそのものが美しいことを描いた。
これらの「パンテオン神殿とシェークスピア」は、理想の男と、そして「女心を理解すると王になれる、生きていることは素晴らしい、それでいて女として生まれることは時として悲しい」ことを巧みに表現した。
ribbon 愛してジャスティス


 


エロくなければ「文字」というものが人々に拡散されることはなかったし、日本語の「現代語化」は、賀茂真淵以降を「現代文」と呼ぶにしても、人々に分かりやすく、誰でも書けるようになったのはロマン主義文学のおかげである。
カントは「いかに女たちにモテるか?」(悟り)を研究したが、19世紀にはカントの人生をいかに「エロ」く描くかが問われ、人々は文字と日常に接するようになった。
「ミッシェル?なぜあんなことをしたんだ?」
フーコーがなぜ、男と女を「生まれながらに」区別したのか?
それはひとえに「現代文の完成」を受けてのことてあり、識字率の低い国ではまだ「1970年」は、訪れていないということも指摘できる。
日本国は「1970年」に、すでに準白人国家としてミシェル・フーコーを受け入れていた。
カントという「女を口説く達人」が王として君臨し、その生きざまをロマン主義文学が描き、文字の普及を見極めて「男女を明確に区別する」という方法がとられた。
世界史の流れは「女作りが先、男作りはあと」という展開をたどるのが定石であり、パンテオン神殿とシェークスピアは、それを実践していたわけであるが、フーコーは、かなり大胆に「ドン」と男女の違いを示したことになる。
移民政策は「男作りが先、女作りはあと」という政策であるが、フィリピンカトリックのように、三位一体を「神・勃起・女の癒し」という具合に、そもそも神概念に「女」が登場する宗教もある。
フィリピンの識字率から「男にだって女の側面はあるんでしょう?」という認識があるものと思われる。
とにかく、フーコーが「生殖腺」まで生まれたときから定めるまでは、識字率との兼ね合いから先進国とそうでない国が分かれざるを得なかった。
「文字は男」という割りきりのある女の子たちは、成績がよかった。
酒井法子 放課後のヒロイン


フィリピンカトリックがなぜ「神・勃起・女の癒し」を三位一体としたのだろうか?
フィリピンにおいてはいまだ「生まれながらの男女の区別」がなされておらず、勃起そのものが「知性崇拝・男性崇拝」であったのだ。
女たちは「勃起する男」を奪い合った。
Wink 愛が止まらない


エロい皇帝がいて、ロマン主義文学が流行しないと、識字率は上がらない。
日本国は、ロマン主義文学において、必死で「翻訳」の作業を進めたし、この辺りは明治天皇(ビスマルク・福沢諭吉・小野慎一郎)や、大正天皇(アインシュタイン・野口英世・小野達郎)がいなければ、「天皇ってどんな人?」ということが知られることはなかっただろう。
悟った人(モテモテだった人)ってどんな人?
これがロマン主義文学であり、明治天皇(ビスマルク・福沢諭吉・小野慎一郎)にせよ、大正天皇(アインシュタイン・野口英世・小野達郎)にせよ、本当に日本に住んでいたかは明らかではない。
とにかく「皇帝」は、国際人であったし、それが愛国主義とない交ぜになって「お墓」が残ることがある。
小野家の系図


私たちは「ヨーロッパの幻」を見ていたのかも知れないね。
どの家のお墓にも明治天皇(ビスマルク・福沢諭吉)、大正天皇(アインシュタイン・野口英世)は眠っているし、ロマン主義文学が残されているはずだ。
とにかく、日本語教育・国語教育の発達がミシェル・フーコーの登場を待った。
アダルトビデオを見て、子供を残す気がなくなった草食系の男の子などは、先進国特有の少子化問題を引き起こし、アメリカプロテスタントも、少子化に悩み「優生学」というものを作っている。
しかし、識字率の低い国の「勃起崇拝」は、否応なしに世界の人口を増やし続けるだろう。
杏里 悲しみがとまらない


アンティゴネと、エディプス王がいたが、息子が「勃つ」ためには、「仕事をすること、勉強すること、いじめられること」の三つしかない。
中学生ぐらいならばアルバイトは禁止であろうし、「勉強といじめ」に、「男になるための条件」を絞ったことを意味する。
ラファエロの「システィーナの聖母」を見て「勃てば」男になったことを意味する。
仕事・勉強・いじめは、男の子が「男」になるために必要なものであり、他人を「髪型がダサい、歯が汚い」などと言いがかりをつけていじめている男は、とにかく「勃たなかった」のである。
瀬能あづさ 永遠に友達


「自由」それは夢がぶつかり合って身動きのとれない世界であった。
カントはシラーへの「カリラスレター」において、女性は「おちんちんを切られる」ことから鬱になり、辛い夜を過ごすが、自らは学問において同様の経験をしたと語った。
人生の目的は「ギリシャの神になることかイエス・キリストになること」ではあったが、女の子の思春期の「鬱」を理解するためには、男は「仕事・勉強・いじめ」で鬱を経験しなければならなかった。
「男は勃てばいいではないか?それ以外に目的なんてあるか?」
それほど「仕事・勉強・いじめ」を経験することは重要なことであった。
ゼウスとアフロディーテは、アンティゴネとエディプス王の、美しい息子と娘であった。
とにかくスポーツのようなシンボリックアートのようなものもあれば、異性の美を表現したロマンティックアートもあったし、「仕事・勉強・いじめ」によって生まれた男らしさを表現するクラシックアートもあった。
松田聖子 赤いスイートピー


シンボリックアートは、プロ野球を観たり、車を運転するなど「勃つ」ための芸術を提供してくれる。
「観客ため息」のような「人間の限界」を感じて欲しいという側面もあり、常勝軍団でなくてもファンは確実にいた。
「仕事・勉強・いじめ」によって生まれた「男」を表現するクラシックアートもあるが、鍛え上げられた肉体美のように、ゲイカルチャーに属するものもある。
ロマンティックアートは、そのような意味ではより健全な「勃起」を誘発するものであった。
「男は勃てば神」とも考えられ、そのために持ち家(建築物)のように形に残るものを必要としたりもした。
絵画でも彫刻でも、音楽でも詩でも、形に残るものには違いがない。
とにかく、ミシェル・フーコー以前は、「エディプスという父を持った息子ゼウスがどのように勃つか?」が芸術の歴史であり、今は、女の子アフロディーテとの区別が生まれながらになされているため、「アートとは男を作るもの」という色彩が薄れた。
アートの終焉とも呼ばれている。
田中れいな


しかし、カント以降の男たちは「常に迷いながら生きていた」ため、勃たなくなる男は普通にいたし、アートと疎遠になるのならば、文化のありようが問われることになる。
いじめをやる男は「太い便がしたいだけ、勃たない」などの理由がある。
一方で、街を歩いている女の子とセックスするのならば日経平均株価を支払わなければ犯罪(貧乏セックス)であり、家族ならばTOPIXを支払わなければ犯罪と呼ばれるように、勃つということが、おカネとの兼ね合いから「罪深い」「犯罪」とされることがある。
日経平均株価リアルタイムチャート

2019年11月 6日 (水)

宗教体験について。

宗教体験、それはもはやセックスと関わった概念であり、今となっては「いかに女性芸能人とセックスする夢を見るか?」という議論となっている。
女性の場合は「理想の男」「イエスキリスト」であろうが、ジャニーズは「女の子のおちんちん」に過ぎず、「理想の男」かどうかは検証を待ちたい。
とにかく、私は女たちを口説き続けた結果、激しい権力闘争の末、「杖をついて歩いている」のであり、それでもこの時刻になって街を歩いていると、自分の周りでフラッシュが焚かれていることがわかる。
「権力闘争」の挙句に「杖をついて歩いている」のだ。
このようなおっさんが若い女の子たちにニーズがあるかは論文を読まなければわからない。
とにかく「のぼり詰める」という経験が必要であり、「男の現実」を表現するものでなければならない。
女性芸能人とセックスする夢を見たいという男の子は「鏡の前で自分の裸を見ながらマスターベーションしろ」と私は指摘したが、
これはソクラテスの教えであり、デカルトの「瞑想」はとにかく「第5番の瞑想」というぐらいパターンが多く、どのように国民の「財布」を豊かにするかは明らかではない。
とにかく私は、徒歩5分のところにあるコンビニに行っただけで2度ほどフラッシュを焚かれたのだ。
もはや女性たちの目と耳は、目と耳ではなく「見る・聞く」ものとなっていた。
横浜DeNAベイスターズを横浜スタジアムでのクライマックスシリーズ開催に導いたりした「強さ」と現実を女性たちは知りたがったようだ。
健康な女性たちと「杖をついている男」が熾烈な戦いの後に残された。
女たちは写真のコメントに「プレスリーみたいな男を見た」と書いたため、私の評価は高まった。
さらに「彼は私の罪の代わりに杖をついて歩いている」という理解があったようだ。
モーニング娘。幸せですか


女たちの快楽の記憶を、一人で背中に背追い込む、これが「十字架を背負う」という意味だ。
なにか「確かなもの」「語ってはいけないもの」「激突してはいけないもの」が「杖をついて歩いている男」であり、国家の中枢においては「やらざるを得なかった」ことであった。
徳川家康は「見ざる言わざる聞かざる」であった。
本気で自分を殺しに来た連中のことを思い出させてはならない。
マルクスは「プロポーズという名の全体主義」からの脱却を試みたし、フロイトはもっと若い女の子たちを相手にしていた。
しかし、「普通の女たち」を相手にしたのはカントだろう。
私も即位の礼を終えてこの状態であるが、3年連続日本シリーズ制覇した孫正義はもっとひどいことになっているだろう。
お公家集団を相手にしていた私とは異なり、孫正義は「山口俊のストレート」を相手にしていたのだ。
私の発言をソフトバンクのスマートホンで読むのは自由だろうが、私はソフトバンクとは何ら契約のようなものは交わしていない。
いずれにせよ、仏教もヒンドゥー教もジャイナ教も「テレビ」がなければ成立しない。
「どのように快楽に満ちた夢を見るか?」にしか興味がないのだ。
儒学は「周王朝を滅亡から救いたかった」男の物語であるが、日本国を滅亡から救いたかった「男」は、もはや論語ではなく西洋の哲学書を読んでいた。
人生の三分の一は睡眠だとするのならば、国民により快楽を与えるのは「夢を制すること」なのだろう。


右翼の歴史は「街で指を指されて笑われる」歴史であった。
少なくとも、私は高校時代に三島由紀夫に傾倒し、「楯の会」という名前を知っていたため、「大日本楯の会」というペイントがなされた右翼の街宣車を見て指を指して笑った。
しかし、建築や芸術、哲学、映画、環境問題、言語学、文学、政治学などは「右翼によって」作られている。
右翼思想にかぶれ、中央公論社の社長宅を訪問し殺人事件を犯した男がいた(風流夢譚事件)。
この時、家庭裁判所は「矯正は困難」と判断し、少年だった男を起訴している。
しかし、法学や哲学、経済学をやっている私も、「指を指されて笑われている」ことに気がついた。
そもそも「笑い」というものが「性欲」から起きるものである以上、インドや中国に「右翼」という言葉をもたらしたサルトルは、いいクリエイターであったし、言葉の感覚が鈍った思春期の女の子が「右翼的発言を暗記する」というアクティビズムは正解でもあった。
少なくとも、ボーイフレンドは「恋は楽しいもの」と考えたし、後々になって「お前の言っていたことは正しかったわ」と元彼が電話してきたりする。
八月、最初の水曜日 渡辺満里奈


鬱病の患者が「ドイツ第三帝国」などという書籍を好むことは知られているが、高校生にとっても「理解するのに苦労しない」ものだった。
教科書をまともに読むと下痢をするという女の子も右翼が大好きだった。
脳にダメージを負った男が、アドへマー・ゲルブや、カート・ゴールドシュタインの本を読んでいるのを見て、メルロ=ポンティは、「右翼とは何か?」を悟った。
カントが理解できず、それでいて「カントとは何者か?」を語る連中のことを右翼と呼んだのだ。
いわば、哲学者イエスキリストの肉声を聞かずに、「イエスキリストとは何者か?」を語るような行為が右翼であり、聖書は常に自由民主党の側にあった。
哲学書を読むのならば下痢をするけど、聖書を読むのは疲れないという女性がいてもいい。
しかし、それでは聖書は「予言の書」となってしまうし、敬虔なキリスト教徒が「権力闘争こそが磔をもたらす」ということを理解するにとどまる。
国家基本問題研究所


いつ、カントが、何を、どのように「取った」かを語る結果論のようなものを学習するのが聖書であり、右翼であった。
メルロ=ポンティにも見るべき業績はあった。
米ソ冷戦の時に、「弁証論に基づいて両陣営をぶつけてみよう」と考えたのだ。
弁証論は、「ぶつけるのならば新鮮なうちに」という「発見」をもたらした。
キャリアが斜陽に向かった時に「狙い撃ち」したのでは意味がないことを悟った。
どちらの陣営もがビッグマネーを背負っていた方がいい。
オスカー・デラ・ホーヤ


サルトルは、右翼と左翼という言葉を考えた張本人であるが、「人間というのは結果(物自体)しか見ていないんだよ」とし、女たちも「結果」にいかに関与するかを争っているとした。
ラブパッション レベッカ


いわば、最高裁判例を研究するのを実体的憲法観と呼び、その「結果」ではなく、もっと女たちの肉声に迫ろうとするのをプロセス的憲法観と呼んだ。
男が「勃起する」「ノンケである」ことをライバル女から確かめてから略奪する「仕方がないじゃない、わたし神の子なんだから」という
信教の自由の存在などがプロセス的憲法観からは深めることが可能だ。
女二人がラブパッションによって争ったオフィシャルレコードを追ってみたところで何があるのだろうか?という考えである。
Wink 愛が止まらない


サルトルは、物自体(結果)というものはヒューマニズムなんだよ、としている。
その人の名前と、議論する理由、心、いじめ、そして、女心への理解度(政治)を踏まえた上で、さらには芸術と哲学への造詣の深さを踏まえた上で「物自体」(結果)を決めているとした。
とにかく「プロポーズを頂点とする全体主義」を理解しなければ何も始まらないのだ。
女は彼氏と付き合っていくうちに、自分は凡人になるのか?彼氏が子供に興味を持ってくれるかな?家庭に縛られるのかな?と態度決定を迫られる。
BoA Is this love?


デカルトの「芸能人とセックスする夢を見る方法」や、カントの「口説き文句」の研究、さらにはベルクソンのように「人間がひとつになるわけがないじゃないか?」という議論(ベルクソニズム)を経て、最終的には「物自体」(結果)を語るしかないんじゃないか?という境地に至ったのだ。
それは「自分の世界の広さ」(現象学)つまり「顔の広さ」を誇るのが哲学者であるというフッサールやハイデガー、シラーなどの「現象学」へと議論を進めた。
もっとも、「カントほどの人生の成功は収めていない」のが政治の世界となってしまった。
サルトルがいつハイデガーと接したかは明らかではないが、どの男の子も「若さを無駄にする時期」というものがあり、それを「存在と時間」によって明らかにしていたが、
サルトルは「せめて子供たちの記録をスコアブックに残そう」と考え、これを「存在と無」によって「物自体」(結果)と呼んだのだ。
ハイデガーは、目的を持った男はダサい、と語っていたが、サルトルはそのことに強烈な挑戦状を叩きつけた。
サルトルは「政治家のように振る舞え」とし、若者たちもやたらと人をオルグしたり、子供の頃の記録を大事に保存したりしたが、「若い頃はハンサムでモテていいよな」という割と冷めた政治の見方をしていたとも言われる。
「俺は一生結婚できないんじゃないか?」
そんなことに悩む、国の希望が、「共産主義という生き方」を知らないんだよ。
戦後、ドイツにおいて、サルトルの物自体(結果)を残すことしか政治の世界ではできない、としたことに対して、「フランスは自信をなくした」と大々的に報じられた。
カントと互角にやり合ったルイ16世を殺していたことから、フランスでも「フランス革命とは何だったのか?」と語られた。
また、「我々は物自体(結果)があるから頭を使うんじゃないか?」という指摘も行っている。
勃起する二人の男が争うんだよ。
どちらかが負けてオリゴ糖を飲む羽目になるだろう。
若い頃はビックルとかヨービックに夢を感じなかったか?
サルトルは「詩というものは閃きなんだ」とし、それを生かす作業の方が大変だとしている。
女はパートナーをコミュニティから離さないためにセックスしている。
ribbon レディラブ サルトルは、物自体(結果)を出すために必要なカントの知識(女を口説く知識)を「集列体」に過ぎない、としている。
大人たちが集列体を扱うのはわかるが、プロスポーツ選手は「別のこと」を考えているとし、それはそれで「大人たち」も異論のないものだった。
大人たちは「集列体」をめぐって大喧嘩をしていたのである。
また、サルトルは「物自体」(結果)の奴隷になるなよ?と警告を発している。
物自体(結果)の奴隷は、本物のナチズムだよ。
なにしろ若者は「プロポーズという名の全体主義」を生きているのだから。
この「若者の芸術作品の全体主義」を「スポーツの全体主義」につなげる発想を「マキャベリズム」と呼び、その経験値の低さを批判した。
1930年代は、みんな「左翼」だったよ。
記録が残らないんだからね。
哲学と音楽作品の独壇場を目の当たりにしたんだ。
しかし、1956年にソビエトがハンガリーを侵略した時から物自体(結果)というものは政治の世界で知られていたり1968年のプラハの春でも、ソビエトは「結果責任」を引き受けていた。
かなり乱暴に、集列体(カントと音楽作品)を支持する連中を「大文字の他者」(赤子のような存在)と指摘した。
ハンガリー動乱やプラハの春を見て、サルトルは「社会主義は乱暴だ」と指摘している。
「プロポーズという名の全体主義」の支配下に国家の戦争が位置付けられ、サルトルは「マキャベリズム」「大文字の他者」などとあらゆる批判の言葉を浴びせた。
ribbon Virgin snow


つい先日まで、私自身が物自体(結果)の奴隷であり、プロポーズを頂点とする全体主義も考えたが、サルトルは「それは社会主義だ」としている。
さらには、21世紀に入り、サルトリアンは、「結婚からはぐれた共産主義者や次男を何とかしてほしいね」と語るようになっている。
若者は、結果(物自体)を持たなかったため、父と息子の関係(神は死んだ)という問題と直面した。
父はすでに結果(物自体)を持っていたが、息子はそうではなかった。
父が息子の結果(物自体)に協力できるのは息子が「25歳になるまで」だとも言われ、それ以降は「同じマーケット」で女たちと共存していくため、サルトルの「実存主義」は、世界の広さ・顔の広さ(現象学)と直結した。
父に潰されそうになって街をさまよった男が「仲間」を集め始めたら、そのハンサムな顔を見ると「父を圧倒するのは明らかじゃないか?」と思われた。
実存主義は、現象学と結びつくのが必然だったのだ。
ミスターチルドレン


このままでは俺は親父に潰されてしまう!
そんな男たちに「実存主義芸術」が提供された。
「なぜ現象学に向かわないんだ?」
カメラ技術を磨いたり、原稿を書く腕を磨いたり、ファンクラブを運営すると仲間が増えるだろう?
帝国大学に受かった男が「学者」になることだけを父は夢見ていた。
新派の舞台に興味を持つのならば、miwaのファンクラブを主宰するという方向に向かうのは必然であっただろう。
miwa


しかし、隣の男に「おたく」と話しかけるぐらいにしかコミュニケーション能力はなかった。
「オタク」の誕生だ。
miwaも、昔のCoCoも、そのような「草の根の実存主義者が現象学に向かう」つまり私設ファンクラブを乱立させる方向を見ていたはずだった。
カメラ技術を磨く、原稿を書く腕を磨く、原稿のセールスを伸ばす、時には人生相談のようなこともやるという意味では、私設ファンクラブは、「就職の入り口」であったし、一度は実存主義芸術が目当てで知り合ったものたちが、「父と息子の関係から人混みをさまよい、ここにたどり着いた」ことを正確に発信する「原稿の腕前」は、ヨハネの黙示録とも言われた。
「誰々の息子」「誰々の息子」そのような記録は聖書にあるものであるが、私設ファンクラブにあるべきものだった。
隣の男に「おたく」と話しかけるか「お父さん元気?」と話しかけるかが社交界との違いに過ぎなかった。
CoCo 夢だけ見てる


なぜ聖書に「誰々の息子」「誰々の息子」と長々と書いたのだろうか?
司法試験に受からなくて鬱屈した日々を過ごしているのならば、私設ファンクラブで「誰々の息子」という記録を書き始めた方が、よっぽどカネになるし仕事になる。
カメラぐらい親父に買ってもらえ。
男同士でも「横のつながり」をもてれば、若さを無駄にする時期は不幸でも何でもないのだ。
わずか5名の「美しい女たち」をめぐってできた組織だろうが、男仲間に憧れて女たちも寄ってくるものだ。
「親衛隊」というものは、事務所が「最大派閥」を公認しているだけだ。
なぜ、ニーチェを理解しないのか?
父と息子の関係を理解しないのか?
実存主義芸術が現象学に向かうのは必然だった。
親衛隊が「誘導灯を使うのは俺たちの専権だ」と言って12名で取り囲んできた。
人生相談・生活相談の原稿の「腕」がまだ未熟だったと諦める他はない。
就職や資格を取るだけが仕事ではない。
ニーチェの「神は死んだ」を理解し、克明に「父と息子の記録」を書くことそのものが仕事だった。
CoCo なぜ


そんな私の前に、質素で目立たない格好をした郵便局員の女が現れた。
これが遠野舞子だった。
遠野舞子 ミスターサブマリン


文字通り「質素で目立たない」女だったので相手にしなかったが、実存主義者と現象学の「現実」を私ものちに知った。
精神病院で「質素で目立たない」AKB女を見て「あの系統か!」と気がついた時にはすでに40歳を過ぎていた。
司法試験から逃げたら人生おしまいだ、と思ったが、肝心の法律学が立ち遅れていた。
立ち遅れていた法律学に縛られて、ニーチェを理解しなかったのだ。
どっちが「世界のスーパースター」なのかをよく考えなければならなかった。
ファンクラブの会報も「よく練られたもの」でなければならない。
要するに「実存主義とは何か?」をひたすら書くのだ。
そのような言動をしていたら家族として受け入れることはできない、ということや毒物の存在など、通常は理解できないことを書く。
詩の解釈にも抜群の力量を見せ、事務所やレコード会社に一目置かれる。
所詮、CoCoというグループそのものが、留学や東大文一合格という早熟な側面があった私のように「私たちも夢が見たい」と考えて作られたグループだった。
エロビデオを見て「女が嫌がっているじゃないか?」と考える政治的弱者がいる。それに悩む女がいる。
CoCo メロディ


このような「オタクカルチャー」が生まれたのは戦後のことだ。
ボーボワールや、メルロ=ポンティ、アルバート・カミュ、ハイデガー、ヤスパースなどの哲学者のみならず、ドストエフスキー、カフカ、イプセンなどの小説家も生み出している。
「我らの時代」とは何だったのか?
それは哲学書や小説に残されている。
アイドルは、「正しい神」を信じ「恋に詳し」ければ成り立った。
しかし、それを取り巻く男たちは、これほど偉大な人物たちで溢れていたのがヨーロッパの「オタクカルチャー」であった。
私の場合は、読売ジャイアンツの桑田真澄が「短答式試験に受かった」と報告をよこしたのが印象的だった。
プロ野球のピッチャーとして適当に女遊びをしていた方が受かりやすいのかと今となっては思っている。
Melody 世界中の微笑を集めてもかなわない


また、Melodyのイベントの会場には、いつも最前列のど真ん中の席を、麻原彰晃が陣取っていて、カメラを構えていた。
どの男たちも「若さに対して悪意が加えられている」ことを感じていた。
「将来のある若者」であろうと、正規雇用の壁は高く、大学三年次の就活を逃したら、人生は詰んだものとみなされていた。時代が「哲学」を見失っていたのだ。
「周りにいる男たちが財産なんだよ」ということを語る論客もいなかった。
アブラハムが「息子のために犠牲になる」というのは「自己批判」と呼ばれる「昔の自分を思い出す」営みであった。どの哲学者もどの小説家も、自己批判をしていたし、
「オタクカルチャーを偏見に満ちたもの」と位置付けていいわけがない。
ビジネスチャンスがそこにはあり、青年実業家の卵が大勢いるという認識に改めなければならないのだが、それはひとえに文壇の責任と言っていいだろう。
「最近の若者は」という発言は「テロ」以外の何物でもなかった。
ドストエフスキー、カフカ、イプセンだけはテロを行わず、若者に愛情を示したため歴史に名が残った。
ドストエフスキーは、カラマーゾフの兄弟において、イワンに「親父という神が死んだらやってはいけないことは何もない」と語らせている。
親父から生を授かるというのは「神聖な罰」であった。
神聖な罰から「権力への意思」は生まれる。
病気の動物は、「将来という名の妊娠」をしていた。
将来には健康と強さ、そして地球の重力という悪意があるだけだ。
プロポーズという名の全体主義において、「結婚よりも大事なもの」が物自体(結果)として残せれば、おのずと彼女にプロポーズするだろうとされ、しかし、ニーチェは、「それはカントを学ぶことであって、俺には関係ない」というニヒリズムの立場だった。
「誰々の息子」ということはニーチェが語ったが、カントに対してニーチェはニヒリスティックだったのだ。
私のようなおっさんの自己批判(昔の自分を思い出す)という作業は、常に自己疎外(自分と世界がかけ離れている)と向き合わなければならない。
自分と世界がかけ離れ、そこに「若者への悪意」が加えられたら、かなり厳しい試練になる。
桑田真澄も名球会には入れなかったし、麻原彰晃は国家には敵わなかった。
それでも「ナイスガイ」でいられるのだろうか?
薬を飲み、かろうじて正気を保つのが精一杯だったではないか?
「本物」
それは、常に実存主義とは何かを理解している指導者の言葉と接することだった。
現象学(世界が広い・顔が広い)と言っても「俺は子孫を残せるのかな?俺は動物なんじゃないかな?」と考えると頭がボーッとしてくる。
身だしなみを整え、ゆっくりと休養してみることも必要だ。
ダイヤモンドブルー 酒井法子


桑田真澄が球界ならば、麻原彰晃は宗教界であったし、私は法曹界であった。
そこで「もうこれ以上ギアが入らない」と考えたからアイドルのイベントに顔を出したのだ。
みんな「心配事」を忘れたかった。
集中しただけの結果は出せたが、カントのように「女の子を口説く」だけの余裕はなかった。
20世期実存主義を桑田真澄や麻原彰晃とともに経験できた法曹界の住人は私ぐらいではないだろうか?
みんな「先生が言っていたこと」を答案に書くだけだったからだ。
「何が間違っているのか?」を明らかにした小野臨調のようなものは到底作る能力がなかった。
結果(物自体)が出せなかったらどうなるんだ?
プロポーズという名の全体主義において、男が「何者か」にならなければ、一生独身の共産主義者になるのか?
それは、大人たちが「人生の瞬間」をうまく切り取ってくれるはずだ。
「絵になるシーン」をセールスにかけてくれる大人たちがいる。
とにかく「集中」することと休むこと、身だしなみを整えることを思い出し、「おのれ20世期実存主義を知らんのか?」と後輩たちを「呑んでかかれる」ほど努力することだね。
ハーバードロースクールなどでは「本物」という言葉が知られている。
本物とは「版権の強烈な起源」のことを意味し、一方で「信頼できる心の風景」のことを意味している。
今の「私」はどこからきたのか?
女心にどのようにして興味を持ったのか?
最後に「どのように多くの強者をのしてきたのか?」をも示している。
みんなが真似して「仲間を作り」「自分を見つけ」「物事を解釈する」ことができる生い立ちがいちばん人気がある。
欲望に忠実で、それでいてやる気が出て、そばには音楽作品と彼女がいる、スタンフォード大学が最後に目指したのは「人づくり」「理想の人間作り」の研究だった。
BoA This is who I am


その際に忘れてはならないのが、誰しもが「伝説」をまとわない一人の人間である、ということだった。
社会契約を結べるような境遇、つまり「私もオタクなんです」と言えるような人物像が見えればよかった。
隣の人を見て自分の道を確かめるような世の中では、指導者の肉声ほど貴重なものはなかった。
「つまらない軍務についた英雄」
ハンサムなだけのブルジョア出身の正直者。
姪のプロデューサーまでやってしまう「優しい」おじさん。
奥さんがなぜこの人を選んだのかが分かる人。
いろいろな褒め言葉が存在した。
遅咲きながら、どのようにみんなにボコボコにされて己を確立したのかが分かる人がいちばん信頼できた。
常にタバコを吸っている文化人だということは知っていた。
どのように世論を拾い、進む道を「すでに舗装されているかのように」進むかが大事だった。
ただ「カネにモノを言わせる」だけではなかった。
周囲も人間だったからだ。
「勉強っていうのは基本的に難しいものだ」
それでも「勉強」というものを「案外楽しいものだ」と楽観論を持つことも必要だ。
このような「スタンフォード式」は、カリフォルニアカルトとも揶揄されたが、支持者が多かった。
「音楽作品の拡散力に期待しているんだ」という人もいた。
女心を全て解明したと豪語した時に、業界は「音楽作品の伝達メカニズム」の再編を進めた。
私も仕組みは知らないが、今の音楽作品の拡散力は、私が考えた垂加神道に合わせて拡散されている。
ただやみくもに作って売るのではなく、拡散方法が絞られたのは事実のようだ。
作り手としては「あいつら」に売ってやるんだ、という明確な標的ができたとも言われる。
努力はカッコいい、と言うわけではない。
「鏡で自分の裸を見ながらマスターベーションすればテレビに出ている女とセックスする夢を見る」と言ったのだ。
男の子たちの表情が変わるのが分かった。
ハイデガーは少なくとも「努力はダサい」と考えていた。
それでも専門誌は克明に「オフィシャルレコード」を記録し続けていた。
そもそもソクラテスが「夢」の話をしたのだが、デカルトが「瞑想」と言うものを「5種類」も考えた。
デカルトの「瞑想」「夢の話」だけで、庶民にカネが行き渡るようになりヨーロッパ中世は「近代」と名を変えた。
ユングやフロイトの場合


サルトルは大雑把に言うと「好きなことをやってくれ」と言って大勢の人に攻撃させるという手法をとった。
間抜けな「敵」に忠誠を尽くす者がいて不思議だったが、「人生のためだろう」という結論も導いた。
物自体(結果)だけはもはや誰も触れることはできないことも知った。
「真面目な脳」をふざけた者に取って代わらせると「取り返しがつかない」ことも分かってきた。
プロ野球とか台風とかの「修羅場」が周囲に学習をもたらしていた。
資本主義におけるタテ社会においては、しかし「音楽作品の拡散力」がモノを言ったのだろう。


アルベルト・カミュは、実存主義に立脚するエッセイストであったが、自身を「哲学者」と呼ぶことは否定したことがある。
カミュが探求したのは「とにかく自殺について」であった。
私も、東大法学部に進み、司法試験と向き合うようになると、口癖が「死にてえ、死にてえ」というようなものになり、勉強で疲れ果てて1日寝込んだ時に、寝言で「俺を殺してくれ」と言ったことから、隣の部屋にいた弟が、怖くなって家から去ってしまった。
法律学というのは寝言で「俺を殺してくれ」というほど自分を追い込むにはあまりにもバカげた学問であった。
のちに「小野臨調」において、「貧乏セックスのことを犯罪という」「所有とは友情のことであり、占有とは愛という概念を理解した異性との関係をいう」とし、あるいは「債権法とは異性との出会いの生成過程を探究する学問であり、担保物権法とは異性の友達のことをいう」などと、かなりセンセーショナルな発想を明らかにしている。
あの時の「死にてえ、死にてえ」「俺を殺してくれ」といううわ言はあまりにもバカげていたし、そのことへの暴動のようなものが小野臨調としての答申であった。
小野臨調の言っていることを踏まえると「先生が言っていることをそのまま答案に書き」主席になる、司法試験に合格するというのはなんら生産的な営みではない。
とにかく「バカげたこと」が「死にてえ、死にてえ」「俺を殺してくれ」という若者にはつきまとっていた。


東大法学部は、法文1号館と2号館が、安田講堂の正面という絶好の位置にあったが、その「宗教」は私にとって恐怖でしかなかった。
まともに取り組んだら「自殺」と向き合わなければならないようなものだ。
私は、学年末試験の空き時間に朝鮮人キリスト者に話しかけられている。
「深刻な表情をしていますね」
「ええ、今から破産法の試験があるんです」
そのようなやりとりを行った。
破産法とは、本来、「テレビに出るカネがなくなった」人のための学問であり、精算型のように「忘れた頃にまた出てくる」芸能人がいたり、再建型のように「芸名を変えてしまう」
などの立ち直るための職人芸の研究であったが、とにかく当時は「真面目にやってもわからない、つまらない」ものだった。
その朝鮮人キリスト者は、のちに「金集めの方法」を私から教わり、文在寅大統領となっている。


「夜逃げ」というものが知られているが、破産法では「黙示の支払い不能」と呼ばれている。
しかし、実態は「小学生の娘の失恋が理由で親が引っ越しを余儀なくされる」ものであった。
松浦亜弥 元彼


テレビに出るためには、あるいは芸能人を続けていくためにはカネがかかる。
そうではない民間人には本来、「破産」というものは想定されていない。
「働け」としか言いようがないものだ。
恐怖の「安田講堂」の前で、女の子を口説けるようにしたい、
これが「シシファスの神話」であり、東大という「灰色の世界」を血や肉の通ったものにする営みであった。
「バカげた道を極めようとすると自殺だけが待っている」
しかも、債権法とは「異性の出会いの生成過程を探究する学問」であることを知らない法学部の学生は、かなり絶望的な道を進まざるを得なかった。
「それでも、死への扉を開けたいですか?」
どうせくだらない講義しかしていないんだろうと言って、企業は若者たちを根こそぎ持っていった。
しかし、私は東大法学部にとっては「よそ者」でありながら、常に東大法学部の王道を歩み続けた。
それで「東大のここがおかしい」ということが分かるようになったのだ。
司法とは「恋バナ」を学ぶことであり、立法とは「カネをばら撒く」ことであり、行政とは「テレビに出る」ことである。
こうなると「法律」を作るためにはカネをばら撒く必要があるため「立法」に委ねざるを得ない。
しかし、閣法というのは行政が作ったものを立法に委ねている。
「20世紀実存主義」を経験した法曹界の住人は私ぐらいだろうと言ったが、なにしろ王室サロン=精神病院に東大法学部の出身者がいないのだ。
私の弟の「中曽根承太郎」が法務大臣を務めるまでは日本の法学部の学生は「死への扉」を開け続けるだろう。


現象学(顔の広さ・世界の広さ)が、実存主義(父に潰されそうな息子)と結びつくのは必然であると考えられるが、
現象学というものは「大勢の男たちが何かの目的に向かって進む」という意味であり、多数派工作というのは「道徳」という別の表現がなされる。
東大受験というものは「正しい神」だけを追い求めて集団が行うものであるが、アイドルファンというものは「正しい神」があんがい曖昧で「恋に詳しい」ということを柱として構築された世界だ。
アイドルファンの世界では「担当」というものが決められている。
しかし、永田町のように「多数派工作をやり、自分の得意な分野をだんだん絞っていく」というものではなく、また、永田町そのものも萩生田大臣が言うような「多数派工作をやり自分の得意な分野をだんだん絞っていく」という理想は達成されていない。
アイドルグループも「批判に耐えられずに」「解散」することがあるが、政権も批判に耐えられずに「衆議院解散」することがある。
国会対策費・メディア対策費が必要なのはアイドルグループも政権も同じであり、アイドルも政治家も「最後にはマンションすら残らない」という現状がある。
「解散」というものが存在しても、男たちは「正しい神」と「恋に詳しい」神のために前に進んでいく。
つまりは「現象学」というものは「アメリカ合衆国に詳しい者」に群がる男たちであり、女たちを目当てとしたものだったのだ。
安倍首相にも周囲に現象学はあるだろうし、令和天皇には「もっと長い目で見た」現象学がある。
アイドルグループはそれに比べたらかなり「短期的で視野の狭い」現象学がある。
インディゴブルーラブ


そこで、東大法学部が「正しい神」であることは多くの企業や、世論が認めているが、それが「恋に詳しく」なれる場所にならなければ、講義のエスケープは日常の風景とならざるを得ない。
そもそも、債権法が「異性との出会いの生成過程を探究する」学問であり、担保物権法が「女友達を増やす」学問であることを踏まえ、友達と恋人の境界線はセックスしたかどうかであるという共通認識のもとにキャンパスライフを過ごすものだということを理解しなければならない。
三浦理恵子 グッバイフレンズ


アイドルや政治家、そして天皇にまつわる「男たちの目的を目指した行動」も、「若さの特権」であり、その参加メンバーに「これが仕事なんだよね」ということを教え導かなければ長期的なビジネスとしては存在し得ない。
国会が「田舎のプロレス」であるのならば、今の令和天皇はもっと深く現象学を理解している。
自分に興味を持つ連中に職を与え、資格を与え、彼女を与えるのが現象学の世界でなければならない。
亀井絵里 片思いの終わりに


令和天皇にせよ、安倍首相にせよ、その他のアイドルグループにせよ、自分たちに押し寄せてくる男たちにとって「正しい神」でなければならないし「恋に詳しく」させなければならない。
東京大学などの大学もそうであろう。
大学は「就職の斡旋」をしてくれるが、天皇・首相・アイドルグループも最後には「仕事ってこういうものなんだよな」ということを男たちに教えなければならない。
この「現象学」を無視しては、いかなる「ファンクラブ」を持つ資格はないと言っていい。
男(ファーストオーダー)が、女心(セカンドオーダー)を理解すると、予言(サードオーダー)ができるようになる。
私もシアトルのシナゴーグに行ったことがあるが、男の子サークルと女の子サークルに別れ、なにやら話し合いをして、その後の自由時間にエヴァンジャリストのスピーチを聞いて、ホストファーザーが「我々はサードチャーチだ」と、まるでマリナーズやスーパーソニックスの勝敗をシナゴーグがコントロールしているかのように語っていたのが印象的だった。
シアトルにおいて、マリナーズやスーパーソニックス、シーホークスがどのような存在かを理解するだけで、シアトルダウンタウンにあるシナゴーグにどれほどの「敬虔さ」が集まるかがわかると思う。
私も「横浜DeNAベイスターズ」という球団の予言(サードオーダー)をやっていたが、とにかく「男が女心を理解する」という手法の重要性には気がついていた。
アメリカユダヤ教が「サードチャーチ」つまり「男が女心を理解してメジャースポーツで予言をする」場所であると私のホストファーザーは発言している。
法律を勉強しようが、経済学を勉強しようが、「人生、野球以外に何があるんだ」という境地になるのがユダヤ教なのだろう。
ザ・ファン 映画


この「サードチャーチ」は、日本国においては「若さを無駄にする時期に音楽作品を聞いておく」という手法以外に私はなにも想定していない。
ナベツネさんの指導を受けた桑田真澄や、自身が宗教家だった麻原がとにかく「なにも面白いことのない」時代にアイドルのイベント会場にいた。
絶対勝つぞベイスターズ


男社会に、結果(物自体)という概念が持ち込まれたときに、女たちは「セカンドセックス」として「待っている女」という構図が出来上がった。
おニャン子クラブ 好きになってもくれない


しかし、それも高校時代までだった。
プロフェッショナルになると女たち(セカンドオーダー)は、「待っているだけ」の存在ではなくなっていたのだ。
「私たちも仕事がしたい」「美しくありたい」というフェミニズム第二の波とともに1960年代にプロスポーツが発展し、「女」「女心」「セカンド」を無視しては勝利はおぼつかなくなっていた。
檸檬の年頃 AKB48


この「20世紀実存主義」の誕生および、フェミニズム第二の波によって、「プロスポーツとはどのようなものか?」「教会とは何を教える場所なのか?」が明確になった。
神が作った「男女」の存在と、それが「何のためなのか?」ということがプロスポーツの世界では知られることとなったのだ。
「ハードコアが露骨になって、女に興味が持てない?」
それは、おカネの起源を見失うことにもなるし、勝負事に弱くなるだろう。
プラスティックの唇


女たちは、ハードコアが露骨になってから、「私の心を教えて?」とかなりわがままになったし、「私の心」を必要としているのはプロスポーツしかなかった。
プロ野球は、勝つためには「猫」の手も借りたいのだ。
「私の心」を知りたい女たちが、群がるのは当然とも言えた。
今後、女たちはますますわがままになっていくだろう。
2017年には私は「女シリーズ」という連載とともに横浜DeNAベイスターズを日本シリーズに導いている。
今年は「プロポーズという名の全体主義」を明らかにした。
「私の心」が知りたいという女たちは、「猫の手」も借りたいという世界でその願いが叶えられるだろうし、今後の見通しとしては、ハードコアの時代を乗り越えて、女たちがかなり「わがまま」になっていくものと思われる。
1920年代に、アフリカの黒人が三名、フランスに留学してきた。
マルチニク、ギニア、セネガルから来た。
それぞれが「黒い肌」をしており、ネグリチュードは、とにかく「グレー」な世界で、「白黒つける」ことの人気を知った。
「男が女心を理解してメジャースポーツで予言をする」
これが、白人か黒人かを問わずに人気を博したのだ。
「歌を歌う奴はヨーロッパのチンパンジーだ」という差別もあったが、ハーレムルネッサンスは着実に進行した。
ブラックだろうがイエローだろうが、本国にヨーロッパの知識を持ちかえって、「要塞」を構築し始めたのだ。
ribbon サイレントサマー(ハーレムナイト)


 


台風での被害が報じられているが、我々がハーレムルネッサンスで構築した「要塞」はそんなに弱いものではない。
ハーレムルネッサンスの「千手観音」を見たか?
あれが日本国の各都市を「要塞」にしたのだ。
「天変地異」などもはや過去の宗教に過ぎない。
もっと我々が構築した「要塞」を信じてみないか?
「黒い蜜蜂」がチクリチクリと災害の報道を知らせてきたが、「プロスポーツのシーズンを越すたびに」我々の要塞は強度を増してきた。
最近の歌はつまらない?
だったら「要塞」の強度は「もはや十分」と国が判断したことを意味する。
愛の炎 田中れいな


アフリカが「黒人ゲットー」を安全なものにしようとしてきた歴史がある。
日本国に住んでいて、役所に住民票があるのならば、もっと「要塞」を信頼してみたらどうだろうか?
マイケル・ジャクソン ビートイット


さて、実存主義の世界が確立されてから、男でも女でも「オフィシャルレコード」が出るようになった。
なぜ、男は女とセックスすると気持ちがいいのか?
それは「女の子供の気持ちを味わえる」からである。
それならば、子供を偉大な人物の「復活」と位置付け、その後の夫婦生活の充実を試みたらどうか?
さらには、禅において美女を瞑想すると「子供が美男美女に生まれる」ことから、禅というものそのものがセックスを気持ちよくするのではないか?
美しいアイドルを見て、マスターベーションする行為は、そのアイドルとセックスする夢を見ると同時に、「美男美女として生まれた子供の気持ちを味わう」ことにつながるとしたのが禅であった。
夫が娘に「昔の女」の名前をつけたのならば、妻としてはそんなことをされたのではたまらない訳であるが、
なぜ、男が女とセックスしたがるのか?という理由は知っておかなければならない。
女の「子供の気持ち」が味わいたいからなのだ。
今から思うと、私は娘が生まれてから哲学(女心の探求)・政治(女心の定義)が理解できるようになり、息子が生まれてから宗教(高齢の男を崇拝する世界)・法律(若者や年寄りの男らしさを探求する世界)が分かるようになった。
私も、ほとんど自閉症に近いぐらい寡黙な男であったが、妻とであって子宝に恵まれてから「言語」を覚えたに等しい。
ソシュールなども「セックスと子供」と「言語学」を結びつけたのだ。
アイドルのイベントに桑田真澄や麻原彰晃がいたと言ったが、ドゥルーズなどはステージに背中を向けて観客席しかみていなかったと皮肉られている。
いずれにせよ「なぜアイドルを応援するのか?」について、禅(子供が美男美女になるため)であるとか、他の彼女とのセックスが気持ちよくなるためであるとか、
そもそも「美女とセックスする夢を見るため」であることなどの理由が存在することを理解しなければならない。
特定のアイドルと結婚するためであるのならば「株式買取請求権」を行使しなければならず、案外割りに合わない思いをするだろう。
タントラ教(セックス崇拝教団)について歌った曲。
デュランデュラン ユニオン・オブ・ザ・スネーク


プロテスタンティズムが、カルヴァン派(AKBグループ)や、ツヴィングリ派(モーニング娘。)を作ったが、このような「ミクロの女たち」がいなければ「マクロの男たち」が大声援を送ることはなく、各自が「担当」を持つことを超えて「自分の世界の広さ」を知ることはなかったのだ。
ジャニーズのイケメンがマクロなのかミクロなのかは明かではない。
本来、ミクロと位置づけられる若い娘が声援を送るのならば、「ミクロからマクロへ」という「声援の還流」が起きていると考えられるが、誰しもがジャニーズのようなイケメンであるわけではない。
かなり難しい議論が必要で、おちんちんを暴力的に切られた女の子が、鬱になって、イケメンを「自分のおちんちん」と見なしていると考えられている。
あるいは、母親でも娘を「自分のおちんちん」と見なし、自らはネズミのようになってもマスオさんをいじめるお婆さんもいる。
ジャニーズファンの女の子は鬱であり、キッチンでメチャクチャに格闘したあとに美味しい料理をつくる爽快感を知る。
ジャニーズファンの女目当ての男を「親」と言うが、しっかりと「ファンの心理」を理解しさえすれば、料理ダメ、洗濯ダメというアイドルよりもはるかにいい女をゲットできる(戦う民主制)。
戦う民主制においては、警備員の制止を振り切り、最前列に押し寄せる女たちを目の当たりにし、その「鬱」の酷さに圧倒されることもある。
しかし、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神は、このようにして戦う民主制と結び付いたのだ。
アイドルファンをやって自分の世界の広さを知るというのは、現象学と呼ばれている。
御朱印ガール目当ての男と戦う民主制は基本的には同じ構図であるが、戦う民主制とは何かをしっかりとメッセージとして出さなければならない。
ヒトラーに侵略される前のオーストリアは、戦う民主制のメッカとして男子と女子が共存していたのだ。
國府田マリ子 愛のクレイジーエプロン


女性アイドルが、どのような人生をのちに送っていたか、男性アイドルも同様にどのような人生を送っていたかを目の当たりにした「東大生」でなければ、若くて美しさに盲目な「男女」に「付き合っちゃいなよ」というだけの力量はない。
いずれにせよ、オーストリアのウィーンに数多くあった「ハプスブルク家」のサークルは、カルナップの暗殺がなければ「ヒトラーも落とせなかった」とされている。


ミシェル・フーコーは、マッド・ホモ・囚人と向き合っているうちに「ブルジョアへの怒り」を持つようになっていた。
私が目撃した「マッド・ホモ・囚人」の典型は田原俊彦だろう。
1949年から1959年まで、フーコーは、マッド・ホモ・囚人の研究を行い、1963年に「クリニックの誕生」を書いている。
地図では道が「広さ、長さ、色、線」で書かれており、その道の「交差」が記されている。
学問の世界においても、プラトン・アリストテレス・アクィナス・カントという巨大な線に多くの論客が交差している。
フーコーは、その「地図の読み方」をより明確にし、それでいて「人間の誕生」において、「彼らは皆、病人だった」としている。
「病気の哲学者」と「アイドル」の恋を描き、それで社会の「路線」から外れた存在としてブルジョアを憎んだのだ。
男はどのようにして「言葉」を覚えるか?はソシュール言語学のみならず、ミシェル・フーコーも問題にしている。
世の中は「多神教」の世界であり、多くの男たちが「噛みついてくる」ために無口にならざるを得ない。
しかも、「言葉を発する」という行為そのものが「混乱と歪曲の世界」なのである。
古典的な方法は、美女たちに「話が通じる」ことが重要だとされてきた。
これが新カント派である。
カントの「言葉」は貫通力に満ちており、とにかく古典の世界を制した。
それならば、マッド・ホモ・囚人の反応はどうであろうか?
フーコーは、地図の重要箇所にどっかりと腰を下ろした「カント」そしてカントを知っているブルジョアを憎んでいたのだ。
ヘーゲル(イケメン)、マルクス(婚期を逃した男女)、ニーチェ(父親に押し潰されそうな男)、ハイデガー(若さを無駄にしている男)は、マッド・ホモ・囚人の味方をしてくれるであろうか?
「面白ければいい」という連中以外に、古典を脱した「新派」の世界に味方はいなかった。
ソシュールは「娘や息子が生まれた」ことに「言葉を覚えた理由」を見出だしたが、フーコーは「狂人に話が通じた」という成功体験に言葉を覚えた理由を見出だしている。
新カント派は、美女たちに通じた話を「男にも」話してしまうとフーコーは考えた。
男社会は、「言葉の縦社会」であり、美女たちに通じた話を男にもしてしまうと、案外、喫茶店やレストランのマスターは「マッド」が多く、「ちょっと黙っていてください」という返事ならばまだ良心的だが、「次、口を利いたら出入り禁止だよ」という喫茶店のマスターもいる。
世の中にどれほどマッドが多いかを人々は知らないのだ。
フーコーは、男同士ならば「いい体してるね」という入り方がいいと考えたこともあるが、
いかんせんガタイが良かったフーコーに、周囲のマッド・ホモ・囚人は「犯すぞ・殺すぞ」というメッセージにしか聞こえなかった。
そもそも昔の「女」というのはどのように「子供」を生んできたのだろうか?
フーコーは、女が教会で「私を快楽のため、そしてあなたの面倒を見るために使ってください」という「告白」を経た上で「女」と認定してきたとしたのだ。
hiro confession


つまり、グレコローマン(ギリシャ・ローマ帝国)の時代は「私は学問に耐えられない」と考えたら「女になれた」のだ。
ちんちんがついていても「告白」をする男がいた。
生まれたときに性別を記すようになったのは「クリニックの誕生」以降の1970年のことだ。
カントが「女の口説き文句」を考えた、そしてその貫通力を証明したとしても、世界史はフーコーに味方していた。
耐えられない、下痢をする、そのような「男社会」が存在し、ちんちんのサイズの相対化まで行わないと、「性概念」というものは明かにならなかった。
しかし、フーコーの「世界史の研究」は、未公表のまま「カントの悪口」として終わった。
皆さんもご存じの通り、男女の境界線には「アダムとエヴァ」以来、分からないことが多い、という現状があったのだ。
このあたりの議論は「世界史の謎」として終わればいいのだろうが、興味のある人は「50歳以上ふたなり教」などのスレをたてて調査してみてほしい。
私は次のテーマに移りたい。
しかし、中にはライフワークにしている人もいると思う。
フランツ・ファノンはアルジェリアの「国民解放戦線」(FLN)を率いた。
植民地化によって、ふたなりの男と共存するように、「私を快楽のため、そしてあなたの面倒を見るために使ってください」と誓う「黒人女」が生まれていた。
黒人社会に「黒人女」というものを作ったのが植民地化だったため、当然、「ヨーロッパへの支持」は根強く、ファノンはガーナにアルジェリア暫定政府を作っている。
ファノンの代表的な著作は「黒い肌に白い顔」というものだ。
ヘーゲルのような「イケメン」をつくることから始めた。
世界史は「女作りが先、男作りはあと」という展開をたどるのが定石であるが、なにしろフーコーの「1970年」以前は、どの男も「ちんちんがデカいだけのシーメール」だったのだ。
アルジェリアの男たちは洗練されたフランス語を話した。
しかし、フランス女とセックスするのは「タブー」とされていた。
なにしろ黒人男にとって「女の白い肌」は、トラウマとなり、日本でも「痛風」と呼ばれている病気が、もっと重篤なかたちで黒人男を襲ったからだ。
日本人でも白い女とのセックスが痛風の原因であるため、あえて「クロンボ!」などと叫んでみると痛風が良くなる。
マイケル・ジャクソンもモハメド・アリも、白人女とセックスしても「ろくなことはなかった」であろう。
いずれにせよファノンも、「ホワイトとブラックの共存は困難」と考えていた。
植民地化?キリスト教?
ちんちんのない「黒人女」を作ってくれたことには感謝するよ。
しかし、痛風患者が「クロンボ!」と呼んで病気を治しているのはどうにも我慢がならなかった。
白人男が黒人女とセックスしても痛風の心配はなかった。
それどころか痛風が治ってしまうではないか?
ファノンの戦いはこうして始まった。
1961年にルムンバが死んで、コンゴなどでも「独立しようか?」という空気が生まれた。
ルムンバは「奴隷貿易の象徴的存在」であり、痛風の治療のために黒人女を売りさばいていた。
ファノンはあくまでも実存主義の文脈に位置づけられる存在であり、アフリカの黒人が全米メジャースポーツで活躍する様を「アルジェリアの家族」と呼んでFLNの雑誌に掲載していたのだ。
移民政策においては「男作りが先、女作りはあと」でなければ、今の日本のように朝鮮パブやフィリピンパブが蔓延するだけだ。
フィリピンも、フラッシュエロルデから始まり、マニー・パッキャオ、ノニト・ドネアなどの「男作り」はやっている。
しかし、日本本土を拠点とする「男」がいなければこのような風俗店はなくならない。
ファノンは1960年代に死んでいるが、ヨーロッパ植民地政策が「女作り」(おちんちんのない女)をやってくれたのならば、それをうまく利用しながら「男作り」をすることを「脱植民地運動」と位置付けた。
男作りとは「オフィシャルレコード」がなければ成立せず、当然、サルトルの影響を受けざるを得ない。
サルトルがいなければ、日本国とて外国国家の植民地となっていたであろうし、日本国は「鎖国」を行うことで「男作り」をやったのだ。
台風撃退が日本国の宗教史の花形であるが、貝原益軒以前の宗教団体を「既存の宗教団体」と呼び、それ以降を「新興宗教」と呼んだ。
本当に「シーメールではない男」を生み出したのはミシェル・フーコーであり、1970年以降に生まれた男たちをもポルノで売り出した。
「男作り」は宗教でもあり、法律でもある。
1970年以降に生まれた男は、貝原益軒以降の「新興宗教」のみならず「既存の宗教団体」にも組み込まれた。
余談であるが、私は1971年3月生まれで、酒井法子が2月生まれ、渡辺満里奈が1970年11月生まれである。
酒井法子にせよ渡辺満里奈にせよ「年上の男性との恋愛」を歌っているが、その男は「シーメールである」ことになる。
しかし、それらの作品を聞いていると「シーメールの方がよっぽど成熟した文化を持っているのではないか?」と思うこともある。
古くは「黒い雪事件」において「映画でろうそくを吹き消すシーンがあり、セックスを連想させた」ことが猥褻物陳列罪になっており、チャタレー事件においては「コニーとメラーのあまりにも女性を従属的に描いたセックス描写」が猥褻概念をめぐって最高裁で争われた。
「ストイックな方が大人である」という側面が指摘できる。
酒井法子の15歳の時の歌。
酒井法子 サヨナラのかわりに

平成生まれの「五割が子なし」というのは猥褻概念と関わったものであり、たとえば昔、「この小学校はいずれ老人ホームとなる」という噂があり、今はそれが現実のものとなったり、
代々木ゼミナール横浜校が「ホテルにできるように作られている」という噂があり、実際に何年か前に廃校・不動産売却を公表したりしている。
ミシェル・フーコーが日本国に少子化をもたらしたという側面があり、一方で、世界の人口は、30年後には90億人を突破するという現実もある。
1970年のミシェル・フーコーからのメッセージをどのように受け止めるか?
それもキュレーター(評論家)に委ねられている。
酒井法子(1971年2月生まれ)、渡辺満里奈(1970年11月生まれ)が「年上の男との恋」をどのように表現しているかに注目してほしい。
渡辺満里奈 マリーナの夏

もはや文明批評である。
渡辺満里奈

2019年10月28日 (月)

おカネとは何か?

おカネ、それを定義するのならば「金額が数えられる、女が買える、すべての女に通用する」(ケインズ)というものである。
つまり、「セックス」を想定しなければおカネというものは生まれないのだ。
エロビデオを見て「女性が嫌がっているじゃないか?」と考える政治的弱者がいる。それに悩む女がいる。
CoCo メロディー

このことから、1800年代にシュタイナーは「だったらセックスを歌った音楽作品もカネになる」ということを明らかにした。
新約聖書の誕生だった。
イケメンであるイエスキリストが、「女を口説く言葉」(カント)を覚え、王子として(ホッブス)、権力闘争とは何かを人々に教える(ルソー)。
それが新約聖書であり、おカネ=女=セックスが理由で磔になる。
ニーチェは、権力闘争の結末を善悪の彼岸において明らかにし、「誰も、今の自分ならばなんでもできる、とは考えていない」としている。
それを受けてアダムスミスは「社会の歯車になったほうがよっぽど儲かる」とした。
職業としての政治が、リーダーとして「すべての組織は政治的に動いている」ことから、本や講演会で「組織での生き方」を人々に教え、それはまるで専従組合員のような存在だった。
職業としての政治が成立するのならば、「最高権力者にならなければ、自分の生き方が社会に浸透することはない」ことから、どうしても権力闘争は熾烈なものにならざるを得ない。
普段は、小泉純一郎もコンサルタント会社を経営している。
丸山真男の「源氏物語」がいまだに国家一種試験の行政職の試験に採用されているが、おカネとは「金額が数えられる、女が買える、すべての女に通用する」ことを踏まえて、「なんで源氏物語?」と高校生ぐらいならば考えてしまうようなことが大人の社会では常識となっている。
「胸のボタンを外すのならば抑圧されているのか?」
CoCo ささやかな誘惑

人間はなぜ多数派工作を行うのか?
なぜ、業績を欲しがるのか?
男は「勃つため」であるし、女も「性欲の原理」が自分の業績を欲しがる。
子供の頃に「正々堂々」を覚えるし、青年の時期に芸術や音楽作品と触れる。
若さを無駄にする時期に「譲れないもの」は確実にある。
私の場合は司法試験に合格したかった。
すべては、「正々堂々」と「音楽作品」で譲れないものが突破できることを後に悟るのだ。
あんなに難しかった司法試験や国家一種試験も「おカネとの相談」だったのだ。
瀬能あづさ 永遠に友達

旧古典派(カトリック)は、理想の男を山に祀ることしかできなかったが、新古典派(プロテスタント)は「セックス」を歌にした。
昔の詩は美しかったが、現代の詩は楽しかったとも言われた。
男らしさを語り合う論壇のことを「宗教」と呼ぶのであれば、カトリックは宗教であるが、プロテスタントは「理想の男が私を口説いてくる、セックスすらしてしまう」という夢を見た。
つまりは「結婚」という制度が、カトリックからプロテスタントへと主導権を移動させる原因となった。
「プロポーズを頂点とした全体主義」は、プロテスタントの「セックスの歌」を背景に、巨大なビッグマネーを生み出した。
結婚を宗教としたのがプロテスタントだったのだ。
BoA Is this love?

本当の「無神論」とは、女たちの夢にも出てこない、しかも結婚しない男の存在を前提にしたものだ。
アマテラスは、大国主とヤマトタケルのどちらを夢に見ようが自由だった。
文に優れた大国主と、武に優れたヤマトタケルの両方を、アマテラスとスサノオは日本国に遣わしている。
スサノオは、アマテラスの寝床に馬の首を投げ込んだお詫びに、文人と武人の二人を国にもたらしたのだ。
アマテラスが夢に見る文人と武人がいる、それだけで国は豊かになったし、女神が必要とされた。
文を追求しようが、武を追求しようが、男を特定の組織に拘束できた。
労働組合と同僚はそれで出来上がったのだ。
あとは「職業としての政治」が分かればいいだけだった。
アマテラスの「いい男選び」と「結婚」のグランドデザインを描いたのがシュタイナーである。
セックスがおカネの起源であると言っても、男の側も勉強やスポーツにおカネがかかる。
さらには、パートナーを見つけても「職業としての政治」を学ばなければ生き残っていけないのが組織というものだった。
瀬能あづさ ふたつにひとつ

銀行は基本的には「顧客のおカネ」を盗むのは自由である。
監督官庁に上納金を支払って、政治資金管理団体やNPOへの寄付金・献金を盗むのは自由に行える。
しかし、「上司や監督官庁の神学化」を行わなければならない。
銀行のおカネが監督官庁に盗まれている。
しかし、そのためには官庁の官僚は高学歴でなければならない。
人の上に立つ者が中卒なわけがないではないか。
ところが、宮内庁には中卒が多いのだ。
さらに、入庁したその日に美智子皇后の指導にしたがい、生活保護を申請し、お給料に代えている。
この「宮内庁の実態」がありながら、「金持ちの口座からお金を盗んでいる」のが宮内庁なのだ。
盗んだお金も「自分の口座に入れると生活保護が打ち切られる」と考え、現金取引で競馬などのギャンブルをやっている。
「官僚はこれだけの権力があるのだから高学歴でなければならない」
日本国の銀行はスイス銀行ではない。
国民から広く寄附や献金を求めたら、監督官庁に没収されるのがオチだろう。
それならば、取引している銀行に「監督官庁の連中よりも自分の方が学歴がある」という説明はひと言話さなければならない。
これが学歴社会である日本国と銀行のあり方なのだ。
すべての「NPOや政治資金管理団体は宮内庁に狙われている」
それならば、口座を持つものは自分の学歴を銀行に話さなければならない。
学歴のない顧客の口座から、学歴のある監督官庁が「私の方がもっとうまく運用できる」と考えておカネを盗むのはまだ理由がある。
しかし、黒革の手帖には「銀行がそもそもおカネを盗んでいる」ということが常識としてあるいは「女性を口説くために」記されているのだ。
もう一度言うが、おカネとは「金額が数えられる、女が買える、すべての女に通用する」ものだ。
それならば、銀行を介して「女の交換」をするのと同じ意味であり、せめて官僚は全員、東大に入るべきだろう。
銀行という「神」自民党幹事長という「神」内閣官房長官という「神」が、このような反則を使って、最後に泣きを見て負けてくれるのが政治の世界だった。
しかし、長期政権ではそのような連中がのさばっているのだ。
事情通としても「面白くない」という現状がある。
政治家とは「期待を裏切らない」ものだ。
みんなが熱狂するのならばレフェリーもカウントアウトしてしまうだろう。

芸能人と出会いたい人はいるだろうか?
出会いの場ってどこにあるの?
やたら人生経験が豊富で、しかし、おカネがない、それが芸能界の現状である。
私はあえて、「芸能人との出会いの場の真実」を紹介したい。
日本ピアスタッフ協会 叶わぬ夢、混乱、そんなものを相手にする医者がいるであろうか?
それは「精神科」しかないのだ。
日本ピアスタッフ協会の「男性芸能人」は、宗教をカルト化し、「女性芸能人」は宗教をメジャー化する。
はっきり言うと、芸能人は「自分が宇宙の中心」であるという「叶わぬ夢」をもっているため、みずほ銀行に「いい修行になる」として日本ピアスタッフ協会との業務提携を持ちかけても断られている。
つまり、日本国には本当の「ホットショットバンカー」などいないのだ。
みずほ銀行という日本国のメガバンクが、しり込みするような存在が「女性芸能人」であり、女性芸能人は、「自分が宇宙の中心である、ありたい」という叶わぬ夢・病気を持っているため、目つきが悪くなり、しかし、それでいて「音符でできた言葉」に素直なリアクションを取る。
本当に日本の銀行が「ホットショットバンカー」をメンバーに加えたいのならば、日本ピアスタッフ協会と必ず関わらなければならない。
あるいは、「女性芸能人」はもはや「銀行の手を離れた」とし、自衛隊の問題であると考えられている節もある。
芸能人になりたいのならばためらうことなく「自衛官募集」に応募するべきだ。
さて、「銀行より自衛隊の方が上」というのが日本国の現状だとするのならば、憲法への自衛隊明記は、日本国の芸能界や日本ピアスタッフ協会を国民にもっとオープンなものにすることを意味する。
田母神さんだけではなく、憲法への自衛隊明記を主張する政治家はおそらく自衛官だろう。
「銀行にホットショットバンカーを」求めるのならば避けては通れない道だ。
しかも、「国民からお金を盗んでいる?」冗談ではない。
「おカネを集めている」存在でなければならない。
銀行マンならば、文学や音楽作品を通して、おカネを集め、顧客によりよい資産運用を提供しなければならないのだ。
「芸能界は自衛隊の専権である」と言っているうちはなかなか難しい。
さて、銀行からお金を盗む監督官庁があるとするのならば、それは本来「自衛隊」「検察」「宮内庁」という「特別な機関」の役割である。
しかし、宮内庁には現在、そのための基礎体力がなく、「おカネを盗むテクノロジー」だけが与えられている。
今は、特別な機関としての宮内庁は「おカネの雨」が降っているわが世の春であるが、なぜ「特別な機関」なのかをもう一度考え直さなければならない。
「女性芸能人と話ができる」「メジャー宗教」であり、ホットショットバンカーであり哲学者であり、国民のためにおカネを集めてくれる人が天皇になる仕組みは出来上がった。

ヘンリクス・リジウスは、カルヴァン派(処女)のアイドルとの恋愛を語り、カルヴァン派の女と話すことがいい「金融」になるとした。
オランダ美人のことである。
小泉今日子 和蘭美人

英国王室も、男子が妻にするなら貴族院議員の女性かオランダカルヴァン派の女性がいい、と考えるようになっていた。
リジウスは、長年の学問のスランプから「40にして立った」と自らを語った。
自分の情報不足から精神病院に入っていたのだが、周囲がみんなカルヴァン派の女性ばかりだと気がついたのだ。
そのことから、哲学の研究に没頭したし、カルヴァン派の女の子たちにモテた。
どの精神病院にも、作業療法室に「金融工学」という本があるが、周囲の女たちと話すことが金融なのだということを示していた。
話して、ウケた話を本にするのがオランダの金融だった。
AKB48 恋するフォーチュンクッキー

「私の心を教えて?」というのもカネになる。
人はなぜ恋をするのだろうか。女は「男が仲間が多い、何かやってくれそう」ということが理由で恋をしている。
瀬能あづさ 秋

女が「男の序列」を決めている。
このことから「女心」を語ることを「政治」と呼んだし、女への「同調率」を高め、しかも「勃つ」ようになるために、女性ボーカルの音楽作品を聞くことは非常に意味のあるものだ。
カントが「結婚」という制度を考えた時、「プロポーズを頂点とする全体主義」が生まれたし、プロポーズは「言葉」よりも「タイミング」が重要だった。
おカネの起源は「金額が数えられる、女が買える、どの女にも通用する」ものであるが、「女への口説き文句の絶対」も「女が買える、どの女にも通用する」ではないか。
金額は日経平均株価に委ねよう。それが「女の値段」だからである。
そこで、結婚以降の主婦層は「マクロ」(平凡な存在)となり、「ネット」(罵倒する存在)とならざるを得ず、売買の対象となる「女」は独身に限られた、
カトリック女は「結婚する際に高値で取引される」ものであったし、カルヴァン派のアイドル女は「株式買取請求権」で取引された。
しかし、結婚というものは「プロテスタントの宗教」であり続けた。
中森明菜 禁区

問題の少ない「愛」を知っている主婦層が「マクロとミクロ」「グロスとネット」という概念を作った。
言葉とはおちんちんのためにある。
それならば、「正しい神」を信じ、「恋に詳しい」音楽作品を歌っている独身女に声援が飛ぶのも理解できる(マクロからミクロへ)。
このことから、若い男の子も「マクロ」であることが分かった。
愛の炎 田中れいな

「内省」(マスターベーション)というのは、街で女の子に声をかけて、時には喫茶店に入り、話がはずんだあとに家で行うものだ。
三度食事しなければ「真剣な交際」は始まらないが、哲学入門として、女の子をナンパすることは覚えておいたほうがいい。
電車に乗ってもあくなき探究心を持ち、「なぜヒールの高い靴をはいているのか?」「女の子は唇の位置が自分よりも上にある人をカッコいいと思うのではないか?」などと女の子に話しかけることを怠ってはならない。
女たちは同調行動を取るのならば「白系統」の服を着るだろう。
なぜ「黒いタイツ」を履いているのか?「心」を語りたいからか?などと私はよく電車で女の子たちに話しかけていた。
私のようなおっさんでも女の子たちは率直に返事をよこしていたのだ。
「どの雑誌で自分と社会との関係を決めているの?」と女の子に聞いたら「セブンティーンとかポップティーンとかランズキ」と言っていた。
女子中学生に「勉強は難しくても男の絶対はあなたの胸にあるよ」などというのも有効だった。
営業というものは電話で行うものだ。
しかし、外回りの営業というものは、実は、女の子たちをナンパしまくることだったのだ。
マンションに連れ込んで撮影などを行うわけではない。
電話では磨くことに限界のある「話術」というものは確実に存在する。
あるいは、その人と面識があるのであれば電話でもかまわないが、そのために男女を問わず名刺の交換を行っているのだろう。
さて、昨年までは私も「税金を蒸発させずに財務省に届ける」研究を行い、62.5兆円を集めたが、今年は新たな視点を提供したい。
手元におカネがないのならば「税金を取られている」「しかも財務省に届かず蒸発している」と考えていい。
女性などは特に「我々を対立させるサタンがいる」と信じており、このサタンがおカネを「蒸発」させているのだ。
これを解消させるのが「ビリーフボックス(松田聖子のすべての音楽作品)」と「デザイアーボックス(中森明菜のすべての音楽作品)」を聞くことである。
キーワードは「私のお父さんは土曜日に香港に行く予定なの」というセリフを、ビリーフボックスとデザイアーボックスでどのように解釈するかである。
お父さんとお母さんが仲直りするにはいい機会じゃない?
北ウィング 中森明菜
マンハッタンも香港も夜はお酒を飲まなければ体が痛くて仕方がないわね。
海沿いの街すべてヒトラーのニューディール政策でできているの。
住んでいる人全員がイタイイタイ病にかかっているから、土地建物を買収してビル街にしたわ。
マンハッタンでブレックファスト 松田聖子

さらに「男の香港での孤独」をどう思うかをビリーフボックスとデザイアーボックスから明らかにしなければならない。

愛というものを見直すいい機会ね。
松田聖子 続・赤いスイートピー

音で悲しみを表現するなんて素敵だわ。
中森明菜 トワイライト

この「旅と孤独」の二つを、ビリーフボックスとデザイアーボックスがどう思っているのかをまず理解する必要がある。
これを「二つの別れ」と呼ぶ。
「孤独な人は貧しい」ということから、天は孤独な人を集中放火するように税金を取り、しかも、財務省に届けずに「蒸発」させているのだ。
「旅と孤独」を表現しないアーティストならば節税効果はないが、松田聖子と中森明菜は完璧なのだ。

自分を見直すことの意味とは「愛という意味を見直すこと」であり、それを音楽作品で表現しなければならない。
松田聖子 ブルージュの鐘

中森明菜 ロンリージャーニー

遠く離れた人への共感というものが今年の税収対策であり、今まで日本国がやったことのないことをやろうとしている。
しかも、「あなたは旅と孤独をどう思う?」ということをビリーフボックスとデザイアーボックスから見出さなければならないのだ。
解釈や音楽作品は人それぞれだろう。
他人から税金を取っているんだぞ?ということを財務省が理解するだけでも、税金の「蒸発」は防げるのだ。
つまり、国民全員が豊かになる。
本来、ニスベットはこのようなことを考えた人物だった。

さらに、「遠くにいる人たちも愛し合っているんだぞ」という表現が必要になる。
松田聖子 抱いて

中森明菜 飾りじゃないのよ涙は

将来世代の節税効果および税収効果のためにビリーフボックスとデザイアーボックスは残された。
最後には「遠く離れた赤の他人のカップルは何を考えているのか?」という議論に「旅と孤独」の問題は解消される。
そうなったらようやく、多くの「恋愛ソング」が登場するが、ビリーフボックスとデザイアーボックスを越えるのはなかなか難しい。
松田聖子 赤いスイートピー

中森明菜 デザイアー

昨年は、内省=マスターベーション理論を押し通して、税収62.5兆円を達成したが、今年は「内省」=のぞきこむ理論で押してみたい。
まさに、身内の「旅と孤独」から始まり、「他人の恋愛をのぞきこむ」時代になったものと思われる。
それが「全能の神」と呼ばれるものだ。
松田聖子 ハートのイアリング

中森明菜 ライアー

そこまで議論が進んだ、ようやく「恋の駆け引き」の議論に発展する。
松田聖子 瞳はダイアモンド

中森明菜 サザンウィンド

「他人が洗練され、満足している」
このようなメッセージをみんなが共有すると、税金は「蒸発」せずに手元におカネが残る。
「痛いといったら痛い」
このようなメッセージも必要となる。
松田聖子 風立ちぬ

中森明菜 ジプシークイーン

「痛いといったら痛い」までビリーフボックスとデザイアーボックスが議論が進んでようやく、「最近の音楽シーン」が見れるのではないだろうか。
ミュージックステーションに節税効果を委ねられるのだ。
しかし、信じること(ビリーフ)は白・神・男であり、欲望(デザイアー)は黒・世界・女であるということから、「男の優越」「松田聖子の優越」だけは認めなければならない。
どのように「痛い」のかは今回は説明を省かせてもらうが、「白と黒」を感じてもらえばいいだけのときもあるのだ。
聖子ちゃん派と明菜ちゃん派は、聖子ちゃん派28%、明菜ちゃん派13%という支持率を集めて聖子ちゃん派が勝っている。
しかし、クラスの半分が女子だとしても、9%の女の子が「無関心」だったのは意外である。

さて、結局、「どの女も知っている曲」でしかも「女性アーティスト」となると、松田聖子と中森明菜になるわけであるが、「左脳の同調率」を高めると、みんな「左腕の動きがよくなる」のである。
日常生活における人々の「左を制する」者は世界を制するとも言われ、財務省の税収増と、人々の生活の豊かさにつながる。
このような「女たちの左脳の同調率」を高める力を持っているのは「常に政治生命を狙われている有名人」でなければ無理なんじゃないかな。
松田聖子 ガラスの林檎

中森明菜 少女A

それにしても、女の「旅行」ほど同調率の高いものはない。
「国境」というものは本来、想像以上に高いものだ。
アメリカ合衆国は、「メキシコにはカネはやらない」という方針で国境を開いていた。
しかし、フランスだろうと中東だろうと、「日本国にカネをやる」という国策で国境を高くしている。
あくまでも「観光ビザ」であるため、日本国に富をもたらすためのビザとなっている。
これを音楽作品に生かさない手はないし、松田聖子も中森明菜もこれに同調している。
松田聖子 時間旅行

中森明菜 サンドベージュ

アフリカは「ヨーロッパの国々に」「旅行と音楽作品で」散々利用されてきたことに寛大であっても、北欧はあんがい「イミグレーション」というものに怒りを持っている。
他国に一方的に「おカネをやる」行為だからだ。
「白夜は見世物ではない、本国で富に代えるのは目に見えている」
それでも9・11テロが起きるまでは野放図にされてきた。
松田聖子 白い夜

中森明菜 目をとじて小旅行

日本国は、外国との国境を高く設定しているが、「おもてなし」などと言っては「外国の富」に寛大である。
観光立国とか、外国人旅行者の落とすおカネとか言っているが、外国人旅行者はそれ以上の「見返り」を得て帰っていっている。
しかし、自国が外国に見世物になることに「愛国心」が反発する国が9・11テロ以降、顕在化したのだ。
「厳重警戒中」などと日本でも当然のリアクションはとっている。
しかし、エジプトなどは、ODAとして「その対価」を求めるのを得意としている。
ヨーロッパで処刑された「イエスキリスト」が大勢ピラミッドに埋葬されているのだ。
「移民」の問題は、外国の女に国が見世物にされ、カネをふんだくられる、という問題だ。
河合その子 Parisが聞こえる

通常の、民主主義(政治コミュニティーにおける男女同数)においては、お父さんが娘のために男のお相手をさがしてくる理由は「外国人の排除」という理由以外にない。
松田聖子 kimono beat

中森明菜 十戒

自国の「男たちの強さ」が円高につながり、そのことを背景に、女が「格安で」海外旅行できる仕組みがあった。
株高・円高・土地高のトリプル高をバブルと呼ぶが、バブル経済のときはエジプトがかなり伝説化された。
また、エジプトのピラミッドにはヨーロッパのイエスキリストが多く埋葬されていることから、ヨーロッパが日本国に心を開いた。
「うちの国ことを歌ってくれたらおカネあげるよ」とフランスは特に寛大だった。
河合その子 サエラ

本来、外国国家を利用して自国に富をもたらすのが「移民」「観光客」であったが、韓国は「外国人男とのセックスの禁止」を踏まえたうえで「韓国に生まれたかっただろう?」というプロパガンダを打ってきた。
韓国を利用して外国国家がおカネを儲ける代わりに「韓国に生まれたかっただろう」という宣伝を打ったのだ。
おカネと宣伝効果はもはや「交換」という意味合いを持った。
twice wake me up

日本国において、生活保護は韓国人困窮者への適用を想定していない、という判決が下されるなどしたため、韓国は「世界に富を流し込む方法」を学習した。
さらには、自国の宣伝になるためにK-POPというものがアジア地域で広まったのだ。
J-POPをアジアの言語で歌うことはあまり想定されていないが、自国の宣伝とおカネの外国へのバラまきが目的だ。
JKT48 恋するフォーチュンクッキー

AKB48のメンバーもK-POPに参入する事例があるが、韓国の宣伝に貢献する変わりにウォンを得ることができるという意味においては「おカネ目当てのプロ」という側面が指摘できる。

困窮日本人の救済という政策が外国で必要になるとするのならば、上海とジャカルタではその作業はすでに進められていることになる。
インドネシアは「次世代のアメリカの友人」候補とされているが、日本国側にどのような「下心」があるかは明らかではない。
SNH48 真夏のsounds good

 

漫画とは「考え方の一定の方向性」を示すものであり、それは必ずしも現実を示すものではない。
小説吉田学校

実際は、幣原喜重郎が「愛とは何か?」「嫉妬とは何か?」「愛国心とは何か?」という問いかけに「落第点」を押され、その「正解」に衝撃を受けたものと思われる。
エロス(彼女との愛)は長続きしないのに、なぜアガペー(妹との愛)は長続きするのか?
他人が持っている良きものが自分にも与えられる可能性があった、それだけで嫉妬という感情は生じる。そのことで罪悪感を感じる人間はいるのか?実際は「自分の作業」が停止し、破滅に向かうだけだろうなどの議論を吹っかけてきたものと思われる。
愛国心とは「国の個性に注目するもの」であるが、セックスをしないため「息子を愛する気持ち」と変わらないなど、いろんな論点で幣原喜重郎は「衝撃」を受けたものと思われる。
そこで、小説小野学校においては「松田聖子や中森明菜をみんなが共有すればみんなが生活が楽になる」という方向性を目指し始めたが、「誰がその業績を共有するつもりか?」が、憲法をめぐる論争であり、いろんな人物が「日本国憲法」の文言をめぐって対立したことを意味する。
文言は文言で「人類皆兄弟」というような言葉に過ぎないが、アメリカ合衆国と「哲学論争」をおこなった「遺物」として残されている。
いろんな議論の「残骸」という意味においては、すべての法律が「哲学論争の残骸」であり、条文から解釈を導いたり、コンメンタールを書いたりするのはバカげている。

松田聖子 スウィートメモリーズ

中森明菜 I missed the shock

哲学論争では「女の話」しかしていないのに、「個」と「公」の峻別とは恐ろしいものだ。
まるで「公」は硬派の男のように女の話など一切せずに、まるでそれが「男社会」であるかのように、六法全書は作られて行った。
ほとんどの各行政法の条文までが「哲学論争の残骸」と化し、「マイルール」となって役所に残された。
まあ、条文なんて無視することだね。
哲学論争に強くなければ司法試験には受からない。
司法試験の答案だって所詮は「人気」を競い合うものだろ。
それならば、松田聖子や中森明菜を参考にしなければ「人気」のある答案は書けない。
法学者の講義でコンサートのような声援が飛ぶことがあっただろうか?
「分かりやすい論理」「試験への受かり方」を私も長いこと勉強し、それなりに面白かったが、国を動かすのは所詮は「人気のある答案」だと悟って法律の研究は放り投げた。
霞ヶ関の「法律の残骸」を動かすのは政治家の仕事だ。
松田聖子 夏の扉

中森明菜 あの夏の日

就職して「瑕疵担保責任って何だったかな?」などと考えるのならば「攻撃に等しい大きさの反撃を」という哲学の常識を考えたほうがいい。
病院の看護士なども、慣れてくると「攻撃に等しい大きさの反撃」しかしなくなるから、みんな言っていることがてんでバラバラになる。
それでも、ルールとして動いているのだから仕方がない。
職場に膨大な「マニュアル」は残されるが、そんなもので動いているわけがないのだ。
松田聖子と中森明菜のような「人気」が、答案だけではなくいろんな社会生活で必要になってくる。
松田聖子 渚のバルコニー

中森明菜 1/2の神話

ビリーフボックス(松田聖子)とデザイアーボックス(中森明菜)を買って、意味を「う~ん」と考えたほうがいい勉強になる。
意味については今まで述べてきたため、本稿においては「感じてもらう」にとどまる。
いい大人になれば意味ぐらい分かるだろう。
問題は、松田聖子と中森明菜をみんなが共有するだけで、国全体が交付税の裏負担などを背景に、生活が楽になることから、「業績」を関係者がみんなで奪い合い、最後に「条文」という残骸が残されるということなのだ。

デカルトは「内省」というものを「他人の恋愛ののぞき見」としたが、自分自身が「恋」を知らなければその本当の意味は分からないだろうとした。
体が熱い、湿気がする、そんな経験を「恋」と呼び、認知症類似の症状を引き起こすが、実際には「恋わずらい」とは万病に効く薬である。
暑さと湿気にしか感じないものを「赤から紫へ」「あじさいが色を変えるようだ」と覚えておくといい。
胸騒ぎのメランコリー 高井麻巳子

ノーブルレッドからインディゴブルーへ、この恋が移りゆくさまを覚えておくだけで、女の子にモテる。
国生さゆり ノーブルレッドの瞬間

インディゴブルーラブ モーニング娘。

デカルトはもちろん、エリートとして育ったため、「恋」というものは「終わらない夏休みの宿題」となっていた。
夏休みは終わらない おニャン子クラブ

地球にはひとつの「月」があり、皆既日食とか月食とかの天体ショーがあるが、木星には「月が四つ」あるのだ。
その論理など分かるわけがない。
それでも「他人の恋」をのぞき見できるのが音楽作品なのだ。
地球にとって「月」は大きさからなにから「太陽との完璧な論理」が成立しているが、木星にとっての「四つの月」も同様であるはずだ。
それでも、地球人にとって「木星の論理」はいまだに分からないのだ。
私は細木数子先生の「六占星術」では「木星マイナス」と言われているが、なかなかのドンファンなのだろうか。
とにかく木星にとって太陽は小さく、とうぜん「四つの月」も小惑星と呼ばれるほど小さい。
だが、「女が四人いる」男が果たして幸せなのかは明らかではない。
幸せではないのならば住めない。
まだ、「地球人の論理」をのぞき見したほうが税収がアップしたり生活が楽になるだろうとデカルトは指摘している。
モーニング娘。 幸せですか

デカルトはあくまでも「木星人」であり、一日が十時間しかない惑星においては「いじめ」(倫理)というものに関してはあまり記されていない。
一人の男に四人の女がいる惑星においてはさほど問題にはならなかったのだろう。
渡辺満里奈 100年分のglory

 

瞑想と「禅」の区別は明らかではないが、「美しい女」であったプリンセスエリザベスはお父さんの「瞑想」によって生まれたと考えていた。
「木星とはどのような場所か」を記したのがデカルトであることから、木星人は映画「ターミネーター」のように「嵐が来るぞ」と言って地球に来たものと思われる。
木星の上らない夜はない。フランス人の夜への崇拝はものすごいね。
河合その子 パラディラタンの夜

一方、木星人の論理として「やり逃げした女」が野球場にいたら、応援もできなければプレーもできないだろう。
どうしても変化球がキレない立ち上がりがある。
あの女が見ているからだ。
そんな時には「多くの女たちにその特定の女を取り囲ませる」ことしかできない。
それが功を奏したら「立ち直る」ことができるが、女社会がうまく機能しないとノックアウトということになる。
ストライクの取れる変化球はピッチャーにとってどうしても必要だ。
しかし、「あの女」のおかげでそれもうまくいかない。
フォアボールの連発が始まる。
あるいは連打連打を食らうだろう。
やり逃げした「特定の女」の研究を代数学といい、その女からの攻撃を守る「女サークル」の研究を幾何学という。
「四人の女サークル」の味方がいれば、特定の女は怖くない。
席の移動もカネで何とかしてくれる。
しかし、「どの女が変化球のキレを邪魔しているのか?」の特定は難しい。
初回を凌いだのならば、すぐに特定して幾何学を動かさなければならない。
「勝つための同調行動」だけでは女たちは動いてはいない。
やり逃げされた女への「それってひどくない?」という共感の声もあったのだ。
このことから、「立ち上がり」を見て、ベンチワークが動き始める。
クライマックスシリーズみたいにいつも「3億円」あればいいんだけど、そういうわけではない。
「それってひどくない?」という女集団に何か言われたら終わりだ。
CoCo 夢だけ見てる

キスしただけなら自慢になる。胸を揉んだら俺は凡人になる。セックスしたら思い出してマスターベーションできる。子供を産ませたら反則だ。胸を揉んだらメディアに取り上げられる。セックスしたら噂になる。キスしたら有名になれる。独身時代を終えたら孤独だけがある。
「女の数だけ」名球界に近づくのは事実であるが、そのことから自分を守る「幾何学」を動かさなければならない。
裁判所に「接近禁止命令」を出させたらメディアは大喜びだ。
いかに「幾何学」を動かすおカネを使うかが重要だ。
男たちが動けば女たちも動く。
どうしても「客席の視線」と目が合ってしまうことがある。
あるいは「客の反応」を見てしまうことがある。
そんな時に「やり逃げした女」と目が合うと、「レーザーポインターで妨害してくる」などと試合を止めてしまう投手もいる。
心の骨が折れる瞬間が見える。吉井

俺の「幾何学」(女サークル)を知っている連中はごくわずかだ。
チームとして連携できるわけでもない。
ベンチワークといっても、本当のスタッフにはすべて秘密なのだ。
結局は、労働基準法上の労働者ではないのだ。
ストライクが入らないのならば、このような理由が指摘できる。
あんまりないよね。この充実感。今永

ニュートンが「月とタケコプター」に気がつくまでは「数学」とはこのような学問であった。
デカルトが木星人かどうかはともかく、「四人の女」に注目していたのは事実であり、「やり逃げした女」と目が合ってガックリうなだれる男の現象を「フリーフォール」と呼んだ。
才能のある男たちだ。
ベンチの側も「助けてあげること」はできなくても「フリーフォール」には敏感にならなければならない。
男の「腰」は一度動き始めたら止まらない。ましてやハイスピードで動くアスリートならばなおさらだ。
キスから胸に行ったらどこに「飛ぶ」かは分からないよ。
AからBにいく「速さ」が問題なのであって、B'なんてどこに飛ぶか分かるものか。
渡辺美奈代 Too adult

一方で、「やり逃げした女」をその日のうちに呼び出して「騎上位」をやるとおカネがかからないという指摘もある。
幾何学とは異なる「物理学」からの答えであった。
木星人の仕事は「正しい神」と「恋に詳しい」ことで四人の女を統制することにあった。
CoCo 小さな一歩で

第三夫人・第四夫人といっても必ずしも夫と肉体関係を結ぶわけではなく、夫を守るための活動のためにいた。
それ以上の女はおカネが割に合わないし、そもそも必要がなかったのだ。
そもそも「夫人」といっても、いろんな思惑があり、みんなが自分が正しいと考えていて、夫のために集まりを開く存在に過ぎず、そこで夫は「自分の見識」を語るだけだった。
「ストーカー女に付きまとわれている」といっても警察に通報したのではNHKに「やり逃げした女」の存在を知られるだけだ。
そんな時に「四人の女」を活用するのだ。
平時においては「やり逃げしたこと」を四人の「夫人」に責められるかも知れないが、プロ野球などの「有事」においては夫人たちの動きが違う。
まあ、プロ野球選手ともなると、「四人の夫人」「四人の女」に自分の見識を語る機会は公的機関も含めてけっこうあるため、いかに「人柄」を受け入れてもらうかが大事だ。
「有事」がないのであれば、そもそも木星人である必要もない。
地球人として生きればいい。
母親に「女に少数派などない」といっておカネを流せば「四人の女」など簡単に集めてくる。
この時の「集会」で「われ思うゆえに我あり」というような見識を語らなければならない。
このような「有事のためのインフラ」の存在さえ分かっていれば、「やり逃げした女」に怯えなくてすむ。
「生きるとはどういうことか、繁栄するとはどういうことかの立証責任は男(私)にある」ということを明確にし、母親に「あなたは生まれてきてよかった」と言ってもらう必要がある。
さらに、妹には「この人は楊貴妃のような人で、”お兄ちゃん、家で起きていること男にも知らない”といわれると人生の宿題になってしまう」という発言をし、妹を褒める必要がある。
フレッツ光 CM

まるで、文書・会計・庶務の「官房三課」が女四人でまかなえるようだった。
どの女も「男」に恋をしていた。
あとは「仕事をするだけ」だろう。
このような「デカルトサークル」が、国費によってまかなわれているのが福祉の現場だ。
この「やり逃げした女」とピッチャー心理はビッグマネーのかかった「おカネとは何か?」というもののたとえであり、どの世界でも通用するものだ。

デカルトは「いじめっ子」(肉)に「いじめばかりやっているとちんちんが勃たなくなるぞ」と指摘している。
女二人は「勃つ男」を目的に争っていたのだ。
Wink 愛が止まらない

また、娘ができた時に「逸脱について」という本を書いている。
デカルトの、代表作は「瞑想」であるが、「逸脱について」という本も娘への愛にあふれたものだった。
娘は早くに亡くしている。
rebecca when a woman loves a man

女二人に男一人という構図は、「アイデア」とも「名目」とも呼ばれ、常に経済をリードしてきた。
平和的な構図がまず指摘された。
ribbon 真夏のフェミニスト
その後、かなり競争的な構図が生まれた。
高井麻巳子 こわれかけたピアノ
最後に「女のからだ比べ」「名目」「アイデア」は決着がつく。
杏里 悲しみがとまらない

鏡を見て自分の裸体を見てマスターベーションしたことのある人はいるだろうか?
ソクラテスは「モテる俺」を鏡で見てマスターベーションしている。
男が男を崇拝するの世界が「神を信じること」ならば、少なくとも私はソクラテスの境地には至っていない。
「私を崇拝しろ」という男がもしいたのならば「鏡を見てマスターベーションできますか?」と聞いてみるといい。
自分のケツの穴がどうなろうと知らないがね。
神になるというのはそれほど難しいことなのだ。
思春期の頃の話は覚えていないが、「鏡を見てマスターベーションする」というのは「神のシンプル化」に非常に有意義だ。
このような原体験は「タバコを吸うだけでどんな問題も論文から解き明かす」文化人を生み出す。
少なくとも「神を信じる」「上達を信じる」男にはなるだろう。
歳をとってまでやろうとは思わないが。
ちんちんがついている証拠を見せるためにも必要だろう。
口先だけの卑怯者との違いはこれだけだよ。
工藤静香 証拠をみせて

「男が男を崇拝する」
それが「神」だとするのならば、思春期に「鏡の前で自分の姿を見てマスターベーションをする」という原体験は、自らの人生の快楽を「孤独」のまま自己完結させ、つまりは「文化人」になるとされる。
しかし、男の子でも女の子でも「恋に臆病になる」という指摘は可能だ。
私もそのような原体験をもっているが、「他者に介入して欲しくない」世界というものが出来上がる。
文化人でも国際人でも同様のことが言える。
森高千里 勉強の歌
そのような男は「この完璧な生き物を見よ」と言って肉体を鍛え、みずからを平気で「歴史という名の法廷」に差し出そうとするだろう。
サラブレッドも「毛並みを整える」「自分は美しいと思わせる」「人間の言葉を理解している」「鏡の前でマスターベーションさせる」などしないと「鬱になるほどの調教」には耐えられない。
この「鏡を見て自分の姿でマスターベーションする」という原体験は、イエスキリストと名のつく男たちの伝統であり、アクィナスもそのような経験を持っていた。
コペルニクスが「自画像」というものを考えた。
オンエアされている「自分」を見てマスターベーションをした女は「夫とのセックス」にも感じない。
そのため「どうやって幸せになっていいのか分からない」と言った。
遠野なぎこ

女は夢で「理想の男」を夢見る。
「誰か、テレビに出ている私を犯して?」
そんな私は「イエスさま」を信じなければ、まともな結婚生活も営めないでしょう。
芸能界ができたのはヨーロッパでは11世期だっただろうか。
「イエスさま」が女たちの間で浸透し始めたのだ。
初体験の相手もたぶんイエスさまだったと思う。
アイドルの心はもう限界だった。
男の言葉から「真実」を見つけるのが上手くなった。
言葉はおちんちんのためにあった。
アイドルの女は「言葉のプライシング(値段の付け方)」が上手くなっていたし、これで生活していけるというような「男の言葉」を探していた。
白いパラソル 松田聖子

また、「鏡を見てマスターベーションをする」という原体験が性概念の確立と同時期になされると、
「世界の女は俺を愛すべきだ」という考えにつながり、また、「鏡」とテレビのモニターの区別がつかず、
「芸能人と結婚したい」と考えるようになる。
高校時代に「黒ずくめの服」を好んだり、青いライターにこだわったりするようになる。
黒ずくめの服は、一昔前の神社での「参拝客のお年寄り」の姿であったし、性概念が確立する時期の原体験から「自分がイエスとして国を支えなければならない」という思いが先人にはあったものと思われる。
アマテラスってなんだ?
「女として最高の存在、と位置付けられる」ものだ。
着ている服は男と真逆の白であった。
Melody いちばん好きといって

デカルトのいう「瞑想」とは、禅とはまったく異なるではないか?
美女を思い浮かべて禅を組むと美男美女が生まれるという禅の教えとは異なり、「自分の姿を鏡で見ながらマスターベーションをする」というのが瞑想(メディテーション)か?
子供たちが瞑想するだけで国民の生活が楽になるんだってね。
教育費がかからないとか、いろんなカラクリはあるだろうけどとにかく生活が楽になるのだ。
子供達の間で噂が広まるのは早かったし、子供たちの「いろんな病気」が克服されるのを国は観測した。
ジェームズボンドフリークなどという噂とともに「あの男が何者か?」を周囲は知った。
a view to a kill

今はもうなくなっているが、代々木ゼミナール横浜校には、かつては5000人の受験生が集まっていたのだ。
講義の後の駅までの「行軍」はまるで軍隊のようだったし、誰も一言も口を聞かなかった。
黙々と集団で「歩いた」のだ。
あの中で打ち合いを制したのが小野光太郎であり、その秘密は「瞑想」にあった。
どの男たちも「勝つためのヒント」を考えていたが、「自分の姿を見ながらマスターベーションしたことがある」という強烈な自己愛が最後にモノを言った。
子供たちが自ら「上達」を好むようになり、勉強やスポーツに励むようになり、つまりは「信仰心」をもつようになるということは、どれほど親を楽にさせるだろうか?
これがそのまま「国民生活の楽」につながるのだ。
NHKで「シルクロード」が放送されているが、漢王朝はソクラテスの「原体験」を知るためだけに、ラクダに乗って旅をしたのだ。
パルミラには中央通りに列柱が立てられ、この「ヨーロッパの秘密」をまるで奥義の如くに守った。
今の日本国では「なんでもあり」だが、各自が「譲れないもの」を持っていた。
デカルトが死んだら忘れ去られるだろうとされた「瞑想」であるが、今は「令和天皇が死んだら忘れ去られるだろう」とされている。
「神の意思は我にあり」
そのような恐ろしい高校生だった。
女子たちもお年頃になると「パンとセックス、男の邪魔」のためならば己を犠牲にするようになる。
「5000人の行軍」の中をこのような「女の都合」が襲いかかった。
文一合格者として名前が掲示されたのは5名程度だった。
松田聖子 赤いスイートピー

松田聖子と中森明菜から「今度の土曜日にお父さんが香港に行くの」という言葉の意味を吟味しろと言ったのが本稿であるが、月を越すのが楽だったというイメージを私は持ち、他の国民はどうだったのかな?と思ったら連休明けに株価が急騰した。
松田聖子と中森明菜を聞くことは脳の左側に良い影響を与え、さらには「左腕」を楽にする。
しかし、人間の本当の「性欲」は、脳の真ん中の松果体が発信源である。
左腕が楽になったというのは「左を制するものは世界を制する」といえことに由来するものだが、松果体つまり性欲を満たすのは、いろんな意味でトラブルの元であるが、生活が楽になったのならば次に人間が目指し始めるのが性欲を満たすことである。
つまり「脳の真ん中」を狙い始めるのだ。
渡辺美奈代 ちょっとフォーリンラブ

円は高くはなってはいない。
つまり、「企業の営業努力」のおかげで「生活が楽になった」わけではない。
あくまでも松田聖子と中森明菜を発信した私の手腕によるものという側面が強い。
円が高くなれば、私のブログの読者も「腕を上げた」といえことになるだろうが、まだまだそのレベルにはない。
松果体を最終的には狙っているが、人間の動物的側面(食べる・セックスする)を満たすためにおカネを用いるのだ。
松田聖子と中森明菜を聞く、つまり「脳の左側から攻めろ」というのは本当の人間の欲望を満たす上で覚えておいた方がいい。
芸能人の女は「テレビに出ている私を犯して?」と思っている。
一方、瞑想を経験した男の子は「テレビに出ている女」を夢で犯すだろう。
若者の「贅沢」とはこのようなところから来るのだ。

さて、英語の論文においては「禅」のことも「瞑想」(メディテーション)と書いてある。 シルクロードを経てソクラテスを学習した漢王朝はとうとう「禅」を完成させたのだ。 只管打坐にせよ、公案にせよ、「女」=エネルギーのジェネレーターのことを考えなければ集中できない、気力がもたないのが「禅」であり、その効果として、 「夢で憧れの女性とセックスする夢を見る」 「子供が美男美女になる」 「娘の恋愛について親として考える」 などが指摘できる。 私は、東大受験の時は、常に酒井法子のCDのジャケ写を目の前に飾っていたし、そのこと自体が「禅」であったのだろう。 禅をやると体調がいい。 なにしろ「私は子孫を残せないのかな?私は動物なのかな?」という考えが精神病の原因だったからだ。 いい女と寝た気分がするからいじめはやめようかな?と考える者もいた。 呼吸法はヨガを参考にした。 呼吸を数えてみたら1分間に16回から17回、鼻で呼吸していた。 禅を理解していない東大合格者はいないとも言われている。 しかし、女を「口説く学問が哲学であるとするのならば、テレビに出ている女のことを瞑想するのは「反哲学」とも呼ばれた。 効果は確かに「多幸感」のようなものはあった。 しかし、目を閉じると「邪魔者」はいなくなった(ふたつではない)。 我々は「目の前の邪魔者」を退けるために「女の話」していたのではなかったのか? 禅には強烈な「私」だけがあり、知識を学習する上では、机に向かって「自分だけの世界」に閉じこもることが学習のためには必要だった。 目の前の酒井法子のジャケ写のことを忘れるような集中力を見せた時に学習効果は上がった。 そこには無があり、時間と空間がなくなった時に知識が頭に入ってきた。 私はウォークマンを聴きながら勉強していたが、知識を得る時は「音も聞こえなかった、無」の状態だったのだろう。 「見ること」 これが禅であった。

2019年10月24日 (木)

宮内庁廃止について。

台風の被害の報道を拝見して、被災者は「あんがいのんびりしている」ことに気がついた。
行政組織というのは「その問題を考えるのは疲れる」「情報発信して欲しい」という二つのニーズから作られるが、住宅や農業に関してはわが国が戦争を経験していることから、組織が完璧に出来上がっている。
「いざ」となったときの備えが整っているから、被災者が「あんがいのんびりしている」のである。
さて、それでは、戦争の問題は「考えるのが疲れる」「情報発信して欲しい」と国民の皆さんは思うだろう。
それに関しては、私個人が、すでにこの二つを行っている。
宮内庁はやれ「高貴」だの「子供がどうした」だの「陰湿ないじめ」がどうだのときわめて平和ボケしている。
このことから宮内庁を廃止して「法王庁」を作ろうかと考えている。
もちろん、新組織を立ち上げても「職場の同僚や上司も同じ、仕事も同じ」であり、「令和天皇の写真が飾られるだけ」の違いしかないのが、組織再編の実態であるが、少なくとも、「秋篠宮」だの「上皇・上皇后」だのなんだの(雅子だの徳仁だの)という胡散臭い要素は一掃できる。

そのため、宮内庁の廃止を私は国民の皆さんに支持を訴えかけたいのだ。
法王庁はもはや「株や為替すらコントロールする力量がある」という意思表示でもある。

 

小野光太郎、父親宛てメール。

お父さんへ。 お父さんは小野鐡之助の本である「老人はホラを吹け」において「台風を撃退できる」という趣旨の発言を読んだことはありませんか? 実は、日本の宗教史を調べてみると、貝原益軒以前の宗教団体を「既存の宗教団体」と呼び、南朝の「シーズン制のスポーツ」(陽明学)、定期的に行われるテスト(朱子学)が季節を生み出すとされ、アジア地域はそもそも「気温のないエリア」であり、人間が100%温度を作り出しているとしていたのです。 このことから、お父さんの青年時代の手紙に「退屈すぎて台風でも来ないかなと思っています」と両親(鐡之助・道子)にあてた手紙で記してあることから、鐡之助が、「いざとなったらホラー映画、国会中継、水墨画、鉄道の旅、渓流釣り」などの番組を放送して台風を逸らしていたのでないか?と考えたのです。 お父さんの記憶にはもうないでしょうが、当時の手紙は「両親へのお世辞」が含まれていたものと思われます。 この「台風が撃退できる」という儒学の立場に立つのが南朝であり、美男美女が多い方がいいという臨済宗の立場に立つのが北朝です。 どちらにも一理ありますが、組織においては「有事に強い」ことこそが出世のためには必要であり、南朝正統説は、明治時代以来の日本の伝統になっています。 そこで、満州某重大事件(張作霖爆殺事件)についてですが、台風を撃退できると大見得を切った昭和天皇に対して、河本大作中尉は、「麻雀をやりながら、台風の被害と見せかけて鉄道を爆破する」という暴挙に出て、田中義一(当時63歳)は、昭和天皇(当時27歳)を激怒させています。 「台風の被害かと思ったら話が違うではないか?」 それは、まさに今の僕の心境でして、NHKが、死者は出していないものの、鉄道の断線を報じたのも「爆破したのではないか?」と疑ってみています。 満洲某重大事件の真実は「日本の宗教史を理解しなければ分からない」ことから歴史学者の試金石となっています。 また、足利尊氏と夢窓疎石が「美男美女について語り合った」という小説を書いた者が、戦時中に、政界で糾弾されています。 修羅場においては、日本国は常に南朝正統説の立場であり、平時になると「なんであんなことを問題にしたのか?」という状態になります。 これらを踏まえると、「新興宗教」とは貝原益軒以降の宗教団体を言います。 台風を撃退できるという天皇を「鬼神」(きじん)と言いまして、今回の台風19号では、僕が「台風を撃退する」と言って孤軍奮闘したらメディアが一斉に「甚大な被害」を報じたのです。 この台風19号は、日本の宗教史を僕に学習させるのには十分すぎました。 小野鐡之助の境地を経験したと思って喜んだのですが、東京電力は容赦なく「停電」という攻撃をしてきました。 お父さんが「こっちはなんともなかったな」というのは国民全員が思っていることだと思います。

2019年10月22日 (火)

キャッシュレス化の本当の意味。

株式会社ネットプロテクション宛てメール。

喜多慎一郎さん宛て。
喜多さん、これを見てください。
株と為替の値動き この株と為替の動きから、株価が「女の値段」であり為替(円高)が日本国の男の値段だということがわかります。
そこで、株価が下落気配の「赤」を示したら「女が電話を欲しがっている」ことを意味し、円高気配(為替も赤)ならば、この電話の相手は「男」であることを示しています。
このことを「男から女へ」(BtoC)と呼びます。
あるいは、為替が緑であり株が赤の時は「女同士で電話のやりとりをしている」というCtoCを意味します。
さらに、時間は短いですが、株価が緑で、為替が赤の時は「男同士の業務連絡」(BtoB)がなされています。
これらを正確に国民に理解してもらい「同調行動をとってもらう」ことが、「取引先との電話」において必要であり、キャッシュは株と為替の取引でどうにでもなります。
喜多さんが行っている仕事は、まさに国民レベルで株式市場・為替市場を利用したキャッシュレス化のビジネスであり、その仕事は「男が電話を欲しがっている時」「女が電話を欲しがっている時」の周知徹底にあります。
ようするに「NHKや民放各社を利用した広報活動」が仕事となります。
大事なのは「その議論への版権を持つ」ということであり、私は以下の版権を持っています。
取引先と商品のやり取りを行い、決済は株式市場・為替市場に委ねる、これが株式会社ネットプロテクションさまの仕事ではないでしょうか?
大事なのは「国民にBtoB、BtoC、CtoCの同調行動を取らせるということ」であり、そのことへの版権を握っておくことです。
現在は、私が「ビジネスのキャッシュレス化」「電話だけで済ませる」「株と為替に資金の裏付けを求める」という版権を握っていますが、是非、今後、私もビジネスパートナーに加えていただけませんでしょうか?
10月21日(月)

さて、BtoB、CtoC、BtoCの意味を明らかにさせていただきましたが、女性や男性にとって「利益」とは「異性の友達がいる」ということなのです。
このことから「わが社と契約を結ぶ」とは株式をお互いに発行し合うことであり、それを「電話」だけで負債の部を増やしていき、総資産としての資本の部に良い影響を与えていくことが「仕事」となります。
「決済とは異なる企業間で電話と株式、為替で行うものである」ということを理解する必要があり、CtoCである女性社員同士の噂話の交換や、BtoCの時間帯における異性間の「利益を与え合う時間帯」などを株と為替の値動きを見ながら行っていくのです。
時にはBtoBの時間帯に男同士で「女の口説き方」に関する情報交換を行っていく必要があります。
すべては「わが社と契約を結ぶ」「株式の持ち合い」と、利益とは異性の友達を持つことであるということを理解することから始まります。

「取引先を決める」ことそのものが、ヒュームの言う「リーガルマインド」、アダムスミスの言う「完全探求者」、シジウィックのいう「普遍的な見方」ができる連中、つまり「人としての柔らかさ」を判断しています。
「コイツならば株価に貢献できるな」というのは、全体主義を経験した上で、ナチズムへの批判能力をもてるようになっていることを意味します。
つまりは「文学者」なのです。
組織内部では、上司の悪口を言うことは人気があっても、取引先がそれに便乗して「切り崩し」を図ることは禁じ手とされており、特に、宗教団体は教祖の悪口を言うことは「組織防衛」の観点から「聞かなかったことにする」ようにしています。
他社に対して脆弱さを見せてはならない、そのような考えがあるのです。
職場の「ルールの学習」をする以前の、野合の段階であるのならば、みんな「トップの悪口は大好物」となりますが、トップが変わり組織がなくなれば人生は終わりと考える連中は、決して、他社に寛大ではありません。
取引先は決して「野合」であってはならず、トップが変わっても存続できるものでなければなりません。
自分の彼女を守るために、人は「教義」「教団」「マイルール」を押し通そうとします。
その時だけは「本性が見えた」とみんな思うのです。
「教義」「教団」「マイルール」が「リーガルマインド」「完全探求者」「普遍的な見方」でなければ取引先などないといってもいいでしょう。
スマートホンの契約の際に、なんだか客を見てニヤニヤしている社員はいなかっただろうか?
「教義」「教団」「マイルール」が、頑なであるのならば取引先はないし、料金のボッタクリもひどい。
これが「キャッシュレス化の敵」といってもかまいません。
わが国は、若者は全体主義的に動き、大人になったら寛大になるという文学を持っており、それに対して心を閉ざしたのでは、とてもではないですが、異なる企業の男性社員同士のBtoBは成立しません。
急進的な組織ほど、ボッタックリが横行しやすいのです。
営業の成績をグラフにして競い合っているうちはまだあまい。
「教義」「教団」「マイルール」が、彼女を守るためにあることを踏まえると、そうとう社長が柔らかくなければなりません。
「教義」「教団」「マイルール」の学習が難しすぎてはなりません。
社長がいろんな意味で「痛い」「苦しい」立場なのは分かります。
しかし、これはやりすぎだ。
社長とじゃんけん
いくらスマートホンが「いいもの」であっても、会社と客はかなり「対象的」なものに近づけなければならないし、このあたりの「説明義務」「適合義務」をどれほどなくしていくかが重要となります。
一度「失業」を経験してみるのも人間を練るのにはいいものです。
「正しい神」「恋への詳しさ」を証明する場は芸能界にしかないからです。
一度「就職」という名の「思考停止状態」から自由になる必要があります。
「無知のヴェール」を経験しない「信者」は必ず、企業にとってのみならず、取引先や顧客にまで害をもたらすのです。
誰もが「カラオケ」には行きますが、「恋への詳しさ」を深く語れる人こそが「リーガルマインド」「完全探求者」「普遍的な見方」を持っているのです。
これをしっかりと確認しなければ、「わが社との契約」には何のメリットもなければ、株式の持合いもキャッシュレス化にはつながりません。
永田町の「政党」がいちばんこれらの「組織論」に強く、「柔らかいおじさん」「芸能人の別名を持っている人」が多いのです。
エリートのように見える人よりも、「柔らかいおじさん」「柔らかいお兄さん」が文学者であり、芸能人です。
そうでなければ、気がついたら病院でカリカリと怒っているおじさんになってしまうだけです。
「彼女を守りたい」
それは分かります。
しかし、しっかりと「アメリカ合衆国」を理解しないと、ネクタイと背広だけ着た嫌われ者になるだけなのです。
引越しのサカイCM
全体主義とは何か?そして、ニューミュージックを主体としたスターリニズムとは何かを理解していなければ、了見の狭い「企業の屍」となります。
アウトローの連中は確かに出世はします。
しかし、「修羅場に弱い」「いざとなったら逃げ出す」存在なのです。
いざとなったら「正しい神を信じている」「恋に詳しい」というこの二つしか役に立ちません。
そのような時にまで「了見の狭さ」を見せたのでは、人間を語ったことにはならないでしょう。
男が転職する際に頼りになるのは「正しい神」「恋に詳しい」の二つ以外に公約数的存在はありません。
本来、「社会の序列が組織の序列」とも言われ、そこには「神」と「恋」以外にありませんでした。
これがキャッシュレス化の強烈な武器になります。
人間は本来どこに属していたか?
それは中学校であり高校です。
その時に、「何を見たのか?学んだのか?」がのちの人生に役に立ちます。
出世して今までの写真をすべて燃やしてしまっても、「正しい神」「恋に詳しい」という二つの財産だけはすべての人が記憶に残しています。
ジョン・ロールズが「株と為替の値動き」の仕組みを構築しましたが、その「見果てぬ夢」が「正しい神」「恋に詳しい」柔らかい社会人(無知のヴェール)を生み出すことを目的としたものなのです。
インディゴブルーラブ モーニング娘。

女は「パンとセックス、男の邪魔」のためならばとことん己を犠牲にする。
1971年に、ロールズは「ゲームならルール決めましょう」と高らかに宣言した。
ピンクのモーツァルト 松田聖子

組織というものが「男社会」であるため、女は「言いたいこと」をたくさん抱えており、話を聞いてもらえるだけで優しくなれた。
しかし、サブドメイン(女心を率直に表現したもの)は、男(神学)がなければ芸術にはならないではないかと指摘された。
女が「イエスさま」を語る理由もここにある。
レインボーピンク

「パンとセックス、男の邪魔」のためならばとことん己を犠牲にするというのが女だとするのならば、奴隷制や「裁判を経ていない収監」がどれほど権力者の地位を危うくするであろうか?
女性職員は普通に外に出ているのだ。
奴隷扱いされている男や、収監されている男に「イエスの陰」が見えた瞬間、権力者はその地位を奪われるだろう。
サブドメインは「理想の男」を常に求めている。
奴隷であろうと収監された男であろうとだ。
老人も若者も「男らしくある」のがサブドメインのニーズであり、これを理解しない法律は社会を混乱させるだろう。
社会が「刑務所」であるのならば社会の混乱は収まらないのだ。
サブドメインを持った女性職員が「社会の多数派」でないと思うだろうか?
「社会が彼の声を聞きたがっている」時に女性職員は何を語るであろうか?
イエスさまへの女性たちの声援は尋常ではない。
ましてや、「イエスさまに似た境遇」に当てはまってしまうと女たちは止まらないのだ。
聖書は世界一のベストセラーを誇る本だ。
当然、奴隷扱いされた男、裁判を経ずに収監された男の魅力を最大限に描いている。
サブドメインのモジュールはたちまち「処女ネットワーク」に伝わるだろう。
私が「収監」されている間に、「何を考えているのか?」が憶測を呼び、日経平均株価は9千円台から1万6千円台にまで達している。
私が解放されてから、肉声を公表し、さらに金額を積み上げたことは「人々の期待をはるかに上回った」ということに胸を張りたい。
リベラルというのは決して「性に奔放」という意味ではない。
奴隷扱いされている男、裁判を経ずに収監されている男に「女性職員が直に接する機会のある社会」という意味である。
最初に「女心の探求」(政治)を行うこと、そして次に、「女を愛すること」(経済)がなければ、女性職員は男を「イエスさま」とは考えないだろう。
ロールズは「リベラルな社会こそが貧困層をなくす」と考えていた。
それも、サブドメインのモジュールと処女ネットワークを念頭においていたからだ。
高橋由美子 だけどI Love you

どの女性職員も、サブドメインのモジュールは女子高生のままだったため、処女たちに「イエスさまとはどんな人か?」が伝わった。
「政治から入れ、経済はその次」
これは理解しておいたほうがいい。
どの女も見ていない場所でかっこつけたがる男はいない。
かならず、リベラルな国においては「政治から入れ、経済はその次」があなたの政治生命を救うだろう。
さらに「処女ネットワークは国境を越える」ということも理解しておかなければならない。
イエスさまとは「寛大な人」という意味である。
エリエリレマサバタクニ。
とにかく「寛大さ」がなければいかなる国の指導者も務まらないだろう。

令和天皇が即位して、即位の礼の翌日には「彼は足腰が立たなくなるほどの熾烈な権力闘争を終えていた」ことを家を訪問した女性が目の当たりにした。
この時に、男たちは「権力闘争とは何か?」を自分のこととして引き受け、民族の象徴としてのキャリアを令和天皇は始めた。
とにかく「即位の礼」に至るプロセスをみんなが振り返ったのだ。
この日、この時、令和天皇は足腰が立たなくなり、女性に支えられるようにして歩いた。
彼の業績の数々が報道されたが、その「実態」の方に人々の関心は集まっていた。
これが、権力闘争にともなう「善悪の彼岸」と呼ばれるものであり、華々しい業績を見るのか、その実態に迫ろうという立場に立つのかの見解が分かれた。
国内史上稀に見る権力闘争の実態を目の当たりにしたのがモルモン教である。
どの男も「仕事とは何か?頂点に登り詰めるとは何か?」を学習したし、足腰の立たなくなったおっさんの話しを鹿爪らしく話していた。
即位の礼を経験し、華々しい業績のオンエアとは裏腹に、磔になっていた男は、もはや「仕事をする上での男たちの友人」であった。
わが国にはまだ「宗教」は到来していなかったのか?
足腰の立たなくなった令和天皇は、「大腿骨を骨折していた」などと尾ひれがついて伝わったが、偉大な業績とその実像は、人々を「恋の原点」に回帰させるのに十分すぎた。
Duran Duran the reflex

即位の礼の実態に調査団を派遣した医療施設(モルモン教)と、その華々しい業績に恐れをなして「こんなに雨が降ったのは前代未聞だ」と令和天皇を批判するメディアには温度差があった。
しかし、いずれにせよ、男女が「中学高校時代の恋の原点」に回帰して行ったことは、令和天皇が今後執筆活動を行うための巨大な資産となった。
モルモン教は「権力闘争とは何か?」を今後の仕事のエネルギーにしていたし、「磔とは何か?」に詳しかった。
イエスキリストの影響力を封じ込めようというメディアは、もっと将来を見ていたし、そのあたりが「善悪の悲願」(ニーチェ)に記されている。
少なくとも、モルモン教は「俺たちはイエスの友達」を標榜していた。
ドクターノオ 007

「王子とは何か?」はホッブスが明らかにしていたし、「女の口説き方」はカントが語っていた。教育学はルソーの専門だった。
それらを全部読んでみても「女に詳しい王子」ができるだけであるし、その王子が、権力闘争に打ち勝った物語が「善悪の彼岸」である。
「俺たちはどこに向かおうとしているのか?」
それは新天皇が即位してみなければ「どこに向かおうとしているのか?」は明らかにはならないし、その実態が「足腰が立たなくなった」のならば男たちは深刻な表情をした。
ジェラルド・ガウスは「新天皇のその後の人生は人々を惹きつけたよ」と楽観論を示した。
MI6(メディア)は今後、ドクターノオ(小野)への攻撃を強めるだろうが、その牙城は確実に築かれていた。

政府は純粋に「権力とはどこから来るのか」が明らかになったことを喜んでいた。
男たちも「イエスの友達」ならば「女の子に優しくすればモテる」ことを学習した。
恋のパズルが解けたのだ。
私は知恵の輪 うしろゆびさされ組

「イエスの友達は紳士が多い」と噂になった。
女たちも「イエスの友達は情報が違う」と考えたし、女を知ることと権力闘争の真実を知ることは最高の教育だった。
世の中のみんなが「納得できないこと」ばかりだった。
その中で「即位の礼」を強行することは、このような「善悪の彼岸」を生み出していたのだ。
どこでもドアだかタケコプターだか知らないが、人々に「物事を強制する」というのはそのようなものだった。
いずれにせよ、即位の礼の日は祝日になったし、どっち側につこうがみんながそれなりに仲間ができた。
ガウスは「こういうことは実は男ならばみんなやってみたいんだよ」と語った。
「人に物事を強制するとはどのようなことか」
それを悟った権力者の気持ちを知ったのだ。
どの男も「押し通したい主張」があった。
それでも、「イエスの友達」であることしかできないのだ。
「俺の主張を押し通したら、俺は大腿骨をへし折られるのかな?」
それをまず理解した。
「今の俺ならばなんでもできる」などとはもはや誰も思っていなかった。
かつての「タンポポ」のメンバーも、昔歌った「王子さま」のその後を目の当たりにして、もはや遠い目をしていた。
王子様と雪の夜 タンポポ

とにかく、日本国が「キャッシュレス化」されたのならば、一ドル=107円あたりの円高で「円がドルやポンドに勝った」とされていることも踏まえ、外国に行ったら「あいつの懐には円がうなってやがる」と言われるようになる。
つまりは「膨張圧力が高まる」のである。
日本国内における「宗教」が外国に通用するようになれば、日本国で十字を切る外国人に怯えるという外国の「膨張圧力」に勝てるようになるのだ。
チャーチやチャペルに行くほうがファッショナブルなのか、神社仏閣に行くほうがファッショナブルなのかが膨張圧力の問題だ。
少なくとも、私は1980年代に「神道」というものはアメリカでも知られていたが、「初詣に行く程度」と説明していた。
「敬虔さ」において劣るのならば膨張圧力はないといっていい。
日本国は対外的に膨張を始めるのは北方領土からである。
それもすべて、国内における宗教のあり方を見ていくしかないのだ。

中国残留孤児援護基金へのメール。 
こんにちは、神奈川県に住んでいる小野光太郎と申します。
米中貿易摩擦についてですが、私が思い出すのは1980年代の日米貿易摩擦の問題でした。
あの時、レーガン大統領は「日本人の女の子を交換留学生としてよこせ」と言い、私を含めた男子メンバー5名と、女の子16名がアメリカに交換留学生として送られています。
アメリカに行った日本人の女の子は「たったの16名」でありながら、アメリカ人男性とセックスすることによって、日米貿易摩擦の問題を解消しています。
そこで、現在の米中貿易摩擦についてですが、中国人の女の子がアメリカの大学に留学する事例は知られているものの、なぜ、アメリカ合衆国は、中国に交換留学生の女の子を送らないのかが問題になります。
アメリカ合衆国のメジャースポーツは陽明学であるし、高校は朱子学にもとづいて運営されています。
ニューオリンズのハリケーンをなくすのも儒学にしたがうしかありません。
中国としても、もっと「アメリカ人の女の子の中国の高校への受け入れ」を進める方向を模索したほうがいいのではないでしょうか。
今、中国の政府首脳は「日本派」を遠ざけようとしていますが、日本派の中国人ほど「大きな仕事」をしたがっています。
「日米貿易摩擦は、日本がアメリカに女の子を交換留学生として送ることで解決した」ということを米中でよく話し合わなければなりません。
アメリカ人の女子高生にとって「中国の高校」とはそれほど魅力のないものなのでしょうか?
これが私の考えです。
10月26日
鈴木亜美 Our days

 

さて、ロールズは「アメリカ人の女の子にいちから中国語を教える」というあまりにも面倒な「いつもの方法」を提示してきた。
「国際」というものをよく理解していたからである。
「恋をしたい年頃のアメリカ人の女の子」が果たしてそのような時期に中国に来るだろうか?
アメリカの恋愛論や、資金のばら撒き方、芸能界に慣れた女の子に「中国」はどのように映るだろうか。
中国は「近代化」において日本に多くのことを学んだ。
中国には「5G」があるではないか?
しかし、「貧困」があれば交換留学生など受け入れる土台はない。
「香港は治安が悪いらしい」という情報もはいってきた。
せめて香港ならば溶け込めそうという女の子の考えはここで封じ込められた。
WTOの考えはとにかく「国境の壁を高く」することだった。
中国国内で強権的な政治がまかり通っていても、外国には波及しない。
どの女の子も「この空気ならば全米と同じね」と考えている。
どの国も、国内に部落問題などの「負の側面」は抱えている。
習近平は、自らを「新毛沢東主義」と称し、あらゆる問題をクリアーしようとしているのだ。
「恋に富の起源を求める」
これが毛沢東の考えであるのならば、そこに「アメリカ人の女の子」を受け入れる土壌はあるのだろうか?
どの国も「アメリカ合衆国に対して心を開きたい」とは考えていた。
ヨーロッパが、アメリカ合衆国に「太平洋ではなく大西洋を見てくれ」と主張してくることもある。
「関税の問題ではない」
それはアメリカ合衆国の政府首脳はみな同じ考えだった。
アメリカの文化に慣れ親しんだ女の子を、中国に高校の交換留学生として送り出せるのか?体を中国人に委ねることはできるのか?
人権の「アメリカ並み」が達成できるのかが問われているのだ。
Woman from Tokyo

そうは言っても、アメリカ人の女の子は、中国の高校に交換留学生としてやってきて「体を売りにきました」とは言えないだろう。
中国には中国の「プロポーズを頂点とする全体主義」が存在するのだ。
政治(女心を語ること)はいつも「女の子に押し付ける」ものである。
つまりは、「自分の心」を学習するものだ。
中国の「政治」を学習する前にどのアメリカ人の女の子もセックスすることになるだろう。
言語により口説かれて「祝福」に脳がアクセスすることは高校生には無理だろうとロールズは考えていた。
ようするに「私を中国に導いた指導者・言語」と社会契約を結んで欲しいだけなのだ。
アメリカ合衆国に「女性の対中専門家」は果たしているのだろうか?
「言語」ができないのにその国の専門家になることはできない。
中国の「プロポーズを頂点とした全体主義」を理解しなければならないのだ。
中国に多く存在する「イエスキリストのような奴隷男」を見てくるだけでも意味がある。
アメリカ人の女の子は「中国男の熱気」を見にきただけだった。
しかし、高校生ならば「通常の外国人が見ることはできないもの」を見ることが許された。
なにしろ「就学ビザ」だったからだ。
「女であること」「口説かれること」は当然であるが、清華大学に「27名のアメリカ政府高官」を受け入れた中国が、高校という草の根までアメリカに明らかにすることを意味する。
また、アメリカ人女子高生の「文化」をよく理解したアメリカ人男子高校生が何人かついてくるが、後にどんな役に立つかは分からない。
少なくとも「一党独裁」=ポピュリズムとは何か?は男の子の方が学習するだろう。
「パンとセックスと男の邪魔」という女の子の楽しみは理解するはずだ。
高校時代に中国人の女の子でマスターベーションしなければ、本当の「対中専門家」にはなれない。
むしろ、寡黙なアメリカ人の男の子(奴隷)こそが、トランプレガシー、習近平レガシーを引き継ぐのかもしれない。
貿易摩擦というものは「何を言っているんだこいつは?」という問題に過ぎないことがある。
長い目で「何を言っているんだ」という問題をなくしていくしかない。
今現在、米中貿易摩擦がおきているのだから、「何を言っているんだこいつは?」という問題を仕切りなおすしかないだろう。
それは、米中貿易摩擦に限らず、日本国も外交においては「若者にあまえ、女の子にあまえる」(甘えの構造)しかない。
外国国家と摩擦を起こすようであればの話であるが。
男の子が「あの女の子は中国語がうまかったな」と言ってマスターベーションしてもいいだろう。
上達というものはそういうものだからだ。
才能とはそのように育てるものであるし、「何を言っているんだこいつは?」という問題が今あるのであれば、甘えの構造を用いるしかない。
揉めるのならば「長い付き合い」を意味する。
そのための布石をまくだけでも「いいメッセージ」にはなるだろう。
中国女 YMO

二人の女に一人の男というのは、「名目」とも「アイデア」とも呼ばれる構図であり、アメリカ人の女子高生が中国の教室に来るとなると、男の子は「トランプの真似をするか」「習近平の真似をするか」が問われ、また、米中のどちらの国とも社会契約が結べ、さらには米中が対等となる。
「人が育つのを待つ」という悠長な話ではなく、あんがい即効性が認められるのが交換留学なのである。
アリストテレスはこのことをよく理解していたため、ギリシャのポリスを統一している。
子供は家庭の入り口である。
息子が、中国女とアメリカ女の二人を愛したのならば、父としてはアメリカという国とも社会契約を結ばざるを得ない。
山口百恵 絶体絶命

中国側の親としても、息子がアメリカ人の女の子にフラれないために「アメリカ式の食生活」を一度は考えるだろう。
少なくとも「アメリカ人よりも金持ち」であることはアピールしようとする。
また、親はプライベートの話を職場に持ち込む。
アメリカ人女子高生もバカにはならない話題だ。
中国語がままならないアメリカ人女子高生も、言葉が追いつかなくてもセックスしてしまう(前規範的人格態度)ということになり、「ベッドの上で中国語のレッスンか」という噂は法律まで変えてしまうのだ。
アメリカ人女子高生と中国人男子の「セックス」はそれほどまでに「人気のある」ものだ。
また、米中の異なる原則を持っている国営企業や政府の「お父さん」の存在は必ず貿易摩擦の解消に役に立つ。
また、中国人男子のタフネスさ次第では、中国人女とアメリカ人女が喧嘩を始める。
私は、日米貿易摩擦の時にアメリカにおり、「円高が止まらない」という情報と接していた。
日本にいた男子にも「アメリカ女をモノにしてやろう」という考えが生まれていたのだ。
プライベートヒロイン レベッカ

一人の男の子が動けば、他の男子にも同調行動がおきる。
芸術作品にもなる。
「何が男らしいのか?」(法律)が変われば、通貨にも影響を与える。
中国人の男子の「キックオフ」をひたすら待った。
おニャン子クラブ シーッ愛はお静かに

米中貿易摩擦のような「大きな問題」を解決したら、大人たちもとにかく「セックスが気持ちよく」なるものだ。
しかし、大きな問題を解決した人物として、セックスはあくまでもロマンティックなものであった。
アメリカ人女子高生を中国の高校に送ればいいというソリューションを考えるだけで、関係者はセックスが気持ちよくなる。
このあたりも、「解決した問題の大きさ」を考えると、子供たちの問題のみにとどまらないものがあった。
「米中貿易摩擦は交換留学生の問題である」という指摘は、かなり個人の原体験に依存したものであり、それを組織に持ち込むのは難しい。
私はこの企画をアユサインターナショナルの津久井さんに持ち込んでいる。
また、中国側のメリットのみならず、アメリカの女子高生および親御さんに「金銭的メリット」がなければこの企画は通らないだろう。
「習近平の新毛沢東主義って何?」などの興味がなければならないし、新毛沢東主義も「プロポーズを頂点とする全体主義」に立脚するものである以上、子供たちに対して非常にオープンなものである。
毛沢東ならばマイク・タイソンも刺青にしているだろう。
アメリカ合衆国の、子供を持つ親たちが「私たちの家はローマ帝国の王室」と考えているのならば、とてもではないが、娘を中国に送ることはできない。
しかし、中には「毛沢東ってものを知るのはいいことだよ?」と考える人もいるだろう。
アメリカのような食生活をしていたら世界の人口は26億人しか養えないとされるが、中国だけでも14億人いる。
私がアメリカに留学した時は「カツ丼」が食べたくて仕方がなかったが、アメリカ人が中国に行くのならばそんなものではすまないかもしれない。
日米間では大して問題にならなかったことが、米中間では問題になることもあるだろう。
今後もこの問題には注目していきたい。

そもそも、「群れのボス」とはどのように決まるか?
答えは「暴力を使うこと」にある。
しかし、「なにか大きな力」が作用する大きな政府においては「女の子を口説くのがうまい」人がリーダーになっている。
電話でね 高橋愛

何かあったら「殴る」といっているやつが貧しいことが分かるようになるのだ。
処女は暴力男が「10円やおせんべいのやり取り」をするのを見て幻滅していた。
「なにか大きな力」を学習する年頃になると「あいつの電話での危険性」をみんなが噂するようになる。
「暴力だけではない」
これを「電話での危険性」が示していた。
中国はもはや「セックスポピュリズム」の段階にある。
しかも、習近平は、ニューミュージックなどの大人の音楽作品ではなく、「プロポーズを頂点とした全体主義」の立場を取った。
さらに「見た目じゃないのよ」という新古典派の立場を取り、「見た目」だけを見る新派と共存しているのだ。
藤本美貴 大切

体は金で買うものだ。「見た目」ばかり気にしていると「9000人の障害者の村」に送られるだけだということが分かってきた。
鄧小平の「南巡講和」(1992年)も、すでに「中国人の高校生」に着目している。
「なにか大きな力」(大きな政府)は中国のお家芸ではなかったか。
共産党といっても、ニューミュージックのような大人が聞くもの(スターリニズム)か、「プロポーズを頂点とする全体主義」(毛沢東主義)の二つがある。

リベラルな社会とは「男はどんな生き方をしようが自由(フリーダム)であるが、比べられる宿命にある」社会である。
生きるとはどういうことか?繁栄するとはどのようなことか?の立証責任の放棄は、きわめて厳しい制約を人生にもたらす。
これを「基礎的リベラル原則」と呼ぶ。
自由民主党が政権の座にとどまる限り、男は母親の「サクリファイス」(生贄)の問題と直面し、無職なのに「しばき隊」を構成するのは党派を間違えているとしかいいようがないものだ。
「王子のように」というのが教育の基本であるが、これはよろしくない。
人格否定発言

1215年のマグナカルタ以降、「王子さえ見ておけばいい」という法律ができたのだ。
周囲は王子を指差して「こういう奴をいじめとけばいいの」と言っていたが、そのような「負の側面」を克服するだけでも「前向きな比べられ方」がなされるようになる。
「お前がてっぺんならばなんとかしてくれよ!」と怒鳴られることもあった。
発言力はきわめて重いものがあった。
卑怯者はカントリークラブからは永久追放された。
リベラルという用語そのものが「仕える」という意味合いを持ち、「こういう奴をいじめとけばいいの」「お前がてっぺんならばなんとかしてくれよ!」という負の側面と明るい側面があった。
共和党は「なにか大きな力」を働かせるのが好きだったが、民主党はそのようなものは信じてはいなかった。
主権論争(国家のピンチを乗り越える力の所在)の内容がそもそも異なった。
古典的リベラルは「王子からの電話」をいろんな女たちが噂するものだった。
学歴社会が到来していなかったからだろう。
王子や国王の肉声が聞こえてくることと、学歴社会が合流する形で「新時代のリベラリズム」が形成されていった。
「福祉国家」の誕生だった。
「朝から晩まで勉強して・・」そんな王子の肉声が広まるのは早かった。
アメリカの女子高生も「行きたい場所は北京か上海」なのではないだろうか。
1960年代にロールズは「株と為替の値動き」を公表し始めた。
「女の値段」「男の値段」を平日は毎日公表したのだ。
王子や国王は電話をするたびに、周囲の男たちがどのように自分と連動しているかが分かるようになった。
自分が電話をして、為替が円安になるようならば「他の男はノイズである」と判断できた。
怖いのは、自分不在で円高になることだった。
王子や国王がまったく電話に関与していないのに円高になるのならば「俺がいなくてもやっていけるんだな」と判断するしかない。
シャワールームから電話

ドゥオーキンは「女子高生」を用い、ロールズは「株と為替の値動き」を考え、サンデルは「王子の言葉の意味が分かるような教育制度」を考えた。 アメリカの株価は一気に跳ね上がったのだ。 カントは「上海株価」にアメリカ人女子高生が「きわめて危険な存在」「中国人とは対等ではない」と考えていた節があり、中国政府も「アメリカ人女子高生を中国は歓迎していない」と考えていたようだ。 しかし、JSミルは「開放してかまわない」としている。 中国においてもすでに「貴族の誕生」を上海で経験しており、お父さんは痛風だった。 色の白さをトラウマにしてはならないという心がけが必要だ。 肌の白い女とセックスしたらトラウマで痛風になる。 しかし、トラウマとは「心がけ次第」でどうにでもなるものだ。 世界が「複雑化」し「大人」にならなければならなかった。 「痛風」という中国の神話(冷えを拾う)という問題を解決するだけで世界は豊かになるのだ。 中国人の支持が根強い色白・酒井法子

2019年10月16日 (水)

アメリカの行政学(最新版)。

本稿は、安倍内閣の「三本の矢」のひとつである「構造改革」を探求するものである。


リーダーは「正しい神を信じ、恋に詳しくなければならない」とされる。
いろんな部署と交渉をするときには、現在はコンピューターやスマートホンが利用できる時代だ。
他の部署と話をするときは、スマートホンを使おう。
なんで今井絵里子は泣いているんですか?島袋寛子ほど高い声が出ないからだ。
欲望が深刻で出口がなくなる時に人は泣いている。
この動画をみんなで見て笑うことから交渉が始まる。
SPEED Starting over


この大都会や街・ビルはこのおカネで成り立っているんだよね。
さらに、子供は家庭の入り口である。
また、岩崎宏美は「心と」という歌詞を「心が」と間違えたことから、欲望が深刻になり出口がなくなって泣いている。
すみれ色の涙 岩崎宏美


大事なのは、「他人との距離を縮めるための動画」をゴミ箱から拾ってきて集めておくことだ(コストベネフィット)。
天皇は「涙のわけ」を「欲望が深刻で出口がない」ことに求めている。
これをフーバーコミッションは「天皇が何に興味を持っているのか?」を下部組織にまで伝える心理学が存在するとしている。
仕事をするためにはスポンサーが必要だ。
そのために「天皇が言っていること」を利用するのだ。
アメリカ合衆国は、マーシャルプランの実施の時に「仕事ってのはようするに仲良くすることだろう」ということを悟った。
第二次世界大戦の時に、ハリウッドで「生涯結婚しない宣言」(赤)が続出した。
戦後、マッカーシズムが、彼(彼女)らを、庶民の人生を知らないと批判し、赤狩りを行った。
「生涯結婚しない宣言」(赤)は、女は「凡人になりたくない」という宣言であり、男は「悪口を言われたくない」という宣言であった。
「プロポーズの意味」を語り合うのも有効なコストベネフィット(仲良くなる方法)である。
平家みちよ プロポーズ


「プライベートを仕事に使うことの有効性」はベトナム戦争の時に明らかになっている。
官僚の言語と永田町の言語を巧みに使い分けるとはこのことである。
適当に仲良くしながら、自分の信念を持ち続けることが公的組織においては必要とされる。
「女たちを豊かな存在にする」
これが仕事だと割り切ることが重要だ。
「女性が輝ける」ではない、「女性が豊かになる」社会を作ることだ。
真剣勝負への強さは「音楽作品」への造詣の深さから生まれる。
「天皇が興味を持っていること」にはみんな関心があったし、首相・大臣・上司・院長・看護士までの序列が、「上層部は何を考えているのか?」に興味があった。
血の通った人間として、なぜ序列が生まれるのか?
それは人々のため息にあった。
組織とは、生物学的・医学的にアプローチしたほうがいい。
「病気のガンの人は組織のガン」「痛風の人は組織でも痛い風」「肋間神経痛の人はとにかく譲らない」
ガンの人は「おばあちゃんが嫌い」、痛風の人は「白い女とセックスした」、肋間神経痛の人は交通事故ばかり起こしている、などが指摘できる。
とにかく、組織というのは「知恵」と「心理学」から成り立っているのだ。
市民としての訓練は職業訓練である。


「マクロからミクロへ」と声援が飛ぶ限り、行政機関は必要となる。
プロモーターをやってみれば、「正しい神」「恋に詳しい」とは何かが分かるようになる。
人々の声援はいろんなものをぶっ壊しかねないため、いろんな組織が介入するのだ。
田中れいな 愛の炎


人々の声援(転がる石)に対してはいろんな人が協力する。
雇用というものも生まれるし、職場には異性もいるだろう。
節税対策のためにスタッフの記念撮影は忘れないようにしよう。
処女は株式買取請求権で買い取るものだ。
工場はそのおカネで作られる。
教会や政党・学校で教わったことはそのまま社会で役に立つ。
司法とは恋愛を語ることであり、立法とはおカネをばら撒くことであり、行政とはテレビに出ることである。
1000の病床がある病院ならば、50の病床は「特別室」なのが民間の病院であり、国公立の病院にはそのような区別はない。
このことも日本国の判例は「特別な差異はない」と判示している。
職場には上司がいて、ファイナンス係以外は「変わる」ことが求められていない。
しかし、「誰が殺したクックロビン」という問題には公的機関が介入するだろう。
パタリロ


第二次世界大戦の時に、炭鉱を占拠したものが、施設の運営を陸軍に任せた。
しかし、「実態は何も変わらなかった」のだ。
同じ上司に同じ部下、仲良しサークルはどの運営主体であろうが同じだった。
アメリカ国旗が施設に飾られただけだ。
天皇は「神の見えざる手」を持っている。
なかには、「台風を儒学で撃退できる」とされる鬼神である天皇に反発し、鉄道を爆破するものもいただろう。
河川、道路、労働組合、大企業、下水、電話、電気、飛行機、自動車、映画館、原子爆弾などが「人々の声援」を発信源にして作られた。
三権分立を背景にした芸能界が国を作ったのだ。
55人のメンバーがフィラデルフィアに集まったことからアメリカ合衆国は始まった。
「結婚」「男女の人生の交差」はアメリカ合衆国建国当初からあった。
しかし、オカマや両刀遣い、貧乳レズビアン、髪の短い女などがどうしても「反アメリカ」の立場に立ってしまう。
政府がカネを使う理由が「野党の存在」にあった。
十人に一人が政府に勤めていたし、国民の所得の23%は税金となっていた(1948年)。
いろんな「エンジニア」が、政府に「いくら出せるか?」と聞いてきた。
すべては「リボンをほどく」ための音楽作品や芸能界から生まれた富だった。
ribbon リトルデイト


ガーフィールド大統領の暗殺をきっかけに、1883年にペンデルトン法ができ、大統領が何を考えているのか?をオープンにした。
トランプ大統領のツイッターもペンデルトン法によるものである。
ホワイトカラーの仕事の目的は「仲良くすること」(効率性・コストベネフィット)にあったが、仕事をしているうちに憧れの芸能人とも会えるだろう。
これらの基本を踏まえて、組織の「編成」の方法を探究するのが行政学であるが、これは、ギャルサーにも言えることであり、組織を作るとみんなが「ルール」を作り始める。
ルールや条文の世界が日本の役所の世界であるが、それでも「仲良くすること」(効率性・コストベネフィット)が基本であることは忘れないで欲しい。
人々をコントロールするのはあくまでも「文学」であり「音楽作品」であり、芸能界である。
ribbon サイレントサマー


組織の起源は共同体にある。
「その問題は考えるのが疲れる」「情報発信源が欲しい」これだけで組織は作られるのだ。
カネは立法府に出させるしかないだろう。
なにしろみんなが注目しているからね。
そこには「自己責任という名の宗教」を超えた理屈がある。
天皇の見えざる手(神の見えざる手)は常に「問題」を音楽作品で提示していた。
「男女の人生が交差する瞬間」にすべての文学や音楽作品は集中している。
しかし、感染症などの熱で死人が出たときは組織を作ろうとみんなが考えるだろう。
人々の支持のない企画(エスペラント語、13ヶ月カレンダー)にはおカネは出なかった。
それが立法というものだ。
日本国は「予算法律説」を採用している。
戦時中に、膨張した組織がそのまま残ることも多い。
「その問題は考えるのが疲れる」「情報発信源が欲しい」
この「組織を作る理由」は戦争を経験していない国には、いざとなったら組織がないということになりかねない。
農業や住宅の問題はその典型だ。
台風の被害が出ても何とかなる理由は日本国が戦争を経験しているからだろう。
台風19号 被害


トルーマンなんて「マクロとミクロ」「グロスとネット」の「ポイントフォー」を発信し続けただけだよ。
「その問題は考えると疲れる」「情報の発信源が欲しい」これが組織を作る理由なのであるから、役人も「考えると疲れる」「情報発信」の仕事が専門分化されることになる。
あとは、「いざ」というときの訓練を戦争の記憶を思い出しながら行うだけなのだ。

2019年10月15日 (火)

プロポーズ大作戦。

男の子は、大人になって何者かになり、女の子は「女子高生最強!」の時代から凡人だと悟る。
男女の人生の交差に「プロポーズ」があるとしたが、文学はこの学問を究めるものである。
男は「自分の先生」に自信がなければプロポーズできない。
男は「この女が俺の子孫を残すのか」と思うと緊張したし、自分の「先生」の力も考えた。
恋じゃなくなる日 Bz

女が自分にとって「アイドル」であったこと、さらには、男が略奪愛の結果、女と出会ったこと、さらに、先生の論文が「エロ本」に見えるようになったこと、いろんな要素が男の側の「緊張」にまとわりつく。
「男が女にプロポーズできるようになること」
これがつまりは「教育」の目的であり、自分にとっていちばんふさわしい女と出会い、略奪愛の対象になるほどのノンケであり、先生の言うことがわかるようになることが必要だった。
ribbon virgin snow

彼女との約束の一時に、20分遅刻しそうだ。
どのような乗り換え案内を利用したら約束の時間に間に合うだろうか?
そのように考え始めたら真剣であることを意味する。
高橋由美子 will you marry me.

圧倒的な劣勢にあったボートレースで、折り返し点が地平線に見えた。
先頭はもう折り返し点にいた。
そのような気持ちで生きていたけど、なぜか彼女のことを考えたら、人生ゲームでは折り返し点にたどり着いた。
空も飛べるはず スピッツ

すべての人間が、彼女のもとにたどり着く途中で泡を吹いて倒れているのが分かった。
しかし、自分だけはなぜか元気だ。
おそらく自分の結婚すべき人は彼女なのだろう。
ribbon ポイズンの退屈

彼女と会うときはいつも雨が降るな。なんでだろう?美男美女が会う時に雨がふるって先生が言っていたな。
高橋由美子 レイニーデイ×3

財布を盗まれたけど、彼女との間に子供をもうければ取り返せると思った。
松田聖子 抱いて

医者にわけの分からない診断を下された時に真っ先に思い出した人だった。
CoCo Newsな未来

なんだか分からない湿疹ができて、とにかく寝ていたが、二週間前に飲んだ薬が原因だろうと考えた。
首の周りに塗るクリームが古すぎるのかななどと考えた。
ribbon 好きと言える気持ち

遠くに行ったときにも迎えに来てくれた。ダイヤモンドだと彼のことを思った。
ribbon be my diamond

いろんなことを考えてマスターベーションをしたけど、やっぱり「マスターベーションがいちばん気持ちよかった」ことが大事かな?
気持ちのいい人を「人気者」と呼んでいるからね。
それと、やっぱり「気持ちよさ」と「確かめ合う」ことも必要ね。
藤本美貴 ボーイフレンド

女が「凡人」となり「テレビの悪口をテレビ局に電話するようになる」方向に歩み始めた時に、男は「先生」を見つけ、男女の人生が「交差」するのだ。
その一点に向けてのみ「教育」というものはあった。
いい先生と悪い先生を区別してもらいたかったんだよ。
中森明菜 禁区

男女の人生の交差(マクロとミクロ)(グロスとネット)にのみ文学や音楽作品は集中しているのが分かる。
BoA Is this love

学校の勉強でテストの問題を解くことから始めて、仕事の問題も解決してきたけど、その過程で「先生」も見つかっていた。
男女の人生の交差のためにあるのだ。
実力制ならばどの組織も28歳ぐらいが平均年齢で成り立つんじゃないかな。

マスターベーションのコツは「相手をガン見すること」「肌で感じること」「迷うこと」「想像すること」「比べること」「知っていることを思い出すこと」「相談すること」「周囲から認めてもらうこと」「セックスすること」「選ぶこと」などが挙げられる。
瀬能あづさ ふたつにひとつ

最後に、「彼がお姫さま抱っこ」してくれたらもはや結婚だろう。
Madonna Express yourself

とにかく「男女の人生の交差」に文学や音楽作品は集中した。

女は「自信を持つこと」「心を閉ざさないこと」「自分のからだに自信を持つこと」「彼の言葉に真実を見つけること」「男女の人生の交差を経験した女友達を多く持つこと」などが指摘できる。
この「男女の人生の交差」に詳しい者を「文学者」と呼び、この「必然」を認めながら、いかに「富」を生み出し、仲間を作り、その必然を踏まえたうえで「自由」になるかとフランクフルト学派は探求した。
ribbon わかってないね

このような文学者は「資本主義の精神」と呼ばれ、資本という言葉が「男」を意味することから、女は「凡人」になっても多数派工作をする方向性が模索された。
創価学会やゼブラがそうだろう。
「あの婆さん怖いから気をつけろ」とは田中角栄の言葉であるが、若者にはピンと来ないんじゃないだろうか。
平成の女子高生(グロス)に「パンツ見えちゃう」と言ったのは「ネット」である主婦層であったが、ネットになりきれない女は「いいんじゃない?」と言った。
ミクロである女子高生に、むしろ声援を送るマクロとしての主婦層の気持ちも入り乱れた。
すみれ色の涙 岩崎宏美

主婦層は女子高生を憎んでなどいなかった。
うまく「ネットからグロスへ」浴びせられる批判を回避しながら、「マクロからミクロへ」と送られる声援を受ける必要があった。
女の縦社会はそれで成立したのだ。
主婦層は「マクロ」(凡人)でありながら「ネット」(批判する側)だった。
そのマクロを「お嬢さん」と呼び、ネットのエネルギーをよく理解していなければ宗教家は務まらない。
フォーエバーセンセイ

若い女の子に声援を送りながら、うまい具合に批判する、これが主婦層である。
それさえ理解してくれる「あなた」が松田聖子にはいたのだろう。
薔薇のように咲いて桜のように散って 松田聖子

「女の子が初めて恋をしたとき」どうしたらいいのかを知っている男を崇拝するのが宗教ともいえた。
グロス対グロス、ミクロ対ミクロの関係が「若い女の子」と「老人」の関係であるはずだ。
その「どっちらけ」感が、日本国の気温を決めるのに有効だった。
ひとびとは「寒いよ?」と率直に感想を言った。
河合その子 Please tell me mr.朱

若い男と主婦というネット対ネット、マクロ対マクロも、これに引けを取らないほど「寒い」ものである。
ribbon 正しいハートの行方

「どっちらけ」感すら気温のコントロールに利用するあたりはさすがに経済をよく理解した「鬼神」である。

「女の子と老人」「若者と主婦」の関係は、その「どっちらけ」感をハーバーマスが「アジアで気がつく人はいるのか?」と考えてアルバムに挟み込んだ。

男の子と女の子も、主婦と女の子の関係となんら変わりはない「マクロからミクロへ」「ネットからグロスへ」という関係である。
そのため、女の子は男の子よりも「美しかった」のだ。
男の子でも「勉強やスポーツ」をやる「ミクロ」のものは「見た目」にこだわった。
後藤真希 デート注意報

さて、今まで述べてきた「マクロとミクロ」「グロスとネット」において、指摘していない部分がある。
それが「父と息子」(神は死んだ)という関係である。
息子はまだ何者でもなく(マクロ)しかし生意気だ(ネット)。
しかし、父は何かを成し遂げ(ミクロ)、しかし批判される側である(グロス)。
このことから、息子に批判されるから浮気もできない、という都合もあり、父は息子を潰そうとする。
男の子も「友達が多い」方が得をするという側面は否定できない。
「対等」「楽しみの共有」「認め合う」という三要素が揃わなければ「友情」とは言えないが。
Bigbang bangbangbang

全体主義とは「真実」からもたらされる。
民主主義と全体主義は「真実」から区別されたのだ。
「ブルジョワってなんで生まれるの?」これをユダヤクエスチョンと呼ぶ。
真実だって「知っている人と知らない人」がいるだろうとしたのだ。
階級社会の到来だ。
女の子たちの気持ちを逆手にとって、ミクロ・グロスである「大人たち」が階級社会を構築した。
CoCo EQUALロマンス

「マクロとミクロ」「グロスとネット」という分類は、あくまでも芸術論における「真実」であり、それから漏れる「小物」「ネット」が大人の男にも当然いるだろう。
しかし、それは芸術論ではない。
我々は、芸術論を「真理」と認めなければならないし、それは信仰ですらあった。
ファシズムは「真理」から生まれた。
「真理の第一世代」がフランクフルト学派であり、ナチズムを生み出した。
CoCo 乙女のリハーサル

しかし、ハーバーマスは「大声援や悪口は暑苦しくないか?」と指摘し、「全体主義の克服」は、儒教国家においては簡単に達成された。
「真理は真理」であるとしながらも、「家にサロンがあったほうがいいだろう」とし、階級社会の克服を目指すべきだと考えたのだ。
「リベラルアーツを知らない国」である日本国をハーバーマスは「ウサギ小屋」と皮肉った。
カント以降、黒革の手帖(純粋理性批判)を知っているものだけがブルジョワになっていた。
女の子に「正しい神による恋の歌」を歌わせるだけで莫大な富が手に入ったのだ。
松田聖子 赤いスイートピー

女の子たちは女の子たちで「強烈な団結」に向かうことになった。
駆け引きと協力の関係であり、女の子の方が男の子よりも賢い時期は確実にあった。
瀬能あづさ 永遠に友達

ハーバーマスは「気温は国で引き受けるから、カントだけは忘れないでくれ」と語り、「金持ちになる方法」を指摘している。
カントといっても、現代では後継者が多く、私も含めた上での「カント」であった。
熾烈な多数派工作の後に「出産」があった。
女にとって「願い」とは、プロポーズよりも「出産」の方が優先順位が上なほど、あんがい「難しいもの」となっていた。
水樹奈々 真冬の観覧車

法律とは「年寄りでも若者でも」男らしさを求める学問であるが、宗教は「年寄りを教祖とする」ものである。
男らしさを「全市民」に向けて発信するものを法律と呼んだ。
そこには、「父と息子の対立」は想定されておらず、宗教の世界に逃げ込む余地を残した。

また、マルクス主義は、この「真理」を打破することを「革命」と呼んだ。
結婚とは搾取である。
そのように考えたのだ。
香淳皇后は、自らは結婚生活を送りながら、マルクス主義に傾倒し、このような曲を作っている。
酒井法子 幸せなんてほしくないわ

ハーバーマスは、マルクス主義にも「寒さ」を見出している。
女の子たちは恋の話に熱中していたからだ。
彼女たちは「真理」のリボンをほどいてくれる男たちについて語り合っていたのであり、決して革命など目指してはいなかった。
ribbon リトルデイト

史的唯物論は「女の人生」しか見ていなかった。
カントが考えた「結婚」以降、男女の人生の交差とプロポーズが女の人生を決めるようになり、ましてや「ブルジョアと結婚したい」などという発想が芽生えたことから、「女の人生」をどの男が最もよく理解しているかを史的唯物論は見ていくことにしたのだ。
イケメン文学者をヘーゲルが提示し、歴史に残る男というのは「リボンをほどく」のがうまい男なのだろうと考えた。
ribbon 出逢えてよかった

テレビで「もっと批判しないと」と言われるが、政権を批判してみても面白くもなんともなかった。
男女の人生の交差を語り合うことを「批評する精神」と言ったのだ。
これを語り合わないのならば政治討論も成り立たないだろう。
女はプロポーズの意味をこのようにとらえているが、「彼氏が子供に興味を持ってくれるかな?」「家庭に縛られるのではないか?」と迷うこともある。
そのあたりは、男の「先生」について考えるしかない。
松田聖子 チェルシーホテルのコーヒーハウス

この「男女の人生の交差」において、処女の気持ちという議論がある。
「女にモテない男は勘弁してね」
というものであり、そのため、男は「女友達」をモノにするために「他の女」の名前を出すことがある。
ribbon 君ならば大丈夫

この「女友達をモノにするために他の女の名前を出す男」のことを「ゲリマンダー問題」と呼び、住んでいる地域が違う女の名前を男が出すのだ。
本当に付き合うのかが分からないようにするためだ。
友達と恋人の境界線は「セックス」したかどうかにある。
安倍なつみ 男友達

「当て馬」とは馬の世界では「オス」のことを言うが、処女にとって当て馬とは「他の女」のことであり、モテない男とならば初体験すらできないと考えたのだ。
当て馬となった女は「大体想像がつく」と語った。
処女は「他の女の意見」を聞かなければいい男選びもできなかったのだ。
これが分かっている男ならば医者にすらなれるだろう。
新田恵利 13回目の季節

これは、今まで男友達に過ぎなかった男への「ひとつの神学」ではなく、他の女も交えた「ふたつの神学」を処女は必要としていることを意味する。
自分が知っている「神学」だけでなく、他の女の「神学」も参考にして初体験の相手を選んでいるのだ。
このことから、海外で「おカネを払わずに」外国語で彼女を作ることは「ふたつの神学」を生み出すことが極めて困難であり、私もアメリカのハイスクールではモテなかった。
しかし、もし「異国の文化」をもっと積極的に「二人の女」に話していれば別の展開もあっただろう。
三浦理恵子 五日遅れのバースデー

外国に行ったら「外国国家による統制」がなされ、ルールにしたがい、そしてそこには外国の女がいる。
「外国に行った」ではなく「外国の女」の話しをしなければならない。
外国の女と自分を比べられることを女たちは好んでいたし、「外国に神学をお持ちの方」は扱いが異なった。
また、観光ビザと就学ビザは異なるものであり、就学ビザで外国に行った人は外国の金融の手法を学ばされた。
酒井法子 エアメール

本来、右翼的発言というものは女性が飛びつくものであるが、ネットである主婦層が飛びつくことが想定されている。
これを、ミクロである女子高生が「歌」にして歌ったらどうなるであろうか。
EU統合の歴史とはそのようなものだった。
国家基本問題研究所のような「右翼的発言のクリエイター」たちの言葉をミクロである女子高生が歌うことは、「正しい神」「恋に詳しい」という意味で非常に人気があり、日本の男子たちが声援を浴びせることに対しては、中国や韓国はいやな顔を隠さなかった。
ミクロである女子高生に国家基本問題研究所の情報を歌わせる大人たちがいてこそ、日中韓FTAの実現はかかっている。
あるいは、日朝国交正常化でも同じだ。
ミクロと右翼的発言の仲の良さに政治の側が気がつくかどうかが、アジア地域はバラバラ、ヨーロッパはひとつということの秘密がある。
お嫁に行く前の女の子は「恋の歌」でも人気があったからね。
ベビーメタル カラテ

そもそも、国家基本問題研究所とは「できない」人のためにあるものだ。
それでも、彼らは「右翼的発言」をクリエイトし続けた。
ミクロ・グロスとしての女の子は「できない」ことをアイデンティティにしている。
しかし、女の子たちは「男にとって担保」の役割を演じていたため、その力はとうてい無視できるものではない。
その女子たちの「できない」理論の柱が国家基本問題研究所の情報を鵜呑みにすることにあった。
AKB48 Beginner

女の子は、思春期にこれほどまでに「言葉の感覚」が鈍るものよ?
鈍った「言葉の感覚」を巧みに櫻井よし子はねらって「右翼的発言」を打ち込んできた。
昭和天皇が「人種差別主義者」で「女性差別主義者」だという人はことごとく攻撃した。
「鬼神」を悪く言う人たちは、もはや人間だとは思わない、これが櫻井よし子の教えであり、隔たっているようでいて「真理」でもあった。
なぜならば、既存の宗教団体に、「私に異を唱える人」はいなかったからだ。
「女子たちに”戦争伝説”を教えないでくれないか?」
中国・韓国・北朝鮮などはそのように考えていた。
「言葉の感覚に鈍った女子」に、「昔の伝説」「一見非常識に見える真実」を教え込んでいたのだ。
男子たちは女の子の発言を聞いて大爆笑した。
徴用工を「戦時朝鮮人労働者」と女の子が言うことは、自分が異性に愛されることにつながった。
なぜならば、昭和天皇とその時代が女子を愛していたからだ。
言葉の感覚が鈍った女の子に真理だけを教える、それが国家基本問題研究所であった。
結論だけがあったため、世論の反応は通常は鈍いものだった。
「鬼神とは何か?」
それだけを守ろうとしていたようだった。
さて、言葉の感覚が鈍った思春期の女の子に「非常識な真理」を教えたら、いよいよ恋の季節ね。
ribbon Deep breath

国家基本問題研究所とは、「隠された国の生い立ち」を「男女の恋」によって明らかにするものであった。
彼女、こんな事をいったいたな。
それが「有事」の時に本当だと分かった。
なんで彼女が言っている「デタラメ」は既存の宗教団体を怒らせないんだろう?
男の子はそう思った。
「言葉の感覚が鈍った女子」に「真理」を教える、それは新マルクス主義とも言われた。
さよなら失恋ピエロくん

「愚弄することは表現の事由の埒外である」
そりゃ、昔の男の話をするのは表現の自由ではないよ。
女の子に「恋の主導権を持ってもらいたい」というのが国家基本問題研究所の考えであった。
女の子たちの間に「危険な同盟」の輪が広がるのが分かった。
恋は楽しい、そう言ったのは男の方だった。
八月最初の水曜日 渡辺満里奈

大学に受かりやすいのは「自由民主党の方針にしたがった教科書」を読むことであったが、恋が楽しいのは国家基本問題研究所の言っていることにしたがうことだった。
猫舌心も恋のうち

まあ、いろんな「恋の歌」は私も紹介してきたし、男女の人生の交差をテーマにした文学や音楽作品を示したが、「国家基本問題研究所は何を歌っているか?」と言われたならば「宇多田ヒカルが歌っている」と答えるしかない。
宇多田ヒカルが「恋における女の子の優位、そして、非常識な真理を知っている言葉の鈍った女の子」のことを歌っていた。
宇多田ヒカル prisoner of love

ミシェル・フーコーはこれらの議論を踏まえて「監獄の誕生」を書き、監獄=学校というシステムを作り出した。
「言葉の感覚が鈍った女の子たちを標的に真理を教える」ことをアクティビズムと呼ぶ。
「恋は楽しい」
このことを浸透させることでLGBTをなくそうと考え、ウォン委員会は集票マシーンを構築した。

ホルクハイマーは、1930年に「男女の人生の交差」を真理として受け止めない共産主義者の調査を始めた。
フェリックス・ウェイルの指導によるものだった。
これがホルクハイマーの学者人生の始まりだった。
「なぜ、プロポーズが嫌なの?」
杏里 Last love

1933年にナチスが政権を握ると、「なぜプロポーズが嫌なの?」という情報を握っていたフランクフルト学派は閉鎖に追いやられた。
「男女の人生が交差してしまう瞬間がもし存在するのならばとんでもないビッグマネーになる」
ホルクハイマーは1947年にドイツに戻るまで、ニューヨークやカリフォルニアで過ごした。

マクロ(いじめる側)とミクロ(いじめる側)が共存しているネット(批判共同体)である男の子ってつらいね、という共通認識が広まった。
永井荷風のような汚い歯をしたおじいさんが小説を書いているのが当たり前になっていた。
女の子は「永遠に何者かになりたい」から、男の子は「悪口を言われたくない」からプロポーズを経験していなかった。
これがマルクス主義者だ。
あるいは、セックスができない体であったり、オカマであったりして「女になりきれない」「女心に興味がもてない」存在だったのだろう。
しかし、「男女の人生が交差する」ことから生まれるビッグマネーは、文学のみならず音楽作品から始まり、国づくり、さらには「ブルジョアの登場」を意味した。
松田聖子 時間旅行

貧乳レズビアンでも髪の短い女でも「秘密は美しい乳首にある」とされ、ハーゲンダッツは「エニグマ」を考えた。
ドイツにおいては、カントが「結婚」という制度を確立していたが、フランスでは強烈な「レジスタンス」の記憶が存在した。
パリに憧れる理由は「レジスタンス運動」の存在にあったのだろう。
1993年に世界が「男女のすべてが結婚するという仕組みの破綻」を確認した。
河合その子 Parisが聞こえる

しかし、これらのプロポーズ大作戦は「批評する精神」と呼ばれる文学や音楽作品の運動につながったし、「究極」と呼ばれる料理の世界の理論となった。
かつての司法試験は、合格者の平均年齢が29歳であり、それまでは結婚もできなかった。
子供がいないため「レポート」も満足にかけない連中が、最後に根性で駆け抜ける戦いだったのだ(至高)。
究極の方が「おカネと余裕に満ちている」が、至高はひたすら修練の世界だった。
「悪口を言われたくないから司法試験に受かりたい?」
それは至高であり、共産主義であった。

究極と至高は、社会の歯車として生きるサラリーマン(資本主義)と、弁護士のような共産主義の争いであり、おカネの競争だった。
究極は確かにビッグマネーにはなった。
しかし、至高は「学問へのこらえ性があり、いかなる批判をも受けない存在」として君臨した。
また、究極は「己のうちに学問がある」という方向に向かい、至高は「自分以外の人間に学問がある」という方向に向かった。
いずれにせよ「モダンアートと大衆文化」は、男女の人生の交差から生まれたのであり、資本主義の立場が根強い日本人が、中国人に「なんで朝ごはんはコップの上にパンのようなものを乗せているの?」と聞くと、究極の側から至高の側への痛烈な罵倒に聞こえ、中国人は激怒するだろう。
ribbon それは言わない約束

ショーペンハウエルは、「男女の人生が交差する」前のキャンパスライフの楽しみ方を明らかにした人物である。
レジャーランドといわれても、いろんなことが分かるではないか。
ドイツユダヤ人は「同じことを何度も繰り返したいと願う連中」とみなされ、一度で悟れないのかと批判された。
CoCo 無敵のOnly You

マルキュースは「究極」「男女の人生の交差」が帝国主義に向かうのは明らかではないかと指摘している(米帝・日帝)。
また、ハイデッガーの「存在と時間」を研究し、若さを無駄にする時期にすべてがあるとしている。
「究極」の富がナチスに乗っ取られるのを確認してからアメリカ合衆国に逃れた。
男女の人生の交差・プロポーズに焦点が絞られたことは「詩の起源」とも言われている。
ribbon 変な愛のカタチ

「革命なのか帝国主義なのか?」
それは、貧しき者がどこに向かうのか次第だった。
「真実」「究極」「男女の人生の交差」がブルジョアを生み出したのならば、そこからはぐれた者たちの「なぜ?」を考えなければならない。
宮本顕治も、西周も「守るべき家庭がなかった」のだ。
1928年から1932年まで「マルクス主義の危機」が叫ばれていた。
日本国においても、渡政などがコミンテルンを訪問した時には、すでにコミンテルンは悲鳴を上げていたことになる。
「貧しきものが資本主義社会を破壊するだろう」と言っても、「なぜ貧しいのか?」まで深めればいい話だったからだ。
「上達する」これが信仰心だとするのならば、マルクス主義に信仰などなかった。
CoCo なぜ?

ちなみに、「現代においても帝国主義や革命の時代なのか?」と言われると、答えは「ノー」である。
株と為替の値動きが存在することからそのような時代は克服されたといえる。

さて、いくら勉強しても上達しない学生時代が誰にもあるし、女の子は「自分がお嫁にいけない体である」ことを敏感に感じ取る時期が若さを無駄にする学生時代にはある。
このような、学生を主体とする「イケメンによる」無神論にマルキュースは注目した。
学生による革命運動は「教育独裁」とも言われ、なにしろ学生を取り巻く「お嫁にいけない体である」女の子たちは美しかった。
プロレタリアートによる革命の資源が学生は大人たちよりも強かったのだ。
ソビエトのボルシェヴィキによるロシア革命はプロレタリア革命ではなかった。
あくまでも「男女の人生の交差」「文学」「音楽作品」を背景にした全体主義によるものだった。
ribbon 卒業旅行

人間は、眠っている時の「夢」で、理想の男を夢見る。
それならば女の子の場合は、その「男」が自分を口説き始め、セックスする夢を見るはずだ。
しかし、「そのような夢を見ない」「子供を残せない」「お嫁にいけない体」の女は確実にいるのだ。
中嶋美智代 恥ずかしい夢

理想の男とは「夢に詳しい」フロイトと「口説き文句に詳しい」カントと、「詩に詳しい」シラーだっただろう。
夢に出てこない「一次元男」「止まったままの男」は、貧しかったし、恥ずかしい夢を見ない女もいずれ貧しくなるだろう。
これが「プロレタリア革命」のエネルギーの正体だった。
女たちに選挙権を与えた民主主義や、昔の男の話まで持ち出さない「言論の自由の限界を踏まえた言論」などが、フロイト・カント・シラーにはあった。
社会が止まったままならばどうなる?
神の見えざる手、天皇の肉声が聞こえなくなったら、プロレタリア革命がおきるのだろうか?
政府は冷静に「株と為替の値動き」を見ていた。
「回転」は、フロイト・カント・シラーによって生み出されている。
原子力発電そのものが「回転」から成り立っていた。
あんなにコストの安い「回転」である原発を支持しない人がいるのは、国にとって不都合なことだ。
脱原発運動もプロレタリア革命と結びつかざるを得なかった。
女たちの「恥ずかしい夢」に出てくる「理想の男」の枠を争ったのだ。
私は原発支持を東京電力に電話したら、ガス代まで安くなっている。
プロレタリアートを豊かにするのは「回転」にあることは理解しなければならないし、それを「コストを安く」行えるのが原子力発電だったのだ。
女の子の夢に出たい。しかも「コストを安く」と考える脱原発派を時には国の側としては導かなければならなかった。
ribbon ハートを堕として

さて、「男女の人生の交差」について語ってきたが、「交差以降の声が聞こえてこないではないか?」という指摘を受けるのは必然だった。
そこで生まれたのが「ニューミュージック」であり、アドルノは「大人たちの声」としてワーグナーを基盤に発信することにした。
オカマや結婚できない体の女が好んで歌った。
大滝詠一 幸せな結末

革命の温床であるオカマや結婚できない体の女は芸能界に多くいたし、そのような連中の「神」であることを志向したのが新カント派だった。
資本主義社会である国家に見捨てられた存在ではなく、人生の行く末を示すことに成功したし、ニューミュージックを聞く連中は「自分たちに方が大人だ」とアピールした。
プロレタリアートとして本来生きなければならない「男女の人生の交差」から排除されたものたちが、発信力をつけるのが分かった。
大滝詠一 君は天然色

社会のすべての世代が「セックスをおカネに変えること」ができるようになった。
「大人の魅力を身に着けたい」という女性はニューミュージックの誕生とともに確実に生まれたのだ。
共産主義者の旗手となってニューミュージックは「物象化論」という理論を基盤にし始めた。
資本主義の「男女の人生の交差」を強烈な推進力とした世界とは異なり、共産主義は「大人の魅力を身に着けたい」という男女たちに物象化論を提示したのだ。
中島みゆき 狼になりたい

アドルノは、ニューミュージックを生み出し、西ドイツは「これで資本主義社会から取り残された世代はない」と胸を張った。
「三十路になったら人間はどうなるの?」
それは若者たちにとっては「神話」(ミソロジー)であった。
自分と世界がかけ離れることを自己疎外と呼ぶのだが、大人には大人の居場所がある。
安心して子育てができる社会とはニューミュージックとともにあった。
物象化論を西ドイツが生み出さなければ、東側諸国との「資金力の競争」には勝てなかっただろう。
日本国もいやおうなしに物象化論をクリエイトしていた。
「なんだ、大人になったらこういう曲を聞くのか?」
そのような気持ちが若者に芽生えればよかったのだ。
浜田省吾 もうひとつの土曜日

ナチスドイツや、ソビエト連邦、ニューディールアメリカを「国家資本主義」と呼び、「男女の人生の交差」を歌う音楽作品はカルト的人気を誇ったが、物象化論こそが「マルクスの日々」を正当化し、それを「西側のもの」としたのだ。
ムーンリバー オードリー・ヘップバーン

男女の人生の交差を強烈な資金力にしたのはCoCoもribbonも同じであるが、これは「後期資本主義」に起きたことであり、その後、帝国主義を迎えるのかプロレタリア革命を迎えるのかという予測を、物象化論=ニューミュージックが粉砕した。
「大人フェチ」ともいえるものが物象化論であり、アドルノは「年配の男女を弁証論によってぶつけてみただけだよ」と語った。
後期資本主義によって存在が見えなくなった「年配の男女」に居場所を作り、経験を職場の同僚(クラスメート)的に表現した真剣勝負でもあった。
ヘーゲルの「人と人をぶつけて止揚する」という弁証論は「宝石を生み出すね」とアドルノは語っている。
浜田省吾 片想い

「矛盾」というのはようするに「恋」のことだ。
そこに「女の美しさ」「男の世界の広さ」の限界を提示し、問題の難しさを表現すればいいのだ。
ニューミュージックを土台に「ジャーマンロック」というジャンルもできた。
後期資本主義(男女の人生の交差)がナチズムにつながったことを受け、ジャーマンロックは「年配の男」をロックにし、女が男をたてるさまを歌った。
Rammstein Du Hast

後期資本主義にのみ頼りきった結果が、アウシュヴィッツであった。
若い連中は人生を楽しんでいる最中は、後期資本主義にどっぷりとつかり、ナチズムへの批判能力がないかもしれない。
しかし、「大人たちの意見」をよく聞く男は「ハイルヒトラー」などとは言わないだろう。
大人たちにも発信力があるということを証明したのがニューミュージックであり、ジャーマンロックであった。
大人たちの全否定ができるほど、どの男の子も成熟しているわけではない。
あとは、「見識が問われる」「若い時期は批判能力を持たない」のが「ハイルヒトラー」という問題であり、時には大喧嘩になった。
Rammstein Amerika

カントは「全体主義ってどこに表現されるの?」ということをたとえば、ピッチャーとキャッチャーの間の「18.44メートル」であるとした数学者であった。
いくら「女を口説く言葉」(黒革の手帖・純粋理性批判)を明らかにしても、それがどのように有効なのかを生涯にわたって研究し、生涯「自分は数学者である」としプロスポーツにこだわった。
カントは時代がやや遡るが、男女の人生の交差(究極・文学・音楽作品)が、どのように、人々の心に伝わるのかだけを考えていた。
まだ、ニューミュージックもジャーマンロックもない時代の話だ。
7+5=12だけを「数学の真理」であるとし、いかなる競技も構築して行ったのだ。
ribbon ハッピーエンド

スタジアムには「横浜の」「東京の」「福岡の」英知が集まっていたため、みんながそれを見に行った。
カントは「女心とは大きすぎるもの」とし、表現の可能性の多様性を認め、プロスポーツとは「小さすぎるもの」とし、その精密さを認めた。
「大きすぎるもの」「小さすぎるもの」を「超越論的」と言う。
そして、自らの「黒革の手帖」(純粋理性批判)および「刑法」(処女に嫌われないための学問・実践理性批判)を「超越論」と呼んだのだ。
どのみち、プロスポーツにしか興味がなかった。
ニューミュージックやジャーマンロックにはない「全体主義」が「文学・音楽作品・ポップ」にはあった。
女の子が「女」になるプロセスが実践理性批判にはあり、お小遣いが少ない女は「髪を伸ばす」ことを覚えた。
ハロウィンナイト AKB48

カントは「コンサートでの声援よりも、スタジアムでの声援の方が大きいだろ」と胸を張った。
このことから、男の子はマクロであり、大人になるとミクロになるという経済学の考え方も生まれたのだ。
なによりも、コンサートホールとうまく連携したスタジアムが生まれたのだから「仕事」が生まれたことを意味する。
フリードマンはそれでも「この企業は果たして利益の最大化を望んでいるのかな?」「ベンチがアホやから」という発想を人々に根付かせた。
市民も「幾何学模様」に引き付けられるようにプロスポーツを見にきたし、「企業の利益の最大化とは何か?」という問題と直面せざるを得なかった。

 

 

«ワキガ・多汗症さらにはクラミジアについて。