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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

2020年1月16日 (木)

新カント派が街にやってきた。

カントの「エロビデオの作り方」は、「女の胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」の三要素つまり、「自我」「超越論的」「悟り」の三つから作られることになったが、19世紀に入って、マルクスの革命騒動や、ニーチェの「ロマンティックな音楽作品作り」の前にいったん忘れ去られた。
しかし、19世紀中頃以降、ナトロップのメルブルク、リッカートの南西学派という、いわば「海」と「陸」の双方から、研究がすすめられた。
日本国の官僚にも「海の男」「陸の男」などが存在し、カントを熟知したエッチな人がいた。
第一次世界大戦まで、新カント派は、様々な研究を行い、エロビデオを作ったが、それ以降は、「旧体制」(各国王室・皇室)と結びついた。
新カント派による独裁はアドルフ・ヒトラーによって展開された。
本稿においては、新カント派の共通項を述べたうえで、メルブルク学派と南西学派の特徴を述べることにしたい。
帰ってきたヒトラー

メルブルク学派は「海が男女の性概念を決める」という強みを持っていたし、私も「渚のハイカラ人魚」を好んだため、人前で服を脱ぐ習慣はほとんどなかった。
小泉今日子 渚のハイカラ人魚

また、「不思議バカンス」を5千回以上聞いたため、女の子と気軽にキスをする習慣もなかった。
河合その子 不思議バカンス

イケメンヘーゲルが死んだときに、哲学の世界は「イケメンが学ぶ学問だろう」という発想を見失い、アイデンティティクライシスに陥った。
「誰にいじめられたのか?」「どこに溶け込みたいのか?」「美しいのか?」
この観点を見出すのに時間がかかった。
なにしろ「若くて生きのいいの」こそが「勃った」からである。
プロデューサーが「お前はヘーゲルほど頭がよくない。俺が実演してやる」という問題になっている。
「若者ほどリスクを好む」ことから、このアイデンティティクライシスは、エロビデオをつまらないものにしたという側面は指摘していい。
メルブルク学派は、1871年にヘルマン・コーヘンが「ひと夏の経験の神さま」という論文を書いたことから始まっている。
一方、南西学派が「陸には雪がある」ということに注目するなど、「アドレスを聞かない関係」こそが「妥当性」と呼ばれ、エロビデオを作るのにふさわしいことに気が付いていた。
ゲレンデが溶けるほど恋したい

メルブルク学派は、19世紀後半に、「カントのエロビデオ制作にどれほど詳しいか?」で、教授の椅子が代々変わってきたが、日本国においては、若者にプロデューサーがおカネとハンディカムを渡すようなものであり、プロデューサーが果たして「東大文学部教授」あるいは「政府の役人」であるかは明らかではない。
しかし、女の子たちは「カントの動画」に出演することで、セックスが好きになり、セックスを「美しいもの」と考えるようになっていた。
この時に見えたのが「プラトンの音楽作品」の復権である。
海には「陸で問題を起こした人間」が追いやられるようにして住んでおり、有名人が多い。
私も恥ずかしながら「海岸」に住んでいる。
「こぼれる秘密の数」がなければ、女は「セールスにかけられるだけのいい女」になれなかった。
真夏のフェミニスト ribbon

 

「妥当性」というのは、「住所を知らない関係」を言うが、住所を知らないと「訴状」の送達ができない。
つまり、「訴えることができない」のである。
女は「失恋に関しては案外ダーティーだ」とも言われ、女が男に住所を知られることよりも、男が女に住所を知られることの方が問題が多い。
「すべて無くす、そんな胸の距離なら」
つまり、男が「妥当性」を失うと、すべてを無くすことがある。
女の方が男よりも「問題の少ない愛」を知っているのは事実なのだ。
男女がお互いに住所を知ることを「確実性」と呼び、「妥当性」とは対極の関係に置かれた。
これは「和姦」(仮言命令)を行う関係か、「レイプ」(定言命令)を行う関係なのかの重要な区別をするうえで理解しておかなければならない。
周囲にいる「服を着ている女たち」は「mv」である。
しかし、カントのエロビデオに出ている女たちは「mv^2」である。
ニュートンは常に「スピード」(速度・v)をあげることを哲学であると位置づけていた。
新カント派は常にニュートン物理学の優等生だったのだ。
「和姦」(仮言命令)の動画が面白いのか、それとも「レイプ」(定言命令)の動画が面白いのかは人それぞれであろうが、和姦の場合は「相手が何を想像して喘いでいるのか?」という要素を考慮しなければならず(愛)、周囲は動画の当事者の「愛」になど興味はない。
ラカンは、「女の子はお父さんが隠し持っているエロビデオを見て、セックスするときに喘ぐことを知る」としていたが、愛を知るようになると、少女漫画をコマ送りにしていたり、
彼氏の男友達のことを想像したり、場合によっては「テレビに出ている彼氏の姿」を想像したりしている。
これがすなわち「愛」であり、確実性(住所を知っている関係)があり、仮言命令(和姦)であり、それでありながら「速度」をあげていく動画を作るのは「困難なのではないか?」とされている。
軽い気持ちのジュリア 酒井法子

「速度を高めろ」と先生には言われるが、「どのように?」という問題は案外難しい。
公約数的見解は「超越論的」(ちんちんがデカい)という男が、女をより魅力的にすることが分かってきた。
東大法学部は、とにかく「鬱」になるような「男社会の学問体系」を構築し、男社会のルールを決め、「東大の論理」を各企業に押し付けたが、すべて「男のちんちんをデカくするため」であり、男社会のルールだけで「弁護士」として健康的に生きていけるとは思わない方がいい。

カントは本当に「エロ動画」「レイプ動画」の作り方を語った人なのだろうか?
「女心」を純粋理性批判で語ったのではないか?
そのような疑問は、学習過程においては確かにある。
しかし、マルクスだって資本論において「支配と従属」について語っただろう。
マルクスの「支配と従属」がなぜ「革命」につながるのかを私は明らかにした。
そこで、カントの「女心」も、「エロ動画」「レイプ動画」という形で収斂していったのだ。
政府の役人や東大文学部教授は、研究費用を背景に、自分の学習過程を若者に教え、実践させればいい。
そうだ、女は「セックスするときはいつも本気」であり、セックスした相手は「神さま」なのだ。
酒井法子 涙がとまらない

南西学派の、ロッツエは、「陸」の立場から、陸には仕事があるんだとし、無職のニートって何をやっているんだと語った。
「妥当性」(住所を知らない男女)ならば、いくらでも「仕事」はあるだろうと考えたのだ。
早稲田大学に7年も8年もいた「スーパーフリー」のような者もいたが、彼らの「仕事」への社会の評価は必ずしもいいものではない。
懲役14年を主犯格の男に与えて終わっている。
しかし、「大人たち」が果たして、新カント派というものを理解していたのであろうか?
「仕事なんだよ」
南西学派は、「都の西北」において日本国においては現実化したが、年配者の怒りや憎しみはとどまることはなかった。
逮捕して「新カント派とは何か?」を聞き出そうとしたが、平成の「無職のニート」の居場所や退路を大人たちが絶ってしまったのだ。
このあたりは、雇用対策を得意とする民主党政権下であれば別の展開もあっただろう。
音楽作品は平成の時代には非常に充実していた。
ザイン(勃起していないおちんちん)が、ゾレン(勃起したおちんちん)になるための、音楽作品に満ちていたのだ。
みんな「ゾレン」に興味を持っていた。
黒人の「ザイン」に興味のある男女は当然いるだろう。
陸の南西学派(都の西北)は、勃つか勃たないかしか議論していない。
コンビニエンスストアではアイドルの音楽作品を流し、「これが繁栄だ」と誇らしげだった。
昔は、青年実業家や起業家は、「ポルノ動画」を作って、それを架空の契約書を作り、企業の利益に流し込むのは常識だった(マネーロンダリング)。
孫正義も、そのようにして起業したはずだ。
「カントも一歩間違えば犯罪」
このギリギリを生き残ってきた知識人でなければ起業家にはなれないのだ。
「國學院大學出身?お疲れさま」と言って、この「起業の秘訣」を教えなければならない。
おカネさえ循環していれば、そのうち「チャンス」も来るだろう。

 

2019年12月24日 (火)

処女~その高貴さ。

イデオロギーに関してはすでに述べたが、1960年代の東京は「セックスと革命の嵐」に襲われた。
その中でひときわ輝いたのが「吉永小百合」である。
「処女~その高貴さ」
これを語るうえで、吉永小百合や伊豆の踊子は避けては通れないものだ。
周囲が「生娘」がいるために、言動を慎み、生娘に「簡単にセックスすることはできるけど、生娘のままいてもらった方が都合がいい」と考えたのだ。
それは、サークルに「刑法」が必要だったからである。
処女のことを「実践理性」と言うが、構成要件とは「実践理性の定言命令」と呼ばれる。
処女とはきわめてノスタルジックな概念であった。
しかし、処女たちが語る「男らしさ」つまり「処女神学」とは常に「童貞」を意味していたため、少年雑誌の読者に処女を取り込んでいくためには主人公は常に童貞であらなければならなかった。
少年雑誌のセールスが「処女神学」の動向を示していたし、そのまま日経平均株価となった。
少年ジャンプや少年マガジンを読んでいる男は、「自分の周りの女たちは全員処女」という発想が抜けきらなかった。
「性行為非公然性」(アクラシア)というものが出来上がった。
それで、世の中をうまくわたっていけるかは困難な問題だ。
しかし、イデオロギーの確立と同時に、国家は「日経平均株価を上げる」ために、少年雑誌をガンガン売り始めた。
しかも、その内容が「面白かった」のである。
「はじめの一歩」は30年以上にわたって若さと童貞を維持し続けた。
政治的弱者を生み出しかねないのが少年雑誌のセールスであったが、それでも国は豊かにはなる。
CoCo メロディー

優生学は「人間は鈍い方が生きていきやすい」としていたし、女は少年雑誌を読む男の鈍さに「常識を知らない」と感じた。
なぜ、処女神学は童貞男をヒーローにしたのだろうか?
中森明菜 十戒

少年雑誌や処女神学も「男が勃たなくなる」ことは「タブー」としていた。
恋の話で盛り上がれるうちは処女神学は強い支持を受けたりもしたのだ。
酒井法子 天使の館

イデオロギーが確立した時代に、少年雑誌の山に囲まれた男は「エリートではあっても政治家には向いていない」と周囲から奇妙なメッセージが送られてくるのを聞いた。
そうだ、なぜならば「国の豊かさにはつながる少年雑誌」ではあったが、読者は「大衆」と呼ばれたからである。
常識を壊していく「知的トレーニング」が必要であったが、それでも彼は「メシア」であり続けるだろう。
なぜならば「エリート」だからである。
処女神学が「エリート」を生み出していたが、「踊り子と学生さんじゃね、世の中にはどうにもならないことがあるんだ」とおばさんは語った。
あくまでも「おとぎ話」の世界で出会った二人に過ぎないということを物語っている。
「甘美なるもの」ともいわれたし、「幸福の関心と道徳」とも言われた問題だった。
伊豆の踊子

なお、吉永小百合の映画作品の「お相手役」として定番だった浜田光夫が、「事件」を起こした後に、復帰したが、「もはや世論は浜田を受け入れることはなかった」と語られている。
これは、浜田光夫の「童貞性」を世論が認めなかったことを意味するものと思われる。
これが「処女神学」と呼ばれるものだ。

そもそも、処女たちは、君主トマス・アクイナスが、即位するプロセスで自分をいじめた者たちの物語をペテロの葬列として描いたことから、「いろんな男たちの論理」を知り、「シスター」と呼ばれる集団を形成したことにその起源を見出すことができる。
シスターが「いろんな男たちの論理」を知らなければ、スポーツではなく、戦場で人を殺すという戦争が起きかねない。
「平和」というものは「スポーツビジネスにめっぽう強い」者が唱えるものであり、自分がいじめられたくないから権力者が唱えるものではない。
カントはあくまでも「刑法」を作るために処女というものに注目したが、処女たちは「いろんな男たち」を語り合いたがったし、どの男に初体験を許すのかについて関心を抱いていたのだ。
そもそも、1970年のミシェル・フーコーの「生まれながらの男女」が生まれる以前は、「おじ」にいじめれることで男の子はちんちんがデカくなったことから、秘宝館のようなものも「おじさん」崇拝であったし、ペニスエンビーの沿革も「心ないおじ」に求めることが可能だ。
祖先崇拝というものは、叔父とチンポ、おばあちゃんに愛された女の子、という構図が理解できなければそもそも生まれないものだ。
真夏のフェミニスト ribbon

「処女の発見」はそのまま、男の子の「童貞の発見」へとつながった。
そこで、ダビッドソニアン(恋派)と、ウィリアムジアン(愛派)の区別が男の子に生まれた。
酒井法子 恋と愛のニュアンス

恋派(ダビッドソニアン)の憧れがハーレー・ダビッドソン(バイク)である。
恋派とは仏教・マルクス主義を背景にした存在である。
あの夏のバイク 国生さゆり

簡単に女を口説き、簡単にセックスすることができる仏教徒・マルクス主義者には、ハーレーダビッドソンジャパンが「高いバイク」を売りつけることにした。
「女はそんなに安くはないのよ?」
ハーレーに乗る男はどの道「人の心」(心理学)に興味を持ち、そして語らなければならなかった。
たとえ低学歴であってもである。
職場の「人の心の評論家」であればハーレーに乗れたし、たとえ鉄筋屋の兄ちゃんであっても、それさえやっていればハーレーに乗れたので、それなりの読書をするモチベーションにはなった。
給料日になるとポケットに30万円ねじ込んでゲーセンに行く鉄筋屋だったため、愛派の私とは文化が異なったが、その勤労意欲や、「人の心を語る力量」にはそれなりに敬意を払っていた。
ウィリアムジアンは、ウィリアムズの車に乗りたがる大卒(愛派)のことを言ったが、生活費の中での車にかかる費用の割合はそんなに高くはない。
いずれにせよ「文化」が違うのだ。
ピーナツが好きなダビッドソニアンと、柿の種が好きなウィリアムジアンの区別をするために「柿ピー」というお菓子が売られている。
男の「値踏み」をするのには都合がいいのだ。
rebecca cheap hippies

ウィリアムズは「柿の種が好きなブルジョア男」を見抜く眼力は処女にはないよね?と語った。
いい車にいい生活、しかし、人の心に鈍い、そんな人物像がブルジョアには見られた。
私の魅力に気付かない鈍感な人

柿ピー占いは「お育ちに過ぎない」つまり「サラダ」と呼ばれ、のちに化ける可能性を考慮しないものだとも言われている。
しかし、処女たちには「時間切れ」というものがあり、お育ちを見るしか人を見極める方法がない、とされている。
「口に入れるものを見るのが一番正直だ」とされたのだ。
柿ピー占いひとつとっても「楽しき処女の世界」と言われ、男選びを女たちが語り合う論壇(宗教)は、処女が発展させることとなった。

あるいは「落ち着かない椅子の座り方」をする人は「私を軽く見ている」などという見方も処女には必要になってくる。
時には「別の世界に夢を持っている人」という見方も可能ではある。
どっかりと腰を下ろして今の周囲の人たちへの愛情を示す必要があるのは事実であろう。
「自分が買った車か、親が買った車か?」という判断はウィリアムジアンの立場から「椅子への座り方」で研究が進んだ。
将来の可能性は「椅子」で見るしかないと処女たちは語り合った。
目の前の女を愛するためには「椅子にも演技させる必要がある」とされる。
女たちはみんなが「私は生涯骨をうずめるのに完璧な存在」と考えていることも知らないといけない。
あるいは、間抜けな自分の表情を写真で公表できる男は「魅力をいろんな方法で高めていく力量を持っている」とされ、「表に出れない顔」とさほど区別はつかなかったが、とにかくすっぴんで写真に写れる男は才能を感じさせた。
あるいは、すっぴんの写真を公表できる男は「性欲がある」とされ、勃つかどうかが判断できた。
変な「アニメキャラ」などを表に使う男は勃たない可能性がある。
「自撮り」を取りたがる女も同様に性欲があった。
Little glee monster 愛しさにリボンをかけて

男の「才能と性欲」はきわめて処女たちにとって大事な問題だった。

「育ちの良さ」「私への愛着」「才能と性欲」が、柿ピー、椅子、写真からわかるようになっただけでも、処女たちは大盛り上がりだった。

カントは、クリスチャン・ウルフの「レイプ学」から哲学の世界に入っている。
そもそも、現在のカリーニングラード(当時のケーニヒスブルク)で育ったカントは、バルチック艦隊の資金の裏付けを得た人物であるが、日本は日本で、レイプ学に関しては負けてはいなかった。
公衆浴場でシャンプーしている途中の女を犯したり、娘に目隠しをして男とセックスさせ、目隠しを取ったら相手の男が実の父親だと気が付くなど、ウルフの「資金集めの方法」は、「お前、それでもクリスチャンか?」といわれるようなものであった。
いずれにせよ、カントに「おカネの」勘定を教えたのがウルフだった。
伊藤博文は、東プロイセンのこのような「資金集め」をみて「プロイセンを見習いたい」と考えたエッチなおじさんだった。
カントは「イデオロギーの発見」以前の人物であるが、性欲の起源を「悟り」(自殺)に見出している。
こんなことをしたら家庭が崩壊してしまう、そのような「映像」をたくさん作り、人々に提供したのだ。
出演した男や女に多額の金を払えば、家庭は崩壊をとどまるのだから性欲というものはうまく成立した。
あるいは、女に騎乗位で、ちんちんをこするだけで「君、スタイルいいね。うまいうまい。今すぐうちの店で使えるから」といって二人きりの話し合いを撮影し、突然、「挿入」し、女が「私は歴史よ?撮影しているんでしょう?」などとビクンと反応する場面などを研究した。
これが「プロイセン」の国の生い立ちであり、世界で同様の「国の生い立ち」をもっているのは中国だけだろうとされている。
カントほど「処女と非処女」の扱いを明確に区別した男はいない。
金集めに使える女を「純粋」と呼び、秩序の維持のために大事にしなければならない女を「実践」と呼んだ。
挿入が破滅につながる「悟り」(自殺)に性欲の起源を見出し、そのような映像を作っては多額の金銭を支払い、それを視聴者に提供するというウルフの研究を引きついで、カントはその後、「デカすぎるイチモツ」(超越論的)の研究へと移った。
男女混浴の温泉で、女に「デカすぎるイチモツ」を見せて、「いじめられるとこうなるよ」と人生について語り合った。
そのあと、女がマスターベーションするのが分かった。
デカすぎるイチモツに「男の人生」が詰まっている以上、女は話をするだけでマスターベーションした。
そもそも、男女混浴の風呂とは、男の人生を語り合う場所であり、女がマスターベーションするための場所であった。
挿入が破滅につながる「悟り」(自殺)の次は、デカすぎるイチモツに「女の」性欲の起源を見出している。
デカすぎるイチモツから、パイズリをし、胸に射精をしただけでなぜ女が快感の声を上げるのかという問題から「子供が産みたいという感情が性欲の起源」ということは分かったが、なかなかカントの時代には「イデオロギー」までは到達しなかった。
胸に射精をすれば女が感じるというのは重要な論点だった。
「顔ではない、胸なのだ」
これが女の「自意識」というものだと知った。
貧乳レズビアンに「胸に射精をされるのは好きですか?」と問いかける必要がある。
「悟り」(破滅・自殺)型の映像を見たり、デカすぎるイチモツ型の映像を見たり、胸への射精(自我)型の映像を見たりしたら、女は感じるのではないかと考えた。
いずれにせよ、数学者カントに「哲学」を教えたのは、クリスチャン・ウルフであった。
カントは、メジャースポーツに「哲学」を用いることにした。
私も「カントはもっと紳士だっただろう」と考えて、女の子たちにかなり紳士的な「感じる話」をしてきたが、カントもマルクスに負けず劣らず「お下劣」だったのだ。
マルクスを研究した後に、「カント再評価」をしなければ、その「真の意図」を理解することは困難であろう。
超越論的とは「大きすぎるもの、小さすぎるもの」という意味であるが、これを「勃起」と同義であると考えるに至るのにはある程度の哲学の経験値が必要だ。
「見て、聞いて、触って、想像して」射精をするのならば、その「想像」という部分をいじろうとカントは考えたようだ。
高橋由美子 レイニーデイ×3

カントはあくまでも数学者であった。
メジャースポーツのルールを作り(裁断的)、そこでカネ集めの方法を探す(裁量的)な憲法観を持っていた。
観客の男たちは、かつてはそのスポーツを自ら楽しみ、誰よりも「自分をいじめた」選手を見に来ていた。
女たちは、男たちが自分をいじめてちんちんをデカくする場所に集まったのだ。
キャンパスライフにも、同じような「偏差値」「いじめ」が存在し、キャンパスライフを楽しむこともメジャースポーツだった。
片思いの終わりに 亀井絵里

東京大学の「ジャパニーズサバイバル」はいまだに世界的評価が高く、その入学試験のし烈さから、キャンパスで遊んでいても、日本語で試験をやり、日本語で授業をやっていても、世界ランキングは22位とされる。
あくまでも「スポーツ」の観点からのアプローチであり、学者の講義の内容をグローバルスタンダードで見たものではない。
法学も医学も「妻の貞節」さを最大限に活用し「意味不明」な世界観が構築されている。
悟り(自殺・破滅)にこそ性欲の起源があるとしたカントは、「私、売れないからだなんです」という人妻をレイプすることにその沿革を見出すことが可能だ。
プロイセンはキリスト教社会ではきわめて個性的な輝きを見せている。
マルクスほどシンプルに「支配と従属」に性欲の起源が見いだせたわけではないが、「皇帝カント」なりの思索のあとは垣間見える。
だが、「経済学の誕生」とまでは言い切れないために「哲学」と呼ばれているのかもしれない。
他にも、キャミソールを下ろして胸を晒すなど、洋服も「心理学ではなく物理学に頼らなければならない」ことを女たちに教えた「悟り」の可能性もカントは示した。
マルクスの「イデオロギー」に造詣が深かった明治天皇は「王政復古の大号令」を出すに至ったが、カントに造詣が深かった伊藤博文は「先生」と呼ばれ、カフェーの、女主人が「伊藤先生に抱かれれば箔が付くから」と言って、生娘を差し出す有様であった。
カントは「女の子の初体験と悟りの関係」にもその関心を寄せたのだ。
挿入が「悟り」(破滅・自殺)であるというところにカントの真骨頂があり、たとえば、保険の営業レディーに、「カネを払わせるのならばからだを売れ」というような「必然」もかつては横行した。
初体験にせよ、営業レディーにせよ「撮影しなければ意味がない」という側面がある。
女の胸を見ることに「自我」を感じ、男の「デカすぎるイチモツ」に超越論的なものを感じ、最後に「悟り」(破滅・自殺)を感じる、このような「ポルノの方程式」を明確にしたカントは、あきらかに「皇帝」であったし、ネジのぶっ飛んだ男として仲間が多かった。
渡辺美奈代 ちょっとフォーリンラブ

 

定言命令は、自我と超越論的と悟りの三つから成り立っている。
カントは、「エロビデオの可能性」を探求した後に、「義務を守るとは何か?」「キリスト教とは何か?」を語った。
あくまでも「三大ネットワークをしのぐ富を生み出す」方法を探求した後に、「楽しいキャンパスライフ」を提供しようとしたのだ。
「気持ちいいことしたい?」というのを「最高善」と呼ぶが、それは決して「女の側」から言うものではなかった。
若い女が客引きをやって、中年のおばさんが出てくるような世界であるのが現実だった。
瀬能あづさ 愛になりたい

定言命令と仮言命令は、レイプか和姦かの違いの区別を行うために考えられた概念である。
キャンパスでは当然、仮言命令に従って、彼女にカネを払わなければならなかったが、定言命令を知っているかどうかが男の知性というものであり、定言命令を二人で映像で楽しんだ後に、仮言命令に入っていくという方法が穏当かと思われた。
おカネが必要である学生ならば、当然、定言命令は理解しておかなければならない。
ハンディカムと仲間がいればいいだけだったからだ。
カントは、それぞれの女の「育ち」「家庭のルール」から人間らしさを抉り出そうとしたのであり、三つとか五つとか言って女を買っても「面白くない」ことを明らかにした。
自我と超越論的、そして悟りの三つがなければ面白くないと考えたのだ。
おのずと「守らなければならないルール」「市民としての自覚」が芽生えるということから、性行為非公然性(アクラシア)にキリスト教というものを見出していった。
教義が先なのか、エロさが先なのかは明らかではないのがカントのキリスト教であった。
旧約聖書に従って「禿げない方法」「禿げを笑いに変える方法」を私も明らかにしたが、イスラエルの北にあるレバノンでは、公然と「キリスト教ファイナンス」および「教義」が実践され、イスラエルの「陛下」の支持基盤となった。

カントの「自我」(女の胸)、と「超越論的」(デカすぎるイチモツ)、そして「悟り」(破滅)は文明化の象徴として世界に広まった。
我が国が「世界人権宣言」や「国際刑事裁判所」に加盟したことからこのような文化が広まったものと考えられている。
台湾や中国にもすでに広まったが、「朝鮮半島の人間はカントを受け入れていない」ということも考えなければならず、日本国が「文明化」を導く可能性も捨てきれない。
ルター派が「あの女性芸能人が脱ぐ・脱がない」を散々問題にしたことも背景にある。
芸能界がなければ文明化はそもそもない。
道教のサウンドで歌う仏教徒の美男美女が、ヒンドゥー教のきれいな息を吐き、儒学によって人格をぶった切り、削り、磨くことから、アジア地域にカントを受け入れる土壌が出来上がった。
桜蔭女学院の皆さん、先ほど撮影させていただいたセクシャルポーズから、下山さんが「分身」を水鉄砲にしました。
下山さん、最終学歴は?「中卒です」
下山さんは大変立派なイチモツの持ち主です。
それでは、桜蔭女学院の東大を目指している女子高生の胸に、下山さんの分身をぶっかけてみましょう。
「キャー」
カントは、クマやオオカミがいる世の中で「勉強に意味を与える」ということを母に教わった。
母親から、教科書を渡され、読み、要約を答え、母親に正解を聞くということから始まり、勉強こそが自分をクマやオオカミから身を守るだろうと考えたのは日本の神道と共通しているとされる。
やがて、クマやオオカミから身を守る手段は「レイプ学」へと変わっていった。
驚くべきことに、カントの「レイプ学」は、プロイセンだけでなく、多くの国々の「カトリック化」をもたらしたという事実である。
ミスロンリー CoCo

カントは大学に入り、叔父からの経済的支援を頼りに、彼女もでき、ビリヤードの賭けなどで小遣いをためたりしていたが、だんだん「レイプ学」こそが、彼の社会的地位を高めることが明らかになった。
父が亡くなると、カントの「レイプ学」は、強烈な検閲の対象になっている。
カントは学位を取らずに大学を去った。
クリスチャン・ウルフとの出会いは、あくまでも「カネと生活のため」ではあったが、学位を持たないカントが、プロイセン建国に関与することになったのは驚異的だ。
池に石を一つ投げるのならば波紋は普通に拡散されていくが、二つ投げるのならば、ノイズにかき消されて「真理」が分からなくなる。
真理が分からないのならば「官庁」が必要になってくる。
真理が明確であり、「石はもはや一つ」と確定するのならば民営化した方が儲かる。
どの省庁も、「石は一つ」という領域を見つけるたびに独立行政法人を作っていった。
「自我」とは女の胸、「超越論的」とはデカすぎるイチモツ、「悟り」とは破滅、この真理をもって宮内庁が独立行政法人を持つことも可能である。
「レイプマン」の版権を今後、この独立行政法人が握ることになるからである。
カントはあくまでも数学者だった。
月に通信基地を設けるアルテミス計画を夢見ていた。
しかし、現実にはメジャースポーツと「レイプ学」を車の両輪として勝敗を楽しんでいた。
デカいちんちんと女の胸が破滅を迎えるという名曲も生まれた。
荒井由実 ノーサイド

どの国も必ずしもワールドカップで優勝できるわけではないし、オリンピックで金メダルを取れるわけではない。
デカいちんちんと女の胸が破滅を迎えることを資金源にしながら「行けるところまで行く」しかない。
哲学とカネさえあれば適当に強くはなるものなのだ。
どの哲学者も「月」を夢見ていた。
ニュートン以降の「タケコプター」の誕生のためである。
しかし、毎日毎日、スポーツで「感動の再生産」を繰り返しながら「ファイナンスの腕」を磨いた結果、「月」が見えるようになるだけだった。
優しくすれば解ける恋のパズルというデカルト的なものでもなく、イケメンならばいいというヘーゲルのようなものでもない。
カントもまた「歳をとったエッチなおじさん」となっていた。
私は知恵の輪

マルクスの「イデオロギー」が理解できないのならば、カントがなぜ「世界史」に名を残したのかが理解できないだろう。
哲学というものは段階を踏んで理解していくものであるが、私も現在のカントに関する理解はこのような「レイプ学」にあったのだろうという境地に達している。
私の境地は世界最先端の境地だということも補足しておきたい。

カントは、「犯罪を犯したら処女がセックスさせてくれなくなるよ」という実践理性の定言命令とは別のアプローチから、純粋理性批判によって「俺が作ったレイプ動画面白いだろ」と言って、経験豊富な女を男たちの統合に用いた。
純粋理性批判が拡散すると、処女が増えるという効果も見込まれ、処女と非処女は共存する形で「統治」に関与した。
さらに、レイプ動画から、「女の失恋ソング」を生み出すということも行った。
「悔い改めよ」とは、女たちが失恋して、そのぶつかり合った夢の隙間を利用して言語を生み出す営みのことを言った。
飲むことと吸うことを同時にできない男女は「明るい曲しか聞かない」「言葉が不自由である」という指摘が可能であり、言葉の豊かさは「女の失恋ソングが好き」というところからもたらされる。
カントは、純粋理性批判によって「男たちの共通項を見つけた」とし、その統治能力に胸を張った。
さらに、失恋ソングを「処女」に歌わせたのだ。
とにかく、ここまで何もかもが機能した哲学者はいなかった。
切ない童話 こんぺいとう

人々はやりたいように生きればいい、という「目的的行為論」はカントのような自信がなければとれない立場だった。
レイプ動画は、男たちの勃起という名の芸術だったし、失恋ソングは女の「経験論的芸術」だった。
勃起という名の芸術は、勃起を利用した真剣勝負へとそのファイナンスの力量を発揮した。
失恋ソングも真剣勝負に利用できた。
やがてそれは「男たちの心の風景」を構築するに至り、それをやったものは「純粋代表」と呼ばれる権力を手にした。
問題は「ポルノで儲けたカネ」というのは案外汚いイメージがあるな、ということだけだっただろう。
しかし、女の失恋ほどの「ダーティーさ」はともなっていないという現実もあった。
男は失恋と言っても案外フェアなゲームをしているが、女はからだを使うのだ。
玄関のベルを押したりしてダーティな側面がある。
男は経験だけで生きていると乱暴な真似をするが、目的的行為論のもとでは「治者と被治者の自同性」がみられた。
どのみち考えていることや見ているものは同じだったからだ。
カネがモノを言うという意味では、被治者の方がカネを持っていたりする。

カントの構築した世界観はまさに完璧なバベルの塔に見えた。
しかし、フェダー・ガーブ誌は「男をみんなバークレアン(ノンケ)だと思っているのだろうか?」と批判した。
「ゲーテやシラー、フィヒテはそうでも、世の中の男たちは必ずしもノンケではない」としたのだ。
「純粋理性批判ではなく、純粋男原則である」ともした。
しかし、あくまでも商業誌だったため、議論らしい議論はこの程度のものだった。
カントは「私は言論の自由のもとで、試みをしたに過ぎない。フェダー・ガーブ誌こそ私の信者ではないか?」と反論している。
小野光太郎講義 カント~レイプマン

カントは純粋理性批判を改定しているが、「バークレアン(ノンケ)」以外の男の研究は人脈の問題などもあり、詰め切れなかった。
この辺りはのちに、マルクス主義の物象化論が強みを見せることになる。
カントは、日本国における私、小野光太郎のように日本人の9割を信者とする神道に似た、「難攻不落の要塞」を構築したに等しい。
そこで、各雑誌も「カントって社会人としてどうよ?」という議論に形を変えてしまった。
ネクタイの色まで話題になる「時の人」になった。
今夜もニュースホリック 酒井法子

カントは「メディアの噂話」と、自分の著作の両方を使って、論敵を「動けなく」させてしまった。
哲学者としては「カントが散歩する時間に合わせて近隣住民は時計を合わせた」「ヒュームがカントを殺した」などの噂みたいなものよりも「カントの面白さ」を知ってほしいところであるが、カントも社会人として生きていかなければならなかった。
また、カントのちんちんが反応するものとは必ずしも私は同じではない、という男は確実に存在したことは忘れてはならない。
なかには「皇帝らしからぬ女ったらし」などという議論もあった。
最後にはカント信者が「じゃかあしい!!カントがプロイセンに処女を増やしたんじゃ!!」と敵を批判する仲間も出てきてカントの人生は「ここまでか」感が出てきた。
「もうあいつはいじめられていた昔のアイツじゃない」と周囲は語り合い、カントは高貴で裕福な人生を堪能した。
哲学者としては「いじめられていた時期」が一番強かった。

カントは常に、表で表現する自分と、日常生活をより近いものにしようと考えていた。
もちろん、家庭内には「仕事とセックス」は持ち込めないわけであるが、それ以外は、できるだけ「表の自分」を日常生活から持ち込もうと考えたのだ。
とくに、ちんちんというアンテナが感じたことを話そうとしたことは「カントの演繹法」として知られている。
カントは、勃つ男は「常に三人の女を意識しながら歩いている」とし、妻と、世の中の二人の女からの奪い合いの対象になっているとした。
三浦理恵子 Jokeにもならない恋

 

ちんちんというアンテナが感じたことと言っても、それは、経験論ではなく、偉大な哲学者の書物を読んだ結果感じたものでなければならなかった。
政治家が、「カントの演繹法」に関して「発想が大学生と同じ」では困るし、女に侮辱されて勃たなくなることもあるだろう。
あるいは、政治コミュニティーにおいて「必要とされなくなる」可能性があった。
そもそも、カントは「レイプ学」を語って、恐れられた人物であったが、のちに「新カント派」は、女性芸能人たちにも恐れられる「強度」を理論に求めるようになった。
女性芸能人は特に「美しさ」を持っていたため、ちんちんというアンテナが、「男は賢い方がいい、女は美しい方がいい」という形而上学を理解しているかどうかに敏感だった。
女が、お母さんが嫌いになり「病的な美しさ」を表現するようになったら、男に「病的な賢さ」を要求するようにもなった。
私は、NBAでプレーしたことのある人と話をし、その人の「賢さ」には舌を巻いたが、「中学生も一番伸びる時期に、進路の問題と直面する」と語っていたことを冷静に考えると、中学から高校へと「一貫校」にしない方が、「性欲が高まる」ということを、その方はご存じがなかったことを知った。
だんだんと「都会」に自分が近づいていくことを感じないと、性欲がわかないことはコミンテルンの理解と同じものを私も持っている。
私も、いちばん勉強が伸びる時期に、中学三年・高校一年・留学・大検・予備校・東大と6年間にわたって「周囲の女子」がメンバーチェンジしていた。
女子が新鮮だと勉強もはかどる。

デカルトは「恋」について語ったが、「逸脱」の重要性を語っている。
日本国の刑法においては、「表面的に胸に触れるだけでは犯罪ではない」とされており(暴行概念の否定)、「胸に手を当ててよく考えてごらん」と女の子に言って、「人生相談に乗る」ことは、各都道府県の条例の問題とされている。
「周囲に羞恥心を与えた」ことを軽く処罰する(怒る程度)都道府県は多い。
しかし、デカルトの「逸脱」(恋の起源)を否定することは困難だと思われる。
たとえば、私が、読者の女性に「胸に手を当ててよく考えてごらん」と言って、「国に近づけるというのは人間にとって幸せなことなんだよ?」と語るなど、「女心」を語ったら、それは「恋」につながることである。
通学列車 モーニング娘。

令和天皇はそのようにして「男の信者」を増やしていった。
自分の信者の男に「恋」する女の子が多かったからだ。
令和天皇に憧れ、令和天皇の一般参賀も見に行ったが、「あの人」は遠いところにいる。
しかし、令和天皇の熱心な読者である彼氏が、「胸に手を当ててよく考えてごらん?」と言うのである。
その「考え」は、「女心」であり、「プロポーズを頂点とした全体主義」であり、また、「処女とジャニーズ」の世界でもあった。
つまり、レーニン主義もスターリニズムも活用したものであった。
優しさに帰れない CoCo

横浜スタジアムだけでなく、各球場の「横浜一家」は、芸能界に地政学的にきわめて近く、国にも近かった。
しかし、「恋」をする理由はあくまでも「逸脱」にあり、垂加神道に詳しいなどの理由が必要だった。
「神・男の完全性を議論するとそう快感がある」(神・男・聖霊)という記述から始まる垂加神道であるが、一見表面的な「女心」に関する議論も、「女の胸に男が手を当てて」話す、あるいは「女が自分で胸に手を当てて話す」ことから「恋」へと発展した。
赤いスイートピー 松田聖子

あるいは、「エロビデオを見て、女が嫌がっているじゃないか、と考える政治的弱者がいて、それに悩む女の子がいる」という記述もセールスを伸ばした。
いずれにせよ、女の子の胸に手を当てて、あるいは「手を当てさせて」語ると恋につながる。
CoCo メロディー

カントは、「レイプ動画」をプロデュースする方法を考えて、「王が男たちの支持を得る方法」を明らかにしたが、
デカルトも「女の子の胸を触り放題の王の信者」を作ることを考えていた。
つまりは「イエスキリストを処刑から守る」ことを考えたのであり、あくまでもキリスト教の文脈に位置付けられている。
あるいは「セックスとは女が男をコミュニティーから離さないためにやるものだ」ということを明確にし、それとは異なる「恋」というものの楽しさを男たちに教えた。
「離さない」
ribbon レディラブ

そもそも、デカルトが「我思うゆえに我あり」という形で、自我というものを「女の胸」としていたことを踏まえ、プラトンの音楽作品を振り返ってみると、キリストを処刑から救うためには「自分の信者の男に女の胸を触り放題にする」ことをデカルトは考えたのであり、カント以前の哲学者としては、「もはやヨーロッパ中世は終わり」と宣言するのに十分すぎるものであった。
あるいは、「セックスしているときの女は常に本気である」なども哲学もセールスを伸ばした。
ribbon 愛してジャスティス

いずれにせよ、ペテロが、イエスに三度問いかけ、三度目に断念し「眠れ、後世のために」と言ったときに、哲学の世界はすべてが動き出していた。
デカルトもカントもキリスト教の世界のエリート以外の何者でもなかった。
まあ、グルーニンとかをご存じの芸能人女性は「いつか白馬の王子さまが現れる」と信じているため、イエスキリストに心を寄せていれば願いが叶うというのは真理ではある。
しかし、それはヨハネの黙示録で示されているように「哲学者があなたを救済するだろう」という意味である。
好きなように振舞っていいから、という目的的行為論は、信者の男に「女性の胸を触らせる」ことを約束したデカルトと、レイプ動画の作り方を教えたカントにその起源がある。
「デカルト的考え」とは「難しく考える」という意味であり、「カント的考え」はもっとシンプルだった。
処刑されたのはイエスキリストであったが、その救済を考えたのは聖パウロであり、プラトンの音楽作品や、男女の共存とプロレスを考えたアリストテレス以降、王位継承でもはや処刑はないなとした聖トマス・アクィナス以降は、かなり、「安定的国家統治」を模索する方向に、デカルトもカントも向かった。
本当に「野蛮」だったのは「平成の日本国」ではなかったか?
誰もかれもが「すべてを見失っていた」のである。
そりゃ、「エッチな女」よりも「嫌がっている女」を犯したいなとはどの男も考えた。
しかし、嫌がると言っても「オーガズムが痛い」から嫌がるのならば最高の仕上がりだ。
「我思うゆえに我あり」
つまり、まっすぐに強烈なオーガズムと向き合えるようになる年齢というものが存在するとしたのだ。
愛の炎 田中れいな

高校生の「恋」に、垂加神道と「胸に手を当ててよく考えてごらん」という発想をもたらしたのは令和天皇であり、高校生程度で「アイツは危険」などと言われるのは神道信者以外に想定されていない。
ribbon バッドボーイフレンド

「アイツは危険」というのを「明白かつ現在の危険」とも言い、「音符でできた言葉」の言論のことを言った。
女にとっては「音符でできた言葉」でも、男同士で話すのなら「大音響」に近いほどうるさい。
そのために、言論の自由の制約を受けざるを得ない。
しかし、男女の「恋」が激しく燃え上がったのならば、かならず「セックス」は気持ちのいいものになるだろう。
沈黙はレイプにつながる。沈黙は「セックスOK」という意味である。
三対三で「割り切れる」のならば、女たちは「沈黙」する。
この瞬間、「時間が止まる」のだ。
いまだかつての名作を「誤解」しているのが日本のポルノ産業だ。
「胸」「大きなちんちん」「悟り」という三つを誤解している。
映像資料(学術)

沈黙さえ怖くない「恋人」になりたい。
タンポポ 恋のやじろべえ

本当に、「名作」を作りたい人はチャレンジしてもらいたい。
このへんは日本国の女たちの「ブッダへの忠誠心」と説明するしかない。
とにかく「伝説からの教え」(カルマ)にしたがうだけなのだ。

カントの立場から言うと「胸を先に晒した」ことは正解であるが、「悟り」(破滅)の瞬間と「大きすぎるおちんちん」の関係が明確ではない。
デカルト的に「胸に触ったのならば、女心を語り合った方がよかったのではないか」とされるのが電車の痴漢だ。
胸に触れて「女心を語る」のがデカルトなのだ。
カントの立場からならば、「おちんちんと悟り(破滅)の関係」が明らかではない。
女の「リアクション芸」のようなものを見る必要がある。
映像資料(学術)2

小野光太郎講義~デカルト

「胸」を公衆の面前に晒したこと、浮き輪で隠しながら「悟り」(破滅)を見せたこと、「大きすぎるおちんちん」との関係は明らかではないが、女が「これでいい」と考えたから感じたのだろう。
女にダメ出しされたら身も蓋もない。
このあたりで、「胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」は妥協せざるを得ない。
できれば、女の「表情」をもっとクローズアップしてもらいたかった。
重要な部分はクローズアップするという基本が存在する。
映像資料(学術)3

女たちは「夢で見たとおりに犯されたい」と考えており、夢の中では男に理想的な犯され方をしていた。
そのため、カントは「女たちの夢」にまで立ち入って、レイプ学の研究を深めた。
一歩間違えば、女が大声を出し、その場で現行犯逮捕されかねないからである。
「この人痴漢です」とか、大声を出されたら、男は哲学者としては失格を意味する。
夢の世界には「重力」がなかったが、そのため、男は、重力の制約を受けながらもいかに、女を宇宙遊泳させるかが問われた。
女は本来、みんなが「マグロ」であった。
男の指図がなければ動けないのだ。
ラカンの影響から「お父さんのエロビデオ」を見て学習する女の子はいたが、それでも、本来は「男の指図」がなければ動けないと考えた方がいい。
夢では「素敵な男の人と空を飛んだ」という夢を見ても、それをどのように「現実」にするかが問われた。
迷宮のアンドローラ 小泉今日子

天草四郎時貞は、16歳で「途中で体位を変える」ことを知っており「海の上を歩いた」と女たちが噂し合ったが、あくまでも「男が女に指図する」のがセックスというものであり、女が「リード」するものではない。
このあたりも、思春期の女の子の「恋の悩み」と言っていい。
マルクスのイデオロギーのように「何を口にすれば男が興奮するのか?」を考えた人物もいたが、女がシャワーを浴びた後に再び胸を隠させる男は案外少ない。
「胸」と「大きすぎるおちんちん」と「破滅」の三要素をうまく利用するためには、女が胸を晒した後に案外しらけたというのでは困るわけである。
松田聖子 蛍の草原

やがて、お互いの胸とおちんちんを知り尽くした仲になると、定言命令(レイプ学)ではなく、仮言命令(和姦)の研究が必要になってくる。
胸とおちんちんと破滅という方程式は仮言命令の世界にはないからだ。
仮言命令が研究できずに、別れたり男が浮気したりすることもある。
冷え切った関係には仮言命令の研究が必要である。
カントは「女には女友達を」「男には男友達を」作ることを道徳と呼んだ。
道徳こそが「冷え切った関係」を改善するからだ。
「あの女が友達」と思っただけでパートナーの女は新鮮になれた。
カントは「胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」の三要素を使って、エロビデオを評論することで、エロビデオの被写体の男女を「友達」にしてしまった。
少なくとも、エロビデオ評論家になったことから電話が鳴りやまなくなるのが現状なのだ。
「友達の友達はみな友達だ」
これは、すべて「法源」から由来するものであり、自分たちのセックスを気持ちよくさせるためであった。
いずれにせよ、パートナーが「何を想像して」感じているのかに興味を持つことを「愛」と呼び、これがすなわち「愛」の定義になる。
仮言命令の世界に入らないと、「愛」というものはよくわからないだろう。
ジュディオング 魅せられて

「胸」と「大きすぎるおちんちん」と「破滅」の三要素が極めて薄い。
社長がどのような人脈を持っているのか?女がどのような「女友達」をもっているのかを理解しないと、なかなか見ている側は「面白くない」のが仮言命令(いつものメンバーのセックス)であり、愛の世界だ。
社長と女性社員という設定はなかなか筋がいい。
映像資料(学術)4

エロビデオの世界は「何を想像して感じているのか?」(愛)までは持ち込めないことも理解しなければならない。
セールスを伸ばすためには「愛のないセックス」を探求せざるを得ないのだ。
一方、有名人カップルなどは、やはり「愛」の世界に属することになるだろう。
ここで、「愛」というものが「相手が何に感じているのか?」に興味を持つことであるとしたが、カントは「女には女友達を」「男には男友達を」を志向したが、
ヒュームは「全米の男たちがイレクト(勃起)している女のからだ」の方が気持ちがいいとし、プロテスタント(偶像崇拝)を肯定的にとらえた。
ヒュームの原則とは「男と女がいなければなんら世の中に法則らしきものは見つからない」というものであることから、「男の序列は女が決める」というところにその真実が存在する。
しかし、「全米の男たちがイレクト(勃起)している女のからだ」はどのように作ったらいいのだろうか?
「女には女友達を」「男には男友達を」と主張していたカントは、ヒュームの「セックスにプロテスタンティズムを持ち込む」という発想に、「敗北した」と言われるぐらい、アイドルとのセックスには夢がともなった。
しかし、「全米の男たちがイレクト(勃起)している女のからだ」はどのように作るの?
という観点から「新カント派」というものも生まれている。
ヒュームは結果しか述べておらず、「どのように?」を語っていない。
新カント派は、「歌って踊れる」まで事細かに詰めていったのだ。
真実の愛は、定言命令(レイプ)にではなく、仮言命令(胸もちんちんも飽きるほど見た関係)にあった。
Is this love BoA

モーニング娘。のメンバーのように「原発支持」を主張し、資金面のバックアップを得るという政治的才覚からデビューする女の子もいたが、反原発派のレイプは容赦なく襲い掛かった。
また、人間行動学的に考えれば、女は「25万人」の男とキスしなければ「群れのボス」にはなれないとされている。
私は、「鉄というものが恋愛の世代を下げる効果がある」とし、鉄鋼産業をAKB総選挙に持ち込むという才能に恵まれたが、これをやった時に、AKB総選挙は実施取りやめになっている。
「神推し」というのはこのレベルでなければならず、私の登場をもってAKB総選挙は終わったのだ。
芸能界が、「新カント派とは何か?」を知った時に、AKB総選挙でなくても、という認識が広まっている。
また、ヒュームは「女の長話を聞き、おカネを払う」ことから小説を書き、おカネを儲けるという手法を紹介している。
そうなると、芸能プロダクションは「男が経営するもの」となってしまい、女の子には「スポンサー」が必要になってくる。
「女の子を人間として認める」ことの必要性が指摘でき、カントのように「定言命令」(レイプ)や「仮言命令」(和姦)と言った「からだの売買」を抜きにプロテスタントが成立するのは事実であるが、果たして、「女の子を人間として認めた」のはカントなのかヒュームなのかは議論の余地がある。
いずれにせよ、女優や俳優という職業が「大勢のスタッフのエネルギーが集中する」ものであることから、カントの「セックス談義」はヒュームという好敵手の前に「新カント派」へと発展を遂げることになった。
また、西田幾多郎が「皇族や芸能人の女子は処女」と主張したことから、父親が、電通マンのように「スポンサーを見つけてくる」才能に恵まれなければならなくなった。
電話でね 高橋愛

一方で、芸能人のように「愛と誇り」「憎しみと侮辱」の両極端の世界に身を置いて、「いない方がいいと思った」という障害者殺傷事件のようなものも起きた。
障害者とは「芸能人」のことであり、平和・正義・環境つまり「有名人の悪口」(平和)、セックス(正義)、「男の邪魔をすること」(環境)のように、植松被告人と同じ行動原理を取る女性は市民の中の実は大多数ではないだろうか?
そこで、「有名人」=「政治家」が、「治める」とはどういうことだよ?という具合に、議論は複雑化してしまった。
カントの「セックス談義」もとんでもない発展を遂げたものである。
ヒュームの挑戦によって、芸能界というものはできたが、新カント派は必死で「治める」とは何か?も探求した。
ヒューム派ではなく、なぜ「新カント派」と呼ぶかと言うと「定言命令」(レイプ動画)の影響力があまりにも強かったからである。
「治める」とは何か?
その真実はカントにあったし、マルクスのイデオロギーとのちに双璧をなすものと考えられている。
「有名人女性とセックスして俺も有名になってやろう」という男が登場し、「ダークマター」(セックスしただけで有名になる男)の「ダークエネルギー」が発見された。
女の長話を、丹念に記憶し、記述する結果無価値論と、男の発言力の前にみんなが一瞬沈黙する行為無価値論が生まれた。
結果無価値論も、女の話の聞き方次第ではとんでもない情報が出てくるが、それを文章に残すのかどうか?男の「聞き方」だけを文章に残す行為無価値論の立場に立った方がいいのではないか?
という問題も生じ、時代を越えて生き残るのは行為無価値論であろうが、世相の記述は結果無価値論に立たなければならないとされた。
AKBレズビアンが、「男女の間の会話」を怠った結果、顔がむくんできたことから、ヒュームの原則(男と女が共存していなければなんら法則のようなものは見つからない)というものは真理であるとされたし、
それでいて、カントの「胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」の三要素も真理であると考えられた。
「愛の問題はどうなるんだ?」
仮言命令というものは、女が出産によりそもそも感度が悪くなることから、「恋の話が嫌いな女はいない」という前提のもとに、「口説き文句」をカントは純粋理性批判において記した。
男女の「神聖な意思」は、カントの「レイプ動画」に味方していた。
「治めること」「みんなが共感すること」はカントの「胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」の三要素にあったし、定言命令(レイプ動画)を見た後に、仮言命令(和姦)を楽しんだらいいという割り切りも必要だった。
カントは、レイプ動画を公表し、その公約数的見解として「胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」つまり、「自我」「超越論的」「悟り」の三つの要素を指摘した時に、とんでもなく興奮する動画が量産されるのを見た。
そこで、ヒュームは「女の子たちは、自分たちが嫌がっていると男が思ってしまうことに悩んでいる」と指摘したことで、「因果関係」(原因と結果)の議論が成立すると喜んだ。
中森明菜 十戒

気が付いたら女の子が芸能界で知られていたということをカントは「何でかな?」と思ったが、ヒュームの指摘によって「女の子はセックスが大好きになっている」ことが分かったのだ。
「男は賢い方がいい、女は美しい方がいい」という形而上学の結論からも、賢い男としては、このヒュームの指摘を理解しなければならなかった。
何よりもカントは、自分の動画に「女の子の側も喜んでくれていた」ということを知ったのだ。
カントの動画のことを「プロレゴメナ」と呼ぶが、プロレゴメナがなぜ、女性芸能人を作るのかはカントはヒュームの指摘がなければ理解できなかった。
「都合のいい女」として芸能界でも重宝がられた。
ビリヤードボールの「一突き」が、セカンドボールにまで影響を与え、いろんな女がセックスが好きになるのが分かった。
それが「プロレゴメナ」の「因果関係」(原因と結果)であり、女の側が「セックスしたいの」と言うようになっていた。
前田敦子

みんなを喜ばせようとして作ったプロレゴメナ(レイプ動画)によって、有名女性芸能人が生まれることを、「何でかな?」と思ったカントに対して、ヒュームは「女の子も喜んでいるんだよ」と指摘したが、これを「女性芸能人を生み出すために動画を作った」(客観的帰属論)というほど男は計算高くはなかった。
とにかく、目の前の仕事をこなすことだけを考えていた。
しかし、そのような「女性芸能人」が生まれることが共通認識になった時には、客観的帰属論も、動画を作っている男が理解するかもしれない。
「来年は忙しくなるぞ?」
と言っても、スタッフも案外思い付きで話している。
男は才能があれば目指すのは「国家統治」しかないが、女が「セックス」に目覚めれば、目指すのは芸能界しかない。
中森明菜 少女A

カントは、メジャースポーツの世界に介入するために動画を作っていた。
しかし、ヒュームが「女の子が喜んでいるぞ」と指摘したことから、「因果関係」という議論にまで発展したのだ。
なぜ、「女性芸能人」は誕生したのかな?という議論である。
「全米の男たちがイレクト(勃起)している女のからだ」を、女たちが文字通り「裸一貫」から作る方法が因果関係の議論であるが、主観説(女がセックスが好きになったことを理解する)、客観説(男たちが女を支持したから)という双方を取り入れた折衷説が穏当であろうが、女性芸能人を生み出すためにやったという客観的帰属論は、かなり明確な「証拠」が必要になってくるし、そのことを証明することはほとんど不可能である。
「女の子にもいろいろタイプがある」というアリウス派(異端)から、私も化学などの研究を始めたが、最終的には「因果関係というわりと単純な法則にしたがっている」というアタナシウス派(正統)の境地に至っている。
客観的帰属論を支持できるのかどうかは、経験則や論理則などの蓄積がなければ分からない。
カントが仕組んだ「エロビデオの作り方」は、あとは映像技術に委ねられた。ブルーレイと4Kテレビによって、ニュートンの想定していた「月」だけでなく、ケプラーが想定した「惑星」にまで、基地を作ることが可能になっており、2024年以降、タケコプターだけでなくどこでもドアなど、多くの「ドラえもんの道具」が作られていくものと考えられている。
カントは、エロビデオのセールスを伸ばして、メジャースポーツの勝敗を決めようと考えたが、その背景にある数学は「7+5=12」というものであり、競技の寸法を意味するものであるか、それとも「12回対戦すれば賢い方が7勝5敗する」ものであるかは明らかではない。
しかし、少なくとも「イエスを処刑して勝つ」という発想を数学によって糾弾した。
空中携挙などと、暗愚なことを言っていた者たちもいたのだ。
カントは、エロビデオのセールスを伸ばして、メジャースポーツの勝敗を決めようと考えたが、その背景にある数学は「7+5=12」というものであり、競技の寸法を意味するものであるか、それとも「12回対戦すれば賢い方が7勝5敗する」ものであるかは明らかではない。
しかし、少なくとも「イエスを処刑して勝つ」という発想を数学によって糾弾した。
空中携挙などと、暗愚なことを言っていた者たちもいたのだ。
少なくとも、カントには「王政(天皇制)への愛」があったし、それを知らない無知な輩を批判する言論を数学により展開したものと思われる。
スポーツが嫌いな者は天皇制を愛する資格がない。
また、競馬や競艇も「賢い者が7勝5敗」というルールを守っていた。
ギャンブル性を少なくする努力はどの世界でも行われており、エロビデオのセールスにしたがって「7勝5敗」という数字が残ることになる。
これが、「文化の全米並み」を意味し、負けても怒るなよ、これはゲームだ、ということを子供たちにも浸透させる必要があった。
ボクシングの世界では「無敗同士の対決」がしばしば行われるが、資金集めの方法で突出するタイソンストリートやデトロイトスタイルなどの存在が指摘できる。
顔が変形してしまうという競技の特殊性もあり、「究極なまでの人体実験」を行うのであれば、「生きるか死ぬか」というゲームにならざるを得ない。
もっとも、天皇が「生きるか死ぬか」ということに周囲が注目するのはゲームとは呼べず、「対戦相手も同じリスクを抱えていた」ということにゲームの本質が存在する。
「カネを持って来いよ」「これはゲームだ」
これが基本認識であり、本当にイエスキリストを愛したことを意味する。
カントは、「命はイエスからいただいたもの」「イエスが感じる映像に俺たち私たちも感じる」ということをメジャースポーツの世界に持ち込んだ。
もっとも、男のおちんちんにも「6種類」あるとし、勃つ、勃たない、ヤリチン、童貞、精子が出る、出ないなど、「6種類」にもいろいろ解釈の余地があり、「命はイエスからいただいたもの」という境地にはなかなかなれない現状もあった。
また、「男の序列は女が決める」という側面があり、イエスのような「大物」とそうではない「小物」がおり、「イエスが感じる映像に俺たちも感じる」という積極的なプロデュースを行うか、そうではない「消費者」の側に回るのかという違いは当然あるだろう。
いずれにせよ、「自分が感じた映像に周囲が感じない」男が「人間というものはな」という「迷い」を見せることが指摘できる。
「人間」を語るようになったら自分の世界もおのずとそこまでだということかもしれない。
「甲子園球場周辺のすべての仕事」を定款に書き込んだ阪神電鉄のような、伝統的球団もあるし、週末の話題を「日曜版」に書くことにした新聞社系の球団もある。
日曜はダメよ 三浦理恵子 カントは、女をセールスにかけることにした。
そもそも、名誉革命(1688年)の時に、オレンジ公ウィリアムが、ロンドンの「シティ」にオランダ美人を売りつけることに端を発した「女をセールスにかける」という発想が、女を「女である」と考える力(mv)から、「セックスの対象としての期待可能性を持たせる」だけで「mv^2」となることを明らかにしたのだ。
ロンドンの「相場」を考えたのはニュートンでもあったが、ニュートン物理学に「どのような新たな説明を与えるか?」を構造主義と呼んだ。
「相場」に、カントは「胸」「大きすぎるおちんちん」「破滅」の三要素からなるエロビデオを考え、「期待可能性」というものから「mv」を「mv^2」にしてしまったが、マルクスも「性欲の起源は支配と従属」ということを明らかにしたものの、カントほど露骨に「期待可能性」「(セックスできる可能性)、最高善(みんなが感じるエロ動画)を考えたわけではなかった。
モーニング娘。20

モーニング娘。20を見てほしい。
みんな、「服を着ている」(mv)であろう。
しかし、エロ動画の可能性を高める(mv^2)だけでも、女を見る周囲の目は変わってくる。
つまり「速さ」(v)を、哲学によって高めていく方向性をカントは模索したのだ。
現在は、「速さを高めた人物はノーベル物理学賞」という時代なのであろうか?
女が「男と空を飛ぶ夢を見る」ことから、重力というものを考慮し、現実社会で「女のエロさを理論化する」という発想が物理学の世界でとられた。
物理学は、「いくら出せるの?」ということから、技術的には発展する。
しかし、自動車だって、デザインだけが変わっただけで、配線は昔と何ら変わらない。
「いくら出せるの?」が変わっていくだけである。
若者は「恋」をする。
しかし、大人が「カネ」を持っている。
女の子も「若者に」恋をする。
大人の「カネ」は、スポーツであったり、勉強であったり、より複雑な形で、「恋」と絡んできた。
昔は、「おちんちん」たちが向かう方向が「ベストテン」「トップテン」などになって地上波でオンエアされていた。
徳仁親王は、あきらかに「焦りすぎ」ていた。
ハローグッバイ

自らを「大人の世界の大海原」に開放すれば必ず病気になる。
小学生には小学生の、中学生には中学生の、高校生には高校生の「水準」がなければ必ず病気になる。
U-18、U-21などを設定しないと病人が続出するだろう。
東京大学は、大学三年次で「就活」が始まり、講義で話したことを司法試験に出題した。
大学入試の知識を「国家公務員一種試験の教養試験」とも位置付けた。
女の「速度」(v)を速めればいいだけだなどとは、どの日本の物理学者も考えてはいない。
カムフラージュ

イケメンピエロとして、徳仁親王は利用され、芸能界においては「女の速度を速める」ために用いられた。
それでも、一部のグループによって行われたに過ぎない。
殺したいのは弟の文仁であっただろう。
しかし、みんな「同様に年齢を重ねていった」のである。
「イケメンピエロ式」の速度の高め方は、病人を続出させた。
サウスポー

「おちんちん」たち、の全員を敵にさせて強さを求めたのが芸能界だった。
カントは「4打数1安打でいいんだよ?」と発言している。
80勝したら日本一の球団だろう。
「4打数2安打」ならば、何かのメカニックが特別なのだろう。
「4打数3安打」ならば「慣性の法則」が働いたのだろう。
「4打数4安打」ならば、バッティングの世界に何らかの改革が起きるだろう。
アインシュタインは「E=mc^2」という式によって、「重さだけが自分を病気から自由にするだろう」としている。
私も、体重67キログラムを、87キログラムに「基準」を変えただけで、病気が治り、思考力が高まったことがある。
この時期に、「英語の達人」として有名になっている。
今でも続けているのだから、体重はすでに104キログラムである。
ナビが壊れた王子様

体重を増やしていかなければ思考力が低下するのであるから、「フォームの改造」はそれぞれの選手の課題とならざるを得ない。
限界が来たら適当に引退するのだろう。
私の「アカデミズム」からの引退は、靴下をはいていることから糖尿病を免れ、色の白い女とのセックスを避けていることから通風を免れている。
しかし、容赦なく「腰痛」は襲い掛かった。

さて、腰痛が私を襲ったと書きましたが、実は、私の父が、私よりよりひどい形で「からだの自由が効かなくなっていた」のです。
腰痛に関しては今まで研究を公表してきましたが、最後に「家族の文化」を問題にしなければなりません。
家族の文化とは「お風呂に入る」「お肉を食べる」の二つに表現されます。
しかし、私も、過酷な頭脳労働を行い、父もそれに連動して過酷な頭脳労働を行っていたのです。
そこで、私は、金銭面で父に依存しきっていたことから、「熱いお風呂に入る習慣を失う」「お肉を食べる習慣を失う」ということになりました。
父もそれは同じだったようです。
つまりは、「熱いお風呂」「お肉」の二つの「家族の文化」を失うことが「ALS」につながるのです。
父もまだかろうじて自分で歩けますが、私は50歳を前にして初期のALSになったことを意味します。
「熱いお風呂」「お肉を食べる」
この二つの「家族の文化」を取り戻せば、父もまた復活するでしょうし、私も同様に復活します。
本来ならば、東大病院に親子そろって入院すべきところですが、モルモットにされて命を失っては元も子もありません。
「熱いお風呂に入る」「お肉を食べる」という当たり前の「家族の文化」を取り戻せばいいのです。
ローリングストーンズ プロディガルサン

私が腰痛になったという話はさせていただきましたが、ALSという病気を調べてみると、
「お風呂」と「お肉」という家庭的な要素を失うとされていることが気になりました。家庭的と言いますと、当然、「性の営み」を含むわけですが、
私の過剰なまでのストイシズムから、「射精をしなかったこと」を「お風呂」「お肉」とアメリカの医学はほのめかしているのではないでしょうか。
つまり、宗教中立的なアメリカの医学は、仏教における「クンバカ」をこのように表現しているわけです。
俗に「腰が軽くなる」と世の男たちは言いますが、過剰なまでに「腰が重くなる」ことを「ALS」と表現している可能性があります。
このあたりは、ノーベル医学生理学賞の問題として、今後とも調査をしていきたいと思っています。

ALSの調査の続きですが、「お風呂とお肉(プロテイン)」そして「クンバカ」を日課にしていると、お風呂に入った時に、腰の左側(アッパーリム)に、心地よい痛みが来る。 それを、マッサージで「散らす」と、歩くのはだいぶ楽になるし、気分もよくなります。 私が最初にこれをやった時に、周囲は「ファーザーオブゴッド!」と称賛の声を惜しみませんでした。

2019年12月20日 (金)

イデオロギーの時代へ。

芸術は芸術、セックスはキスと表現するのが芸術だ。
しかし、女たちに話して回って分かった「方法論上の絶対」は「方法論上の真理」へと向かった。
開かれた絶対主義は、真理へと向かったのだ。
つまり、「芸術からイデオロギーへ」と到達した。
セックスの作法は人それぞれであり、各人の「イデオロギー」があるだろう。
しかし、イデオロギー(セックスの作法)に真理が見つかったのならば、我々は「イデオロギーの時代へ」と到達することになる。
女に電話して、「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫。痛くない」
「若い女性ホルモンを感じて?」
「エンジンが効いてる」
「あなたの子供が生みたい」
「ああ貴族!ああ官僚!」
「大きい」
「体中の血液をチンポに集めて?」
「オナニーさせて」
「私の柔らかい体を見て」
「いい匂いがする」
「からだが締まってくる」
「秘密は守ってね」と言わせてみよう。
千年の媚薬 CoCo

マルクス主義は、このイデオロギーを「支配と従属」に見出したが、1960年代に大ブレイクした後、1970年代に低調に向かった。
「女たちが本当に従属するのがセックスなのだ」
「私は男を愛せません」
男を愛せない女が私に相談してきたこともある。
胸とは「私とは何か?」という問題であった。
その「胸」がまるで「男みたい」な貧乳であったのならば、男を愛せないのも無理はない。
「貧乳の女」が、1970年代に、男女の「支配と従属こそが気持ちいい」(イデオロギー・マルクス主義)を低調に向かわせた。
私は、マルクス主義が20年かかって経験したことを、二週間で経験できた。
「男を愛せない女」が、声をかけられるのを待っていたからだ。
「男を愛せない女」が、貧乳のコンプレックスを解消し、「処女性こそが大事なんだ」ということを分かってくれる男性に出会うことを「カトリック」と呼ぶ。
「貧乳コンプレックス」の解消がカトリックにはあったし、カトリックがマルクス主義を打ち破ったのだ。
CoCo その胸の扉

本稿においては、すでに「過去のもの」と歴史上評価されている「イデオロギー」というものをもう一度考え直してみたい。
アルチュセールは、マルクス主義(科学的社会主義)の「男女の支配と従属の関係」という性欲の起源に対して挑戦してきた「カトリックの処女性」に対して、「ふざけるな!男女の関係は支配と従属だ!」と戦いを挑んだ。
スターリニズムはすでに「処女とジャニーズ」を、セールスにかけていたが、二十歳を過ぎても処女だというのならば、それはカトリックであった。
カトリックに立脚する女たちがあえて「貧ぬう」などという題材でコミケで本を売っていた。
「貧乳を愛して?処女を愛して?」
それならばスターリニズムとは話が異なる。
スターリニズムは「うら若き生娘」を問題にしていたのであり、「男を愛せない女」を相手にしていたのではなかったからだ。
「千年の媚薬でも落ちない女がいるのか?」
これがイデオロギーの時代へと向かおうとしている国の問題意識であった。
マルクス主義はカトリックに勝てるのか?
イデオロギー(男女の性の作法)さえ磨けば、「男に興味のない処女」はいなくなるのだろうか?

「貧乳カトリック女」をどのように感じさせるかがアルチュセールのライフワークとなった。
戦争で「猫の手も借りたい」という時に、アルチュセールは20代であったがこの問題と向き合っていた。
「男に興味のない猫」を感じさせる方法を考えていくうちに、彼は「共産党幹部」としてデビューしている。
彼自身が、共産党ヒエラルキーの「支配と従属」を嫌ったというのも興味深い。
「猫の手も借りたい」「男に興味のない女がいる」
それならば、どの女でも感じる「イデオロギー」を考えてやろう。
それがつまり「イデオロギーの時代へ」という意味であり、カトリックと大喧嘩をやらかした。
マルクス主義を「イデオロギーの話」と位置付けたのはアルチュセールだった。
フランス共産党は「二十歳過ぎても処女の女がいてもいいんじゃない?」というカトリックに1970年代に敗北した。
しかし、その「試み」「イデオロギー」「セックスの作法」だけは、永遠に語り継がれる宿命にあった。
アルチュセールは、人生のどん底で「じっと病人を見つめた」ヨブ記のヨブにたとえられている。
ルイマル 鬼火

マルクスの「資本論」に興奮しなかった女はいないはずだ、とアルチュセールは考えていた。

彼は、カトリックの「高貴な思想」と、女の子の「男に興味がない」という貧乳の問題は「区別がつかない」と考えていた。
また、ショタコンのように「イケメンにならばイデオロギーを語ってもらったらうれしい」という貧乳女もいた。
しかし、イケメンにはイデオロギーは理解できないだろうという境地に達してもいた。
労働や部活、さらには株式投資などを経験しないと、なかなか「支配と従属」(イデオロギー)は、理解できず、さらに「男が語るだけで女が元気になってしまう」という現象も理解できない。
私はいろんな「男に興味のない女」たちと話してきたが、話すだけでクリニックから姿を消してしまう女性が多かった。
「イケメンは若すぎて駄目だわ」
女たちはそう語り合った。
処女の「高貴さ」を標榜するキリスト教と、マルクス主義は結局、妥協することはなかった。
「イデオロギーなんだよ」
そう主張するか、処女の高貴さに人生をゆだねるかのどちらかにしか男には選択肢はなかった。
「恋愛禁止のガールズユニット」と聞けば、そもそも「男に興味のない女」が寄ってくるのは必然であった。
恋するフォーチュンクッキー

いずれにせよ、資本主義の矛盾(男社会から生まれた若き日の恋)は、マルクスが描いていたが、それを「性の作法」(イデオロギー)にまで引き上げたのがアルチュセールだった。
アルチュセールは気が付いた。
「イデオロギーならばどの女も拒絶しないではないか?」
このことから、キリスト教社会の高貴さと「冷戦状態」になってしまったのだ。
マルクスの解釈論は数多くあったが、それを「セックスの作法」(イデオロギー)としたのはアルチュセールだけだった。
マルクスは「労働の過酷さ」を描いて「何故か」人気を博したが、レーニンは「プロポーズを頂点とした全体主義」を描いた。
スターリンは「処女とジャニーズ」を語った。
しかし、アルチュセールの異才は哲学史に燦然と輝いている。
彼がいなければ、マルクスも歴史の藻屑になっていただろう。
「マルクス主義は医学の世界で生き続けた」のである。
マルクスは、大英博物館にこもって、「労働者の現状」を描いたが、そこに「セックスの作法」(イデオロギー)を見出したのだ。
なぜ、マルクスは「革命騒動」を引き起こしたのかな?
それを鮮やかに描き出した。
弁証論的唯物論とは、イデオロギーを女たちに話すことをいう。
当然、どの強者も「女を口説く方法」は自分なりに持っているだろうが、そこに「真理」を見出すことを指導者の条件とした。
「支配する側」「裁く側」としてのブルジョアは憎かった。
15~16世紀からその感情は根強かった。
「資本主義から社会主義へ」「キリスト教からマルクス主義へ」
そう端的に表現することができるほど、キリスト教社会には「高貴の証」が蔓延していた。
1960年代から1970年代にかけて、世界が「高貴(キリスト教)」か「イデオロギー」かの体制選択を迫られた。
しかし、アメリカ合衆国は、「プロスポーツがある」としてこの議論をもみ消してしまった。
中華人民共和国は「人口が多い方が勝つんだろう」と見ていた。
日本国は「双方のいいところ」を取り込む作戦に出た。
アメリカ合衆国は、共産党を禁止している。
つまり、トランプ大統領が「イデオロギー」(セックスの作法)をセールスにかけたら議会で弾劾されかねない。
それでも、「なんでもありの王位継承に革命はつきものだろ」という割り切りが哲学の世界には存在するのだ。

イデオロギーが確立するということは、「女と簡単にセックスできる」という意味であり、それならば、女の側としては「おカネ」を要求せざるを得ない。
このことから、企業の業績や冬のボーナスなどが女たちの重大関心事になった。
日経平均株価は「女の値段」でありながらも、企業の業績と連動することとなったのだ。
それでも「イデオロギー」は必要なのか?
男がギンギンに勃つようなセックスは国にとっても社会にとっても必要なのだ。
「猫の手も借りたい」という国家の側のニーズと、「俺も働こうかな」という男の考え方に影響を与える。
妻やパートナーであればTOPIX(1700円程度)を支払えば犯罪性はないが、職場の同僚の女ならばジャスダック(3700円程度)を支払う必要がある。
世間話として「イデオロギー」を女に話すことは困難に近い。
女という「性」をここまでシンプルに支配と従属の関係に置いたのならば「おカネ」を払う必要がある。
イデオロギーの確立を見た19世紀以前は、セックスの時に女が男を侮辱して勃たなくさせる行為などが存在し、「支配と従属」「イデオロギー」「セックスの作法」にしたがわないと「気持ちよくない」という現実があった。
イデオロギーの浸透を見なければ、なかなか「経済指標」も明確にはならない。
男を「己の値段以上の高値で」労働市場に売り込むためにも、女の床上手(イデオロギー)は必要なものだった。
「勃てば男は仕事ができるのよ?」
Wink 愛が止まらない

より高品質な商品をお客様に提供するためにはおカネを取らなければならない。
「仕事ができる」ことと「勃つ」ことの連動を何らかのかたちで行わなければならないのだ。
男らしさを語り合う論壇(宗教)と、女心を定義する世界(政治)は、政教分離が一体となって「産業」をかたちづくった。
産業革命が起きてから、「イデオロギーの確立」を見るまで時間はかからなかった。
イデオロギーは、「支配と従属」を性欲の起源とみなしていたため、労働という精神史的文脈は「賃金」を必要とした。
恋バナを語る「司法」と、おカネをばらまく「立法」と、芸能界という「行政」の三権からなる政府が、いかに「恋バナ」「おカネ」「エンターテイメント」を国民に提供するかが問われた。
ローマ帝国の時代は「パンとサーカス」と呼ばれていたが、産業革命およびイデオロギーの確立以降は「恋バナ」という要素が強烈に強まった。
労働にせよセックスにせよ「支配と従属」にはおカネの裏付けを与えようという考え方がなされた。
マルクスは、搾取というものを「どこか間違っているよね?」といろんな新聞記事を集めて記しただけであったが、それでも、女性たちは熱狂的支持を与えた。
リカードの「人口が二倍になれば成長は三倍になる」などの理論は中国も採用しているが、果たしてマルクスが、自分の描いた「支配と従属」の階級社会を「男女の性欲の本質」(イデオロギー)とみなしていたかは明らかではない。
しかし、「労働が男女の間にエネルギーを生み出す」ことを悟り、1848年に「共産党宣言」を出している。
「女はエネルギーの源である」しかし、「女にとってはエネルギーは子宮から湧き出してくるものである」
これをいかに、経済発展につなげるかが重要であった。
うれしい! たのしい! 大好き!

「プロポーズという名の全体主義」に立脚するレーニンや、「処女とジャニーズ」に立脚するスターリンとは異なり、トロツキーはナチズムに造詣が深く、より「性欲のことをマルクスは記している」ことを理解し、クリスマスというものを作っている。
「従属したら快楽を味わえるしおカネがもらえる」
このことを「プロレタリア独裁」に委ねるか、「ああ官僚!的支配」に委ねるかは議論の余地がある。
イデオロギーには、女たちが敏感であり(唯物論)、その快楽を味わわされた男たち(資本論)の熱狂的支持を集めた。
こわいのは「企業の不祥事」などの事件を引き起こして世論から糾弾されることだった。
世界を敵に回すと男は勃たなくなるからである。
ガッツ石松は、減量しているときに「バケツ一杯の水に100万円払いたかった」と語っているが、必要な人がその商品に高い値段をつける。
「どこか間違っているよね?」という権力を糾弾し、世界を敵に回させれば、「イデオロギーに国家予算すら出すんじゃねえか?」と語られた。
これが革命という意味である。
糾弾されるということは必ず「被害者」「被災者」がいるということである。
このことから、イデオロギーを掌握しきれなかった権力者は「慰問」に大忙しとなっていた。
しかし、阪神淡路大震災の時の村山政権も、東日本大震災の時の菅政権も、「イデオロギー」に全く自信はなかった。
それでも、日本共産党は「全く動く気配がなかった」のである。
本当の意味で、私が上述した「イデオロギー」(セックスの作法)を日本共産党は理解していなかった。
「革命のチャンスは二度あった」
しかし、令和の時代には「イデオロギーとは君主が考えたもの」となっており、日本共産党の「夢」は完全につぶされたのだ。
反則を使ったやつは糾弾する、値しない奴は糾弾する、これは野党の考えでもあり、メディアの考えでもあった。
なぜなら、そういうやつが国家予算を「勃つこととの対価」にプロレタリアートに与えかねなかったからだ。
「糾弾」する理由は、説明義務違反・適合義務違反(あなただけが知っているんでしょう?という問題)から始まり、公正・平等であること、パートナーを裏切ったこと、投票プロセス・税収プロセスを懐に入れたことなど数多くある。
マンガ「カメレオン」で、松岡は矢沢に300万円を「お詫びに」支払い、矢沢が受け取ると「食った!」と笑った。
なぜか?
「世界を敵に回して帰ってくるから」である。
しかし、松岡に「イデオロギー」があったのだろうか?
ただ取りされるというのがその時代の背景にはあった。
世界を敵に回したら、「追加融資」を求めてきて土下座するだろうと松岡は考えたようだが、それでは革命にはつながらない。
私の考えた「イデオロギー」(セックスの作法・性欲の起源)はおそらく真理であろうが、それが風化した時にはインフレになるであろうし、「新しいイデオロギー」を考え直さなければならない。
肉体派労働者に中学高校時代に守ってもらうために、虚弱な男はカマを掘られていた。
「大人になっても図式は同じ」であるのならばそれは「ベーシックインカム」つまり「背広組と制服組の賃金調整」を認めることになる。
ベーシックインカムの議論とは「肉体派の男に虚弱な男が守ってもらう」という議論である。
未熟練工の世界でベーシックインカムが問題になるのであり、「頭脳がすべて」という連中はベーシックインカムは問題にはしていない。
頭脳がすべてという職場を「スイートショップ」とも言う。
また、営利目的の「代理母」などは、「両親がどのようにロマンティックラブに支えられ、どのように子供を授かったかの物語がない」という指摘も可能であろう。
イデオロギーというものは「子供を授かる」ことそのものにロマンティックさをもたらすのだ。
松田聖子 抱いて

自己疎外とは、自分と世の中が遠くかけ離れることをいう。
東大に合格した私も、フィギュアスケートでオリンピックで二度金メダルを取った羽生結弦も「自己疎外」は経験している。
羽生は、トロントの家で、日本語のテレビ番組を見るのを趣味とし、近くのナイアガラの滝にも行ったことはない。
世界各地を旅しながら応援するファンがいて、イベントで二万のスマートフォンに狙われたこともある。
周囲が「女を遠ざけてやろう」と考えることが自己疎外の原因であり、私も「女は幻」と考えるようになり、アイドルを創造した。
「聖母マリアを信じるか?」
それは「お前はスターか?」といわれているのと同じ意味なのだ。
なぜ、マルクス主義は、この「自己疎外」に注目したのだろうか?
革命が起きる可能性があるからだ。
特高警察赤狩りは、そのような男に女をあてがう仕事を行っていた。
阿修羅少女

ひきこもって聖母マリア崇拝している男に、周囲は案外好意的だった。
近所のおじさんやおばさんがクリエイトしている作品であったり、私の場合は父方母方の祖母がクリエイトした作品を見ていたからだ。
マルクスは、フォイエルバッハに「好きなものを見なさい」と言われ、エンゲルスの送金だけを頼りに、生涯質素に過ごしたが、彼のフェティシズムは「労働の支配と従属」にあった。
男のフェティシズムを質素な生活の中で「支配と従属にある」とさせたのはマルクスであったし、それを明らかにした周囲はほとんどネジがぶっ飛んだ連中だとしか言いようがなかった。
からだを売らずに労働や勉強などを男ができるのだろうか?とも言われ、いずれにせよ、ひきこもって「聖母マリア崇拝だけしていいよ」と言われるのはスターの特権であったし、そもそも「季節だけ変わる」という経験もスターにしかできないものであった。
Melody 季節だけ変わる

「神を信じたい」
その気持ちが、男女をひきこもりにさせていた。
女は「レイプや女嫌い」だけが神に失望する理由であったが、男はもっとタフだったものの、それに類似した理由からひきこもりになっていた。
マルクスは、自らの「資本論」が男女たちの熱狂的支持を集めたのを見て、「俺のフェティシズムは正しかった」と喜んだし、それを「真理ではないか?」と考えた。
そこで「イケメンにこのセリフを言わせてみよう」と考えて選ばれたのがヘーゲルだった。
ヘーゲルにはマルクスのような人生の苦みなどなかったし、ヘーゲルが言った方がいいのかマルクスが言った方がいいのかは対立があった。
愛の倫理社会 おニャン子クラブ

レズビアンのカテリナとローラは「従属ってのは違うと思うんだ」と語った。
しかし、かなりレズビアン特有の「攻撃性」をもってマルクスを「獲りに」来た。
マルクス主義の起源が「自己疎外」つまり「自分と世界が遠くかけ離れる」状態にあったのは事実であったし、ひきこもりにならなければ男女のフェティシズムは明らかにはならなかった。
さて、マルクスのフェティシズムは「支配と従属」であったが、それはあくまでも「ノンケのもの」とし、「俺もいろんなものを国に売りつけたい」として「物象化論」というフェティシズムの議論が発展した。
しかし、物象化論を「国民が」拒絶してしまったのだ。
「ヘンタイは国民のわずか8%」という現実を痛感したのが現状だった。
「支配と従属」というノンケだけの世界ではないという論陣は根強く残ったが、マルクスの「イデオロギー」ほど高く国に売れたものはなかった。
皆さんも「フェティシズムの向こう側」に関する議論は「日経平均株価を暴落させるだけ」ということはよく理解しながら財務省や日銀に売りつけた方がいい。

プロレタリア革命について 小野光太郎講義

ブルーノ・バウアーは、思春期の頃に、合不合判定テストを上智大学で受けるなどして、東京の「層の厚さ」を感じなければ、性的に不感症になると考えた。
東京という大都会は、進出がきわめて困難であるからこそ、横浜などに「性欲」をもたらしていたのだ。
東京・名古屋・大阪・福岡の「四大ドーム公演」は性欲の象徴であり、実際にそれを行うと、周辺地域に性欲がもたらされた。
これが「マルクス主義の温床」となった。
最初から「東京出身」などという人は、そもそも「感じない」「野心がない」可能性があったのだ。
大都会の壁を思春期に感じるというのはそれほどのちの人生に必要なことだった。
東京進出が困難だと考えても、東京に住むよりはまだ可能性があるのだ。
東京パフォーマンスドール ダイヤモンドは傷つかない

マタイもマルコもルカも「地方出身者の性欲」について語っている。
パワフルなエネルギーは横浜市港南区にしかないのではないかと思うぐらい、私の出身地は芸能人や有名人に満ち溢れていた。
マタイもマルコもルカも、聖書には珍しく「聖母マリア」という女性アイドルについて語っている。
バウアーは「ヨハネのゴスペル」なども研究した。
田舎者ヨハネこそがメシアなのではないかと考えたからだ。
赤いスイートピー 松田聖子

東京に「下宿」し、各自が故郷があるという図式以外にサクセスストーリーは見いだせない。
「上京した時に何もかもが新鮮」でなければ性欲は生まれないのだ。
オーディションをやっても「君、俺と相性がいいね」というぐらい感度がいいのは田舎の女だった。
ドイツで、バウアーは「ダウンタウン」というものを作った。
ウォルマートは「地域の人材発掘」と称し、各地方にコンビニを作った。
コンビニエンスストアチェーンと結びつかない小選挙区制は想定できない。
マルクスの「共産党宣言」は、ベルリンで「お笑い」にはなったが、「田舎者って面白いね」というリアクションにとどまっている。
「地政学で勝者は決まっている」とも言われている。
国会議事堂や東京タワーが近くにある「下宿」と、そのような風景が全く想像できない「故郷」にこそ強烈な性欲と野心が集まった。
中学受験の時に弱くても、大学受験にめっぽう強い、あるいは、社会人としてのポテンシャルも高い「ヨハネ」はこのようにして生まれた。

ニューヨークブルックリンのマービン・ハグラー、ニューヨークキャッツキルのマイク・タイソンなどは、「両腕を動かすことが性欲につながる」ことを証明している。
つまり、アルツハイマー病も、パーキンソン病も「左腕・右腕の問題」ということを医者は冷静に見ていた。
皇居ランナーなど、両腕を動かすことの快感に取りつかれる東京人は多い。
マルキュースも「体育館」から都会人としてのキャリアを始めている。
体育館がなければ性欲がわかないのが都会人だったからだ。
マルクスの「イデオロギー」はなぜ、共産党宣言で敗北したのだろうか?
これが、大都会という問題であった。
やがて、その発想は所得再分配と大都会のあり方にもかかわる問題へと発展している。
異常性欲を疑うのならば、思春期の「大都会の壁」と、その後の大都会進出を研究しなければならない。
Maji で Koi する5秒前

マルクスの共産党宣言はなぜ大都会で敗北したのか?
アメリカ中西部の女たちはいまだに不思議がっている。
私も東京大学ボクシング部で「レフトフッカー」として、左フックの魔力に取りつかれている。
都会の人間の性欲とは左右の腕にその起源が求められる。
大都会では両腕を動かさなければ、目が死んだ魚のようになるだけだ。
東京の人間はとにかくセカセカしていなければ性欲が萎えるのだ。 「空いている電車で立っている方が落ち着く」 私の顔 タンポポ
マルクスの「イデオロギー」は、田舎では「信者」が多くいたが、都会では「お笑い」に過ぎなかった。
このことから、マルキュースは、大都会と帝国主義の研究を深めることになったのだ。
マルクスの共産党宣言が第一インターナショナルであるならば、第二インターナショナルは「地方と都会の問題」に気が付いた存在だった。
東京において、共産党は第二インターナショナル以降、「大都会の問題」が得意になっていったのだ。
大都会と「性欲」の関係を理解しているフランクフルト学派はとにかく恐れられた。
エリート主義と「標準語」まで作り上げた。
また、大都会では、性欲を掻き立てるために、女性たちはファッションや美の探求にこだわった。
女に買い与えるものは洋服でも食べ物でも「商品」と呼ばれた。
売買するものすべてが「商品」であり、盆栽でも花屋に並ぶサイズのものは「商品」と呼ばれている。
そもそも、女のからだが「商品」だった。
ケインズは「おカネとは金額が数えられ、女が買え、どの女にも通用するもの」としている。
「いつも同じ服を着ているから」入店拒否にする心ない個人事業主もいたのだ。
女一人口説けない男とみなされたのだろう。
Complex Rambling man

第二インターナショナル(コミンテルン)は、「イデオロギー」のセールスを見るだけではなく、都会における「商品」の流通に、革命や帝国主義の可能性を見出していた。
アダムスミスは「いい大学に入って、いい会社に就職して」という方向性を正解としていた(究極)。
マルクスのイデオロギーも、フロイトの「女心」も、真理ではあっても東京進出は困難であるとコミンテルンは考えていたようだ。
東京で「お茶の間」の人気を博す程度に終わるのが「真理」であった。
東京の人間はとにかく「一次元男」と呼ばれるほど「動かなかった」のだ。
基本的に、エロ・グロ・ナンセンスしか売れなかったが、マルクスやフロイトも当然セールスを伸ばした。
女流作家の版権がテクノロジーを進化させた。
外国人のロッドの物語が女流文学だったのだ。
大都会の「一次元男」を動かさなければ権力が動かなかった。
そこで、マルクスのイデオロギーや、フロイトの「女心」をフルに活用することになったのだ。
都市化の進んだ日本国では「ジェンダー差別」が先進国最下位であるが、それも「日本帝国主義」ならではであろう。
真夏のフェミニスト ribbon

イデオロギーというものは「時の権力者」が裁断的に決めるものである。
あるいは、うまくイデオロギーを決めたものが権力者になると言ってもいい。
イデオロギーは財務省や日銀に伝わり、立法がばら撒くカネにつながる。
つまり、口説き文句(法律)が生まれるのだ。
男は話を聞くことを覚え、女は優しくなることを覚える(恋愛)。
しかし、男は話を聞きながら、うまく女を口説かなければならない(法律)。
イデオロギーとは「法律の向こう側にある」「本番」のことであるが、それでも男たちは女を口説く方法(法律)を知りたがるだろう。
いきなりイデオロギーを語られたのでは、女も「男の値踏み」ができずに、その気になれないものだ。
そのために、法律の力量を聞いてからイデオロギーの話を聞きたがるのが女だ。
イデオロギーというものは、とにかく笑いを取って「証明」するものである。
資本主義の矛盾とは、法律を勉強するか中学高校で恋をするかの選択を迫られることをいう。
中学生の時にセックスしたら、内申書に響く(麹町中学内申書事件)。
女を口説く方法(法律)を学ぶ機会を没収されてしまうのだ。
これがマルクス主義に対する日本政府の扱いであった。
イデオロギーは時の権力者の権力の源泉であった。
しかし、法律(女の口説き方)を研究しているうちに気が付いたものにすぎず、より社交的に、担保(女友達)を増やしていくためにはイデオロギーだけではなく法律を知る必要がある。
「小野さん、みんなあなたのこと頭おかしいってさ。法律に関して聞かせてください」
私はこのような感想を女性からいただいている。
権力を得るために必要だから明らかにするイデオロギーも、女の口説き方(法律)の知識がなければ意味がない。
本番で何をするのかを理解してから女を口説くのが普通だろう(法律の源泉としてのイデオロギー)。
四月は風の旅人 松田聖子

「賄賂と認定するためには対価性が必要」「あくまでも経営判断によるもの」など、弁護士は独自の「日本法」を東京大学で学ぶ。
しかし、それでは芸能界にナメられたままであろう。
すくなくとも、イデオロギーと法律は「日本法」に合わせて学ぶものではない。
あるいは、処女とその高貴さを体制選択において行った日本法が独自の発展を遂げたのかもしれないが、世界レベルで通用するものではない。
少なくとも、日本の芸能界は「法律=女の口説き方」という発想をすでに受容している(民法典論争の敗北)。
「私と話をしていてゲームやマンガの話ばかり?」「もっとロマンティックな」
法律(女の口説き方)とはそれほど女たちに人気のあるものだったのだ。
「テレビで言っていること」を真似すれば、司法試験にも国家一種試験にも受かるというのであればそれは所得倍増計画であるが、私の「横浜ボーイスタイル」をテレビが採用することはない。
行政事件訴訟法(芸能界の架空の話)がテレビに蔓延しているうちは、所得倍増計画は打てないのだ。
「結婚も嘘」「子育ても嘘」そんな現状を苦々しく私は見ていた。
「リーガルマインド」
これを「モテる男」は持っていたし、みんなが真似をした。
しかし、「今までの国家試験」がある限り、所得倍増計画を打つのは難しい。
ドラマを録画してセリフを暗記するのが国家試験対策であるというのが理想であるが、それも「今までの国家試験」がある限りどこかで調整が必要だ。
プロフェッショナルの大衆化というのは多くの利権に阻まれる。
来年の大河ドラマの明智光秀すら、私は「所得倍増計画につながらないではないか?」と考えている。
もっとも、私のブログの読者にはすでに「所得倍増計画」は伝わっていると思う。
なぜ、所得倍増計画は受け入れられないのだろうか?みんな「アウシュビッツ」が怖いからなのだ。
アウシュビッツのトラウマが生々しかった時代にしか所得倍増計画は打てない。

社会主義とは、「女がからだを売った」ら、日経平均株価以上の富が国家にもたらされるとし、芸能界などの「負の側面」におカネを流そうというラポールの思想をいう。
「からだを売る」「からだを張る」ことほど国家に富をもたらすものはなく、からだを売った女だけにとどまらず、からだを張った男も社会主義の恩恵を受けることができた。
「小野君、朝から晩まで勉強して」
そんな私も気が付いたらラポールという体育館で運動をしていた。
愛される女はセックスしていたし、愛される男はからだを張っていたのだ。
「愛」が社会主義の根底には存在し、基本的には「労働」の世界のことを意味した。
国策としては「お年寄りやお体の不自由な方」を丁重に扱うことを社会主義と呼んだし、その方が国が豊かになった。
人生にはいろんな出来事があるが、からだがガタついた人間ほど国に貢献した存在はない。
大雑把に言うと「愛」なんだよね。
愛の対象になり、異性を慰めてきた人生が今の姿となっているのだ。
最後に、共産主義イデオロギーへと発展するかは明らかではないが、とにかく「からだを売った女」「からだを張った男」特に「芸能人」を手厚く扱おうという思想であると言っていい。
女が「男の序列」を決めているのだとすると、からだにガタが来た男は、序列が高いのが通常である。
「才能/必要」原則とも呼ばれ、これが障害者自立支援の思想になっていることは明らかである。
しかし、老齢年金や後期高齢者医療は手厚いものがあるが、資本主義社会は必ずしも「芸能人」には寛大ではない。
芸能人であるのならば、自力で「富」を集める才能が見込まれているからだ。
私は、からだを張った人に富をおすそ分けすることはできる。
それは「社会主義思想」である。
日本国は、社会主義思想を表立っては採用していないが、財務省や日銀は「可能性」としてそれを組み込んでいる。
あるいは、私は立憲民主党や国民民主党・社民党の政治家が本来果たすべき役割を演じているのかもしれない。
社会主義思想は「意味のない苦労はさせない」という意味でもあり、ブッダへの忠誠心を求める仏教の世界は、なかなか社会主義思想とは結び付かない。
むしろ「マルクス主義」と仏教は近いと言っていいい。
「意味のない苦労をさせる」
それは、豊かさが約束された人々が行うものだ。
2~3時間、法事で正座したら御馳走が食べられる。正月に義実家に帰省したら御馳走が食べられる。
すべて、「当たり前ではない」ことなのだ。
からだを張った人間に豊かさを約束するのが社会主義思想であるが、それが実現するのならば共産主義体制への移行がなされたことを意味する。
すべて、指導者の力量次第である。
義実家で正座させられた奥さんがいるのならば「何を食べさせてもらったか?」を思い出さなければならない。
社会主義細胞は常に資本主義国家で地下活動を行っている。
いろんな人にいろんなものを与えているのだ。
自分の選挙区においては政治家だけは社会主義体制を敷いているはずだ。
私は本ブログを「からだを張って」書くことで、「知的社会主義」を実現している。
資本主義体制の中から、いろんな「贈り物」をする人が社会主義体制を作り、最後に「イデオロギーのもとにある」共産主義体制へと移行する、これがプロレタリア革命である。
「人にものをあげているうちに分かってくる」
そのような境地に達するのだ。
仏教界の中枢は「涅槃」(苦のない世界)とは何か?という問題に沈黙した。
社会主義体制を経験して気が付かなかったか?というのが答えだった。
社会主義体制は「権力の集中」を引き起こすために敷くものだ。
そのため、各政治家は自分の選挙区を社会主義体制にしている。
これを「国家レベル」で行ったのがソビエト連邦だった。
「意味のない苦労などない」
これが福祉の奥義であるが、福祉の現場では、個人的な「恋」という感情に頼っている側面も指摘できる。
「恋」とは「仲間が多い、何かやってくれそう」という男に抱く感情であるが、それはそれで芸能界では成り立っている。
Melody 運命’95

自らがからだを張って苦労し、のちの世代に苦労を残さなかった「小野社会主義」に財務省や日銀は染まっている。
「これが政治なのだ」
自らが知的な困難に立ち向かい、のちの世代に楽をもたらす。
「これが政治家なのだ」
毛沢東やレーニン、スターリンなどはそうだっただろう。
天皇制は君主制である。
しかし、マルクス主義とどのように異なるかの答えはいまだ見いだせない。

また、従来の「軍事オプション」による占領ではなく、「宗教スポーツ」と「アイドル」「芸人」が結びつくことから、日本に住んでいる朝鮮人・中国人・ロシア人を、女の子ならば「神道系音楽」を歌わせることにより、あるいは男の子ならば「お笑い芸人」にさせることで、本国の男の子たち、女の子たちが「結婚したい」と考えるという手法で、植民地化を進めてきたのがプロテスタントによる政策であった。
日本国の「神道」は現在、「世界で最も洗練された」レベルにあり、朝鮮・中国・ロシアのアイドルを生み出すのはたやすい。
あとは、子供たちの語学力次第である。

 

2019年12月10日 (火)

プラグマティズム~君主の真似をして生きる。

世の中には、高校時代に恋をする「恋派」と、恋を追い越していくエリート(愛派)がいる。
しかし、愛派が、「恋派にもわかるように話す」ことをプラグマティズムと呼ぶ。
つまりは、大統領であり君主である。
人々は、笑って君主や大統領を支持した。
酒井法子 恋と愛のニュアンス

「人間が何を共有しているか?」に気が付かなければ大統領にも君主にもなれないのだ。
人間は、「譲れないもの」(意思の自由のないもの)つまり「エゴとフェチ」を持っているが、譲れるもの(意思の自由のあるもの)で非常に興奮すれば笑って大統領や君主を支持する(記号論)。
デューイは、1931年に「ノーベル平和賞」というものを考えたが、何を見ていたかというと「記号論」(人々を興奮させる文章・芸能界)を理解しているかどうかだった。
その後、ノーベル平和賞は、ニューディール政策や東西冷戦を経験した。
ニューディール政策を行ったルーズベルトやヒトラー、あるいは東西冷戦下の世界の指導者が「肉声を語らなくなった」のである。
なぜなら「自分よりも頭のいい指導者が世界にいると戦争になる」からである。
また、守るべき家庭があると、なかなか「恋派の合意を得ることができる愛派」は生まれなかった。
そこで、自分に子供ができたときに、愛派はようやく「柔らかく」なることを覚えるのだ。
「子供が誘拐されたときの、いざという時」を覚悟するから柔らかくなると考えられている。

1870年に、ハーバードでウィリアム・ジェームズは「女心(形而上学)クラブ」というものを作っている。
「タフなハートを持って噛み砕こう」をモットーに、哲学を柔らかくしていったのだ。
それは、神聖ローマ帝国を滅ぼしたライプニッツ・ナポレオン系の英語よりも、さらに「柔らかい」ものであった(1907年)。
なによりも、「私の子供たちに理解してもらいたかった」とジェームズは語っている。
我々は、そもそも「ノイズのない、音符でできた言葉」を話せるのだろうか。
音符でできた言葉ならば、そのまますべてを貫通してしまうだろう。
松田聖子 四月は風の旅人

愛派は「セックスに至るまでの複雑な理論、セックスした後の複雑な理論」には詳しいだろうが、「性の作法」を語るようになるのならばラカン以来の、大統領であり君主である。
「ドピュッとやるだけが人生」と語る坊主に、その前の複雑な理論とそのあとの複雑な理論が理解できるかはその人の力量であろうが、結局、「恋派」はそれにしか興味がないのかという達観が得られた。

理論と言っても、貧乏セックスは犯罪だということから、クラミジアを研究して、「NHKの集金人が貧乏人にあしらわれて、蜘蛛を家に放り込んでいる」とか、「NHKに出演すると尻の周りがかゆくなる」(青銅の蛇)などを理解することが必要でもあるし(梅毒)、それ以外にも恋愛論は山ほどあった。
音楽作品は「プロポーズを頂点とするもの」であった。
しかし、「性の作法」(セックス崇拝・キリスト教)は、真理として確定しているではないか?
日本国の「神道」もそのことに気が付いていた。
「おばあちゃんが必死でいじめを食い止めてくれている」(祖先崇拝)、何を見ても太陽(男)が月(女)を理解して、世の中を動かしていくものだということの学習も必要だった(自然崇拝)。
高橋由美子 おみくじ

記号論にとって、「哲学の敵は反知性(イビド)」であり、常に和解の道を探っていた。
結局「男の人気」に書き換えるしかないんだよね。
チャールズ・サンダース・パースは、そのようにジェームズのプラグマティズムを発展させていった。
「記号論とは、人々を興奮させる文章であり、芸能界でもある」
芸能人を多く見た結果、変態や狂気と接することになるであろうし、それでも、公約数的見解は「性の作法」にあることを知るのだ。
彼らを見た結果「自分が何をやったらいいのかを悟る」これが必要だった。

ウィリアム・ジェームズで完成していた理論が、プラグマティズムであり、記号論であったが、それはあくまでも「土台」であり、ジェームズは「処女の向こう側、お父さん以外の男に裸を見せる女」(セカンドラブ)にまで深く立ち入ってはいなかった。
中森明菜 セカンドラブ

処女とセックスするのは難しい。
何故だろうか?
セックス崇拝をしている連中が男に「硬いもの」を窓から放り込んでくるからである。
「恋派のバカども」と言いたくなる気持ちをこらえきれなかったら大統領や君主にはなれない。
警察は「赤い息を吐くな」で済ますことができる話が、政治の世界ではそれでは収まらなかったのだ。

処女とセックスすることが難しい、恋派の連中の納得を得なければならない。
このことと向き合ったのが、チャールズ・サンダース・パースだった。
自分は子宝に恵まれ、「パワフルな政治」が可能になるが、それでも厳しいスポーツになる。
自分の学問がスポーツとして成立したのならば、本当のメジャースポーツにも生きるようになる。

このような経緯を経てできたのが、共和党だった。
自由民主党と公明党が「共和党」を名乗ることは可能であろうか?
このあたりは「神と仏」の学問となり、非常に勉強になる覇道である。
つまりは、「横文字」をうまく日本語に翻訳する才能だけがそれを可能にするだろう。

一人上手と日本経済一人勝ち理論

アベノミクスはこれから始まる。

いずれにせよ、プラグマティズム(君主の真似をして生きること)が、記号論と出会って、恋派と愛派の妥協点を見出すことを「真理」と呼んだ。
クンバカが真理だとする連中と、セックスが真理だとする連中の「真理は同じ」ということを知らなければならない。
民青(中堅校出身の東大生)と、原理研(一流高校出身の東大生)に妥協点はあるのだろうか?
一流高校の連中は、カマまで掘られて生き残っていたのだ。
妥協点は抜き差しならぬ問題とならざるを得ない。
それを「真理」と呼ぶのだ。
愛派には、「常識に戻ろう。恋の生み出すお金は無視できないだろう?」という問いかけがなされた。
この問いかけを行わなければ、愛派が「ギリシャ哲学」を振り返ることもなかっただろう。
「男が勇敢な形で敗北する」「反則を使った神が無様な姿で負ける」
これを「笑顔でノーサイド」と呼んだ。
「恋」だけは彼を見捨てなかったからだ。
笑顔でノーサイド 宮前真樹

日経平均株価というのは、上昇すれば「日本国の豊かさ」が増すことになる。
しかし、なぜ「下がることがある」のだろうか。
答えは「失業率の増加・利上げ・インフレ」の三つにある。
女たちが魅力を増せば、株価は上がるが、「あいつ仕事ばかりしてすべての女を独り占めしようとしているのか?出て行ってくれ」などの失業の理由があったり、利上げというのは「クビにしたい上司がいる」から行うものであるが、権力を利用して、部下から女を奪うなど、女の魅力が高まる日経平均株価の上昇は必ずしも歓迎すべきものではない。
また、インフレというのは「感じなくなる女が増える」という意味であるが、「ひきこもり主婦」のように、セックスのし過ぎでノイローゼになってしまう女性もいることから必ずしも日経平均株価の上昇を望んでいない人たちがいる。
「失業率の増加・利上げ・インフレ」の三つがあるから「株価は右肩上がりではない」という現状がある。

また、日経平均株価は必ずしも「女理論」で割り切れるものではないとの指摘も考えられる。
世界経済の影響を受けるのは事実であるし、また、企業の業績に従っているのも事実である。
しかし、「切れ味のいい理論」ならば使おうではないか?

まあ、「君主の真似」をするのがプラグマティストだとするのならば、あとは「経験」に委ねるしかない。
「女性にモテた」「気持ちよかった」「健康になった」などいろいろな経験談に頼るしかないのだプラグマティズムであり、人々の経験がなければ議論する理由がない。

君主は、スタンフォード大学の高等教育を受け、カリフォルニアのエリートだった。
オックスフォードの英国紳士と「言っていること」は同じではないか?
また、「仕事とセックスは家庭に持ち込まない」という人もいるだろうが、企業の重役さんなどがそのようなポリシーを取っており、しかし、息子や娘たちは「お父さんの仕事」には興味津々であった。
家庭内では「天網恢恢疎にして漏らさず」と言って、下ネタは禁止であったが、それで世の中は成り立っているのだ。

それでも「共和党とはアメリカ独自の存在なのか?」が議論された。
気持ちいいセックス(アメリカの正義)は、ほかの国では通用しないとも言われた。
しかし、どうだっただろうか?日本人は案外アメリカに対してオープンであっただろう。
ribbon 愛してジャスティス

「私はエリートだ。恋なんてものに回帰していくことはできない」という立場は当然存在する。
企業は「東大の論理」でも動くし、「スタンフォードのお下劣論理」でも動く。
あとは「多数派工作」だけが待っているだろう。
私は「東大の論理」もかなり勉強したが、勉強していると鬱になる。
権力がそのように動いているという側面は楽しかったが、なにしろ国内の主流派であり、つけ入る隙もない。
しかし、スタンフォードの法律学は「小野臨調」でも紹介させてもらったが、学生たちに大人気だった。
すくなくとも、芸能人女性は「東大?それが何?」という反応であり、スタンフォード大学の論理以外に通用する世界ではない。

「役所とはこうやって話すのね?」と言っていた女性芸能人はいたが、あくまでも「東大慣れ」する必要だけがあり、スタンフォード大学がなければ「こちらからアクションを起こす」ことはできない。
「お上」を動かすのはあくまでも「スタンフォード大学のお下劣ネタ」であり、私もそのような「君主」こそが「英国紳士」であり、人々の経験談に支えられた存在だと考えている。

いじめにも遭遇するし、音楽作品にも親しんだ。
はたして、学校の先生が「令和天皇みたいになってほしいからだよ」というかは明らかではないが、プラグマティズムというのは、常に「政府与党と共に歩む」者たちの立場だった。

1990年代に、私が東京大学に合格してから、女の子が「からだ一つで」夢が見れるようになった。
これは新時代の始まりであり、最終的には、彼女たちは芸能界に入って、歳を重ね、中年になった頃に私が天皇になり、「気持ちいいセックスとは何か?」「からだ一つで夢を見るとはどういうことか?」を明らかにしている。
19歳の東大一年生ならば、この境地には至るだろうという加速度も周囲は念頭に置いていた。

 

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫。痛くない」
若さに自信のある女の子は「若い女性ホルモンを感じて?」と言ってもいい。 また、「エンジンが効いてる」というのも有効だ。
これを覚えよう。
「あなたの子供が生みたい」も適宜用いる。
「ああ貴族!ああ官僚!」
「大きい」
「オナニーさせて」
これで女性がオーガズムに達するのは明らかであるが、考えなければならないのが「貧困女子」のことである。
そもそも「男が女を愛する気持ちを利用するのが経済学」という基本を理解しなければならない。
君主は、妻を愛し、それでいて周囲の女性たちを愛するという二元論に立脚していた。
瀬能あづさ I miss you

妻が産んだ子供たちは可愛かったし、それでいて政治力(女心の理解)を深めたかった。
そのためには二元論の立場に立たざるを得ない。
妻以外の女たちも、君主に「女とは何か?」を教えたために豊かになった。
他の女たちは「おカネ目当て」という側面があったため、おカネをもらったら君主とは適切な距離を置いて、ファミリーを見守った。

要するに「君主とともに有名になった女がたくさんいる」ことを、プラグマティストフェミニズムと呼ぶのだ。
深津絵里 CM

プラグマティズム(君主の真似をする主義・思想)は、女性を強烈に「快楽の対象」にせざるを得ない。
なにしろ「君主」であったからだ。
愛された女たちは「沈黙」するか「セリフを読む」「歌を歌う」ことしかできなかった。
強烈な快楽の対象となった羽田恵里香も、私とともに有名になった女の一人であったが、「セリフ」「歌」以外では「迷子」にならざるを得なかった。
羽田恵里香 迷子にさせないで

「それでも彼女たちは君主のそばで生きてきた」
メンタルクリニックでひどい鬱に悩まされてきた私であったが、彼女たちもすぐ隣で病院の順番待ちをしていた。
「有名になるという病気」を抱えた者たちが隣同士になるのは当然であったし、横浜という土地柄、クリニックの数は限られていた。

君主の真似をして生きるプラグマティズムには、「哲学は難しすぎる」という負の側面と、「言葉の誤魔化しをやる連中を排除することができる」という明るい側面があった。
自己欺瞞というと「男が勇敢な形で負ける」「反則を使った神が無様に負ける」などのいみであることや、自己疎外というと「自分と世界が遠くかけ離れる」という意味であることなどを明快に描くことができる。
また、君主の真似をして生きると「キャラ設定」が無難に行えるとも言われ、そのアイデンティティは「勉強が好きであること」「性に寛大であること」そして「日本語ができる人が日本人」という割り切りがあることなどが指摘できる。
性に寛大であることはブルジョアであることを意味したし、親が勉強するだけのおカネをくれることをも意味した。
また、日本語がネイティブランゲージであったことから、「俺の言っていることがわかる人は日本人」という境地にもなった。
その影響力にかんがみると、なんら差別主義の立場には立たないことを示していた。
君主の真似をして生きると言っても、いつかは特定の女にプロポーズをしなければならなかった。
101回セックスしたら、女が「殺す、殺す」と言い始めて、「僕は死にましぇーん、貴女のことが好きだから」と言わされる羽目になる。
プロポーズを頂点とした全体主義に若者は身を置いているのであり、「処女とジャニーズ」というスターリニズムとは距離を置いていた。
ribbon Virgin snow

「処女とジャニーズ」をセールスにかけるスターリニズムの影響力は強かったが、それは「性への寛大さ」とは異なる論理を持っていた。
ジャニーズは「太った女」を量産したし、処女にこだわるというのは性への寛大さを疑わせる議論だった。
高校一年生でも、クラスメートの女子の中には、読書感想文が入選する女子もいた。
普通に「子供がいた」のだ。
子供がいなければ「コピーペースト」しかできないと言われ、文章を要約する才能は通常は持っていない。
「大意を述べよ」などというのは子供たちにとっては最悪な問題であった。
そういう問題は親などの「子供がいる人」に答えを聞いてみるしかない。
「大意を述べよ」とは自分の人脈を問われていたのだ。

共和党の言っていることの「大意」をつかんだら、資本論(男論)が唯物論(女論)をかたり「予言をする」という共産主義の世界が開かれた(新左翼)。
旧左翼との違いは「予言」にあったし、メジャースポーツなどで生み出されるビッグマネーが異なった。
1960年代以降、新左翼はメジャースポーツを楽しみ始めたのだ。

唯物論(女論)と言っても、私が考えた「男女の性欲の起源」から始まり、垂加神道のような「客観的事後予測」(男から見たセックスの影響力の見方)などのようなものである。

女に電話して、「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫。痛くない」
「若い女性ホルモンを感じて?」
「エンジンが効いてる」
「あなたの子供が生みたい」
「ああ貴族!ああ官僚!」
「大きい」
「体中の血液をチンポに集めて?」
「オナニーさせて」
「私の柔らかい体を見て」
「いい匂いがする」
「からだが締まってくる」
「秘密は守ってね」と言わせてみよう。
千年の媚薬 CoCo

このセリフの対象にされる女を「主観的判断」と言い、どのようなリアクションを取るかは女によりけりだろう。
私の場合は「彼女たちの各人の都合」があり、電話に出てもらえなくなった。
なぜならば、これが「男女の性欲の起源」の真理だったからだ。
瀬能あづさ 愛になりたい

セックスに「悔いが残る」ことを「因果関係」と呼び、それを「男の側から」判断できるのか「女の方が詳しい」と見るかは時代によって異なる。
男性社会を強烈にアピールする行為無価値論の立場からは「客観的事後予測」が主張され、女の社会参加を求める結果無価値論の立場からは「主観的判断」が求められた。
「君主の真似をして生きる」のならば、家庭崩壊だけが怖い。
そのため、最高裁はいまだに行為無価値論を堅持している。

いずれにせよ、プラグマティズムは、君主のエネルギーを政府与党と直結させる形で「共和党」を作ったのだ。
共和党選出の大統領は君主であり、民主党選出の大統領はそうではないという奇妙な構図も生まれた。
一人の人物が「民の支持」を得られない時代というものは確実に存在するため、それでいいとされている。
アメリカ合衆国においては、インターネット時代というものは「ほとぼりが冷めるまで」民主党が楽しみ続けただろう。
「トランプショック」というものは、令和天皇が王子の時代に「聖子ちゃんは神・男・聖霊の完全性を議論している」としたことから引き起こされたものだ。
次の大統領選挙でも、「男女の性欲の起源」がトランプ大統領を支えるネタとなるであろう。
つまり、来年の「トランプ外交」は、案外「乱暴なものとはならない」という見方も可能だ。
君主も、思うにまかせぬものは山法師(宮内庁)と考えているうちは、人々に必要とされ続けるだろう。
台風撃退の歴史が日本の宗教史ではあったが、山法師は「男女の性欲の起源」が分からなければ治まらなかった。

長屋王は、吉備内親王と結婚し、政界の重鎮となった後に殺されたが、今は時代が違う。
長屋王の変は「藤原氏の起源」とされているが、藤原氏も逆らえないような知識がアメリカ合衆国にはある。

三島由紀夫は「天皇とさえ言ってくれれば君たちとも組める」と新左翼に訴えかけたが、君主の言っていることへの理解度や、学歴などが両者の垣根を作っていたものと考えられている。
私も村上春樹とはよく話をしたことがあるし、対立したことがある。
しかし、三島由紀夫と昭和天皇の関係ほど深い仲ではない。
しかし、私は村上春樹にとって「作家としての先輩」だったことは事実である。
昭和天皇と三島由紀夫の関係は「マルクスとエンゲルス」の関係に似ているとされている。
つまり、科学的社会主義(学問にもとづいた自由恋愛社会)か、空想的社会主義(学問には必ずしももとづかない自由恋愛社会)かの違いだ。
ノーベル文学賞は常に科学的社会主義を見ていたのだ。
「プロポーズを頂点とした全体主義」でもあったし「処女とジャニーズ」を用いたものでもあった。
前者を、マルクス・レーニン主義と呼び、後者をスターリニズムと呼ぶ。
どのみち、「男女の性欲の起源」が理解できないと発展しないのである。
スターリンは「ジャニーズ帝国」の研究などから、ヘンタイの存在に気が付いていたが、トロツキーは、よりレーニンに近かった。
トロツキーは、レーニンに近かったというよりも「ナチスドイツの構造に詳しかった」と言った方がいいかもしれない。

男女の性欲の起源とは、かなりナチズムに近いものがある。
「男であること、女であること」は、ミシェル・フーコーが1970年に決めたが、それ以降に、ナチズムが登場する可能性を令和天皇は示した。
あとは、「キャンパスライフを楽しんだかどうか?」という学歴社会だけが残った。
大卒でないのに「能力は大卒と変わらない」という時代は君主性を危うくする。
低学歴者の「下半身」をわしづかみにする「君主」というものそのものが、君主性を危うくしてしまうのだ。
それは「政治的無関心をなくす」からであると考えられている。
高学歴者からの反発も当然予測しなければならない。
「右翼少年の誕生」であり、「矯正は困難」と呼ばれる事件もあった(風流無譚事件)。

令和天皇が、英国のEU離脱及び、「世界の髪の長い19歳の女の子」がもたらす富を英国イングランド銀行に集めたのも事実だ。
シルバーリングに口づけを

私の「東京大学の限界を悟り、アメリカという覇権国家の知識を吸収していく」という国家社会主義と、共産主義は「どちらが正しいのか?」をナチスとソビエトは決しようとしたが、アメリカとイギリスという資本主義国家が、その結論を有耶無耶にしている。
いまだに結論は得られていないのだ。
マンチェスターユナイテッドや、シカゴブルズを愛する人たちがその結論を出そうとはしないだろう。

君主(天皇)にせよ、首相にせよ「常にその地位を狙われていた」ため、よく勉強したし、赤ん坊がノイズの世界に晒されたときに、いちばん聞くに値する「ホワイトノイズ」は君主や首相が発信していた。
問題は、世界のほかの国に「自分よりも賢い指導者」を見つけたら戦争になるということであり、肉声を発することのできる指導者は国内でも限定的だったということである。
妻という大切なパートナーがいながら、「女」「女の口説き方」を発信することは二元論だった。
権力闘争こそが「宗教」を生み出していたため、それをいかに裁量的(創造的でありゲームとして成立するもの)なものにしていくかが問われた。
王子は「伊勢神宮の人格的統治者」をやって女性たちの人気を博さなければならなかった。
この経験を経なければ君主が務まらなかったのだ。
王子の仕事は「受け身」なものではない。
国家世俗性説に立脚してもいいし、宗教非抑圧論のもとで「王子が熾烈な権力闘争をしている」ことが人々の支持を集めてもいい。
宗教非抑圧論の方がより「パワフルな」宗教が生まれる可能性を秘めている。
どの子供たちも学校では権力闘争を行っていたため、宗教非抑圧論というものは存在する。
国家世俗性説の時代もあるだろうが、そんな時は、民主党政権に移行せざるを得ない。
国家世俗性説や民主党政権は「セッターのいないバレーボールチーム」にたとえられ「どこにボールを返していいかわからない」と批判され、その政策がどこから出たのかわからない、と語られるが、そういう時代も過渡的には存在しうる。
「100万人保育拡充」と「女性の社会参加」を民主党政権は推進したが、「女」というものを知らな過ぎた。
そのあたりは、国家世俗性説の限界だったのだろう。
職場の上司は「仕事を教えてくれる神」であるが、看護師などはその「神」を外国人の名前にするという知恵を持っている。
また、ステークホルダー論のように、顧客ともセックスしてしまう女性社員がいるケースと、株主利益最大化論のように、セックスサークルを社内だけにとどめておく発想があり、日本国では株主利益最大化論が通説とされている。
「男女の性欲の起源」が明らかになった以上、ステークホルダー論は、「会社に溶け込みたい」と考える女性社員にとっては有害であるという指摘は確かに可能である。
瀬能あづさ ノーと言えない

男女は「知性」によってつながっている。
顧客に知恵があるのならば、女性社員はステークホルダー論の立場に立つかもしれない。
しかし、「デリカシー」というものは「ベッドの上で情報を漏らす」ことを否定するものであり、大企業の多いフランスで採用されている。
カトリック=大企業=デリカシーは、切っても切れない関係なのである。
漏らす情報は「違法秘密でなくても」十分デリカシーを侵害しているとされている(西山事件)。
女は知恵と知識を生み出すためにいろんな男の声を聞きたがっている。
しかし、デリカシーだけは守ろうという株主利益最大化論に、宗教非抑圧論も味方するだろう。
「肉声のある君主」にしか取れない立場なのだ。
苦しみの向こう側に立たなければ「肉声」を語ることはできない。
「僕、そのことをすでに知っていたよ?」という観音様では困るわけだ。
観音様は「僕、そのことをすでに知っていたよ?」と言ってお年寄りに撫でられていたが、観音様=聖徳太子と、君主は明らかに異なる。
「人間とはなぜひとつになれないのか?」と言ってベルクソンの論文を読んでため息をつくのがあらゆる指導者の経験談だったはずだ。
あとは「あの王子、カッコいい!」と若者が「君主の真似」を称賛される経験論を待つほかはない。
それが「君主制」というものなのだ。
君主が「北風」しか吹かすことができなくなったら、王子は「南風」を吹かして次世代をうかがうだろう。
センチメンタル南向き タンポポ

また、君主と王子という図式がどの男の子にも当てはまるのならば、「レイプと女嫌いだけが女が神に失望する理由」ということを踏まえ、呪いや祝福に脳がアクセスしていないセックス(レイプ)が防げるかはともかく、「女嫌いの男の子」だけはなくすことができるのではないかとされた。
つまり、「神さまを信じることができるかどうか?という滑りやすい坂道」を転ぶことなく上っていけるのが君主制であり、その人々の信仰心は、天皇陛下への侮辱を「貴様!」と呼ぶ国民も現れた。
冬の微粒子 CoCo

クリスマスを考えたのは、「プロポーズを頂点とした全体主義」であるレーニン主義でも、「処女とジャニーズ」を推進したスターリニズムでもなく、より「ナチズムの性欲の研究」に造詣の深かったトロツキーだった。
1970年代以降の、ネオプラグマティズムは、君主が常に「王子」を探しているという構図を構築した。
日本国の北風と南風は、イスラエルの東からの風と西からの風に該当する。
風向きが、中東では常に問題にされ、日本国の北と南が、中東では東と西となっていることから「宗教マップ」が若干異なる。
君主は常に「暖かい風」を求めていたし、平成天皇ですら「ノストラダムスの大予言」の時に私を頼り、「北朝鮮による拉致問題」の時に安倍晋三を頼っている。
君主は常に王子を探していたのだ。
ジュディオング 魅せられて

君主といえども、人間の経験には限界があったため、「女に甘え、若者に甘える」という甘えの構造が君主制を構築していたわけである。
どれほど多くの哲学者が、ヨーロッパ君主制・大統領制を支えてきたかは数知れないものがある。
少女マンガにしか興味のない女の子を愛せるか?
「性欲の起源」によって踏み込んでみることは可能なのだ。
みすぼらしいファッションをバカにされたりしても、君主でいられるか?
それは両親との和解が困難だった証だろう。
中年以降に感じる「母の愛」というものが日本人には存在するのだ。
病人や貧乏人から学んでいるのが君主なのである。
すべての病気の源は「鏡で見る自分の顔」が原因かと思うこともある(ミラーイメージ)。
健康になりたければ、できるだけ映りのいい鏡の自分の顔を眺めてみよう。
私の顔 タンポポ

16世紀から17世紀にかけての宗教改革(ルター改革)は、「美の改革」でもあり、ミラーイメージが健康に極めて重要な意味を持つようになった。
アイドルの実物を知らないと、とんでもない病気になってしまうこともある。
「私の顔はこれでいいんだ」という境地になるコペルニクス的転回が極めて困難になり、多くの病気を生み出していった。
また、「恋をする」ということも重要だった。
コンプレックスのない「男の顔」があるとするのならば「女の子」だと自分をみなしかねない。
スペース(空間)でダイナミックに動くためには「顔」が重要になってくる。
「私の顔」がどこに住んでいるのかを正確に理解する必要がある。
女性の場合はそれが裸体にまで関わるのだ。
動くという動作そのものが「顔」と関わっているのだ。
しみったれた顔をしていると幸福すら逃げていきそうだ。
バスルームでキャッチホン 高橋由美子

あなたはそれをやってはいけない、というのは「顔」が決めていた。
他人に自由に声をかけることができる、それはアスリートが「スペース」をうまく使う上での日常トレーニングだった。
現代人の身体能力の限界を芸能界が作った、とも言われ、この「顔」の研究が立ち遅れていた日本国はまだまだスポーツポテンシャルに満ちていた。
自分の「顔」が「御神影」とまで言われて崇拝されると、一気に足腰が立たなくなる。
そのメカニズムまで正確に理解する必要がある。
自分よりも人気のある人はどうしても存在するし、勝負事の世界では結果を出さなければならない。
そのために「顔」の研究をやらないで勝てるアスリートはいないのだ。
モテるかモテないかでこの20年間「いじめ」が存在したのは認めざるを得ない。
しかし、「君主の真似」はアスリートにも影響を与える。
女にモテれば、男社会での序列も高まるのだ。
息子は父の影響を強く受けざるを得ない。
私の父は「女の話」を家庭内で話すことを極端に嫌ったため、私もアスリートとして大成する時期を失った。
ボクサーとしての才能への評価は東大では高かったのだ。
肉体をいじめる快楽は、社会でいじめられる快楽と似ている。
しかし、社会人としては「いじめの対象」というだけであってはならない。
自由度を少しでも高めていかなければ肉体はどこかで悲鳴を上げるからである。
ミシェル・フーコーが「あなたは生まれた時から男の子・あるいは女の子」と決めた1970年以降、それにいかに順応するかがあらゆる世界での才能につながった。
超人的作家は「顔と学問が一致しない」と悩んだ。
手塚治虫の腰痛もそうだったのだろう。
哲学界の答えは「同性同士の社交性」ではなく「男女の社交性」にその答えを見出すようになっていた。
私も「冴えないおっさん」であるが、その超人的文章に、腰痛に悩まされる理由を見出すことができた。
「ブラックジャックが知らないこと」を知ることができたのだ。
「差別のある社会」では当然、才能を伸ばすというのは難しいことだろう。
「ハワイ出身者」が実はアメリカ合衆国本土では差別されていることも認めなければならない。
「顔」というものは、実績が作るし、知名度が作る側面がある。
その重要性だけは指摘しておきたい。
酒井法子 シャワールームに電話

君主が歩んだ権力闘争(宗教非抑圧論)の結論が「テレホンセックス」であり、それは仏教のクンバカとも、キリスト教のセックス崇拝とも共存できるものであった。
「人はなんのために戦うのか?争うのか?ざわめきたつのか?」の答えがここにあった。
電話の向こうで喘ぐご婦人たちを目の当たりにし、男たちは恐れおののいた。
これが「君主制真理神学」の結論でもあった。
キャバ嬢もこのネタには嘘はつけなかったのだ。
愛の炎 田中れいな

パースは「君主がいちばん芸能界に詳しい」と胸を張った。
生娘を嫁にもらったことから、夜を徹して争った男たちもマクベスのように明け方になってむなしくなっていた。
周囲の男たちみんなに「満足とは何か?」を教えればいいことが分かったのだ。
「権力闘争を終結させるためのプログラムを持っている」という意味では君主はリチャード三世でもあった。
背景には、女=おカネという割り切りがあった。
ケインジアンでもあるのだろう。
「真理」とは教えるものではない。「人気」によって証明するものだ。
女たちが奪い合うものが「真理」だとも言える。
共和党政権下のアメリカ合衆国は強い。
しかし、「もはや我々の手の届かないものとなっている」とアメリカ政府首脳が考えるような出来事があると民主党政権に移行した。
どうにかマクベスをめぐって争った男たちを治めようとして知識を求めたが、知識はやがて「真理」となる。
「絶対」はとっくに見つけていたが、「真理」を求める道筋を確認し続けるのに役に立ったに過ぎない。
人々の想像をはるかに超える「ありえないこと」を目撃したら、それを「真理」と位置づけ、自分なりのプラグマティズムを体系化するしかない。
ネオプラグマティズムは、それだったら、他に「真理」はあるのだろうか?という方向を見始めた。
パーフェクトヒューマン

女を口説く方法を説いていた君主がいよいよ「本番」について語った。
「絶対」とは女を口説く方法の世界にあったが、「真理」とは本番の世界にあった。
女を口説き続けて、絶対を悟り、迷うことなく「真理」に到達するのだ。
アメリカ大統領選挙は「四年に一度」であるが、日本の天皇制は「千年」の媚薬と銘打たせてもらった。
2年間のトライアスロンでは到達できない境地であることは私も理解している。

「令和真理教」としての神道・仏教・キリスト教はここで完結させることも可能である。
しかし、「オカマ」「ゲイ」「レズビアン」などがこの「真理」すら拒絶することも想定しなければならない。
カマを掘られたことのない「人物」が作り上げた「理想」に過ぎないという受け止められ方も十分に考えられるからである。
このことから、私の哲学の探求はまだまだ続編があるのである。

体制の安定のためには、「男女の性欲の起源」(科学)をよく理解し、人間社会の半数は女である(民主主義)というものをよく理解しなければならない。
男女の性欲の起源(科学)を理解するだけで、芸術作品の見方も変わってくる。
「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫。痛くない」
「若い女性ホルモンを感じて?」
「エンジンが効いてる」
「あなたの子供が生みたい」
「ああ貴族!ああ官僚!」
「大きい」
「体中の血液をチンポに集めて?」
「オナニーさせて」
「私の柔らかい体を見て」
「いい匂いがする」
「からだが締まってくる」
「秘密は守ってね」
恋するフォーチュンクッキー AKB48

「科学」が発展すればするほど「隣人の妻を犯すなかれ」という言葉が強烈に響いた。
ここから「感じない女」というものはできるものなのだ。
隣人の妻ほど興奮する存在はない。
しかし、それを強烈に戒めるのが共和党であり、君主であり、イエスキリストであった。
経済に悪影響を与えるからである。
「遠くに住んでいることもよかったと思っている」「まだ私は感じるから」
穴井夕子 フェアリーデイズ

また、隣人の妻を犯すと多数決が機能しなくなる。
「民主主義は多数決ですから」=「隣人の妻を犯すなかれ」と表現することも可能だ。
あるいは、科学の発展にともない、「処女のガード」もかなり厳しくなった。
隣人の妻を犯すなかれ=隣人愛は、民主主義ともつながっていたし、感じない女をなくす経済政策の柱ともなるものである。
この「君主の教え」が機能しなくなると、リベラルの研究が必要になってくるし、景気の悪化と雇用対策のための民主党政権が必要になる。
君主は「男女の性欲の起源」(科学)を明らかにしたのであるならば、隣人愛=隣人の妻を犯すなかれというメッセージを明確にしなければならない。
これは「カトリックマイトレーヤ」とも呼ばれるものである。
同じ人数だけいる男女が、隣人愛を実践して、なおかつ愛し合うのならば、民主主義はプロスポーツの世界でもかなりの強度を持つことになる。
しかも、「多数決」がかなり円滑に進むようになる。
エリート階級が「恋愛論」を拡散しやすくなるからである。
「恋の話を聞かせてください」という女の子たちには政治を理解する才能があった。
隣人愛の崩壊から君主制は壊れていくのだ。
今の自公政権も同様の意味合いを持っている。
公明党=創価学会のおばさんが人気のある男の悪口を言いふらさなければ、隣人愛の崩壊と自公政権の崩壊、そしてリベラル社会の研究に詳しい立憲民主党や国民民主党の政権の到来を予感させる。

さて、令和の新時代の最初の年を終えようとしている。
そこで、もう一度、「天皇制とは何か?」「天皇に政治的権能はあるのか?」について語りたい。
振り返ると、苫米地事件において「天皇の政治的権能」が争われた。
吉田茂首相は、池田、佐藤、山崎のわずか3名の署名を持って那須に向かっている。
昭和天皇は「ワシの源氏物語の印税では首相を含め四名を支えきらんか」と思ったことは推測に難くない。
作家昭和天皇の印税が国会対策費・メディア対策費に用いられていたからだ。
三島由紀夫すら舎弟にしてしまったのが源氏物語であった。
考えてみてほしい。
通常、内閣が批判にさらされるのは国会の会期中だけであるということを。
他の芸能人はまるで「通年国会」のように、一年中インターネットで批判されているのだ。
「会期制」の意味をここで悟るのだ。
スマップのように本当に「解散」してしまう芸能人もいる。
そこで、私も、「印税」が首相および内閣を支えきれなくなるほど文才が下がったら、平成のように「首相の名前や就任した順番を覚えていない」ことにもなりかねない。
これが、天皇制の本来の姿であったし、そのような「資金メカニズム」を理解しなければ、天皇制の議論は深まらない。
「おカネ」を語らなければ天皇制を議論する意味がないのだ。
そこで、芸能人すら「天皇の印税」に頼ることが可能であることも悟ることができる。
さて、リビアでカダフィが殺されたときに、アメリカは「8か月で憲法を作り、8か月で選挙をやる」という計画を立てた。
日本国にアメリカ軍が駐留して、松本委員会は、アメリカの何に「衝撃」を受けたのであろうか?
アメリカは「愛とは何か?」「嫉妬とは何か?」「愛国心とは何か?」「忠誠心とは何か?」などの問いかけをポンポン投げかけてきて、松本丞二が立ち往生したであろうことは想像に難くない。
たとえば、天皇は「サブジェクト・トゥー」と連合国側に示されたと語られているが、アメリカの真の意図は「連合国側の女性たちの支持がある」という意味だったのだ。
これを、当時の翻訳は「従属する」と訳すという国益への大損害をもたらしている。
あるいは「象徴」というのは「記号論」でもあり「君主」としての作家であるという意味であった。
「戦争の放棄」も、「思い出話をしよう」という翻訳が正解であった可能性もある。
国民主権とは、「国民こそが最高の作家である」という意味とも受け止められる。
「至高」とは30歳を過ぎて社会デビューする弁護士のような存在であり、究極とは「サラリーマン」のことである。
小説吉田学校
愛とは「妹への愛は長続きするのに、彼女との愛は長続きしないのはなぜか?」という議論でもあり、嫉妬とは「彼に与えられたいいものが自分にも与えらえる可能性があった、しかし、嫉妬心から自分の仕事が手につかなくなってしまったり、病気になってしまうことがある」ことを議論するものだ。
また、愛国心とは「国の個性を見るという意味では息子への愛と変わらない。しかし、性欲を満たしてくれる国であれば、他の国のボルテージの高まりとともに高まらざるを得ない」などという議論であり、忠誠心とは「なんでこんな奴に忠誠を尽くしているのかな?といわれると、人生のため」としか言いようのないものである。
自民党の憲法調査会は、憲法判例などを調べているようであるが、最高裁判例は、「二人の女の争い」が最終的に議論になってしまい、そのために朝日訴訟のような生活保護受給権までもが、14万円程度の金額の争いでも最高裁に行ってしまう。
rebecca ラブパッション

なお、「8月革命」とは「夏休みの資金集めの方法が政治コミュニティーで変わった」という意味であり、ロシアで知られている「何月革命」というものを昭和天皇は熟知していたものと思われる。
常に「カネの心配」をしているのが天皇であるという現実を知らなければならないだろう。
夏休みは終わらない おニャン子クラブ

さて、「男女の性欲の起源」について話してきたが、すべてのセリフの共通項は「支配と従属」にある。
マルクスは、「男社会にも支配と従属はあるんだよね」とし、しかし「賃金」という形でそれをお金に換えることにした。
セックスするたびに、聖書や立正安国論にしがみついていた主婦たちは、「資本論」という新たなテキストを得ることになった。
東大ボクシング部在籍の頃に、先輩に「声出せ!」と私が怒鳴られていたことも周囲は詩にしている。
グッバイフレンズ 三浦理恵子

人間は、子孫を残すために性欲がある。性欲があるから「笑う」のだ。
もし、宇宙人が笑うのならば、そこには性欲があり、さらには「死」があることを意味する。
このあたりをコントでいじると面白いかもしれない。
デスラー総統

最後に、我が国は、アメリカによるエネルギー革命がなければ、OPECが怖くて「イスラエルについて語れない」国であった。 陛下がシリアやイランを基盤に冷たい東からの風を吹かすのであれば、王子は「暖かい西からの風」を吹かす。 我々は令和の君主制の確立をすでに見ており、王子の「暖かい風」を楽しめり環境にある。 王子といっても安倍晋三から羽生結弦まで大勢いるが、テレビを楽しむのもまた一興であろう。 暖かい風が君主にとってどう感じられるかは明らかではないが、それもまたイスラエルの「世襲」というものであった。 また、本ブログが「モテる奴が受かる」国家試験や司法試験、東大入試などに出題されることから、丸山スタイルではなく「横浜ボーイスタイル」と名付けたい。 CoCo 横浜Boy Style

2019年12月 2日 (月)

神道・天皇家新時代に向けて。

ミシェル・フーコーが、1970年に「クリニックの誕生」において、生まれた時に「あなたは男の子、あなたは女の子」とする以前は、子供の頃は皆、少年であり、「おじ」(ペテロ)がいるかどうかで性概念は決まった。
「男系男児なんてナンセンス、おじにどれだけいじめられるかだ」
おじからのいじめは「おばあちゃん」が食い止めていた。
おばあちゃん崇拝(祖先崇拝)がなければ、男になれただろうが、適当に付き合っていかなければガンになる。
私は1970年以降の生まれとして、おばあちゃんと関わっている。
この「ペテロ」(おじ)からのいじめと、おばあちゃん崇拝を欠くことが「男」を作ってきたのであり、「男系男児」などという話を持ち出すこと自体、世界史を知らないとしか言いようがない。
トイレの神様

2013年の伊勢神宮の式年遷宮は、私もファイナンス係を務めさせていただいたし、その後も、伊勢神宮の人格的統治者として、「女心」を明らかにしてきた。
山崎闇斎の垂加神道(伊勢神宮とヤマトヒメ)という神道の歴史を理解しないと、なかなか伊勢神宮に若い女性ファンを集めて、自らの権力基盤にするという発想は生まれない。
令和の「次」をもし想定するのならば、2033年の式年遷宮のファイナンス係をいかに務めるか?
あるいは、私は現在、伊勢神宮の担当を離れ、日枝神社を担当しているが、「王子になるのならば伊勢神宮に女性ファンを集めなければならない」ということをどれほど理解するかが問われる。
私は「日枝神社は、天皇の長寿をお祈りする所」ということを踏まえて、医学の知識を拡散させている。
NHKの問題もその一環である。

男・ちんちんというものは「仕事・勉強・いじめ」から作られている。
しかも、「世界を敵にすると勃たなくなる」つまり、「仕事・勉強・いじめ」が実を結ばないとちんちんも意味がなくなる。
「仕事・勉強・いじめ」の中に「真理」がある以上、「男崇拝」を宗教と呼ばざるを得ない。
「男が女心を語る」のは自身の影響力を高める方法であり「政治」と呼ばざるを得ない。

文法さえあれば、女たちが「悔い改める」(失恋する)ことから、自在に「言葉」を作ることはできた。
女たちが「言葉」を作り、言葉と脳は似たような構造を持ち、言葉が追いつかないような出来事は「スローモーション」になったため、新たな言葉を作った。
はじめに言葉ありき、それは「女づくりが先、男作りはあと」という意味でもあった。
中森明菜 スローモーション

14世紀のイギリスは「人口5万人の島」だったが、薔薇戦争を経た上で「貴族」「階級」が定められた。
英国紳士の誕生だ。
イギリス身分制社会において、「移民の受け入れは困難」つまり「男づくりが先、女作りはあと」という政策は打てない、どうしても「移民」=「風俗嬢」という文化が出来ざるを得ないことからイギリスの「EU離脱」という問題が議論されている。

「フェミニストの作り方」はいろいろあるが、「新カテゴリー」と呼ばれるジャンルは、「従姉妹に対してシャイであった」ことにそれを求めた。
さらには、「父親がいて、青年時代に友人を亡くし、姉が結婚した」ことに求める新左翼もいる。
ribbon 真夏のフェミニスト

従姉妹には兄がおり、カネにものを言わす形で、妹のヒロイセと関係を持っていた。
1999年に「女心は日本国のJ-POPで、出尽くした」と言われた。
SPEEDが、「女はパートナーがいても、知恵や知識を生み出すために異なるパートナーの声を聞きたがっている」というキューリー夫人(女性して初めてノーベル賞を複数受賞した人)の見解を紹介した時に、「女心は出尽くした」という議論がなされた。
SPEED Deep Blue & Truth

和辻哲郎が1960年に死んでから、東京は「今まで見たことのない風景」を見た。
「セックスと革命の嵐」である。
安保闘争で外国人を見せしめに日本政府が殺し、谷中の「レッドゾーン」に、「樺美智子さん」として大々的に報じ、埋葬した。
三里塚で「死人が出た」と言っては、「都合の悪い人物」を東京湾に沈めてきたのも日本政府だ。
日航機墜落事故が1985年にあったが、それが「成田発」であったことから、その前の「機長逆噴射事件」が「東京湾の呪いである」という説が払しょくされ、日本政府は安堵したのが現状だった。
日本政府は「人を殺してまで体制を守ろうとした」のは事実である。
それが、ミシェル・フーコーの「1970年」まで続いた。
福山雅治ラジオ

私の祖母の、遊佐道子(香淳皇后)が、弟にサンミュージックの社長をやらせていたが、松田聖子は、「久保」系であり、昭和天皇の後妻の「国友」系の「顔が嫌いだった」つまり、香淳皇后の薩摩の臭いが嫌いだったとされている。
いずれにせよ、1986年に岡田有希子が「芸能界最後のトラブル」を引き起こした時も、「五分間もだえ苦しんだ」岡田有希子に対して、電話で笑いながら実況するもの、パンツを脱がしたもの、ブーツを盗んだものなどがいて、香淳皇后は、「人物を特定して」朝の新宿の歌舞伎町で死体として晒した。
今は、平成を経て、令和の時代になったが、昭和という時代は、1960年の和辻哲郎(小野達郎)亡き後、まるで修羅場だったではないか。
香淳皇后は、現在の私と同じで、夫である昭和天皇が「死と身近に接していた」ことから、昭和天皇の「源氏物語のセールス」が、時の政権の「国会対策費・メディア対策費」として用いられており、現在の羽毛田信吾宮内庁参与のように「その送金を邪魔してやろう、できるだけ多くの人間を巻き添えにしよう」という考え、つまりは「田舎者」の考えとは異なり、「自衛隊(日本軍)は日本国民の命を守るためにある」という統制派と、「自衛隊は天皇から政権の側への送金を守るためにも存在しうる」という皇道派の対立があったことをよく理解していた。
安倍政権は、臨時国会を無事に終えようとしている。
しかも、安倍晋三の再選には、二階幹事長も「異論はない」としている。
もし、安倍政権が窮地に陥ったら、「羽毛田信吾宮内庁参与」はどう責任を取るつもりだったのだろうか?
他にも、「上皇・上皇后」「山本信一郎宮内庁長官」「西村泰彦宮内庁次長」「出雲大社の千家国麿・典子夫妻」「川嶋龍彦学習院大学名誉教授」が「政権の敵」であり続けながら、安倍晋三や菅義偉と共存し「天皇に政治的権能があるのか?」という議論が詰め切れずに立ち往生している。
政治とは「女心を定義するもの」であると言ったはずだ。
「文学者・哲学者として小説のセールスがある限り、政治的権能はある」と言うしかない。

私は、昭和天皇の後妻の系統の孫なので、薩摩の男のような顔をしているが、松田聖子や志村けんは、前妻の系統なのでファッショナブルな顔立ちをしている。
私は、前妻の久保の系統の昭和天皇の長女が「紫の上」として描かれた「美智子上皇后」ではないかと考えている。
アレキサンダー大王に「少年愛」が知られているが、昭和天皇も「少年愛」がいつしか少年に「フルート」をくわえさせて、「美少女」を作ったものと考えている。
美智子上皇后は、松田聖子や志村けんの実母である。
男たちはみんな「ふたなり」だった時代。
男になるためには「仕事・勉強・いじめ」が必要だった。
3年B組金八先生

男女の「性の違い」というのは、そもそも、ダーウィンが「精子と卵子がぶつかる速度の違い」を指摘していて、速度が速いと男の子が生まれ、遅いと女の子が生まれるとしていた。
これは、生まれる直前に「電気が胎内で流れ」「全身脱毛される」ことから「女の子」が生まれるという指摘であった。
毛深くない「性」が「女の子」という指摘であり、それはのちに「女らしさ」の特徴の一つをかたちづくることになった。
しかし、それでも「性概念」は相当混乱していた。
一昔前までの医学書では、「あなたの子供が生みたい」と言ったら女性はオーガズムに達していたが、
現在は「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」と女性が自分で言うとオーガズムに達するようだ。
この辺は、ヒトゲノム解析が終わる前の経験論である「あなたの子供が生みたい」が正解なのか、それとも、ヒトゲノム解析が終わった後の「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」が正解なのかは実験が必要だ。
いずれにせよ、「親密な関係」にならないと、言えないことが「性欲の発信源」となっているため、カントの「女の口説き文句」は医学の世界も受け入れざるを得ない。

「大丈夫、痛くない」
と女性が自分で言うのも有効だ。
その前に、「クリトリスから先がいいわ?」という前戯も基本として覚えよう。

おさらいしておこう。

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫。痛くない」
若さに自信のある女の子は「若い女性ホルモンを感じて?」と言ってもいい。
また、「エンジンが効いてる」というのも有効だ。

これを覚えよう。
「あなたの子供が生みたい」も適宜用いよう。
ribbon さよなら

ロールズの「正義論」を読むと、「いかに女を高く売るか?」が株価を決めているとしている。
不感症の女をなくすと、株価が高く出るか安く出るかは明らかではない。
いずれにせよ、激しくあえぐ女がいる限り「デフレ」状態が続かざるを得ない。
現在、デフレ状態にあると言っても、感じない女性を感じるようにする政策を「デフレ脱却」とも言い、インフレ退治との区別は明確ではない。
レズビアンや、シスコンが大勢いる中で、本当に現在「デフレ状態」なのかは議論の余地がある。
インフレ退治が自由民主党の仕事として、「現在、仕事はうまくいっている」というメッセージを明らかにするしかないだろう。

エロビデオを見て「女が嫌がっているじゃないか」と考える政治的弱者もいたのだ。
CoCo メロディー

ここで、アベノミクスの正体は「デフレ脱却株高」政策であるとも言え、もはや「生活水準はバブル期並み」という指摘も可能なのである。

株価が赤、為替が赤ならば、女たちは「男からの電話を欲しがっている」のだ。
日経平均株価チャート

電話のベルが黙った夜が素敵、という夜は株価が上がり続ける。
安倍なつみ ひとりぼっち

セックスは「敵がいない」状態でしか、女は「感じない」のである。
「セックスはムードですもの」という理由はここにしかない。
清潔なベッドに、安心できる環境がなければ、女がオーガズムに達することはない。
工藤静香 奇跡の肖像

一人上手を覚えた女の子は、教科書を読んでいても、文字が男に見えてムラムラ来るとされる。
女性が便秘になる原因は「セロトニン不足」であるが、本屋に行っただけで便秘が解消されたりするのは、ひとえに「一人上手」のおかげである。

小野光太郎講演会。日本経済の将来と女子力について。

プラトンは本来「五分間のパフォーマンス」を音楽作品を通じて行っていたが、勇気・自制・セックス・神聖さ・友情そして「治めること」を、もっと長時間描きたくなった。
「国家」においては「~って何?」という問題が多く、そのことへの回答を与える必要があったのだ。
「許しって何?」
それは、キリスト教においては「多数派工作に成功する」(サルベーション)ことであった。
嵐の女神

 

「舞台」「映画」のヨーロッパでの誕生は五世紀のことだった。
「知識って何?」
これを舞台・映画を見た人は「登場人物全員悪人っすよ」などと語り合い「知識」を得ていった。
「ソクラテス(女心に詳しい男)」を中心に映画は作られている。
女たちは「ソクラテス」を見てマスターベーションしていたのであり、ソクラテス(君主)の真似をしてくれる男でなければ「主人公」にはなれなかった。
再建論者は、ソクラテスを殺して我々で一から作り直そう、と言った。
しかし、舞台・映画・ドラマは容赦なく「ソクラテスの側」に立ち、女性たちを魅了し、君主の命を守った。
再建論者は、20世紀のパリにおいても、「フランス革命とは何だったのか?」と150年以上たった後に、ルイ16世を超える人物はいなかったではないかと批判されている。
「だって君主はモテるだろ?だから主人公に真似させたんだよ」
これを「暖かい風は吹いている」と呼ぶ。
風は吹いている

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫、痛くない」

これを知っているソクラテスに、勇気・自制・セックス・神聖さ・友情そして「治めること」を語らせたのだ。
映画を見た後に、「完璧な知識」を得たよ。
体制側の君主は舞台・映画・ドラマに守られながらも、常に「冷たい風」に晒されていた。
風に吹かれて

舞台・映画・ドラマには常に注意を払っていた君主であったが、風は暖かいときも冷たいときもあった。
暖かい風がメディアを席巻すると、自分の周りには冷たい風が吹き荒れた。
みんな「ソクラテス」(君主)になりたかったのだ。
このことから、再建論者という立場が生まれざるを得ない。
ソクラテスも「子供が生まれたから」自分の立場が守られたことはよく理解していた。
しかし、娘を利用して自分の立場をよくしようとした「リア王」になるつもりはさらさらなかった。
王子様と雪の夜

「舞台・映画・ドラマの感想を聞かせてくれ」「知識というものはそういうものだ」
これが、暖かい風・冷たい風にさらされた「君主」の仕事となった。
リア王だって「ルパン三世」「ガンダム」の主人公であり続けた。
ルパン三世 エンディング

湾岸戦争のときに「国連平和維持軍」を日本国は作れなかった。
この時に、ルパン三世とガンダムは終わったとされている。
再建論者には「五年熟成させたワインが一番うまい」と教えた。
暖かい風と冷たい風の双方を知っている「五年熟成ワイン」を知らなければ「再建」しようがなかったのだ。
君主がつまらなければ舞台・映画・ドラマもつまらない。
毎日が退屈すぎるのであれば、クーデターでも企てろ。
そうでなければみんなテレビを楽しんでいるから、悪だくみの座に乗ってこない。
私が王子の頃は、暴走族すら赤信号で停車して、私の横断を待った。
今は「確変」を終えて、暖かい風も冷たい風も存在するため、暴走族が過ぎ去るのを待つしかないだろうが、当時は、私に「自信」があったのは事実だ。
とにかく、舞台・映画・ドラマがなければ「体制が維持できるとは思うな」というのは君主への教訓である。
いい宣伝効果が君主にもたらされるからである。
テクノロジーの進化も「君主の資金力」の賜物である。
インターネットというものを世の中に知らしめたのは最初は私であった。
二人目の子供が生まれたときに「何かのちの世に残そう」と考えた。
三人目の子供が生まれたときに「この子はテレビで学べばいい」と思った。
人々が見る「夢」は眠っているときの夢でも起きているときの夢でも、君主にとっては危険なものだった。
周りの人が舞台・映画・ドラマの主人公になら「俺でもなれる」と思うからだ。
それならば「読め」としか言いようがなかった。
君主に「俺でもなれる」と思ったら、図書館の膨大な本に病気にさせられるからだ。
再建論とはそれほど危険なものなのだ。
文章のセールスが伸びなければおのずと悩むようになっている。

国王は、東からの「冷たい風」をイスラエルにもたらし、王子は「西からの風」をイスラエルにもたらす。
西からの風は、国王にとって暖かかったのだろうか?
そのあたりは、取材が必要であるが、伝説的な名曲は存在する。
王子は「君主の真似をする人」「一流アスリート」が演じるしかない。
これが君主制である。
魅せられて ジュディオング

女子高生の女の子は、「男は賢い方がいい、女は美しい方がいい」という形而上学の結論から、「父と娘」という問題と直面していた。
お父さんを倒す力がないから、「娘」なのだ。
お父さんにはお母さんがいたし、女の子は高校生になって「クラスメートの男の子」に救いを求めていった。
高校生の男の子が仮に「仲間が多い、何かやってくれそう」であるのならば、女の子は恋に落ちた。
彼女の前では彼氏は「神」であったし、高校生レベルの見識や知識でも「完璧」でなければならなかった。
このことから「恋派」は、恋を追い越していったアブラハム(愛派)を、「お前には何を言っても分からない」と批判した。
この「恋派」の男の立場を「懐疑論」と呼ぶ。
恋と愛のニュアンス 酒井法子

星が太陽の十倍の輝きを見せる瞬間がある。
そのような「愛派」のスターを「神」と呼んでいたが、「恋派」は、あまりにも数が多く、天の川のような輝きを見せていた。
これじゃどっちが神かわからないな。
そのような対立のもとに、懐疑論というのは「天の川」の輝きとして「神」の立場をかなり集団主義的にアピールした。
天の川の膨大な記憶はそれ自身が巨大な富であり、懐疑論を否定することはファイナンスの立場からも得策ではない。
松任谷由実 卒業写真

男子高校生は、「大人のセリフ」を真似して女を口説いていた。
それならば、「昭和の恋」「平成の恋」「令和の恋」は全く異なるものであるはずだ。
「平成の恋」を経験した者は、令和天皇には常に批判的であった。
「これが完璧なのかがわからなかったからメールにも残せなかった」
これが「懐疑論」である。
BoA Is this love?

「昭和の恋」を経験したおじいさんは、案外明るく「入れて!出して!」とラカンを語っていた。
第二次世界大戦の狂気を経験したラカンが考えた「性の作法」が知られていたのだ。
しかし、平成には特に特徴らしいものはない。
令和は明らかに新時代だった。

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫、痛くない」

性の作法が異なるのだ。
さらには「女性と親密になる方法」など、令和天皇は平成の時代からかなり広く人々に語ってきた。

思春期の頃の恋は、「女の子にとってはいい思い出」というのは毛沢東も宮本顕治も認めていた。
しかし、男の子が「明日昇る太陽」「新時代」を受け入れなくなっていたのだ。
檸檬の年頃

デカルトは「鏡を見ながらマスターベーションすると、テレビに出ている異性とセックスする夢を見る」とも言っている。
テレビに出ている女の美しさは、昭和・平成そして令和へと進化し続けている。
ゼブラや創価学会の主婦は「天皇についてどう思う?」と東大生との昼食会で語った。
ゼブラや創価学会の主婦は、お食事会の費用を経費で落とせた。
その理由は、教団本部が「東大生とのお食事会を主婦がやっている」というだけで、子会社に社債を出させることができたからだ。

主婦層は、東大生の将来を予言したり噂したりしていた。
お食事会にはお母さんも同席しているだろうから、本人の口からは言えないが、周囲の主婦層が、

「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫、痛くない」

って言って?
と「おねがい」することは可能だ。
忘れてはならない。
音楽プロデューサーや、芸能プロダクションの社長、レコード会社の幹部などの奥さんが普通の「主婦」としてお食事会に紛れていることを。
私は、瀬能あづささん(本名は別にあります)の家庭教師を高校時代にやっていた。
お父さんが小林亜星だったのだ。
瀬能あづさ 君の翼

大企業の社長の奥様に可愛がられたら就活どころではないだろう。
どの奥様も「噂づくりの達人」であり、しかも「予言を外したくない」と考えていた。
そのため、噂と予言のメインストリームに身を置くことが必要だった。
私は、小林亜星にたいそう可愛がられた。
直接の面識は小学校の時以来なかったと思う。
CoCo 横浜Boy Style

一方で、懐疑論(恋派)は、東大生になるのは極めて困難であるため、
別の「資金調達の方法」を考えなければならない。
ハロウィンパーティーやクリスマスパーティーを主催する「ゼブラ」が社債を出して、娘に「どの男の子を呼びたいかは自由に決めなさい」と言って、「恋派」「アンチ東大派」として、高校時代を謳歌しようという立場である。
アメリカでは、広い邸宅を持った家庭の奥様は、娘が高校生ではなくなっても、邸宅をハロウィンパーティーのために開放しているようだ。
ゼブラのメンバーなのだろう。
資金は、日枝神社・日吉大社から持ってくるのだ。
あるいは創価学会だろうか。
高校生は「バック」までは知らなかったため「スカーレット」とグループのことを呼んでいた。
高橋由美子 レイニーデイ×3

現在の日本国においては、「東大に入れなくてもスタンフォード大学を出たのと同じ」学識を身に着けることが可能となっており、大学入試を頂点とする学校知とは「別のルート」が当然存在してもいい。
しかし、男が予算を公布する(予算法律説)ことの必要性や、マザーファッカー(両刀使い)・オカマの攻撃性は理解しておかなければならず、つまりは「人事」も学ぶことになる。
ふだんは攻撃性・違法性をもって組織で人気を博していても「いざとなったら逃げだす連中」だということは人事を理解するうえで必要不可欠だ。
ノンケの男こそが「法律であり宗教である」ということを知らなければならない。
さて、組織ができ、お金の裏付けが得られたのならば「面白いことをやろう」(コンテク派)という立場に立つのは当然である。
男女は「2対2ならば必ず割り切れる」ということを踏まえて、NBAのスターみたいなやつも仲間に加える必要がある。
避暑地の森の天使たち

「ゲームの話題」「マンガの話題」などを話してばかりいる連中を「コンテク派」と呼ぶが、コンテク派が好きだという女は確実にいる。
昔は「パラパラができない男は無理」という女がいたのだ。
コンテク派は常に「懐疑論」(恋派)であり、東大生のような「愛派」とは相いれない存在だ。
高卒ルーキーと大卒ルーキーを区別する理由も「恋派」(懐疑論・コンテク派)と「愛派」の区別をするためである。
懐疑論者には「逆指名」する権利がなかった時代もあったのだ。

しかし、君主の肉声がある時代には「キャリア制度は解消に向かう」とも言われ、天皇が何を言っているのかがわかるのならば高卒も大卒も「変わりはない」という指摘がある。
高卒こそが、令和天皇の長寿をお祈りし、大卒は「あんなに勉強したのに」と思うこともあるだろう。
しかし、ゼブラにせよ、予算・人事にせよ、「ほとんどは大学で学んだよ」という仕組みも残されている。
いずれにせよ、実力主義を採用するのならば「28歳ぐらい」が一番戦力になる。
しかし、「高度な政治意思」の調達のためのキャリア制度が残る限り、「38歳ぐらいが一番戦力になる」とされている。

スポーツにせよ勉強にせよ、裁断的なルールをいかに精密に構築するかが問われ、人々の支持も必要だった。
アスリートや学生・生徒は常に「裁量的な」世界で訓練を積んでいたのだ。
「人が死んで勝つことほど情けない政治家はいない」
これは命という裁断的なものに依存した「裁量的なものに弱い」人物像を抉り出す。
誰もが「裁量的な」技術や技を磨いていたため、ビッグマネーは裁量的なものからもたらされるのだ。
資本論(男論)が、唯物論(女論)に詳しくなり、メジャースポーツの世界で「予言」ができるようになる。
これは、アリストテレスの、男(ファースト)、女(セカンド)、予言(サード)と何ら異なることはないが、マルクス主義者や、「資本論」という四冊の本の完成度の高さを見よ。

子供も、10歳になるまでは「ひたすら楽しみたい」と考えるだろうが、10歳を過ぎると、裁断的なルールに従わないとモテないことを悟る。
その後、自分の選んだ道で「裁量的な」訓練を積むのが人生となる。
技術革新などの裁断的な組み換えはなされるだろうが、その後、すぐに裁量的な「技」をみんながすぐに磨き始める。
裁断的なものを動かすのならばプレスリリースが必要になる。
それに応じて裁量的な「技」も変わってくるのだ。
裁断的なものはあくまでも「世界の支持」が必要であり、なにも「日本人に勝てなくしてやろう」というばかりが裁断的な変更ではなかった。
日本という国はそんなに弱い国ではなかったのだ。
大人たちは、裁断的なものを動かすことの背景にも「おカネ」を要求していたのだろう。
とにかく、平成天皇のように、邪魔者にすぐ「自殺しろ」というような裁断的ないじり方は失脚に直結した。
裁断的なものを動かすことの背景にもおカネが必要であった。
裁量的な世界で動いたビッグマネーを背景に、裁断的なルールで妥協しさらにおカネを得る、
これが「日本人に勝てなくするためのルール変更」の正体である。
「イリーガル」(反則だ!)と指摘するのは子供の基本であり、モテることにつながる。
あとは自分の技を「どの言語で」作っていくかが問われる。
このあたりは国際関係論であろうが、私の発言は常に英語から作られている。
島国に「英語で作られた技」を持ち込めば革命が起こせることは、どのトップアスリートも理解していると思う。
英語は素晴らしい言語であるが、アメリカ人は、「革命騒動」に興味ないんじゃないかな。
Perfume Edge

それを踏まえたうえで、
「セックスはムードですもの」
「クリトリスから先がいいわ?」
「濡れてきたね。スムーズだよ。リラックスして」
「呼吸を乱してもいいんだよ」
「大丈夫、痛くない」

という言葉も、最終的には必要になるだろう。
裁量的な技を磨いた男が、あくまでも裁量的な「発言」をする世界なのだ。
反則などどこにも存在しない。
この「女の性欲の起源」は私もYouTubeで発言したが、何らのルール違反の指摘もない。
「裁量的なもの」「言葉のスポーツとして成立している」という判断を受けているのだ。
裁量(最良)の人になるか、裁断(祭壇)の人になるかは人それぞれだが、かつては裁量的な世界で鳴らさなければ、裁断的な世界で金儲けすることはできない。
裁断的な「ルール変更」をすると、今までの実績のすべてを失い、死人が出る世界もあるのだ。
117+136=253
これをどのように発音するつもりか?
私は当然、日本語で発音している。
それならばそれが「母国語」であり、その国で生きていった方がいい。
しかし、その「母国語」にどのような改造を施すかは人それぞれだ。
なぜ彼は強いのか?八百長ではないか?
そう思うのならば、アメリカのESPNを丹念に追ってみた方がいい。
世界はそんなに甘くはないのだ。
平成天皇を退位させたのはESPNなどの海外メディアなのだ。

資本論(男論)と唯物論(女論)があり、「予言」がなされるのが哲学の世界であり、とくにマルクス主義や、イスラム教シーア派は、それを宗教の柱とするものである。
ところが「負けることがある」のだ。
この時に「フィクション」というものが生まれた。
「負けることから始まる物語」のことをフィクションと呼ぶ。
CoCo さよならから始まる物語

「神がいないのならば私たちが発明するわ?」
これがフィクションである。
私は、アメリカの高校でタイプライターの先生と折り合いが悪く、それでも、私の英語の学習への真摯な姿勢を目撃されていた。
仲の悪かった先生が、私が帰国すると聞いて、上機嫌で話しかけてきた。
「そんなに別れが嬉しいのか」と思ったが、のちに「中国人は窓に向かって英語をぶつぶつを話して勉強している」という噂を聞いた。
あの先生が作り出した神学なのだろう。
ribbon 三つの願い

この時に、アメリカの女たちは「親日派」ではなく「親中派」という想像も取り入れている。
神を作るのは「女たち」という側面があり、純文学ではなく「語っていて楽しい」ことを女たちは自由に創作していた。
純文学は「女たちが語っていて楽しい」創作の世界ではない。
しかし、フィクションは「自分たちの好みの神を生み出せる」世界である。
ここで、「ニッポンのコータロー」と言うか「中国人」というかの違いが純文学かフィクションかの違いにすぎないであろうが。

純文学は、国家の企画立案に用いることも可能である。
しかし、フィクションは「純文学よりもより長期的な」視野で企画立案に用いることができる。
彼とは真剣勝負だった。
しかし、別れた時は嬉しかったし、私が高校二年生の時にアメリカに留学した時は、高校一年生の時の女の子が、終業式の時にはしゃいでいて、のちにこの曲を作っている。
酒井法子 窓際の恋飛行

その後、私は代々木ゼミナールの東大文系コースに入ったが、酒井法子ファンの男たちはみんな私のことを「小野光太郎か」と言っていた。
酒井法子 エアメール

真剣勝負のあとの別れは嬉しいものだ。
みんな筆が進んで止まらなかった。
このことから、プロスポーツとフィクションの共存も始まった。

女の「性欲の起源」は男よりも複雑であるが、すでに説明は終えている。
男の性欲の起源は、女が喘ぎながら「ああ貴族!ああ官僚!」というところにある。
ベルサイユの薔薇

 

お笑いの秘訣は「性欲を刺激する」ことであるが、男の性欲を刺激するうえで「男の体を褒める」ことがどれほど有効であろうか。
女の声で「キレてるよ!」「チョモランマ」「そこまで絞るのには眠れぬ夜もあったのだろう」などと言うのが有効だ。
あるいは「トイレ」と性欲の関係も指摘できる。
女が「トイレ行きたい」ということも重要である。
ボディビル掛け声

松田聖子の赤いスイートピーほど、「男の性欲」という基本を理解した曲はない。
セックスはどうしても「男による女の支配と従属」という関係を取らざるを得ず、それがそのまま、「男の性欲」となっている。
たとえば、男に「ああ貴族!ああ官僚!」と言って喘ぐことや、男の方が女よりも「体が大きい」ことを口に出して指摘するなど、「キレてるよ、チョモランマ、そこまで絞るのには眠れぬ夜もあったのだろう」など、あるいは、男社会では「女性用トイレ」に制約が多いことを活用して「トイレに行きたい」などといういことを、うまく「ポエム」に混ぜ込んでいかなければならない。
松田聖子 赤いスイートピー

 

小野光太郎講演会2 ラカン以来の性の作法とアベノミクス

 

 

2019年11月20日 (水)

今こそ「哲学入門」を。

アリストテレスは、「男」(ファースト)が「女心」(セカンド)を語り、「予言」(サード)を行うというモデルを確立した人物だ。
プラトンのように「音楽作品を聞いて感化される」という密教とは異なり、数学によってスポーツのルールを決め、物理学によって技術を磨き、生物学によって選手のコンディションを考えるという用い方を行い、それは顕教と呼ばれた。
「仕事」というものは横浜スタジアムや、国立競技場を中心に生まれるものだと考えたのだ。
しかし、アリストテレスが「スタジアムや競技場」を見ていたとしても、プラトンの「コンサートホール」の大観衆の存在に依存していた側面は否定できない。
女は「子を宿した」時にはじめて男にたいして優位にたてる。
しかし、男女という概念の相対性はすでに述べたとおりである。
松田聖子 抱いて

「スタジアムや競技場」の感動の再生産は、常に時代によって「やり方」が異なったし、「コンサートホール」の動向も気になった。
東京ドームでエアロスミスが、後楽園ホールで名護と松倉が戦っていた時代は、まだ、ショービジネスも各人の仕事も安泰だった。
しかし、コンサートホールが冷え込んだらどうなるのだろうか?
スタジアムや競技場が「やり方」を考え直さなければならなくなる。
松田聖子は「仕事・勉強・いじめ」の三つによって「男」というものは生まれるという時代の人てあり(1970年以前の誕生)、生まれながらにして「男」ってわけではないとし、男性崇拝を推し進めた。
松田聖子 赤いスイートピー

発展途上国においては「障害を持った子」が生まれたら「女の子だ」としている。
貧乏セックスのことを「犯罪」と呼ぶが、カネがないのに勃起することから犯罪というものは生まれている。
しかし、勃起すれば「女の子たちが奪い合う」、勃つのならば哲学に興味を持てるという意味では、犯罪の撲滅は可能なのだ。

コンサートホールにおいては、常に「男と女をぶつける」(弁証論)ことを考えていた。
モーニング娘。ファンタジーが始まる

しかし、スタジアムや競技場においては、「男同士」「女同士」がぶつかり合っていた。
コンサートホールにどのような「知識」をもたらすかは、哲学者の日々の女たちとの対話が必要であり、実践のともなわないものてあってはならない。
スタジアムや競技場においては、数学、物理学、生物学の世界となっており、審判の卍のために両チームの経済ブレーンが、常にコンサートホールの動きをにらみながら、キュレーション(評論)を競いあっていた。
審判卍

NHKがとうとう「毒親」という言葉を出してきた。
TOPIXの値段すらセックスでもらえない「家庭内の女」がいて、女がノイローゼになっていたのだ。
高橋由美子 僕をぶたないで

男が「女心」を語り、「予言」をする、その哲学の基本を示したのがソクラテスであり、コンサートホールを作ったのがプラトンであり、スタジアムや競技場を作ったのがアリストテレスである。
女の子はみんな「障害者と同じ」という扱いで女となっており、それでもステージの上にあがる美しい女はいた。
コロッセウムなどがローマ帝国では知られているが、数学と物理学、生物学がなければ「みんなが熱狂することはなかった」とも言われ、デュープロセス(フェアプレー)は、ローマ法に属することになる。
この仕組みが哲学界で知られているときに「体重73キロのソクラテスは走っている」と表現された。
ホルモンは「見た目と勃起」からおのずと定まってきた歴史がある。
つまり、フィリピンの少年で「美しい・仕事・勉強・いじめを経験していない」場合は胸が大きくなってくることになる。
ホルモンという概念もアリストテレスが考えたものだ。
フィリピン美女

あとは、「女は胸を隠す」という文化が普及すれば、ギリシャ哲学は完成したと言っていい。
「その方が気持ちがいいから」というのを目的的行為論と呼ぶが、家の鍵は出掛けるときには締めている、忘れ物はしないなどの生活習慣は「その方が気持ちがいい」というところから来ている。
目的的行為論は「女は胸を隠した方がいい」という方向に向かい、これはそのままグノーシス派と呼ばれ、人類に「20世紀の到来」を約束した。
20世紀以降は?と言われるとどうしてもミシェル・フーコーの存在がクローズアップされる。
「あなたは生まれたときから男の子・あなたは女の子」という文化がポストモダニズムをもたらしている。
なんで「仕事・勉強・いじめ」を経験すると勃起するの?と思うだろうが、それは「頭を使うから」としか言いようがない。
そこで「あなたは生まれながらの女の子」と言われているのに「仕事・勉強・いじめ」に耐えられる「美しい女」がいるわけがないことも
理解しなければならない。
美しい女は「仕事・勉強・いじめ」を経験していない。
「歌って踊れば美女になる」という言い伝えもあり、お稽古事が生まれた。
SPEED Body&Soul

「仕事をしている私だって美しいわ?」と思う女性もいるだろうが、「コンサートホール」「スタジアムや競技場」が「仕事」を生み出しているとした以上、「女心を定義する」(政治)ことを仕事と呼ぶしかない。
矢野顕子

一人の統治者の独壇場の場合は、ファミリーに委ねた方がいい。
そうでないと暴君になる。
「女心を定義する」のが「政治」だとするのならば、それは出版するなどして民主主義にしなければならない。
出版しないから、「ファミリー・暴君」は生まれるのであり、文壇があるのに「暴君」などいるわけがない。
さて、勃起するおちんちんは当然、女の子への挿入に向かうわけであるが、ここで、「音楽作品の大ブレイク」がもたらされた。
男同士の知恵比べ(モード)にまで発展することもある。
SPEED Deep blue&truth

ソフォクレスもユーリピデスも、女の子として真剣に生きています、という芸術作品を発信した。
子供は全員が少年である。
しかし、どの家庭にもエディプス王がいたのだ。
エディプスコンプレックスは「男の子の話」ではなかった。
女の子として生きなさいというお父さんからのメッセージのことを言ったのだ。
女の子としていきることに決めることを「カタルシス」とも呼んだ。
真夏のフェミニスト ribbon

カタルシスには、女カタルシス、セックスカタルシス、勉強カタルシスがあり、自分から「女の子の文化が好き」と考えるか、お父さんに「従属の対象」にされたり、「だって勉強嫌いだもの」と考えるものがある。
いずれにせよ、政治(女心の定義)や、男らしさ(宗教)を理解する上で、「女の子の生い立ち」「女とは生まれるものではなくなるものだ」ということを理解しなければ、「予言」もできないのが男であった。
このあたりを「哲学入門」と位置付けたい。

レーニンは、あくまでも「プロポーズという名の全体主義」を推し進めていた。
たとえ男女の「性」が相対的なものであっても、社会主義というものはそういうものだと考えたのだ。
しかし、1924年にレーニンが死んで、スターリンが権力を握ると、社会主義ではなく、「プロポーズからはぐれた男女のより洗練された文化や芸術」が志向された。
フーコーの「1970年」以降に、レーニン主義(プロポーズという名の全体主義)が先進国において確立するのは目に見えていたが、1924年にはまだそのような「確立した性概念」はなかった。
そこで、「いじめのなき貧困」などのように「仕事・勉強・いじめ」を経験しないから女になるというアプローチがとられ、たとえ新カント派が「有名な芸能人女性を口説くのがうまい神」を標榜したとしても、スターリニズムは、女になることを「悲劇の誕生」としたのだ。
レーニン主義と戦うドン・キホーテというのがスターリニズムであり、今でもニューミュージックや絵画などに表現されている。
ribbon 愛してジャスティス

「社会主義には仕事・勉強・いじめがない」などと皮肉ったのはスターリンであり、つまりは「男がいない」という意味であった。
スターリンが「レーニンの」社会主義のことをボルシェビズムと呼び、スターリニズムは、プロポーズという名の全体主義を、「まだ、その時期ではない」と考え、「処女と神学(男らしさ)」を強烈に打ち出した。
処女フェチ・男フェチがスターリニズムの正体であり、日本では「プロポーズという名の全体主義」と同じくらいの影響力を「処女フェチ・男フェチ」は持つことになった。
恋するフォーチュンクッキー

「仕事・勉強・いじめ」つまり「男」を生み出すのはブルジョアではないか?とも言われ、貧困層は「処女」を生み出せばいいとスターリンは考えていた。
レベッカ チープヒッピーズ

マルクス主義を振り返ってみると、やはり「囲い混み運動」(エンクロージャー)をやって、多くの処女を、牧場で「生産」したのが思い出深い。
「仕事・勉強・いじめのない空間」さえ作ればよかった。
このエンクロージャーは、唯物論(マテリアリズム・女主義)とも呼ばれ、ロンドンを世界一位の都市にしている。
カタルシス(女として生きようと決めること)をどのように作るかも問われた。
ローリングストーンズ アンジー

女の「美しさ」のことをプラトンは「カロン」と呼び、深く知らない間柄の女でも、「勉強をしている男」にエネルギーを与えるために作り笑顔をする。
よく人柄が知られるようになると、会ってもニコリともしないのが女であるが、最初、会ったときの作り笑顔は「男の噂」を背景にした「高貴で」「美しく」「癒される」ものである。
所詮、作り笑顔だなどと考えてはならない。
最初、会ったときの作り笑顔は「すでに噂で知っていた」から作ったものなのであり、女は「興味のない男には60%ポジティブ」な表情を向けるものだ。
表情を作ることそのものが「高貴な」ものなのである。
絶対解ける問題 松浦亜弥

プラトンは「コンサートホール」の研究をした人物てあるが、唐突に「ステージを降りた女」との交遊関係を語り始めた。
宮前真樹は、「なにか作業をしていたので話しかけなかった」と私のことを語っていたが、「女はパートナーがなぜ自分とセックスしたがるのかの説明を与えている」という論文を読み、宮前真樹作詞の曲は「ガラクタたちが教えてくれる」としているという調査などを私はやっていたのだ。
シャボンのため息 宮前真樹

男たちという「ガラクタ」の愛の対象になると、セックスで感じなくなる、料理できない、掃除できないという女になるが、本来、女は「多くの女を代表して男に抱かれている」という側面があり、「女友達の多さ」を競いあっているのだ。
日本中の男たちが「勃起した」女が気持ちいいのかと言われると、「女友達の多さ」に依存しており、しかも、男が射精をする前に声を変える瞬間に「想像」モードに入ったことを意味し、できるだけ多くの女を想像できた方が気持ちがいい。
そのため、日本中の男たちが勃起した女が必ずしも気持ちがいいとは言えないのだ。
しかし、日本中の男たちが勃起した女とパートナーになったら、女の「音楽作品の意味」を探求すれば、掃除や洗濯、料理などは「他にやってくれる人がいる」ということも可能だ。

プラトンは、ステージ上のパフォーマンスは「ホメーロスやヘシオドスの問題」としてあえて議論はしていない。
それよりも、「料理できない、洗濯できない、掃除ダメ」という女にとって「大切な人」になることを語っている。
松田聖子 スター

まあ、哲学をやるのにも英語が分からなければならないし、詩を作るのも「ミメシス」と呼ばれる、いわゆる「パクリ」を理解しなければならない。
いずれにせよ英語が分からなければ何も始まらない。
哲学をやるのならば「酷いいじめ」(ウルトラソウル)を経験しなければならないため、ウルトルソウルがないのならば詩をやればいい。
ウルトラソウル

1980年代から2007年のモーニング娘。まで「ミメシス」(英語の詩の翻訳)は、常に正解であり続けた。
詩だけでなく、サウンドもミメシスに頼っていた。
今のコンサートホールはミメシス(欧米からの輸入)をどう思っているのかが明らかではない。
柔らかくてデカい体をした哲学者が薬を飲みながら研究するのが哲学だ。
しかも、酷いいじめ(ウルトラソウル)がなければ哲学を研究する理由がない。
女と男のララバイゲーム

現在、神社がキリスト教の吸収を行っている。
街を歩いている女ならば日経平均株価(2万3千円程度)を支払わなければセックスしてはならず、付き合ったのならばTOPIX(1690円程度)は支払わなければ「犯罪」であり、支払わなければ、女が病んできて男が犯罪を犯すとされている。
米津玄師 レモン

米津玄師は、男友達は「財産」であり、女友達は「担保」であるとし、男の「非犯罪化」を進めたが、それを実践したのは神社であり「教会ではない」という強烈なメッセージを歌に込めた。

ミメシスとウルトラソウルは、天皇のものであり、それはつまり「天皇を敬え、政府にしたがえ」という神道となっていた。
政府にしたがえと言っても「犯罪」を抑止する「男友達」(財産)、「女友達」(担保)を男に与えるのが仕事だ。
所有が「男友達」で、占有が「愛という概念をともなった関係」を意味し、男にとって「男友達」は財産であり、「女友達」は担保であるということを踏まえて、「男女がどのようにして二人の関係を深めていくか?」という学問が債権法であることを理解しているのならば法律を勉強してもいい。
「愛の法律」(債権法)が、物権法(おカネの裏付け)に優越すると我妻栄は考えていたが、キャンパスで何を得ることができるのか?は理解しないといけない。
また、セックスをしたら「友達のラインを越え、恋人になる」という基本を踏まえ、刑法・民法と向き合っていかなければならない。
三浦理恵子 グッバイフレンズ

詩の発展は、ギリシャ哲学の頃からなされていたが、ミューズの女神(ミュージック)の発展はバロック音楽の登場を待たなければならなかった。
本当に「最後の審判」「決戦の時」が怖くなくなったのはバロック音楽ができてからだ。
スコアや弦は「計算するためにある」ということも理解しなければならない。
すべての世界が「アメリカ合衆国を真似する」時代になっている。
いいものを真似することを恐れてはならない。
ピカソの「イカれた」絵画もいろんな人の絵を真似て、イカれた頭で描いただけなのだ。
頭がイカれたら、イオニアの空でも眺めるしかない。
そういう世界なのだ。
モーニング娘。 歩いてる

ウォルター・ベンジャミンは、私の父の「先生」でもあり、夜の街に堕ちていく男たちを尻目に王道を歩む男の子の研究をした人物である。
SPEED Another sweet field

ベンジャミンは、ハインリッヒ・リッカートや、ゲオルグ・シンメルなどと交遊を深め、カフカの小説にも触れた。
どのように「男は化けるのか?」、それがベンジャミンのライフワークとなったのだ。
ボルシェビキ・ラトヴィア劇場で「プロポーズという名の全体主義」を見て、人生の勝者というものがだいたい分かった。
彼は1939年に戦争が始まると、フランスで「ドイツ人である」として政治犯収容所に入れられているが、すぐに解放されている。
女の願いが「プロポーズ」だとするのならば、その世界の「優等生」を作りたかった。
のちに女は「出産の方が大事だった」と気がつくとしてもだ。
真冬の観覧車

くだらない人生、周囲はそう呼んだが、大人になってからの「パフォーマンス」にはみんな避けて通っていた。
「男女の経験などカントを読めば全部書いてあるだろう」という思いがあった。
あくまでも「カント」を前提に、人生のすべてはすべて本に書かれていることを前提にベンジャミンは、「アーケードプロジェクト」というものを考えたのだ。
ぺピン

私も、父の指導にしたがい、そこのけそこのけお馬(聖徳太子)が通る、と言われるように、アーケードのなかを歩いただけで東大文一に受かっている。
他に優秀なやつは腐るほどいたが、みんな「消えた」としか言いようがなかった。
夜の街に堕ちていっていたのだ。
かなりメシアニック(救世主待望論)的な発想であったが、カフカだけでなくフィヒテまでこれに賛同してしまった。
今でもCDショップは、メインストリート(アーケード)に堂々と店を構えている。
「遊ぶカネをやらない」というのが私の祖母や父の考えだったようだ。
その代わり、CDでは「歌のモデル」にしてもらうなど、案外楽しい時代だった。
私が21歳で心を病んでも、祖母はこのような作品を書いている。
酒井法子 エアー

朝のうちにマスターベーションを終わらせておくこと(モーニングプレイ)も、必要だった。
とにかく、祖母は私の従姉妹の酒井法子を強烈にアピールしてきた。
秘密のガーデン 酒井法子

従姉妹の女は、クラスメートの女よりも簡単にセックスできる。
しかし、祖母はあえて酒井法子を私から「遠ざけた」のである。
祖母はカルヴァン派(オランダ美人)として、「処女のアイドル」だった薩摩藩の娘として、酒井法子を認めていなかったのだろう。
薩摩藩の出身の祖母にとって、私が「アメリカに留学した」「帰国後3ヶ月で大検に受かった」時点で、ソウルメイトとして「CDショップを通じて」キャッチボールをすることは決まっていた。
なにしろ香淳皇后には「権力」があったのだ。
酒井法子 エアメール

私は、祖母との「対話」に夢中になったし、熱心に酒井法子も聴いた。
勉強もした。
なにしろ、私の「勉強」のために動いたものが大きすぎた。
生魚を食べたら誰だってアニサキスで下痢をするだろうが、私は排泄する時間すら惜しんで勉強した。
おかしい、体調が悪い、疲れる。
私は寿司をたらふく食い過ぎたせいで肝臓に虫がたまっていたのだ。
「顔の赤い痩せたソクラテス」
祖母は認知症になり、「マンモス」というアルバムを最後に、私との「対話」を打ち切っている。
自身の薄れ行く記憶を頼りに、先妻の娘・美智子とその娘のことを歌っている。
酒井法子 平気!平気!

28歳の時(1999年)に、ホリフイールドと、レノックス・ルイスが戦い、私は「インターネットの情報力」を世界に紹介した。
この時に、香淳皇后は、私と「美智子の娘」との結婚を認め、しかし、香淳皇后は次男に殺害されている。
次男は令和の改元の前日に自害している。
2000年に香淳皇后は亡くなっているが、母方の祖母が2005年まで必死で「身内の私への造反」を食い止めていた。
2005年に母方の祖母が亡くなったら、もう、家庭内のいじめは「戦争状態」となった。
私はそのメンバーを「ぺテロの葬列」という記事にしている。
ペテロの葬列

香淳皇后は認知症と戦いながら、無我夢中で生きた。
昭和天皇の「戦争」と同じ、戦争を私が経験し、暗愚なものたちが歴史に名を残すように、ユネスコやスタンフォード大学に「後始末」だけは頼んでくれた。
ノーベル賞の数など今さら数えようとは思わない。
私は「おばあちゃん子」だったのだ。

精神病の原因の探究は新時代を迎えている。
マスターベーションが「普通の女」を対象としたものではないこと、女を知らないこと、その女と日常を過ごしていないこと、などが精神病の原因として指摘できる。
「今は言えなくて、きっと傷つけて」
CoCo メロディー

統合失調症にせよ、うつ病にせよ、強迫性障害にせよ躁病にせよ、「女とは何か?」を知ることで治すことができる。
これは、精神病の女にとっても「女とは何か?」を理解すれば精神病が治るという意味では同じことだ。
男(ファースト)が、女心(セカンド)を語り、予言(サード)をするというのは、プロスポーツを楽しむごとにみんなが健康になっていくことを意味する。
女心を語るというのは、男にとっても健康であり、女にとっても健康なのだ。
「男が女を愛する気持ちを利用するのが経済学」であるが、それはメンタルの「健康」を基盤としたものであり、精神医学の世界にせよカントにせよ「男心」ではなく「女心」に常に注目してきたことにはこのような理由がある。
女の子は思春期に「仕事したくない、勉強したくない、いじめられたくない」という三つの要件を揃えて、「美しく」なる。
この「正直」を伝えないのが大人の恋だと思ったけど、いろんな現実もあったし、大人に近づくたびにみんな「男に頼って」美しくなっていた。
愛の炎 田中れいな

要するに「男女の間の神経伝達」が男には必要であったし、女は「女らしさ」を表現する必要があった。
女らしさは「仕事をしない、勉強をしない、いじめられない」ことからもたらされる。
しかし、「女心」を知ることは、男にとっても(もちろん私にとっても)「仕事」と呼ぶほど厳しい作業ではなかった。
脳がダメージを受けたら「女性芸術」「処女芸術」に心が向かうのは当然だったのだ。
男は「男女の対話を」、女は「女らしくある方法を」知る必要がある。
「君が僕の子孫を残すのかと思うと緊張するんだ」
恋じゃなくなる日 Bz

このような「読書」は、学校の勉強とは違うと思われる。
このような「男が女と対話する」あるいは「女がより女らしくなる」ことを「税収領域」と呼び、「どうしたら病気ではなくなるの?」という問題を明らかにするだけで、人々は「お金の蒸発」から守られ、手元にお金が残り、さらに納めた税金はしっかりと財務省に届いた。
「気分がいいから読んでいる」というのがもっとも好ましい税収領域であり、「神・男の完全性を議論すると爽快感がある」などのように、よりシンプルな形で、「精神病患者のいない」豊かな国を作ることができる。
赤いスイートピー

精神病になっても基本的には問題はないのが、「周りにアイドルたちが普通にいる」というところにある。
「仕事・勉強・いじめ」から自由になることが「女らしさ」を生み出すし、逆に「仕事・勉強・いじめ」が男のちんちんをどんどんデカくする。
男女の対話は「1970年生まれ」以前と以降では意味が異なる。
1970年生まれ以降には確実に精神病患者は減ったし、今ではデジタル化の時代そのものが、「家庭」と呼ばれる芸能人を病気から自由にする技術によりさらに減った。
つまり、「地上波デジタル」の時代には「新しい患者さん」はほとんど想定していないのだ。
「周りが自分の噂をしている」「私のことを笑っている」
それは「幻聴」と呼ばれたが、人々は実際に噂していたし、笑っていた。
周囲は「なぜ、女の子ともっと話をしないのか?」「女は男に頼らないのか?」と不思議がった。
これが精神病の正体だったのだ。
ICD-10は、「周囲は最終的には勃たなくなる、異性に興味が持てなくしてやる、と考えていた」としている。
異性の気持ちが分からない、これが重篤な精神病につながる。
しかし、カントは「男心」の研究にその答えを見出したのではない。
あくまでも「女心」さえ分かればいい、というよりシンプルな答えを見つけたのだ。
女ネットワークが、有名男の「噂をした」「笑っていた」のは本当なのだ。
しかも、「相手にしてくれないのならば、完膚なきまでに勃たなくしてやろう」と考えたのも本当だった。
かつては「痩せすぎ、高熱、覚醒剤、低身長」などの特徴が統合失調症には見られた。
しかし、要するに「有名男が弱った瞬間をみんなが狙っていた」ということなのだ。
このあたりは、「娘ができれば、女心に興味を持つだろう」と考えたソシュールや、実際に、病院で「バカウケ」する話をして自信をつけていくしかないと考えたフッサールにまで遡らなければならない。
男がどのように「女心」に興味を持つかは「謎が多い」とされている。
「どっか連れてってくださいよ?」と言われたら、それはいじめであるし、男としては「赤と木」つまり、赤い花と木を見せて「これが男なんだよね」と語れる上級者ならばいいが、そうでないのならば、「大きすぎるもの、小さすぎるもの」(超越論的)が女の美学だと心得て、「天文台と海岸」「ランドマークタワー」などの「答え」を用意していなければならない。
中嶋美智代 天文台と海岸

私も、東大に入って有名になった時に、女性たちが私の噂をしていても、顔を真っ赤にして寝たふりをしてしまった。
これが、もっとも最悪なパターンである。
なぜ、そのような「チャンス」に女の子に話しかけないのか?
私も、電車で女の子たちに「俺、東大哲学科」と言っていろんなインタビューが出来るようになるのに時間がかかった。
心ならば「女の側に開かせよう」というのがカント以来の伝統であったし、それがそのまま精神病の治療につながるのだ。

「心の痛み」は確実に脳にダメージを与える。
このことから、周囲は「脳への攻撃」に容赦はしないだろう。
電話をガチャンと切られることにすら慣れていないのが若者なのだ。
「俺、スターなのに?」と思ったら大間違いだ。
育ちが違えばよそ者である。
脳にダメージを与えるためなら周囲は何でもやる。
外科内科的理由が鬱病の原因だとされていたが、今では「お育ち」がかなり無理を強いてくると「ディスチミア」という鬱病になる。
お育ちがいいのならば、これも周囲の攻撃材料になる。
「仕事・勉強・いじめ」から自由になった「女らしい」女性はこれほどまでに「男に頼りたい」し、「男を潰す力を持っている」のだ。
「女にも分かる話をしてよ?」
学者たちは精神病院通いに大忙しだ。
「有名」「女と話すのが苦手」これだけで心を病んでしまうのだ。
東大としては「英語と第二外国語は教えたからな?」という国際関係論と呼ばれる言い訳は成り立った。

かつては、「統合失調症になると精子の価値は49%になる」と言われたが、私が「20世紀JーPOPレジェンド」たちとの交友関係を明らかにしたことは、「マッドプライド」と呼ばれて精神医学の世界に衝撃を与えた。
男にとって「男友達」は財産であり、「女友達」は担保である、とし、男友達同士で「口説き文句」を取引し、女友達にそれを話してみるという物権法の世界を経て、
モーニング娘。男友達

セックスをするのであれば「おカネが必要」というのが債権法の世界であり、刑法の世界であるとした。
街を歩いている女の子ならば日経平均株価(2万3千円程度)、家庭内ならばTOPIX(1690円程度)が必要と考えられる。
男友達同士で「口説き文句の取引をしている」と言っても、電話口ではなく、まとまった論文が必要だ。
1948年の世界人権宣言を経て、21世紀に入って国際刑事裁判所でもこの「やり方」は認知された。
日本国の神道が先にこのことに気が付いたのか、それとも「キリスト教社会が既に知っていた」のかは明らかではない。

レズビアンの女と会った。
「理想の男の夢を見ない」「周囲の異性が自分をどう思っているかに興味がない」
つまり「あなたの痛みは消えないわけですね?」というと「内科的なものですから」という。
レズビアンの「おカネ」と、ハンターとしての本質、さらに彼女にとって「愛情とはどのようなものか?」このあたりがテーマとなる。
むしろ彼女は「純粋な少年」なのかもしれない。
プルタークの英雄伝にも興味がないだろう。
あるいは、自分が「英雄」なのかもしれない。
「処女に興味はあるか?」と聞いたが、本来スターリニストならば興味があるはずであるが、それも「ない」と言う。
「理想の男」に興味がないのならば、とんでもない財産的損失を被ることになる。
旧約聖書では「理想の男」は語っていたが、レズビアンを議論したのは新約聖書である。
「処女」=レズビアン=カトリックは、「階級闘争」と深く関わっている。
異性でマスターベーションできない人を相手にしたのはナポレオンだった。
女の園、それは指原莉乃のためにあった。
指原莉乃のソドムがAKB48だったし、スターリン以前にナポレオンが「カトリックの資金力」に目をつけていた。
1969年に「ビリティスの娘」と呼ばれる今のAKBグループに警官隊が突入した。
ミシェル・フーコーの「1970年」の前の年だ。
階級格差は、指原莉乃のソドムであるAKBグループが解消する。
同性愛に執着を持つリーダーが卒業した時点で、グループはおしまいだ。
ソドムにはストイシズムしかなかった。
「膣セックス」以外の「可能性」が必要だった。
「勉強」を愛さなければリーダーではなかった。
「勉強を愛しているふり」をしなければ、ソドムのリーダーではなかったと思った。
これが指原莉乃の正体だった、という夢を見た。
指原莉乃、それは非常に興味深い研究テーマとなった。
実年齢は50歳を過ぎているだろうか?
つまり、「なぜあしたのジョーで、矢吹ジョーを応援する子供たちの中に女の子がいるのか?」という問題とぶつかる。
カントは「子供の頃、非常に可愛がられた」とされているが、
「1970年」以前の生まれである指原莉乃は「フルートガール」つまり、ちんちんを口に入れられていたのだ。
日本国の神道のように「勉強崇拝」をしていたのがカントの両親であり、森の巨木をちんちんとみなし、「これが勉強の目的よ?」と教えていた。
生まれながらにして「皇帝の後継者」とされたカントは、6歳ぐらいでクリニックで勉強を教わった。
勉強と言っても、父が書いたテキストで常に「おカネの話」を聞いていた。
指原莉乃のような「同性愛多数派工作」がカトリックであるとするならば、プロテスタントはもっと「おカネ」に敏感だった。
「国の汚い部分をなんとかしてくれ」も言われたら、政治家は「プロテスタントの美しい歌声」に頼るしかない。
映画「タクシードライバー」の、大統領候補パランタインは「簡単な問題ではない」と答えているが、ニューヨークの汚らしい側面は「プロテスタントの美しい歌声」こそが解決する問題だったのだ。
インディゴブルーラブ

痛みに関しては、とにかく「休むこと」が必要であったし、それでいてかつての自分の「伝説」を異性がどう思っているのかを知る必要があった。
しかし、指原莉乃は「女の子」が自分をどう思っているのかを知る必要があった。
しかし、世の中の「波紋」は毎日のように混乱し、また、干渉しあっていたため、メディアで少なくとも「自分がどう思われているか?」を知ることはできなかった。
そのために「街やクリニック」で他者と交流する必要があった。
いろんな男たちがいたが、一言でいうと「神」という共通項が見つかる。
男は「勃てば」どの男も、時代の寵児と変わらなかった。
指原莉乃も「休養をとり」「アフロディーテのために祈れば」内科的疾患や顔の浮腫もなくなるのだろう。
酒井法子 涙が止まらない

私も、激務で体が痛いが、「常にセンターであり続けること」よりも、その時代の寵児のために祈る必要がある。
人間は「食べると得をする」とされる。
私とて、他の宗教家の「勢いとエネルギー」にいつまでも勝ち続けられるわけではない。
イエスは「祈らない、笑わない」存在だった。
しかし、もし私が休養を十分にとり、しかも祈れば、人生に悩みなどないことになる。
「この宗教家の勢いは止められないね」
そう思ったら、私も、ようやく宇宙のメンバーとして、貯蓄ができるのだろう。
誰だって「一人勝ち」の時はある。
しかし、指原莉乃は「次世代アフロディーテ」のために祈れなかったのだ。
男は、女をめぐる「仕事・勉強・いじめ」によって男になっている。
つまり、ちんちんがデカくなっている。
一方で、女はこれらの作業から自由である代わりに、男の話を聞くようにできている。
そこで、「1970年生まれ以前」は、男と女が「知性によって」つながっていたのだ。
この「つながり」を断ち切ればどこか健康に異変をきたすだろう。
今は、「電話」「スマホ」という便利なものがあるではないか?
「すべての人間がつながっている」
これが健康な社会というものだ。
少なくとも、指原莉乃は、「男に心を閉ざした」のである。
しかし、「男に心を閉ざした女」がカトリックというものを作ったのだ。
「私は動物なのかな?子孫を残せないのかな?」という気持ちから、AKBのメンバーは、普通にクリニックにいたし、男(ファースト)、女(セカンド)は、男が女心を語ることで女たちの支持を得て、スポーツの世界などで予言(サード)を行うことでみんなが健康になった。
資金集めのうまい陣営をみんなが応援したし、結果を見て笑顔で家路についた。
1755年にリスボンに津波が襲い、7万人が死んだ。
しかし、カントはこのことを「予言」していたのだ。
「地震という断層運動のズレも人間がやることなんだよ」
地震が起きたら、気象庁や宮内庁に苦情を言っていい。
数学がスポーツを作り、物理学が技術論を作り、生物学がコンディショニングを考えた。
地震など、スポーツビジネスの失敗でしかなかった。
地域住民が「メンタルな健康」を見失ったら地震が起きる。
ノストラダムスの大予言というものがあったが、平成天皇は「おの」の登場によって救われている。
20年後には、すべての日本人が「アメリカ化」するのではないか?という期待感もあり、天変地異を免れたのだ。
皇室と関わっていると「ブーメラン」という言葉を目にする。
「意思の自由のないものは、自分のことをまるで相手のことのように語る」のである。
皇室のメンバーに意思の自由がないことからこれは生じるのだろうが、宮内庁関係者も在日や部落民などで構成されており、「意思の自由がない」という意味では皇室のメンバーと文化は変わらない。
国語の「問題文」を答案に書いてしまうことは、東大不合格を意味する。
「なぜか?」ときかれたら「~だから」と答え、「どういうことか?」ときかれたら「こういうこと」と答える。
問題文を答案に書いてしまわないことを覚えただけで、私は東大二次試験の現代文で満点を取っている。
すべて「意思の自由」を確認されたのだ。
意思の自由のない「統治体」ほど危険なものはない。
21歳より下ならば「教わったことしかできない」ものだ。
私も、東大現代文の「法則」は、模範答案の研究を綿密に行なった上で発見している。
若さを楽しみたまえ、若者よ。
モーニング娘。

なにしろ「ブーメラン」は、男と女の「知性によるつながり」から排除された障害者のような連中が返してくるのだ。
「我々のアイデンティティは純潔にある」という保守派が多く、女が「その言葉は欲しくない」と思ったら、全部「相手のこと」になっているのだ。
宮内庁には低学歴が多いとされるが、要するに「プレイヤー」(皇族)の動きが緩慢で鈍いのだ。
どの組織もスピードアップは嫌いである。
女の配置も定まらないまま、ピョンピョン話を進められても困る。
巨大組織は、サプライズを引き起こすのを苦手としている。
スピードアップが嫌いならば、プレイヤーはみんな皇族みたいな連中になり、動きがのろい者が出世する。
大企業や官庁の不祥事ばかりが報じられ、男と女が知性によってつながっているような連中は大企業や官庁を発信源に病んでくる。
これが1755年のリスボンの津波の予言の意味である。
みんなが死にたがっていたのだ。
女の「死にたい」発言は「ちんちんのついている男の側の責任」なのだ。
「高度な政治意思」ってあるのかね?
高度統治行為ってあるのかね?
これが「巨大組織」を率いる者の結論である。
吉田茂は、池田、佐藤、山崎の3名の閣僚の署名をもって那須に向かった。
これで憲法7条解散が戦後はじめて行われたのだ。
「批判に耐えられんか?」しかし「3名だけか?」
最高裁はこの苫米地事件に「憲法判断回避」を行なっている。
昭和天皇の源氏物語のセールスが伸び悩んだり、国会対策費・メディア対策費が足りなかったことから、昭和天皇の「男女の知性によるつながり」が疑問視されざるを得ないからだ。
巨大組織はとにかくスピードアップを恐れている。
教祖というものも、その「のろさ」をよく理解しているし、「意に反する薬の服用」を行い、神道信者公称9500万人のトップならば、常日頃から女性とコミュニケーションをとっておかなければならない。

寝てる時に「痛み」で目を覚ます。
夢で見るのは「理想の男」であり、「理想の恋人」と付き合っている。
しかし、指原莉乃が見た夢は「女の子たちに囲まれている」ものであった。
おとぎ話のような話であり、人間はレム睡眠の時に「痛みで目を覚ます」あるいは持病を持っている人は発作を起こす。
酒井法子 おとぎ話のシンデレラ

とにかく眠っている時に見る夢は「大きすぎる」のだ。
これをそのまま「AKB48」としてオンエアしても、それが「当たり前」になるとむしろのちの人生には「痛み」が待っている。
夢はひとりみるものじゃない

夢で見たことを他人に押し付けると、むしろ有害であることもある。
今の知識に疑いを持つ必要がある」のである。
夢で見る「女」は皆、処女のようだった。
私の夢を絵にしてみよう。
印象派は、そのように考えてのちの世代の評論を待った。
印象派ルノアールのように

眠っている時に見た「夢」は実現できるのか?
私は「俺を殺してくれ!」と夢でうなされて寝言を言った。
「心」には合格点はない。
大学に合格した、就職の内定が出た、それだけで叶う夢が果たしてあるのだろうか?
Do It Now

夢を見ている時のレム睡眠は、人間が「休む」という通常の体勢ではないとも言われる。
起きている脳に麻痺した筋肉とされている。
試しに体に痛みを与えて眠ってみたところ、夢を見た瞬間に私は「エンコ詰めろ!」と怒鳴っていたそうだ。
日常の職場で「エンコ詰めろ!」と言っている方もどうかしているが。
そこで研究者は、夢を見る時間帯にはなんら法則のようなものはない、とし、「ゆっくり休める睡眠を」と研究テーマを変えていった。
なぜならば「自分が怯えているものが夢で実現することもある」からである。
夢を見た瞬間、麻酔が切れて痛みを感じるのならば「現実とのギャップ」の存在も指摘できる。
夢と論文とスタジアムという生活は、現実社会から離れ、体に痛みをもたらす。
寝てるよりはデートの方が意味があるだろう。
ribbon 変な愛のカタチ

また、白黒の夢とカラーの夢があるとされ、カラーの夢ほど「嘘が多い」とされる。
夢は「女にたどり着く道であり、戦いである」とも言われる。
それならば、指原莉乃は「自分にたどり着くための戦いなど必要ない」と考えているだけであり、「理想の男を夢見る」というフロイトの説はすでに克服されたのではないだろうか?
ユングやフロイトの場合

夢は、始まった瞬間に「ゲームとして成立させよう、長続きさせよう」と脳が判断している。
また、「夢を見るならば健康だ」とも言われる。
コンサートホールにカネを払ったら、夢で倍返ししてもらえるという説もある。
アンデルセン童話も、寒い国の印象派なのだろうか?
マッチ売りの少女

また、夢を食べるのは「バク」ではなく「女の胸」であるとされ、もっとも疲れが癒える睡眠は女の胸からもたらされるとされている。
指原莉乃は、貧乳なだけ、そもそも夢を見ない、という仮説も十分に成り立つ。
私は、夢で「女にたどり着く道、戦い」を見て「俺を殺してくれ」と寝言を言った後に、本能的に、魔除けとしてアイドルのポスターを壁に飾った。
「勃つために夢は必要」とする学者もいる。
そもそも、キリスト教(セックス崇拝)が真理であると確定したのも、「夢がそうだったから」ではないだろうか?
また、夢を見ると「余計な情報がカットされる」という説もあり、余計な情報を取り除くために、あえて眠りが必要な人もいる。

巨乳女と長時間過ごすと疲れる。
しかし、巨乳は魅力的である。
このことから、朝ドラや映画など長時間のパフォーマンスをする女は貧乳の方がいい。
一方で、歌などの「5分間のパフォーマンス」をするだけならば巨乳の方がいい。
これらの原則を「デシプリン」と呼ぶ。
デシプリンは、1500年代中頃に、日本の能や歌舞伎、文楽などが知っていたとされる。
これは「人生の伴侶」というもっとも長時間のパフォーマンスにも影響を与えるものであった。
藤原紀香 CM

映画で貧乳女に癒される。
そんなカップルはよくいるだろうが、巨乳女との日常に帰っていかなければならない。
シアターを都合よく使わないカップルはいないし、テレビでもそれは同じである。
見つめてあげたい

彼女が貧乳ならば、生活をともにしても疲れないだろうが、男は時に不幸に見舞われたら「揉みたく」なるものだ。
そのような時は、ソープランドやポルノシアターなど、かなり「偏見」をともなう場所に行かなければならない。
とにかく胸とは女性にとって「私とは何か?」という問題であったし、男はそのことと常に向き合わなければならなかった。
なんにも言わずにI Love you

能や歌舞伎、文楽が世界に発信した「私とは何か?」という問題であったが、
貧乳女を観客全員で追いかけた後にはみんな爽快感で喝采を送った。
タクシードライバー

国民的アイドルはみんな貧乳であったし、視聴者に「巨乳女との理想的セックス」を約束するものであった。
「私とは何か?」というものを正確に理解し、文化との接し方さえ理解していれば、男は浮気をする必要もなかった。

愛も深まるのと同時に、「文学座」などはジャズを好み、「このフルートはどうやって使いこなすの?」というような素材を放映していた。
「何かが難しかった」のだ。
「不倫は文化」というよりも「文化に委ねなければなくならない問題」であると言えた。
「巨乳は疲れる」「紀香が重い」
そのために、映画館は常に「カップルの集いの場」でなければならなかった。
映画館の数の減少と言っても、家での「重さ」を解消する意味合いもあった。
まあ、DVDでもいいだろう。
rebecca trouble of love

 

伊豆の踊子で、踊り子が学生さんに「学生さんがいっぱい大島に遊びに来るね」というと学生さんは「それは夏でしょ?」という。
踊り子は目を伏せたように「冬でも・・・」という。
おばちゃんが「おかしな子だよこの子は」という。
実は、冬の海での「男女の秘儀」を踊り子は言っていたのだが、学生さんはショーペンハウエルを知らなかったのだ。
父と子の問題も「僕は身寄りがない」と言ってニーチェを理解する才能を疑わせた。
哲学科であることからハイデガーが「読め」と言った本は読むだろうし、ただあてもなく旅をしているということからキルケゴールの道を歩んでいた。
踊り子は「いい人はいいね」と話していた。
この帝国大学の学生は、実は和辻哲郎をモデルにしたものと思われる。
兵庫県姫路市出身で、旧制一高(現在の東京大学)に入り、その後、東京帝国大学に入っている。
「西洋化」
それは、和辻哲郎も夏目漱石も向き合った問題だった。
夏目漱石は「行人」において「孤独で孤独で仕方がなく家に帰った」イチローという人物を描いている。
男の子は「男」になるために「仕事・勉強・いじめ」に耐えなければちんちんがデカくならない。
また、和辻哲郎は、バイロン、テニソン、シェリー、キーツなどの詩を学んでいる。
美男美女になるために「古寺巡礼」を書いたが、みんな子供の頃は「美少年」であって、日本精神史研究において、日本国の「男」はいかに「仕事・勉強・いじめ」を経験して男になるかを描いた。
桂離宮の「制作過程の考察」を行い、ものづくりこそが「男」を作ってきたとした。
ハイデガーは、「ザインとゾレン」において、「ただあるがまま」の存在を「女」とし、苦労を重ねた人物を「男」としていた。
偶像細工によって「女は女らしく」を描いている。
偶像細工がなければ、日本国の株価が上がらなかった。
「悪の天才」ほど「小柄な人間」になる。
駆け引きを知らない人間は図体がデカくなる。
いろんな意味で、明治維新以降に「性概念の確立」を試みたのが和辻哲郎であった。
尾崎豊 シェリー

 

「女は女らしく」これが人類未体験ゾーンであってはならなかった。
「昔から女らしい女性はいた」
これを万葉集で描くことが必要だった。
和辻哲郎は、1960年に死んでいるが、1960年代に「セックスと革命の嵐」が吹き荒れた。
仏教が「美男美女」を生み出していた。
しかし、美男美女が「セックスをする」というモデルが「全国民のもの」となったのだ。
徳川将軍が70人も子供を作る時代ではなくなった。
「男の誕生」
それは宗教であったが、1960年代に「男たち」が荒れ狂ったのだ。
1970年代には少年非行は沈静化に向かった。
ミシェル・フーコーの「1970年」を待つまでは、我が国も革命の恐れがあったし、「暴力革命」つまりプロポーズという名の全体主義を通じて、
「自然革命」つまり「処女と男」の確立を行わなければならないと思われた。
しかし、西側陣営の一員として、日本国は「1970年」に、生まれながらの「男の子・女の子」を決めることにしたのだ。
和辻哲郎を失った1960年代の日本国のことを「シチリア島」にたとえて、ゴッドファーザーは作られている。
ゴッドファーザー 愛のテーマ

 

「男に何ができるのか?」
それは21世紀、しかも令和の時代になっても「まだ実験中」であった。
世界レベルで、男(ファースト)、女(セカンド)、そして「女心を語ることによる予言」(サード)は、発展段階にある。
和辻哲郎が「人間存在」において、「男の誕生」を書かなければ、日本国は西側諸国、準白人国家としては存在していなかった。
ボクシングの世界においては、いまださいたまスーパーアリーナとラスベガスは「条件は同じ」ではない。
低血圧の人が好むスポーツのまま、熱が覚めたり燃え上がったりしている。
まだ、ボクサーやジムが「論文」のセールスを行う世界ではないのだ。
そのような意味では、デトロイトスタイルやタイソンストリートに30年は遅れをとっている。
ファースト、セカンド、サードが、誰も「小野光太郎の発明」であることを認めたくないまま、世界の哲学は動き続けている。
阪神電鉄は「球場周辺のいかなるビジネス」も手がけ、読売新聞は「日曜版」のセールスを見ていた。
横浜DeNAベイスターズはそこに割って入った。
三浦理恵子 日曜はダメよ

 

第二次世界大戦終結の5ヶ月前に、和辻哲郎は「鎖国~日本の悲劇」を書いている。
これも、「令和天皇ならば違うやり方をしたのだろう」と改竄されている。
アジア初の近代帝国でありながら、膨張路線を取り、それでいて「ファースト、セカンド、サード」という概念を明確にしきれなかったのだ。
「令和に入ってもまだ、男女の性概念は流動性を持っている」
「株価ポテンシャルはまだまだある」
これは、私も日常的に「シスコン女」と接していることから理解している。
お母さんの作る食事が美味しすぎる、愛よりも食べ物、このような系統と、お父さんに幼い頃いたずらされた、という系統、いろんな「女になりきれない女」のポテンシャルがあるのだ。
どの母親も「娘に嫌われたくない」と思っている。

 

2019年11月15日 (金)

怖い婆さんの扱い方。

美智子上皇后が、たいそうお怒りらしい。
美智子さまにとって娘は「おちんちん」(ピエロくん)であり、それを私に持っていかれたことから、「去勢」(キャストレーション)を経験し、思春期のメランコリーがぶり返したのだ。
しかし、「声をかけられクルリ振り向けば、素敵な人が立っている」という思春期のキャストレーションとは異なり、自分の姿はもはや「ネズミ」であった。
さよなら失恋ピエロくん

フロイトの去勢(キャストレーション)論争は「100年続いた」とされるが、マスオとフネの論争は、イケメンとネズミが絡んだ難しい議論であり、ネズミである自分は、もはや対立する母もなく、美の探求にも関心は向かわない。
娘のいる高齢女性特有の悩みを解決するのが今後の哲学の方向性なのだろうか?
カントが「永久平和のために」を記したのならば、この「ネズミの救済」は論点にならざるを得ない。
50歳以上はふたなり、という私の議論と、女性は51.4歳で生理を終えることから、抜群のタイミングで、美智子上皇后は同世代のご婦人たちに「悩み」を打ち明ける格好となった。
ニーチェは、「悲劇の誕生」において、ネズミの救済を取り上げ、ウォルト・ディズニーは、ディズニーランドをそのような高齢女性のために作っている。
「夫をなくした翌日にディズニーランドにいた」という女性もいる。
ディズニーランドの木や山は、素敵な男たち、エリートを表現しており、アメリカではミネラルキングバレーの「ディズニーランド造成計画」は、「悲劇の誕生」を根拠に合憲判決が下されている。
私は中学の卒業旅行は、東京ディズニーランドであったし、留学の卒業旅行は、ロサンゼルスのディズニーランドであった。
「いつかカントやニーチェが分かってくれれば」という大人たちの願いが込められていた。
ribbon 卒業旅行

カントが「あそこの婆さん怖いから気を付けろ」と言ったときに、「国家の資金の流れ」が決まった。
カントは、「女心」を探求し「プロスポーツに生かす」ことがライフワークだったが、「怖い婆さん」だけは、自身の政治活動の障害物だった。
そこで、ニーチェはのちに「ディズニーランド」を構想したが、カントは、「ボールパーク」(野球場)を想定していたようだ。
ボールパークの婆さん。

カントのポリシーは「処女をうまく使う」「頭を使う」というものであり、その上で「勃つ」のが男であるとし、「カネで治める」ことで体系化されている。
この体系こそが「実践理性の定言命令」と呼ばれるものだ。
そのコツは、カネを最後に婆さんに集めて放出させる、というものだった。
男だって女だって、最後に頼るのは「婆さん」だということを知らなければならなかった。
おカネの動きは決して「男性的・合理的」な動きはしていない。
カントは、自分がいくらおカネを儲けても、怖い婆さんに乱暴かつ非合理的に浪費されていくのを見た。
「予算編成」など女の仕事ではなかったのだ。
予算法律説はここから生まれている。
予算をうまく組んだ者を、「上流階級」と呼び、それには男が関与する予算法律説を採用しなければならない。
予算法形式説でも、予算行政説でもない。
この順番に「階級社会」というものは出来上がるからだ。
私は東大ボクシング部(大学3部リーグ)で、予算担当の三年生が自分のマンションやバイクを購入しているのを見ている。
カントは、しかし「女も四人集まれば男と変わらないね」とし、福祉の文書家(法律家)・会計家を間にいれれば、「乱暴なおカネの使われ方」は防げるとしている。
おカネの使い方における「怖い婆さんの独裁」だけは予算行政説であり、最貧困層の考えることだ。
美智子上皇后にはこのような「テレビに出ている私が使い道を考える」という予算行政説の発想がある。
男がちんちんに値段をつけるのならば「上限はない」と言っていい。
それを理解しないのが予算行政説であった。
主権(予算を決めること)を法律としない限り、天皇にその「公布する」権能はなく、美智子上皇后が予算行政説にまかせておカネを浪費している限り、宮内庁は三流官庁・最貧困層であり続ける。
最後には「社会契約論」に答えを見いだすしかない。
「うちの会社は一流だよ?三流だよ?」それだけの違いだ。
リクルートメントに救いを見いだすしかないのだ。
「アニキ、強いってどんな気持ちですか?」
予算法律説が一位、予算法形式説が二位、予算行政説が三位、それだけだよ。
一家に一冊「憲法」が置いてあるのならば、天皇が「予算を作る」訳ではないが、予算法律説にしたがって一家の大黒柱や、誰よりも強さを探求した主将が、予算を「公布する」必要がある。
さて、「予算」について話したが、「一流家庭」と「三流家庭」の予算の違いが明かになった。
そうなると、やはり見えてくるのは「芸能界」(公務員)の世界であろう。
公務員は皆、テレビに出演し、まるで話す言葉がすべて「詩」のようであった。
しかし、いざ「人権」となると閉鎖病棟で看護士に反抗し、他の患者に「こんな奴やっちまえよ」と発言するなどの「煽り行為」に違法性を求め、さらに看護士に反抗することへの違法性を求めていた全逓東京中郵事件のような、「主婦層が芸能人におおらかだった時代」を終え、全農林警職法事件においては、「公務員の一切の人権」に司法(恋ばなをする世界)は心を閉ざしたのだ。
ニーチェは、ワーグナーと若い頃はピアノの腕を競いあったが、いずれそれはワーグナーという天才への尊敬に変わり、最終的には哲学に目覚めている。
モーレンドルフは、のちに歴史的評価を見てからではあるが、「ニーチェの膝元に豹や虎がひざまずくであろうと思った」と語っている。
勉強ができない、それが理由で「私を快楽のため、そしてあなたの面倒を見るために使ってください」と言える。
これが「女」であることの告白である、という意味すらわからずに1970年以降の世代は歌を歌っていた。
大人のいう通りにしなければ生きていけない。
でも、トーク番組に出なければならない。
このことから「恋ばなの得意なおっさん」の話を熱心に聞いた。
愛の炎 田中れいな

 

1970年生まれ以前の男は「ふたなり」であるということも一部の風俗上がりの女しか知らなかった。
若い女のなかにはそもそも「ふたなり」「シーメール」という言葉すら知らないものもいた。
「五分間のパフォーマンス」で「人生の結論」を歌わされたあとには、知識への渇望と、落ち着かない人間であるという残酷さ(人間、あまりにも人間的すぎる)が残された。
私も、東大に受かったあとにアカシジア(体を左右に揺する症状)が止まらなかった。
東大生と芸能人は同格であったし、合格発表とアイドルの「五分間のパフォーマンス」は同じ意味をもった。
「結論が先、知識はあと」
これが「悲劇の誕生」という意味である。
ニーチェは、ツァラツストラはかく語りき、において「ありとあらゆる醜い男」を描いている。
「これが東大生の悲劇の誕生よ?」
優秀な後輩すら、東大を避けるようになった。
「醜い男と、美しい女」が共存する、これが芸能界だった。
キルケゴールが「読め」と言った本を読むのはニーチェも同じだった。
即位の儀式を終えた令和天皇は「汚い歯をしてタバコ臭い部屋」にいた。
「結論が先、知識はあと」
このような「悲劇の誕生」はまだ免れた部類だろう。
あとでゆっくり歯の治療をすればいいのだ。
ブレーンがいる、などという「夢物語」が「悲劇の誕生」を誤魔化すために用いられている。
そんなブレーンなどいない。
新ドイツは、「悲劇の誕生」とともに作られた。
それにしたがわない指導者など存在し得なかったのだ。
「悲劇の誕生」を知らずに、「完全に潰したと思った」と語る主婦もいたが、「休養とそれにともなう復活」に怯えた。
私が語った「ネズミ」は、美智子上皇后のことてあるが、あの婆さんとて「結論が先、知識はあと」という世界に放り出されて、しかも「キルケゴールが読めといった本を読まなかった」のである。
その姿は「滑稽な芸人」に過ぎなかった。
しかし、シラーは悲劇の誕生と、それからはぐれた「滑稽な芸人」を歓迎していた。
なにもかもうまくいく、そんな女に寄り添うつもりはさらさらなかったのだ。
いわば、「キルケゴールが読めといった本を読まなかった」人間たちが芸能界を盛り上げた。
中森明菜 リフレイン

のちに「悲劇の誕生」と直面する羽目になる男たちも「深刻な歌」を聞いて言葉が豊かになった。
シラーの詩に、カントまでもが「俺はそういう気持ちが分からないんだ」とファンレターをよこした。
カントからの手紙は「カリラスレター」と呼ばれ、女心というものをいっそう深めることになった。
令和天皇がカントだとするのならば、上皇后美智子はシラーだったと言える。
「うちの王子は、殺すと脅かすとものすごく悲しい歌を歌うのよ」
皇族全員が中森明菜のリフレインを覚えた。
「いじめられる痛みは、失恋する痛みと同じなのかしら?」
無敗の王者であるカントも、いじめられる痛みならばいやというほど知っていた。
CoCo 優しさに帰れない

自然災害の猛威や、人々の恐怖に共感できる人になってもらいたい、それが「滑稽な芸人」に映った女性の気持ちであった。
秋篠宮眞子も、「ショパンの雨だれ」を「好きな曲」のひとつに挙げている。
ショパン 雨だれ

悲劇の誕生、つまり「結論が先、知識はあと」という立場におかれたものは「悲しい旋律」を好む。
カントからの「カリラスレター」は、女の悲しみを知るとますます「女心」の研究が深まった、と深い感謝の言葉が記されていた。
カントは「女の悲しみ」を知る必要に駆られて「エステティックレター」と呼ばれる一連の手紙もよこすようになった。
「私は今、女の悲しみの研究に没頭しています」と書かれていた。
ribbon さよなら

カントからの手紙は20通以上におよび、24通目では「私の寿命が伸びました」と記されていた。
カントにとって「勉強しすぎて失ったものが、女らしさ、だったということがバレたら大変だ」という思いがあったのだろう。
「なんにも知らず無邪気に生きている女」を口説くのは、カントにとっても喜びであったし、私も、1970年以降に生まれた女が「ふたなり、両性具有」という言葉すら知らなかったことは、驚きでもあったし、楽しかった。
ショーペンハウエルは、「結論が先、知識はあと」という悲劇の誕生を受け、「没頭するからファンができるんだよ」としている。
この考えに、ニーチェ、ワーグナー、ブラームス、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、ホルクハイマー、ハーディ、マン、リルケ、プルースト、トルストイ、マーラーなどが影響された。
その「道」を極めるために、気がついたら「世の中のだれともつながっていない」状態にすらなった。
数少ない友達は大事にした。
酒井法子 風邪

世の中の「知識」はすべてがすべて「人気のあるもの」ではなかった。
「結論が先、知識はあと」
それが東大生であったが、駒場には「結論」すら得ていない左翼が学内をうろちょろしていて、恥知らずのようにビラを配っていた。
「俺は中卒とどう違うんだ?」
そんなことすら考えた。
しかし、女たちはそうは思ってはいなかった。
「東大生」
それは憧れだったのだ。
「結論すら得ていない左翼はどうせ、俺、頭悪いからと言い訳をするからね」と女たちは見ていた。
「お前が東大に受かった時は、一族が沸いたな」
周囲がそのように「結論」を与えるものだから「没頭すること、知識を得ることは宿命」とみなされた。
「結論」がある以上、食い物にも酒にも困らなかった。
あとは「今の時代には何もない」というような「大人たちの無責任」だけを回避するだけだった。
悲劇の誕生、それは「天才と気狂いは紙一重」とするものだ。
少なくとも、平成の法律学者は無責任だった。
「司法試験の受かり方」は教えてくれても、女一人口説けない、芸能人(公務員)に通用する話ができなかったのだ。
「悲劇」それは時代が生み出すものであり、英語さえできれば、かなりの部分は克服できるものだった。

女には「仲間・女友達」が大勢いた。
美しいからだを比べあい、男の快楽の対象となった。
二人の女がいれば必ず「体を比べあって」いたのだ。
そのため、セックスとは女にとって「仲間を代表して」行われるものであった。
ribbon Virgin snow

すべての女の「からだ」は、印象に過ぎなかった。
女の多数派工作からもたらされたものだ。
女の多数派工作の動向次第でセックスの気持ちよさが変わったため、その多数派工作は熾烈を極め、男の仕事は横浜ウォーカーで「おいしいお店」を探すことだけになった。
仲間の多い女はとにかく「気持ちがよかった」ために、男は「おいしいお店」を覚えたのだ。
酒井法子 天使の館

気持ちいいセックスのために男が生きているとするのならば「横浜ウォーカーを読む」のが正解だ。
東京ウォーカー、横浜ウォーカーだけで気持ちいいセックスが約束されるのが男だ。
「悲劇の誕生?」
結論が先、知識はあと?
そのような学歴社会、身分制社会をも揺り動かしたのが「おいしいお店」だった。
女は女友達が多ければ多いほど「いい女」「気持ちのいい女」だとするのならば、ヒュームは「悲劇」を嘲笑った。
長嶋茂雄のように「腹が一杯になれば幸せ」という男は、とにかく努力家でなければならない。
読売ジャイアンツドラフト一位ならば、おいしいお店なんて覚える暇もない。
悲劇の誕生をヒュームは「おかしいな、セックスさえ気持ちよければいいのにな」と思ってみていた。
「外食産業の売上」は、「女の多数派工作の動向」を示していた。
外食産業の売上が落ち込むと、女たちが孤立感を高めたことを意味する。
それは、悲劇の誕生でもあり、令和天皇のように「知識を求める生き方をしたい」と思うのならば、「セックスよりも気持ちいいものがある」と男たちが考えたことを意味する。
酒井法子(1971年生まれ)は、1970年以前に生まれた男が「ふたなり」であることを受けて、
知識を愛する(ソフィア)者が男であるとし、ソフィアを持っている男とそうでない女の関係を「愛情」と呼び、ソフィアを持っている男同士、持っていない女同士の関係を「友情」と呼んだ。
酒井法子の特徴は、「上の世代に心を閉ざす」というところにあり、時代の過渡期に「友情などよく分からない」としている。
酒井法子 オールライト

男を愛することは、知識を愛した男(ソフィア)を愛することであり、ribbonの永作博美(1970年生まれ)は、「愛情と友情を比べることなんて出来ない」と歌っている。
ribbon 君ならば大丈夫

プラトンは友情を「リシス」において、愛情を「シンポジウム」において語っている。
松田聖子(1970年以前)となると、娘とて「子供の頃は少年」に見えたのだろう。
アレキサンダー大王は「少年愛」が知られているが、どの子供も生まれたときはみんな少年であり、勉強ができないことから「私を快楽のため、あなたの面倒を見るために使ってください」という「告白」を経た上で「女」として認定してきた。
このことから「愛情と友情」論争も始めなければならなかったのが世界史だった。
松田聖子 時間の国のアリス

ソクラテスは「裁判」(ソクラテスの弁明)を終えて聴衆の喝采を浴びたあとに、監獄に戻った。
囚人仲間のアルキビアデスが「あなたのような知恵があれば」(ソフィア)と言ったことから、ソクラテスとアルキビアデスは激しく愛し合った。
1970年以前に生まれた男にとっては「愛がすべて」という言い分は当然なりたつのだ。
ハウンドドッグ フォルテシモ

年配の女性にとって「根性なし」の男を「ちんちん切れ」というのは常識であった。
ミシェル・フーコーが「愛」という概念にとんでもない影響力をもったのは明らかであった。
ビートルズ All you need is love

台風撃退の歴史を知らないと「宗教史」を見失う。
ミシェル・フーコーを知らないと「文化史」を見失う。
知識を愛した者、根性のある者以外に「愛される資格がない」というのが「男の歴史」であった。
職場における「男女別コース」も合憲とされている。
年配の男性芸人の中には「ウォシュレットのビデが気持ちいい」と赤裸々に語る人もいる。

源氏の君は「紫の上」という「少年」にご執心だった。
この頃から「風呂に入っていない、靴を履いていない、美しくない」少年が、「愛されるために」志すのが学問であるとされるようになった。
そのような意味では紫の上は「美しい少年だった」ものと思われる。
美しさのために美を捧げるのが男とも言われ、哲学を学ばない男は、そもそも「世代間ギャップ」を埋める力量がないのだ。
アレキサンダー大王の「少年愛」は、今で言う「美少女マニア」という意味であった。
知恵の分だけ男は勃起する。
学問を志すかどうかで、クリトリスがおちんちんと呼ばれるようになるかが決まった。
水を浴びると少年が美少女になるというのは「黒いシャリオット」と呼ばれる少年の現象であった。
さて、「神・男の完全性を語り合うと爽快感がある」「男らしさを語り合う論壇のことを宗教という」ということの意味が理解していただけたであろうか?
また、美少年が失っていくものの代わりに得るものが男の魅力ということの意味が、世界史においてどのような意味を持つのかも明らかになった。
また、紫の上は「パトロンがいたから髪を伸ばした」とも言われ、
ミシェル・フーコーの「1970年」以降の女で髪の短い女は「未成熟な膣に挿入を受けた」あるいは「そもそもおカネに酔っている」と言われた。
しかし、アダルトビデオ産業は「勉強という名の宗教」を背景に、1970年以降に生まれた男たちに「手術」を施して巨大なロッドを競い合わせた。
自分の学識に自信のない男の子たちは、性に奥手になり「草食系」と呼ばれた。
「東大に入ってもこのサイズだ」という達観が求められる。
幼い頃に「しゃぶらされた」少年は「フルートガール」と呼ばれ、「女として生きるという結論が先、知識はあと」という「悲劇の誕生」を経験した。
ミシェル・フーコーによって「性の簡略化」が行われるまでは、このような強烈な「知識崇拝」があったし、「男性崇拝」(宗教)が存在した。
「男でなければ天皇は務まらない」
それは、予算の公布の都合のみならず、資金力が違ったり、予言力が異なったり、さまざまな理由がある。
ミッシェルガンエレファント パンテオン神殿に「理想の男」を祀り、シェークスピアは、男たちが「女心」を理解して、予言を行うというストーリーを練った。
「リア王」は、女心を理解しない暗愚な王として描かれ、「リチャード二世」から「リチャード三世」までのつづきものは、「なぜ王朝の断絶がイギリスにおいて生じたのか?」を描いた。
チューダー朝のエリザベス女王は、常にリチャード三世を気にしていたし、「マクベス」においては、王家の女が犯されたことから、男たちが夜を徹して猛抗議を家の前で行い、明け方になってなんだか虚しくなったという話である。
「ハムレット」においては、「墓を荒らすシーン」が描かれ、地球は世界で一番美しい、生きていることそのものが美しいことを描いた。
これらの「パンテオン神殿とシェークスピア」は、理想の男と、そして「女心を理解すると王になれる、生きていることは素晴らしい、それでいて女として生まれることは時として悲しい」ことを巧みに表現した。
ribbon 愛してジャスティス

 

エロくなければ「文字」というものが人々に拡散されることはなかったし、日本語の「現代語化」は、賀茂真淵以降を「現代文」と呼ぶにしても、人々に分かりやすく、誰でも書けるようになったのはロマン主義文学のおかげである。
カントは「いかに女たちにモテるか?」(悟り)を研究したが、19世紀にはカントの人生をいかに「エロ」く描くかが問われ、人々は文字と日常に接するようになった。
「ミッシェル?なぜあんなことをしたんだ?」
フーコーがなぜ、男と女を「生まれながらに」区別したのか?
それはひとえに「現代文の完成」を受けてのことてあり、識字率の低い国ではまだ「1970年」は、訪れていないということも指摘できる。
日本国は「1970年」に、すでに準白人国家としてミシェル・フーコーを受け入れていた。
カントという「女を口説く達人」が王として君臨し、その生きざまをロマン主義文学が描き、文字の普及を見極めて「男女を明確に区別する」という方法がとられた。
世界史の流れは「女作りが先、男作りはあと」という展開をたどるのが定石であり、パンテオン神殿とシェークスピアは、それを実践していたわけであるが、フーコーは、かなり大胆に「ドン」と男女の違いを示したことになる。
移民政策は「男作りが先、女作りはあと」という政策であるが、フィリピンカトリックのように、三位一体を「神・勃起・女の癒し」という具合に、そもそも神概念に「女」が登場する宗教もある。
フィリピンの識字率から「男にだって女の側面はあるんでしょう?」という認識があるものと思われる。
とにかく、フーコーが「生殖腺」まで生まれたときから定めるまでは、識字率との兼ね合いから先進国とそうでない国が分かれざるを得なかった。
「文字は男」という割りきりのある女の子たちは、成績がよかった。
酒井法子 放課後のヒロイン

フィリピンカトリックがなぜ「神・勃起・女の癒し」を三位一体としたのだろうか?
フィリピンにおいてはいまだ「生まれながらの男女の区別」がなされておらず、勃起そのものが「知性崇拝・男性崇拝」であったのだ。
女たちは「勃起する男」を奪い合った。
Wink 愛が止まらない

エロい皇帝がいて、ロマン主義文学が流行しないと、識字率は上がらない。
日本国は、ロマン主義文学において、必死で「翻訳」の作業を進めたし、この辺りは明治天皇(ビスマルク・福沢諭吉・小野慎一郎)や、大正天皇(アインシュタイン・野口英世・小野達郎)がいなければ、「天皇ってどんな人?」ということが知られることはなかっただろう。
悟った人(モテモテだった人)ってどんな人?
これがロマン主義文学であり、明治天皇(ビスマルク・福沢諭吉・小野慎一郎)にせよ、大正天皇(アインシュタイン・野口英世・小野達郎)にせよ、本当に日本に住んでいたかは明らかではない。
とにかく「皇帝」は、国際人であったし、それが愛国主義とない交ぜになって「お墓」が残ることがある。
小野家の系図

私たちは「ヨーロッパの幻」を見ていたのかも知れないね。
どの家のお墓にも明治天皇(ビスマルク・福沢諭吉)、大正天皇(アインシュタイン・野口英世)は眠っているし、ロマン主義文学が残されているはずだ。
とにかく、日本語教育・国語教育の発達がミシェル・フーコーの登場を待った。
アダルトビデオを見て、子供を残す気がなくなった草食系の男の子などは、先進国特有の少子化問題を引き起こし、アメリカプロテスタントも、少子化に悩み「優生学」というものを作っている。
しかし、識字率の低い国の「勃起崇拝」は、否応なしに世界の人口を増やし続けるだろう。
杏里 悲しみがとまらない

アンティゴネと、エディプス王がいたが、息子が「勃つ」ためには、「仕事をすること、勉強すること、いじめられること」の三つしかない。
中学生ぐらいならばアルバイトは禁止であろうし、「勉強といじめ」に、「男になるための条件」を絞ったことを意味する。
ラファエロの「システィーナの聖母」を見て「勃てば」男になったことを意味する。
仕事・勉強・いじめは、男の子が「男」になるために必要なものであり、他人を「髪型がダサい、歯が汚い」などと言いがかりをつけていじめている男は、とにかく「勃たなかった」のである。
瀬能あづさ 永遠に友達

「自由」それは夢がぶつかり合って身動きのとれない世界であった。
カントはシラーへの「カリラスレター」において、女性は「おちんちんを切られる」ことから鬱になり、辛い夜を過ごすが、自らは学問において同様の経験をしたと語った。
人生の目的は「ギリシャの神になることかイエス・キリストになること」ではあったが、女の子の思春期の「鬱」を理解するためには、男は「仕事・勉強・いじめ」で鬱を経験しなければならなかった。
「男は勃てばいいではないか?それ以外に目的なんてあるか?」
それほど「仕事・勉強・いじめ」を経験することは重要なことであった。
ゼウスとアフロディーテは、アンティゴネとエディプス王の、美しい息子と娘であった。
とにかくスポーツのようなシンボリックアートのようなものもあれば、異性の美を表現したロマンティックアートもあったし、「仕事・勉強・いじめ」によって生まれた男らしさを表現するクラシックアートもあった。
松田聖子 赤いスイートピー

シンボリックアートは、プロ野球を観たり、車を運転するなど「勃つ」ための芸術を提供してくれる。
「観客ため息」のような「人間の限界」を感じて欲しいという側面もあり、常勝軍団でなくてもファンは確実にいた。
「仕事・勉強・いじめ」によって生まれた「男」を表現するクラシックアートもあるが、鍛え上げられた肉体美のように、ゲイカルチャーに属するものもある。
ロマンティックアートは、そのような意味ではより健全な「勃起」を誘発するものであった。
「男は勃てば神」とも考えられ、そのために持ち家(建築物)のように形に残るものを必要としたりもした。
絵画でも彫刻でも、音楽でも詩でも、形に残るものには違いがない。
とにかく、ミシェル・フーコー以前は、「エディプスという父を持った息子ゼウスがどのように勃つか?」が芸術の歴史であり、今は、女の子アフロディーテとの区別が生まれながらになされているため、「アートとは男を作るもの」という色彩が薄れた。
アートの終焉とも呼ばれている。
田中れいな

しかし、カント以降の男たちは「常に迷いながら生きていた」ため、勃たなくなる男は普通にいたし、アートと疎遠になるのならば、文化のありようが問われることになる。
いじめをやる男は「太い便がしたいだけ、勃たない」などの理由がある。
一方で、街を歩いている女の子とセックスするのならば日経平均株価を支払わなければ犯罪(貧乏セックス)であり、家族ならばTOPIXを支払わなければ犯罪と呼ばれるように、勃つということが、おカネとの兼ね合いから「罪深い」「犯罪」とされることがある。
日経平均株価リアルタイムチャート

2019年11月 6日 (水)

宗教体験について。

宗教体験、それはもはやセックスと関わった概念であり、今となっては「いかに女性芸能人とセックスする夢を見るか?」という議論となっている。
女性の場合は「理想の男」「イエスキリスト」であろうが、ジャニーズは「女の子のおちんちん」に過ぎず、「理想の男」かどうかは検証を待ちたい。
とにかく、私は女たちを口説き続けた結果、激しい権力闘争の末、「杖をついて歩いている」のであり、それでもこの時刻になって街を歩いていると、自分の周りでフラッシュが焚かれていることがわかる。
「権力闘争」の挙句に「杖をついて歩いている」のだ。
このようなおっさんが若い女の子たちにニーズがあるかは論文を読まなければわからない。
とにかく「のぼり詰める」という経験が必要であり、「男の現実」を表現するものでなければならない。
女性芸能人とセックスする夢を見たいという男の子は「鏡の前で自分の裸を見ながらマスターベーションしろ」と私は指摘したが、
これはソクラテスの教えであり、デカルトの「瞑想」はとにかく「第5番の瞑想」というぐらいパターンが多く、どのように国民の「財布」を豊かにするかは明らかではない。
とにかく私は、徒歩5分のところにあるコンビニに行っただけで2度ほどフラッシュを焚かれたのだ。
もはや女性たちの目と耳は、目と耳ではなく「見る・聞く」ものとなっていた。
横浜DeNAベイスターズを横浜スタジアムでのクライマックスシリーズ開催に導いたりした「強さ」と現実を女性たちは知りたがったようだ。
健康な女性たちと「杖をついている男」が熾烈な戦いの後に残された。
女たちは写真のコメントに「プレスリーみたいな男を見た」と書いたため、私の評価は高まった。
さらに「彼は私の罪の代わりに杖をついて歩いている」という理解があったようだ。
モーニング娘。幸せですか

女たちの快楽の記憶を、一人で背中に背追い込む、これが「十字架を背負う」という意味だ。
なにか「確かなもの」「語ってはいけないもの」「激突してはいけないもの」が「杖をついて歩いている男」であり、国家の中枢においては「やらざるを得なかった」ことであった。
徳川家康は「見ざる言わざる聞かざる」であった。
本気で自分を殺しに来た連中のことを思い出させてはならない。
マルクスは「プロポーズという名の全体主義」からの脱却を試みたし、フロイトはもっと若い女の子たちを相手にしていた。
しかし、「普通の女たち」を相手にしたのはカントだろう。
私も即位の礼を終えてこの状態であるが、3年連続日本シリーズ制覇した孫正義はもっとひどいことになっているだろう。
お公家集団を相手にしていた私とは異なり、孫正義は「山口俊のストレート」を相手にしていたのだ。
私の発言をソフトバンクのスマートホンで読むのは自由だろうが、私はソフトバンクとは何ら契約のようなものは交わしていない。
いずれにせよ、仏教もヒンドゥー教もジャイナ教も「テレビ」がなければ成立しない。
「どのように快楽に満ちた夢を見るか?」にしか興味がないのだ。
儒学は「周王朝を滅亡から救いたかった」男の物語であるが、日本国を滅亡から救いたかった「男」は、もはや論語ではなく西洋の哲学書を読んでいた。
人生の三分の一は睡眠だとするのならば、国民により快楽を与えるのは「夢を制すること」なのだろう。

右翼の歴史は「街で指を指されて笑われる」歴史であった。
少なくとも、私は高校時代に三島由紀夫に傾倒し、「楯の会」という名前を知っていたため、「大日本楯の会」というペイントがなされた右翼の街宣車を見て指を指して笑った。
しかし、建築や芸術、哲学、映画、環境問題、言語学、文学、政治学などは「右翼によって」作られている。
右翼思想にかぶれ、中央公論社の社長宅を訪問し殺人事件を犯した男がいた(風流夢譚事件)。
この時、家庭裁判所は「矯正は困難」と判断し、少年だった男を起訴している。
しかし、法学や哲学、経済学をやっている私も、「指を指されて笑われている」ことに気がついた。
そもそも「笑い」というものが「性欲」から起きるものである以上、インドや中国に「右翼」という言葉をもたらしたサルトルは、いいクリエイターであったし、言葉の感覚が鈍った思春期の女の子が「右翼的発言を暗記する」というアクティビズムは正解でもあった。
少なくとも、ボーイフレンドは「恋は楽しいもの」と考えたし、後々になって「お前の言っていたことは正しかったわ」と元彼が電話してきたりする。
八月、最初の水曜日 渡辺満里奈

鬱病の患者が「ドイツ第三帝国」などという書籍を好むことは知られているが、高校生にとっても「理解するのに苦労しない」ものだった。
教科書をまともに読むと下痢をするという女の子も右翼が大好きだった。
脳にダメージを負った男が、アドへマー・ゲルブや、カート・ゴールドシュタインの本を読んでいるのを見て、メルロ=ポンティは、「右翼とは何か?」を悟った。
カントが理解できず、それでいて「カントとは何者か?」を語る連中のことを右翼と呼んだのだ。
いわば、哲学者イエスキリストの肉声を聞かずに、「イエスキリストとは何者か?」を語るような行為が右翼であり、聖書は常に自由民主党の側にあった。
哲学書を読むのならば下痢をするけど、聖書を読むのは疲れないという女性がいてもいい。
しかし、それでは聖書は「予言の書」となってしまうし、敬虔なキリスト教徒が「権力闘争こそが磔をもたらす」ということを理解するにとどまる。
国家基本問題研究所

いつ、カントが、何を、どのように「取った」かを語る結果論のようなものを学習するのが聖書であり、右翼であった。
メルロ=ポンティにも見るべき業績はあった。
米ソ冷戦の時に、「弁証論に基づいて両陣営をぶつけてみよう」と考えたのだ。
弁証論は、「ぶつけるのならば新鮮なうちに」という「発見」をもたらした。
キャリアが斜陽に向かった時に「狙い撃ち」したのでは意味がないことを悟った。
どちらの陣営もがビッグマネーを背負っていた方がいい。
オスカー・デラ・ホーヤ

サルトルは、右翼と左翼という言葉を考えた張本人であるが、「人間というのは結果(物自体)しか見ていないんだよ」とし、女たちも「結果」にいかに関与するかを争っているとした。
ラブパッション レベッカ

いわば、最高裁判例を研究するのを実体的憲法観と呼び、その「結果」ではなく、もっと女たちの肉声に迫ろうとするのをプロセス的憲法観と呼んだ。
男が「勃起する」「ノンケである」ことをライバル女から確かめてから略奪する「仕方がないじゃない、わたし神の子なんだから」という
信教の自由の存在などがプロセス的憲法観からは深めることが可能だ。
女二人がラブパッションによって争ったオフィシャルレコードを追ってみたところで何があるのだろうか?という考えである。
Wink 愛が止まらない

サルトルは、物自体(結果)というものはヒューマニズムなんだよ、としている。
その人の名前と、議論する理由、心、いじめ、そして、女心への理解度(政治)を踏まえた上で、さらには芸術と哲学への造詣の深さを踏まえた上で「物自体」(結果)を決めているとした。
とにかく「プロポーズを頂点とする全体主義」を理解しなければ何も始まらないのだ。
女は彼氏と付き合っていくうちに、自分は凡人になるのか?彼氏が子供に興味を持ってくれるかな?家庭に縛られるのかな?と態度決定を迫られる。
BoA Is this love?

デカルトの「芸能人とセックスする夢を見る方法」や、カントの「口説き文句」の研究、さらにはベルクソンのように「人間がひとつになるわけがないじゃないか?」という議論(ベルクソニズム)を経て、最終的には「物自体」(結果)を語るしかないんじゃないか?という境地に至ったのだ。
それは「自分の世界の広さ」(現象学)つまり「顔の広さ」を誇るのが哲学者であるというフッサールやハイデガー、シラーなどの「現象学」へと議論を進めた。
もっとも、「カントほどの人生の成功は収めていない」のが政治の世界となってしまった。
サルトルがいつハイデガーと接したかは明らかではないが、どの男の子も「若さを無駄にする時期」というものがあり、それを「存在と時間」によって明らかにしていたが、
サルトルは「せめて子供たちの記録をスコアブックに残そう」と考え、これを「存在と無」によって「物自体」(結果)と呼んだのだ。
ハイデガーは、目的を持った男はダサい、と語っていたが、サルトルはそのことに強烈な挑戦状を叩きつけた。
サルトルは「政治家のように振る舞え」とし、若者たちもやたらと人をオルグしたり、子供の頃の記録を大事に保存したりしたが、「若い頃はハンサムでモテていいよな」という割と冷めた政治の見方をしていたとも言われる。
「俺は一生結婚できないんじゃないか?」
そんなことに悩む、国の希望が、「共産主義という生き方」を知らないんだよ。
戦後、ドイツにおいて、サルトルの物自体(結果)を残すことしか政治の世界ではできない、としたことに対して、「フランスは自信をなくした」と大々的に報じられた。
カントと互角にやり合ったルイ16世を殺していたことから、フランスでも「フランス革命とは何だったのか?」と語られた。
また、「我々は物自体(結果)があるから頭を使うんじゃないか?」という指摘も行っている。
勃起する二人の男が争うんだよ。
どちらかが負けてオリゴ糖を飲む羽目になるだろう。
若い頃はビックルとかヨービックに夢を感じなかったか?
サルトルは「詩というものは閃きなんだ」とし、それを生かす作業の方が大変だとしている。
女はパートナーをコミュニティから離さないためにセックスしている。
ribbon レディラブ サルトルは、物自体(結果)を出すために必要なカントの知識(女を口説く知識)を「集列体」に過ぎない、としている。
大人たちが集列体を扱うのはわかるが、プロスポーツ選手は「別のこと」を考えているとし、それはそれで「大人たち」も異論のないものだった。
大人たちは「集列体」をめぐって大喧嘩をしていたのである。
また、サルトルは「物自体」(結果)の奴隷になるなよ?と警告を発している。
物自体(結果)の奴隷は、本物のナチズムだよ。
なにしろ若者は「プロポーズという名の全体主義」を生きているのだから。
この「若者の芸術作品の全体主義」を「スポーツの全体主義」につなげる発想を「マキャベリズム」と呼び、その経験値の低さを批判した。
1930年代は、みんな「左翼」だったよ。
記録が残らないんだからね。
哲学と音楽作品の独壇場を目の当たりにしたんだ。
しかし、1956年にソビエトがハンガリーを侵略した時から物自体(結果)というものは政治の世界で知られていたり1968年のプラハの春でも、ソビエトは「結果責任」を引き受けていた。
かなり乱暴に、集列体(カントと音楽作品)を支持する連中を「大文字の他者」(赤子のような存在)と指摘した。
ハンガリー動乱やプラハの春を見て、サルトルは「社会主義は乱暴だ」と指摘している。
「プロポーズという名の全体主義」の支配下に国家の戦争が位置付けられ、サルトルは「マキャベリズム」「大文字の他者」などとあらゆる批判の言葉を浴びせた。
ribbon Virgin snow

つい先日まで、私自身が物自体(結果)の奴隷であり、プロポーズを頂点とする全体主義も考えたが、サルトルは「それは社会主義だ」としている。
さらには、21世紀に入り、サルトリアンは、「結婚からはぐれた共産主義者や次男を何とかしてほしいね」と語るようになっている。
若者は、結果(物自体)を持たなかったため、父と息子の関係(神は死んだ)という問題と直面した。
父はすでに結果(物自体)を持っていたが、息子はそうではなかった。
父が息子の結果(物自体)に協力できるのは息子が「25歳になるまで」だとも言われ、それ以降は「同じマーケット」で女たちと共存していくため、サルトルの「実存主義」は、世界の広さ・顔の広さ(現象学)と直結した。
父に潰されそうになって街をさまよった男が「仲間」を集め始めたら、そのハンサムな顔を見ると「父を圧倒するのは明らかじゃないか?」と思われた。
実存主義は、現象学と結びつくのが必然だったのだ。
ミスターチルドレン

このままでは俺は親父に潰されてしまう!
そんな男たちに「実存主義芸術」が提供された。
「なぜ現象学に向かわないんだ?」
カメラ技術を磨いたり、原稿を書く腕を磨いたり、ファンクラブを運営すると仲間が増えるだろう?
帝国大学に受かった男が「学者」になることだけを父は夢見ていた。
新派の舞台に興味を持つのならば、miwaのファンクラブを主宰するという方向に向かうのは必然であっただろう。
miwa

しかし、隣の男に「おたく」と話しかけるぐらいにしかコミュニケーション能力はなかった。
「オタク」の誕生だ。
miwaも、昔のCoCoも、そのような「草の根の実存主義者が現象学に向かう」つまり私設ファンクラブを乱立させる方向を見ていたはずだった。
カメラ技術を磨く、原稿を書く腕を磨く、原稿のセールスを伸ばす、時には人生相談のようなこともやるという意味では、私設ファンクラブは、「就職の入り口」であったし、一度は実存主義芸術が目当てで知り合ったものたちが、「父と息子の関係から人混みをさまよい、ここにたどり着いた」ことを正確に発信する「原稿の腕前」は、ヨハネの黙示録とも言われた。
「誰々の息子」「誰々の息子」そのような記録は聖書にあるものであるが、私設ファンクラブにあるべきものだった。
隣の男に「おたく」と話しかけるか「お父さん元気?」と話しかけるかが社交界との違いに過ぎなかった。
CoCo 夢だけ見てる

なぜ聖書に「誰々の息子」「誰々の息子」と長々と書いたのだろうか?
司法試験に受からなくて鬱屈した日々を過ごしているのならば、私設ファンクラブで「誰々の息子」という記録を書き始めた方が、よっぽどカネになるし仕事になる。
カメラぐらい親父に買ってもらえ。
男同士でも「横のつながり」をもてれば、若さを無駄にする時期は不幸でも何でもないのだ。
わずか5名の「美しい女たち」をめぐってできた組織だろうが、男仲間に憧れて女たちも寄ってくるものだ。
「親衛隊」というものは、事務所が「最大派閥」を公認しているだけだ。
なぜ、ニーチェを理解しないのか?
父と息子の関係を理解しないのか?
実存主義芸術が現象学に向かうのは必然だった。
親衛隊が「誘導灯を使うのは俺たちの専権だ」と言って12名で取り囲んできた。
人生相談・生活相談の原稿の「腕」がまだ未熟だったと諦める他はない。
就職や資格を取るだけが仕事ではない。
ニーチェの「神は死んだ」を理解し、克明に「父と息子の記録」を書くことそのものが仕事だった。
CoCo なぜ

そんな私の前に、質素で目立たない格好をした郵便局員の女が現れた。
これが遠野舞子だった。
遠野舞子 ミスターサブマリン

文字通り「質素で目立たない」女だったので相手にしなかったが、実存主義者と現象学の「現実」を私ものちに知った。
精神病院で「質素で目立たない」AKB女を見て「あの系統か!」と気がついた時にはすでに40歳を過ぎていた。
司法試験から逃げたら人生おしまいだ、と思ったが、肝心の法律学が立ち遅れていた。
立ち遅れていた法律学に縛られて、ニーチェを理解しなかったのだ。
どっちが「世界のスーパースター」なのかをよく考えなければならなかった。
ファンクラブの会報も「よく練られたもの」でなければならない。
要するに「実存主義とは何か?」をひたすら書くのだ。
そのような言動をしていたら家族として受け入れることはできない、ということや毒物の存在など、通常は理解できないことを書く。
詩の解釈にも抜群の力量を見せ、事務所やレコード会社に一目置かれる。
所詮、CoCoというグループそのものが、留学や東大文一合格という早熟な側面があった私のように「私たちも夢が見たい」と考えて作られたグループだった。
エロビデオを見て「女が嫌がっているじゃないか?」と考える政治的弱者がいる。それに悩む女がいる。
CoCo メロディ

このような「オタクカルチャー」が生まれたのは戦後のことだ。
ボーボワールや、メルロ=ポンティ、アルバート・カミュ、ハイデガー、ヤスパースなどの哲学者のみならず、ドストエフスキー、カフカ、イプセンなどの小説家も生み出している。
「我らの時代」とは何だったのか?
それは哲学書や小説に残されている。
アイドルは、「正しい神」を信じ「恋に詳し」ければ成り立った。
しかし、それを取り巻く男たちは、これほど偉大な人物たちで溢れていたのがヨーロッパの「オタクカルチャー」であった。
私の場合は、読売ジャイアンツの桑田真澄が「短答式試験に受かった」と報告をよこしたのが印象的だった。
プロ野球のピッチャーとして適当に女遊びをしていた方が受かりやすいのかと今となっては思っている。
Melody 世界中の微笑を集めてもかなわない

また、Melodyのイベントの会場には、いつも最前列のど真ん中の席を、麻原彰晃が陣取っていて、カメラを構えていた。
どの男たちも「若さに対して悪意が加えられている」ことを感じていた。
「将来のある若者」であろうと、正規雇用の壁は高く、大学三年次の就活を逃したら、人生は詰んだものとみなされていた。時代が「哲学」を見失っていたのだ。
「周りにいる男たちが財産なんだよ」ということを語る論客もいなかった。
アブラハムが「息子のために犠牲になる」というのは「自己批判」と呼ばれる「昔の自分を思い出す」営みであった。どの哲学者もどの小説家も、自己批判をしていたし、
「オタクカルチャーを偏見に満ちたもの」と位置付けていいわけがない。
ビジネスチャンスがそこにはあり、青年実業家の卵が大勢いるという認識に改めなければならないのだが、それはひとえに文壇の責任と言っていいだろう。
「最近の若者は」という発言は「テロ」以外の何物でもなかった。
ドストエフスキー、カフカ、イプセンだけはテロを行わず、若者に愛情を示したため歴史に名が残った。
ドストエフスキーは、カラマーゾフの兄弟において、イワンに「親父という神が死んだらやってはいけないことは何もない」と語らせている。
親父から生を授かるというのは「神聖な罰」であった。
神聖な罰から「権力への意思」は生まれる。
病気の動物は、「将来という名の妊娠」をしていた。
将来には健康と強さ、そして地球の重力という悪意があるだけだ。
プロポーズという名の全体主義において、「結婚よりも大事なもの」が物自体(結果)として残せれば、おのずと彼女にプロポーズするだろうとされ、しかし、ニーチェは、「それはカントを学ぶことであって、俺には関係ない」というニヒリズムの立場だった。
「誰々の息子」ということはニーチェが語ったが、カントに対してニーチェはニヒリスティックだったのだ。
私のようなおっさんの自己批判(昔の自分を思い出す)という作業は、常に自己疎外(自分と世界がかけ離れている)と向き合わなければならない。
自分と世界がかけ離れ、そこに「若者への悪意」が加えられたら、かなり厳しい試練になる。
桑田真澄も名球会には入れなかったし、麻原彰晃は国家には敵わなかった。
それでも「ナイスガイ」でいられるのだろうか?
薬を飲み、かろうじて正気を保つのが精一杯だったではないか?
「本物」
それは、常に実存主義とは何かを理解している指導者の言葉と接することだった。
現象学(世界が広い・顔が広い)と言っても「俺は子孫を残せるのかな?俺は動物なんじゃないかな?」と考えると頭がボーッとしてくる。
身だしなみを整え、ゆっくりと休養してみることも必要だ。
ダイヤモンドブルー 酒井法子

桑田真澄が球界ならば、麻原彰晃は宗教界であったし、私は法曹界であった。
そこで「もうこれ以上ギアが入らない」と考えたからアイドルのイベントに顔を出したのだ。
みんな「心配事」を忘れたかった。
集中しただけの結果は出せたが、カントのように「女の子を口説く」だけの余裕はなかった。
20世期実存主義を桑田真澄や麻原彰晃とともに経験できた法曹界の住人は私ぐらいではないだろうか?
みんな「先生が言っていたこと」を答案に書くだけだったからだ。
「何が間違っているのか?」を明らかにした小野臨調のようなものは到底作る能力がなかった。
結果(物自体)が出せなかったらどうなるんだ?
プロポーズという名の全体主義において、男が「何者か」にならなければ、一生独身の共産主義者になるのか?
それは、大人たちが「人生の瞬間」をうまく切り取ってくれるはずだ。
「絵になるシーン」をセールスにかけてくれる大人たちがいる。
とにかく「集中」することと休むこと、身だしなみを整えることを思い出し、「おのれ20世期実存主義を知らんのか?」と後輩たちを「呑んでかかれる」ほど努力することだね。
ハーバードロースクールなどでは「本物」という言葉が知られている。
本物とは「版権の強烈な起源」のことを意味し、一方で「信頼できる心の風景」のことを意味している。
今の「私」はどこからきたのか?
女心にどのようにして興味を持ったのか?
最後に「どのように多くの強者をのしてきたのか?」をも示している。
みんなが真似して「仲間を作り」「自分を見つけ」「物事を解釈する」ことができる生い立ちがいちばん人気がある。
欲望に忠実で、それでいてやる気が出て、そばには音楽作品と彼女がいる、スタンフォード大学が最後に目指したのは「人づくり」「理想の人間作り」の研究だった。
BoA This is who I am

その際に忘れてはならないのが、誰しもが「伝説」をまとわない一人の人間である、ということだった。
社会契約を結べるような境遇、つまり「私もオタクなんです」と言えるような人物像が見えればよかった。
隣の人を見て自分の道を確かめるような世の中では、指導者の肉声ほど貴重なものはなかった。
「つまらない軍務についた英雄」
ハンサムなだけのブルジョア出身の正直者。
姪のプロデューサーまでやってしまう「優しい」おじさん。
奥さんがなぜこの人を選んだのかが分かる人。
いろいろな褒め言葉が存在した。
遅咲きながら、どのようにみんなにボコボコにされて己を確立したのかが分かる人がいちばん信頼できた。
常にタバコを吸っている文化人だということは知っていた。
どのように世論を拾い、進む道を「すでに舗装されているかのように」進むかが大事だった。
ただ「カネにモノを言わせる」だけではなかった。
周囲も人間だったからだ。
「勉強っていうのは基本的に難しいものだ」
それでも「勉強」というものを「案外楽しいものだ」と楽観論を持つことも必要だ。
このような「スタンフォード式」は、カリフォルニアカルトとも揶揄されたが、支持者が多かった。
「音楽作品の拡散力に期待しているんだ」という人もいた。
女心を全て解明したと豪語した時に、業界は「音楽作品の伝達メカニズム」の再編を進めた。
私も仕組みは知らないが、今の音楽作品の拡散力は、私が考えた垂加神道に合わせて拡散されている。
ただやみくもに作って売るのではなく、拡散方法が絞られたのは事実のようだ。
作り手としては「あいつら」に売ってやるんだ、という明確な標的ができたとも言われる。
努力はカッコいい、と言うわけではない。
「鏡で自分の裸を見ながらマスターベーションすればテレビに出ている女とセックスする夢を見る」と言ったのだ。
男の子たちの表情が変わるのが分かった。
ハイデガーは少なくとも「努力はダサい」と考えていた。
それでも専門誌は克明に「オフィシャルレコード」を記録し続けていた。
そもそもソクラテスが「夢」の話をしたのだが、デカルトが「瞑想」と言うものを「5種類」も考えた。
デカルトの「瞑想」「夢の話」だけで、庶民にカネが行き渡るようになりヨーロッパ中世は「近代」と名を変えた。
ユングやフロイトの場合

サルトルは大雑把に言うと「好きなことをやってくれ」と言って大勢の人に攻撃させるという手法をとった。
間抜けな「敵」に忠誠を尽くす者がいて不思議だったが、「人生のためだろう」という結論も導いた。
物自体(結果)だけはもはや誰も触れることはできないことも知った。
「真面目な脳」をふざけた者に取って代わらせると「取り返しがつかない」ことも分かってきた。
プロ野球とか台風とかの「修羅場」が周囲に学習をもたらしていた。
資本主義におけるタテ社会においては、しかし「音楽作品の拡散力」がモノを言ったのだろう。

アルベルト・カミュは、実存主義に立脚するエッセイストであったが、自身を「哲学者」と呼ぶことは否定したことがある。
カミュが探求したのは「とにかく自殺について」であった。
私も、東大法学部に進み、司法試験と向き合うようになると、口癖が「死にてえ、死にてえ」というようなものになり、勉強で疲れ果てて1日寝込んだ時に、寝言で「俺を殺してくれ」と言ったことから、隣の部屋にいた弟が、怖くなって家から去ってしまった。
法律学というのは寝言で「俺を殺してくれ」というほど自分を追い込むにはあまりにもバカげた学問であった。
のちに「小野臨調」において、「貧乏セックスのことを犯罪という」「所有とは友情のことであり、占有とは愛という概念を理解した異性との関係をいう」とし、あるいは「債権法とは異性との出会いの生成過程を探究する学問であり、担保物権法とは異性の友達のことをいう」などと、かなりセンセーショナルな発想を明らかにしている。
あの時の「死にてえ、死にてえ」「俺を殺してくれ」といううわ言はあまりにもバカげていたし、そのことへの暴動のようなものが小野臨調としての答申であった。
小野臨調の言っていることを踏まえると「先生が言っていることをそのまま答案に書き」主席になる、司法試験に合格するというのはなんら生産的な営みではない。
とにかく「バカげたこと」が「死にてえ、死にてえ」「俺を殺してくれ」という若者にはつきまとっていた。

東大法学部は、法文1号館と2号館が、安田講堂の正面という絶好の位置にあったが、その「宗教」は私にとって恐怖でしかなかった。
まともに取り組んだら「自殺」と向き合わなければならないようなものだ。
私は、学年末試験の空き時間に朝鮮人キリスト者に話しかけられている。
「深刻な表情をしていますね」
「ええ、今から破産法の試験があるんです」
そのようなやりとりを行った。
破産法とは、本来、「テレビに出るカネがなくなった」人のための学問であり、精算型のように「忘れた頃にまた出てくる」芸能人がいたり、再建型のように「芸名を変えてしまう」
などの立ち直るための職人芸の研究であったが、とにかく当時は「真面目にやってもわからない、つまらない」ものだった。
その朝鮮人キリスト者は、のちに「金集めの方法」を私から教わり、文在寅大統領となっている。

「夜逃げ」というものが知られているが、破産法では「黙示の支払い不能」と呼ばれている。
しかし、実態は「小学生の娘の失恋が理由で親が引っ越しを余儀なくされる」ものであった。
松浦亜弥 元彼

テレビに出るためには、あるいは芸能人を続けていくためにはカネがかかる。
そうではない民間人には本来、「破産」というものは想定されていない。
「働け」としか言いようがないものだ。
恐怖の「安田講堂」の前で、女の子を口説けるようにしたい、
これが「シシファスの神話」であり、東大という「灰色の世界」を血や肉の通ったものにする営みであった。
「バカげた道を極めようとすると自殺だけが待っている」
しかも、債権法とは「異性の出会いの生成過程を探究する学問」であることを知らない法学部の学生は、かなり絶望的な道を進まざるを得なかった。
「それでも、死への扉を開けたいですか?」
どうせくだらない講義しかしていないんだろうと言って、企業は若者たちを根こそぎ持っていった。
しかし、私は東大法学部にとっては「よそ者」でありながら、常に東大法学部の王道を歩み続けた。
それで「東大のここがおかしい」ということが分かるようになったのだ。
司法とは「恋バナ」を学ぶことであり、立法とは「カネをばら撒く」ことであり、行政とは「テレビに出る」ことである。
こうなると「法律」を作るためにはカネをばら撒く必要があるため「立法」に委ねざるを得ない。
しかし、閣法というのは行政が作ったものを立法に委ねている。
「20世紀実存主義」を経験した法曹界の住人は私ぐらいだろうと言ったが、なにしろ王室サロン=精神病院に東大法学部の出身者がいないのだ。
私の弟の「中曽根承太郎」が法務大臣を務めるまでは日本の法学部の学生は「死への扉」を開け続けるだろう。

現象学(顔の広さ・世界の広さ)が、実存主義(父に潰されそうな息子)と結びつくのは必然であると考えられるが、
現象学というものは「大勢の男たちが何かの目的に向かって進む」という意味であり、多数派工作というのは「道徳」という別の表現がなされる。
東大受験というものは「正しい神」だけを追い求めて集団が行うものであるが、アイドルファンというものは「正しい神」があんがい曖昧で「恋に詳しい」ということを柱として構築された世界だ。
アイドルファンの世界では「担当」というものが決められている。
しかし、永田町のように「多数派工作をやり、自分の得意な分野をだんだん絞っていく」というものではなく、また、永田町そのものも萩生田大臣が言うような「多数派工作をやり自分の得意な分野をだんだん絞っていく」という理想は達成されていない。
アイドルグループも「批判に耐えられずに」「解散」することがあるが、政権も批判に耐えられずに「衆議院解散」することがある。
国会対策費・メディア対策費が必要なのはアイドルグループも政権も同じであり、アイドルも政治家も「最後にはマンションすら残らない」という現状がある。
「解散」というものが存在しても、男たちは「正しい神」と「恋に詳しい」神のために前に進んでいく。
つまりは「現象学」というものは「アメリカ合衆国に詳しい者」に群がる男たちであり、女たちを目当てとしたものだったのだ。
安倍首相にも周囲に現象学はあるだろうし、令和天皇には「もっと長い目で見た」現象学がある。
アイドルグループはそれに比べたらかなり「短期的で視野の狭い」現象学がある。
インディゴブルーラブ

そこで、東大法学部が「正しい神」であることは多くの企業や、世論が認めているが、それが「恋に詳しく」なれる場所にならなければ、講義のエスケープは日常の風景とならざるを得ない。
そもそも、債権法が「異性との出会いの生成過程を探究する」学問であり、担保物権法が「女友達を増やす」学問であることを踏まえ、友達と恋人の境界線はセックスしたかどうかであるという共通認識のもとにキャンパスライフを過ごすものだということを理解しなければならない。
三浦理恵子 グッバイフレンズ

アイドルや政治家、そして天皇にまつわる「男たちの目的を目指した行動」も、「若さの特権」であり、その参加メンバーに「これが仕事なんだよね」ということを教え導かなければ長期的なビジネスとしては存在し得ない。
国会が「田舎のプロレス」であるのならば、今の令和天皇はもっと深く現象学を理解している。
自分に興味を持つ連中に職を与え、資格を与え、彼女を与えるのが現象学の世界でなければならない。
亀井絵里 片思いの終わりに

令和天皇にせよ、安倍首相にせよ、その他のアイドルグループにせよ、自分たちに押し寄せてくる男たちにとって「正しい神」でなければならないし「恋に詳しく」させなければならない。
東京大学などの大学もそうであろう。
大学は「就職の斡旋」をしてくれるが、天皇・首相・アイドルグループも最後には「仕事ってこういうものなんだよな」ということを男たちに教えなければならない。
この「現象学」を無視しては、いかなる「ファンクラブ」を持つ資格はないと言っていい。
男(ファーストオーダー)が、女心(セカンドオーダー)を理解すると、予言(サードオーダー)ができるようになる。
私もシアトルのシナゴーグに行ったことがあるが、男の子サークルと女の子サークルに別れ、なにやら話し合いをして、その後の自由時間にエヴァンジャリストのスピーチを聞いて、ホストファーザーが「我々はサードチャーチだ」と、まるでマリナーズやスーパーソニックスの勝敗をシナゴーグがコントロールしているかのように語っていたのが印象的だった。
シアトルにおいて、マリナーズやスーパーソニックス、シーホークスがどのような存在かを理解するだけで、シアトルダウンタウンにあるシナゴーグにどれほどの「敬虔さ」が集まるかがわかると思う。
私も「横浜DeNAベイスターズ」という球団の予言(サードオーダー)をやっていたが、とにかく「男が女心を理解する」という手法の重要性には気がついていた。
アメリカユダヤ教が「サードチャーチ」つまり「男が女心を理解してメジャースポーツで予言をする」場所であると私のホストファーザーは発言している。
法律を勉強しようが、経済学を勉強しようが、「人生、野球以外に何があるんだ」という境地になるのがユダヤ教なのだろう。
ザ・ファン 映画

この「サードチャーチ」は、日本国においては「若さを無駄にする時期に音楽作品を聞いておく」という手法以外に私はなにも想定していない。
ナベツネさんの指導を受けた桑田真澄や、自身が宗教家だった麻原がとにかく「なにも面白いことのない」時代にアイドルのイベント会場にいた。
絶対勝つぞベイスターズ

男社会に、結果(物自体)という概念が持ち込まれたときに、女たちは「セカンドセックス」として「待っている女」という構図が出来上がった。
おニャン子クラブ 好きになってもくれない

しかし、それも高校時代までだった。
プロフェッショナルになると女たち(セカンドオーダー)は、「待っているだけ」の存在ではなくなっていたのだ。
「私たちも仕事がしたい」「美しくありたい」というフェミニズム第二の波とともに1960年代にプロスポーツが発展し、「女」「女心」「セカンド」を無視しては勝利はおぼつかなくなっていた。
檸檬の年頃 AKB48

この「20世紀実存主義」の誕生および、フェミニズム第二の波によって、「プロスポーツとはどのようなものか?」「教会とは何を教える場所なのか?」が明確になった。
神が作った「男女」の存在と、それが「何のためなのか?」ということがプロスポーツの世界では知られることとなったのだ。
「ハードコアが露骨になって、女に興味が持てない?」
それは、おカネの起源を見失うことにもなるし、勝負事に弱くなるだろう。
プラスティックの唇

女たちは、ハードコアが露骨になってから、「私の心を教えて?」とかなりわがままになったし、「私の心」を必要としているのはプロスポーツしかなかった。
プロ野球は、勝つためには「猫」の手も借りたいのだ。
「私の心」を知りたい女たちが、群がるのは当然とも言えた。
今後、女たちはますますわがままになっていくだろう。
2017年には私は「女シリーズ」という連載とともに横浜DeNAベイスターズを日本シリーズに導いている。
今年は「プロポーズという名の全体主義」を明らかにした。
「私の心」が知りたいという女たちは、「猫の手」も借りたいという世界でその願いが叶えられるだろうし、今後の見通しとしては、ハードコアの時代を乗り越えて、女たちがかなり「わがまま」になっていくものと思われる。
1920年代に、アフリカの黒人が三名、フランスに留学してきた。
マルチニク、ギニア、セネガルから来た。
それぞれが「黒い肌」をしており、ネグリチュードは、とにかく「グレー」な世界で、「白黒つける」ことの人気を知った。
「男が女心を理解してメジャースポーツで予言をする」
これが、白人か黒人かを問わずに人気を博したのだ。
「歌を歌う奴はヨーロッパのチンパンジーだ」という差別もあったが、ハーレムルネッサンスは着実に進行した。
ブラックだろうがイエローだろうが、本国にヨーロッパの知識を持ちかえって、「要塞」を構築し始めたのだ。
ribbon サイレントサマー(ハーレムナイト)

 

台風での被害が報じられているが、我々がハーレムルネッサンスで構築した「要塞」はそんなに弱いものではない。
ハーレムルネッサンスの「千手観音」を見たか?
あれが日本国の各都市を「要塞」にしたのだ。
「天変地異」などもはや過去の宗教に過ぎない。
もっと我々が構築した「要塞」を信じてみないか?
「黒い蜜蜂」がチクリチクリと災害の報道を知らせてきたが、「プロスポーツのシーズンを越すたびに」我々の要塞は強度を増してきた。
最近の歌はつまらない?
だったら「要塞」の強度は「もはや十分」と国が判断したことを意味する。
愛の炎 田中れいな

アフリカが「黒人ゲットー」を安全なものにしようとしてきた歴史がある。
日本国に住んでいて、役所に住民票があるのならば、もっと「要塞」を信頼してみたらどうだろうか?
マイケル・ジャクソン ビートイット

さて、実存主義の世界が確立されてから、男でも女でも「オフィシャルレコード」が出るようになった。
なぜ、男は女とセックスすると気持ちがいいのか?
それは「女の子供の気持ちを味わえる」からである。
それならば、子供を偉大な人物の「復活」と位置付け、その後の夫婦生活の充実を試みたらどうか?
さらには、禅において美女を瞑想すると「子供が美男美女に生まれる」ことから、禅というものそのものがセックスを気持ちよくするのではないか?
美しいアイドルを見て、マスターベーションする行為は、そのアイドルとセックスする夢を見ると同時に、「美男美女として生まれた子供の気持ちを味わう」ことにつながるとしたのが禅であった。
夫が娘に「昔の女」の名前をつけたのならば、妻としてはそんなことをされたのではたまらない訳であるが、
なぜ、男が女とセックスしたがるのか?という理由は知っておかなければならない。
女の「子供の気持ち」が味わいたいからなのだ。
今から思うと、私は娘が生まれてから哲学(女心の探求)・政治(女心の定義)が理解できるようになり、息子が生まれてから宗教(高齢の男を崇拝する世界)・法律(若者や年寄りの男らしさを探求する世界)が分かるようになった。
私も、ほとんど自閉症に近いぐらい寡黙な男であったが、妻とであって子宝に恵まれてから「言語」を覚えたに等しい。
ソシュールなども「セックスと子供」と「言語学」を結びつけたのだ。
アイドルのイベントに桑田真澄や麻原彰晃がいたと言ったが、ドゥルーズなどはステージに背中を向けて観客席しかみていなかったと皮肉られている。
いずれにせよ「なぜアイドルを応援するのか?」について、禅(子供が美男美女になるため)であるとか、他の彼女とのセックスが気持ちよくなるためであるとか、
そもそも「美女とセックスする夢を見るため」であることなどの理由が存在することを理解しなければならない。
特定のアイドルと結婚するためであるのならば「株式買取請求権」を行使しなければならず、案外割りに合わない思いをするだろう。
タントラ教(セックス崇拝教団)について歌った曲。
デュランデュラン ユニオン・オブ・ザ・スネーク

プロテスタンティズムが、カルヴァン派(AKBグループ)や、ツヴィングリ派(モーニング娘。)を作ったが、このような「ミクロの女たち」がいなければ「マクロの男たち」が大声援を送ることはなく、各自が「担当」を持つことを超えて「自分の世界の広さ」を知ることはなかったのだ。
ジャニーズのイケメンがマクロなのかミクロなのかは明かではない。
本来、ミクロと位置づけられる若い娘が声援を送るのならば、「ミクロからマクロへ」という「声援の還流」が起きていると考えられるが、誰しもがジャニーズのようなイケメンであるわけではない。
かなり難しい議論が必要で、おちんちんを暴力的に切られた女の子が、鬱になって、イケメンを「自分のおちんちん」と見なしていると考えられている。
あるいは、母親でも娘を「自分のおちんちん」と見なし、自らはネズミのようになってもマスオさんをいじめるお婆さんもいる。
ジャニーズファンの女の子は鬱であり、キッチンでメチャクチャに格闘したあとに美味しい料理をつくる爽快感を知る。
ジャニーズファンの女目当ての男を「親」と言うが、しっかりと「ファンの心理」を理解しさえすれば、料理ダメ、洗濯ダメというアイドルよりもはるかにいい女をゲットできる(戦う民主制)。
戦う民主制においては、警備員の制止を振り切り、最前列に押し寄せる女たちを目の当たりにし、その「鬱」の酷さに圧倒されることもある。
しかし、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神は、このようにして戦う民主制と結び付いたのだ。
アイドルファンをやって自分の世界の広さを知るというのは、現象学と呼ばれている。
御朱印ガール目当ての男と戦う民主制は基本的には同じ構図であるが、戦う民主制とは何かをしっかりとメッセージとして出さなければならない。
ヒトラーに侵略される前のオーストリアは、戦う民主制のメッカとして男子と女子が共存していたのだ。
國府田マリ子 愛のクレイジーエプロン

女性アイドルが、どのような人生をのちに送っていたか、男性アイドルも同様にどのような人生を送っていたかを目の当たりにした「東大生」でなければ、若くて美しさに盲目な「男女」に「付き合っちゃいなよ」というだけの力量はない。
いずれにせよ、オーストリアのウィーンに数多くあった「ハプスブルク家」のサークルは、カルナップの暗殺がなければ「ヒトラーも落とせなかった」とされている。

ミシェル・フーコーは、マッド・ホモ・囚人と向き合っているうちに「ブルジョアへの怒り」を持つようになっていた。
私が目撃した「マッド・ホモ・囚人」の典型は田原俊彦だろう。
1949年から1959年まで、フーコーは、マッド・ホモ・囚人の研究を行い、1963年に「クリニックの誕生」を書いている。
地図では道が「広さ、長さ、色、線」で書かれており、その道の「交差」が記されている。
学問の世界においても、プラトン・アリストテレス・アクィナス・カントという巨大な線に多くの論客が交差している。
フーコーは、その「地図の読み方」をより明確にし、それでいて「人間の誕生」において、「彼らは皆、病人だった」としている。
「病気の哲学者」と「アイドル」の恋を描き、それで社会の「路線」から外れた存在としてブルジョアを憎んだのだ。
男はどのようにして「言葉」を覚えるか?はソシュール言語学のみならず、ミシェル・フーコーも問題にしている。
世の中は「多神教」の世界であり、多くの男たちが「噛みついてくる」ために無口にならざるを得ない。
しかも、「言葉を発する」という行為そのものが「混乱と歪曲の世界」なのである。
古典的な方法は、美女たちに「話が通じる」ことが重要だとされてきた。
これが新カント派である。
カントの「言葉」は貫通力に満ちており、とにかく古典の世界を制した。
それならば、マッド・ホモ・囚人の反応はどうであろうか?
フーコーは、地図の重要箇所にどっかりと腰を下ろした「カント」そしてカントを知っているブルジョアを憎んでいたのだ。
ヘーゲル(イケメン)、マルクス(婚期を逃した男女)、ニーチェ(父親に押し潰されそうな男)、ハイデガー(若さを無駄にしている男)は、マッド・ホモ・囚人の味方をしてくれるであろうか?
「面白ければいい」という連中以外に、古典を脱した「新派」の世界に味方はいなかった。
ソシュールは「娘や息子が生まれた」ことに「言葉を覚えた理由」を見出だしたが、フーコーは「狂人に話が通じた」という成功体験に言葉を覚えた理由を見出だしている。
新カント派は、美女たちに通じた話を「男にも」話してしまうとフーコーは考えた。
男社会は、「言葉の縦社会」であり、美女たちに通じた話を男にもしてしまうと、案外、喫茶店やレストランのマスターは「マッド」が多く、「ちょっと黙っていてください」という返事ならばまだ良心的だが、「次、口を利いたら出入り禁止だよ」という喫茶店のマスターもいる。
世の中にどれほどマッドが多いかを人々は知らないのだ。
フーコーは、男同士ならば「いい体してるね」という入り方がいいと考えたこともあるが、
いかんせんガタイが良かったフーコーに、周囲のマッド・ホモ・囚人は「犯すぞ・殺すぞ」というメッセージにしか聞こえなかった。
そもそも昔の「女」というのはどのように「子供」を生んできたのだろうか?
フーコーは、女が教会で「私を快楽のため、そしてあなたの面倒を見るために使ってください」という「告白」を経た上で「女」と認定してきたとしたのだ。
hiro confession

つまり、グレコローマン(ギリシャ・ローマ帝国)の時代は「私は学問に耐えられない」と考えたら「女になれた」のだ。
ちんちんがついていても「告白」をする男がいた。
生まれたときに性別を記すようになったのは「クリニックの誕生」以降の1970年のことだ。
カントが「女の口説き文句」を考えた、そしてその貫通力を証明したとしても、世界史はフーコーに味方していた。
耐えられない、下痢をする、そのような「男社会」が存在し、ちんちんのサイズの相対化まで行わないと、「性概念」というものは明かにならなかった。
しかし、フーコーの「世界史の研究」は、未公表のまま「カントの悪口」として終わった。
皆さんもご存じの通り、男女の境界線には「アダムとエヴァ」以来、分からないことが多い、という現状があったのだ。
このあたりの議論は「世界史の謎」として終わればいいのだろうが、興味のある人は「50歳以上ふたなり教」などのスレをたてて調査してみてほしい。
私は次のテーマに移りたい。
しかし、中にはライフワークにしている人もいると思う。
フランツ・ファノンはアルジェリアの「国民解放戦線」(FLN)を率いた。
植民地化によって、ふたなりの男と共存するように、「私を快楽のため、そしてあなたの面倒を見るために使ってください」と誓う「黒人女」が生まれていた。
黒人社会に「黒人女」というものを作ったのが植民地化だったため、当然、「ヨーロッパへの支持」は根強く、ファノンはガーナにアルジェリア暫定政府を作っている。
ファノンの代表的な著作は「黒い肌に白い顔」というものだ。
ヘーゲルのような「イケメン」をつくることから始めた。
世界史は「女作りが先、男作りはあと」という展開をたどるのが定石であるが、なにしろフーコーの「1970年」以前は、どの男も「ちんちんがデカいだけのシーメール」だったのだ。
アルジェリアの男たちは洗練されたフランス語を話した。
しかし、フランス女とセックスするのは「タブー」とされていた。
なにしろ黒人男にとって「女の白い肌」は、トラウマとなり、日本でも「痛風」と呼ばれている病気が、もっと重篤なかたちで黒人男を襲ったからだ。
日本人でも白い女とのセックスが痛風の原因であるため、あえて「クロンボ!」などと叫んでみると痛風が良くなる。
マイケル・ジャクソンもモハメド・アリも、白人女とセックスしても「ろくなことはなかった」であろう。
いずれにせよファノンも、「ホワイトとブラックの共存は困難」と考えていた。
植民地化?キリスト教?
ちんちんのない「黒人女」を作ってくれたことには感謝するよ。
しかし、痛風患者が「クロンボ!」と呼んで病気を治しているのはどうにも我慢がならなかった。
白人男が黒人女とセックスしても痛風の心配はなかった。
それどころか痛風が治ってしまうではないか?
ファノンの戦いはこうして始まった。
1961年にルムンバが死んで、コンゴなどでも「独立しようか?」という空気が生まれた。
ルムンバは「奴隷貿易の象徴的存在」であり、痛風の治療のために黒人女を売りさばいていた。
ファノンはあくまでも実存主義の文脈に位置づけられる存在であり、アフリカの黒人が全米メジャースポーツで活躍する様を「アルジェリアの家族」と呼んでFLNの雑誌に掲載していたのだ。
移民政策においては「男作りが先、女作りはあと」でなければ、今の日本のように朝鮮パブやフィリピンパブが蔓延するだけだ。
フィリピンも、フラッシュエロルデから始まり、マニー・パッキャオ、ノニト・ドネアなどの「男作り」はやっている。
しかし、日本本土を拠点とする「男」がいなければこのような風俗店はなくならない。
ファノンは1960年代に死んでいるが、ヨーロッパ植民地政策が「女作り」(おちんちんのない女)をやってくれたのならば、それをうまく利用しながら「男作り」をすることを「脱植民地運動」と位置付けた。
男作りとは「オフィシャルレコード」がなければ成立せず、当然、サルトルの影響を受けざるを得ない。
サルトルがいなければ、日本国とて外国国家の植民地となっていたであろうし、日本国は「鎖国」を行うことで「男作り」をやったのだ。
台風撃退が日本国の宗教史の花形であるが、貝原益軒以前の宗教団体を「既存の宗教団体」と呼び、それ以降を「新興宗教」と呼んだ。
本当に「シーメールではない男」を生み出したのはミシェル・フーコーであり、1970年以降に生まれた男たちをもポルノで売り出した。
「男作り」は宗教でもあり、法律でもある。
1970年以降に生まれた男は、貝原益軒以降の「新興宗教」のみならず「既存の宗教団体」にも組み込まれた。
余談であるが、私は1971年3月生まれで、酒井法子が2月生まれ、渡辺満里奈が1970年11月生まれである。
酒井法子にせよ渡辺満里奈にせよ「年上の男性との恋愛」を歌っているが、その男は「シーメールである」ことになる。
しかし、それらの作品を聞いていると「シーメールの方がよっぽど成熟した文化を持っているのではないか?」と思うこともある。
古くは「黒い雪事件」において「映画でろうそくを吹き消すシーンがあり、セックスを連想させた」ことが猥褻物陳列罪になっており、チャタレー事件においては「コニーとメラーのあまりにも女性を従属的に描いたセックス描写」が猥褻概念をめぐって最高裁で争われた。
「ストイックな方が大人である」という側面が指摘できる。
酒井法子の15歳の時の歌。
酒井法子 サヨナラのかわりに

 

平成生まれの「五割が子なし」というのは猥褻概念と関わったものであり、たとえば昔、「この小学校はいずれ老人ホームとなる」という噂があり、今はそれが現実のものとなったり、
代々木ゼミナール横浜校が「ホテルにできるように作られている」という噂があり、実際に何年か前に廃校・不動産売却を公表したりしている。
ミシェル・フーコーが日本国に少子化をもたらしたという側面があり、一方で、世界の人口は、30年後には90億人を突破するという現実もある。
1970年のミシェル・フーコーからのメッセージをどのように受け止めるか?
それもキュレーター(評論家)に委ねられている。
酒井法子(1971年2月生まれ)、渡辺満里奈(1970年11月生まれ)が「年上の男との恋」をどのように表現しているかに注目してほしい。
渡辺満里奈 マリーナの夏

 

もはや文明批評である。
渡辺満里奈

 

 

2019年10月28日 (月)

おカネとは何か?

おカネ、それを定義するのならば「金額が数えられる、女が買える、すべての女に通用する」(ケインズ)というものである。
つまり、「セックス」を想定しなければおカネというものは生まれないのだ。
エロビデオを見て「女性が嫌がっているじゃないか?」と考える政治的弱者がいる。それに悩む女がいる。
CoCo メロディー

このことから、1800年代にシュタイナーは「だったらセックスを歌った音楽作品もカネになる」ということを明らかにした。
新約聖書の誕生だった。
イケメンであるイエスキリストが、「女を口説く言葉」(カント)を覚え、王子として(ホッブス)、権力闘争とは何かを人々に教える(ルソー)。
それが新約聖書であり、おカネ=女=セックスが理由で磔になる。
ニーチェは、権力闘争の結末を善悪の彼岸において明らかにし、「誰も、今の自分ならばなんでもできる、とは考えていない」としている。
それを受けてアダムスミスは「社会の歯車になったほうがよっぽど儲かる」とした。
職業としての政治が、リーダーとして「すべての組織は政治的に動いている」ことから、本や講演会で「組織での生き方」を人々に教え、それはまるで専従組合員のような存在だった。
職業としての政治が成立するのならば、「最高権力者にならなければ、自分の生き方が社会に浸透することはない」ことから、どうしても権力闘争は熾烈なものにならざるを得ない。
普段は、小泉純一郎もコンサルタント会社を経営している。
丸山真男の「源氏物語」がいまだに国家一種試験の行政職の試験に採用されているが、おカネとは「金額が数えられる、女が買える、すべての女に通用する」ことを踏まえて、「なんで源氏物語?」と高校生ぐらいならば考えてしまうようなことが大人の社会では常識となっている。
「胸のボタンを外すのならば抑圧されているのか?」
CoCo ささやかな誘惑

人間はなぜ多数派工作を行うのか?
なぜ、業績を欲しがるのか?
男は「勃つため」であるし、女も「性欲の原理」が自分の業績を欲しがる。
子供の頃に「正々堂々」を覚えるし、青年の時期に芸術や音楽作品と触れる。
若さを無駄にする時期に「譲れないもの」は確実にある。
私の場合は司法試験に合格したかった。
すべては、「正々堂々」と「音楽作品」で譲れないものが突破できることを後に悟るのだ。
あんなに難しかった司法試験や国家一種試験も「おカネとの相談」だったのだ。
瀬能あづさ 永遠に友達

旧古典派(カトリック)は、理想の男を山に祀ることしかできなかったが、新古典派(プロテスタント)は「セックス」を歌にした。
昔の詩は美しかったが、現代の詩は楽しかったとも言われた。
男らしさを語り合う論壇のことを「宗教」と呼ぶのであれば、カトリックは宗教であるが、プロテスタントは「理想の男が私を口説いてくる、セックスすらしてしまう」という夢を見た。
つまりは「結婚」という制度が、カトリックからプロテスタントへと主導権を移動させる原因となった。
「プロポーズを頂点とした全体主義」は、プロテスタントの「セックスの歌」を背景に、巨大なビッグマネーを生み出した。
結婚を宗教としたのがプロテスタントだったのだ。
BoA Is this love?

本当の「無神論」とは、女たちの夢にも出てこない、しかも結婚しない男の存在を前提にしたものだ。
アマテラスは、大国主とヤマトタケルのどちらを夢に見ようが自由だった。
文に優れた大国主と、武に優れたヤマトタケルの両方を、アマテラスとスサノオは日本国に遣わしている。
スサノオは、アマテラスの寝床に馬の首を投げ込んだお詫びに、文人と武人の二人を国にもたらしたのだ。
アマテラスが夢に見る文人と武人がいる、それだけで国は豊かになったし、女神が必要とされた。
文を追求しようが、武を追求しようが、男を特定の組織に拘束できた。
労働組合と同僚はそれで出来上がったのだ。
あとは「職業としての政治」が分かればいいだけだった。
アマテラスの「いい男選び」と「結婚」のグランドデザインを描いたのがシュタイナーである。
セックスがおカネの起源であると言っても、男の側も勉強やスポーツにおカネがかかる。
さらには、パートナーを見つけても「職業としての政治」を学ばなければ生き残っていけないのが組織というものだった。
瀬能あづさ ふたつにひとつ

銀行は基本的には「顧客のおカネ」を盗むのは自由である。
監督官庁に上納金を支払って、政治資金管理団体やNPOへの寄付金・献金を盗むのは自由に行える。
しかし、「上司や監督官庁の神学化」を行わなければならない。
銀行のおカネが監督官庁に盗まれている。
しかし、そのためには官庁の官僚は高学歴でなければならない。
人の上に立つ者が中卒なわけがないではないか。
ところが、宮内庁には中卒が多いのだ。
さらに、入庁したその日に美智子皇后の指導にしたがい、生活保護を申請し、お給料に代えている。
この「宮内庁の実態」がありながら、「金持ちの口座からお金を盗んでいる」のが宮内庁なのだ。
盗んだお金も「自分の口座に入れると生活保護が打ち切られる」と考え、現金取引で競馬などのギャンブルをやっている。
「官僚はこれだけの権力があるのだから高学歴でなければならない」
日本国の銀行はスイス銀行ではない。
国民から広く寄附や献金を求めたら、監督官庁に没収されるのがオチだろう。
それならば、取引している銀行に「監督官庁の連中よりも自分の方が学歴がある」という説明はひと言話さなければならない。
これが学歴社会である日本国と銀行のあり方なのだ。
すべての「NPOや政治資金管理団体は宮内庁に狙われている」
それならば、口座を持つものは自分の学歴を銀行に話さなければならない。
学歴のない顧客の口座から、学歴のある監督官庁が「私の方がもっとうまく運用できる」と考えておカネを盗むのはまだ理由がある。
しかし、黒革の手帖には「銀行がそもそもおカネを盗んでいる」ということが常識としてあるいは「女性を口説くために」記されているのだ。
もう一度言うが、おカネとは「金額が数えられる、女が買える、すべての女に通用する」ものだ。
それならば、銀行を介して「女の交換」をするのと同じ意味であり、せめて官僚は全員、東大に入るべきだろう。
銀行という「神」自民党幹事長という「神」内閣官房長官という「神」が、このような反則を使って、最後に泣きを見て負けてくれるのが政治の世界だった。
しかし、長期政権ではそのような連中がのさばっているのだ。
事情通としても「面白くない」という現状がある。
政治家とは「期待を裏切らない」ものだ。
みんなが熱狂するのならばレフェリーもカウントアウトしてしまうだろう。

芸能人と出会いたい人はいるだろうか?
出会いの場ってどこにあるの?
やたら人生経験が豊富で、しかし、おカネがない、それが芸能界の現状である。
私はあえて、「芸能人との出会いの場の真実」を紹介したい。
日本ピアスタッフ協会 叶わぬ夢、混乱、そんなものを相手にする医者がいるであろうか?
それは「精神科」しかないのだ。
日本ピアスタッフ協会の「男性芸能人」は、宗教をカルト化し、「女性芸能人」は宗教をメジャー化する。
はっきり言うと、芸能人は「自分が宇宙の中心」であるという「叶わぬ夢」をもっているため、みずほ銀行に「いい修行になる」として日本ピアスタッフ協会との業務提携を持ちかけても断られている。
つまり、日本国には本当の「ホットショットバンカー」などいないのだ。
みずほ銀行という日本国のメガバンクが、しり込みするような存在が「女性芸能人」であり、女性芸能人は、「自分が宇宙の中心である、ありたい」という叶わぬ夢・病気を持っているため、目つきが悪くなり、しかし、それでいて「音符でできた言葉」に素直なリアクションを取る。
本当に日本の銀行が「ホットショットバンカー」をメンバーに加えたいのならば、日本ピアスタッフ協会と必ず関わらなければならない。
あるいは、「女性芸能人」はもはや「銀行の手を離れた」とし、自衛隊の問題であると考えられている節もある。
芸能人になりたいのならばためらうことなく「自衛官募集」に応募するべきだ。
さて、「銀行より自衛隊の方が上」というのが日本国の現状だとするのならば、憲法への自衛隊明記は、日本国の芸能界や日本ピアスタッフ協会を国民にもっとオープンなものにすることを意味する。
田母神さんだけではなく、憲法への自衛隊明記を主張する政治家はおそらく自衛官だろう。
「銀行にホットショットバンカーを」求めるのならば避けては通れない道だ。
しかも、「国民からお金を盗んでいる?」冗談ではない。
「おカネを集めている」存在でなければならない。
銀行マンならば、文学や音楽作品を通して、おカネを集め、顧客によりよい資産運用を提供しなければならないのだ。
「芸能界は自衛隊の専権である」と言っているうちはなかなか難しい。
さて、銀行からお金を盗む監督官庁があるとするのならば、それは本来「自衛隊」「検察」「宮内庁」という「特別な機関」の役割である。
しかし、宮内庁には現在、そのための基礎体力がなく、「おカネを盗むテクノロジー」だけが与えられている。
今は、特別な機関としての宮内庁は「おカネの雨」が降っているわが世の春であるが、なぜ「特別な機関」なのかをもう一度考え直さなければならない。
「女性芸能人と話ができる」「メジャー宗教」であり、ホットショットバンカーであり哲学者であり、国民のためにおカネを集めてくれる人が天皇になる仕組みは出来上がった。

ヘンリクス・リジウスは、カルヴァン派(処女)のアイドルとの恋愛を語り、カルヴァン派の女と話すことがいい「金融」になるとした。
オランダ美人のことである。
小泉今日子 和蘭美人

英国王室も、男子が妻にするなら貴族院議員の女性かオランダカルヴァン派の女性がいい、と考えるようになっていた。
リジウスは、長年の学問のスランプから「40にして立った」と自らを語った。
自分の情報不足から精神病院に入っていたのだが、周囲がみんなカルヴァン派の女性ばかりだと気がついたのだ。
そのことから、哲学の研究に没頭したし、カルヴァン派の女の子たちにモテた。
どの精神病院にも、作業療法室に「金融工学」という本があるが、周囲の女たちと話すことが金融なのだということを示していた。
話して、ウケた話を本にするのがオランダの金融だった。
AKB48 恋するフォーチュンクッキー

「私の心を教えて?」というのもカネになる。
人はなぜ恋をするのだろうか。女は「男が仲間が多い、何かやってくれそう」ということが理由で恋をしている。
瀬能あづさ 秋

女が「男の序列」を決めている。
このことから「女心」を語ることを「政治」と呼んだし、女への「同調率」を高め、しかも「勃つ」ようになるために、女性ボーカルの音楽作品を聞くことは非常に意味のあるものだ。
カントが「結婚」という制度を考えた時、「プロポーズを頂点とする全体主義」が生まれたし、プロポーズは「言葉」よりも「タイミング」が重要だった。
おカネの起源は「金額が数えられる、女が買える、どの女にも通用する」ものであるが、「女への口説き文句の絶対」も「女が買える、どの女にも通用する」ではないか。
金額は日経平均株価に委ねよう。それが「女の値段」だからである。
そこで、結婚以降の主婦層は「マクロ」(平凡な存在)となり、「ネット」(罵倒する存在)とならざるを得ず、売買の対象となる「女」は独身に限られた、
カトリック女は「結婚する際に高値で取引される」ものであったし、カルヴァン派のアイドル女は「株式買取請求権」で取引された。
しかし、結婚というものは「プロテスタントの宗教」であり続けた。
中森明菜 禁区

問題の少ない「愛」を知っている主婦層が「マクロとミクロ」「グロスとネット」という概念を作った。
言葉とはおちんちんのためにある。
それならば、「正しい神」を信じ、「恋に詳しい」音楽作品を歌っている独身女に声援が飛ぶのも理解できる(マクロからミクロへ)。
このことから、若い男の子も「マクロ」であることが分かった。
愛の炎 田中れいな

「内省」(マスターベーション)というのは、街で女の子に声をかけて、時には喫茶店に入り、話がはずんだあとに家で行うものだ。
三度食事しなければ「真剣な交際」は始まらないが、哲学入門として、女の子をナンパすることは覚えておいたほうがいい。
電車に乗ってもあくなき探究心を持ち、「なぜヒールの高い靴をはいているのか?」「女の子は唇の位置が自分よりも上にある人をカッコいいと思うのではないか?」などと女の子に話しかけることを怠ってはならない。
女たちは同調行動を取るのならば「白系統」の服を着るだろう。
なぜ「黒いタイツ」を履いているのか?「心」を語りたいからか?などと私はよく電車で女の子たちに話しかけていた。
私のようなおっさんでも女の子たちは率直に返事をよこしていたのだ。
「どの雑誌で自分と社会との関係を決めているの?」と女の子に聞いたら「セブンティーンとかポップティーンとかランズキ」と言っていた。
女子中学生に「勉強は難しくても男の絶対はあなたの胸にあるよ」などというのも有効だった。
営業というものは電話で行うものだ。
しかし、外回りの営業というものは、実は、女の子たちをナンパしまくることだったのだ。
マンションに連れ込んで撮影などを行うわけではない。
電話では磨くことに限界のある「話術」というものは確実に存在する。
あるいは、その人と面識があるのであれば電話でもかまわないが、そのために男女を問わず名刺の交換を行っているのだろう。
さて、昨年までは私も「税金を蒸発させずに財務省に届ける」研究を行い、62.5兆円を集めたが、今年は新たな視点を提供したい。
手元におカネがないのならば「税金を取られている」「しかも財務省に届かず蒸発している」と考えていい。
女性などは特に「我々を対立させるサタンがいる」と信じており、このサタンがおカネを「蒸発」させているのだ。
これを解消させるのが「ビリーフボックス(松田聖子のすべての音楽作品)」と「デザイアーボックス(中森明菜のすべての音楽作品)」を聞くことである。
キーワードは「私のお父さんは土曜日に香港に行く予定なの」というセリフを、ビリーフボックスとデザイアーボックスでどのように解釈するかである。
お父さんとお母さんが仲直りするにはいい機会じゃない?
北ウィング 中森明菜
マンハッタンも香港も夜はお酒を飲まなければ体が痛くて仕方がないわね。
海沿いの街すべてヒトラーのニューディール政策でできているの。
住んでいる人全員がイタイイタイ病にかかっているから、土地建物を買収してビル街にしたわ。
マンハッタンでブレックファスト 松田聖子

さらに「男の香港での孤独」をどう思うかをビリーフボックスとデザイアーボックスから明らかにしなければならない。

愛というものを見直すいい機会ね。
松田聖子 続・赤いスイートピー

音で悲しみを表現するなんて素敵だわ。
中森明菜 トワイライト

この「旅と孤独」の二つを、ビリーフボックスとデザイアーボックスがどう思っているのかをまず理解する必要がある。
これを「二つの別れ」と呼ぶ。
「孤独な人は貧しい」ということから、天は孤独な人を集中放火するように税金を取り、しかも、財務省に届けずに「蒸発」させているのだ。
「旅と孤独」を表現しないアーティストならば節税効果はないが、松田聖子と中森明菜は完璧なのだ。

自分を見直すことの意味とは「愛という意味を見直すこと」であり、それを音楽作品で表現しなければならない。
松田聖子 ブルージュの鐘

中森明菜 ロンリージャーニー

遠く離れた人への共感というものが今年の税収対策であり、今まで日本国がやったことのないことをやろうとしている。
しかも、「あなたは旅と孤独をどう思う?」ということをビリーフボックスとデザイアーボックスから見出さなければならないのだ。
解釈や音楽作品は人それぞれだろう。
他人から税金を取っているんだぞ?ということを財務省が理解するだけでも、税金の「蒸発」は防げるのだ。
つまり、国民全員が豊かになる。
本来、ニスベットはこのようなことを考えた人物だった。

さらに、「遠くにいる人たちも愛し合っているんだぞ」という表現が必要になる。
松田聖子 抱いて

中森明菜 飾りじゃないのよ涙は

将来世代の節税効果および税収効果のためにビリーフボックスとデザイアーボックスは残された。
最後には「遠く離れた赤の他人のカップルは何を考えているのか?」という議論に「旅と孤独」の問題は解消される。
そうなったらようやく、多くの「恋愛ソング」が登場するが、ビリーフボックスとデザイアーボックスを越えるのはなかなか難しい。
松田聖子 赤いスイートピー

中森明菜 デザイアー

昨年は、内省=マスターベーション理論を押し通して、税収62.5兆円を達成したが、今年は「内省」=のぞきこむ理論で押してみたい。
まさに、身内の「旅と孤独」から始まり、「他人の恋愛をのぞきこむ」時代になったものと思われる。
それが「全能の神」と呼ばれるものだ。
松田聖子 ハートのイアリング

中森明菜 ライアー

そこまで議論が進んだ、ようやく「恋の駆け引き」の議論に発展する。
松田聖子 瞳はダイアモンド

中森明菜 サザンウィンド

「他人が洗練され、満足している」
このようなメッセージをみんなが共有すると、税金は「蒸発」せずに手元におカネが残る。
「痛いといったら痛い」
このようなメッセージも必要となる。
松田聖子 風立ちぬ

中森明菜 ジプシークイーン

「痛いといったら痛い」までビリーフボックスとデザイアーボックスが議論が進んでようやく、「最近の音楽シーン」が見れるのではないだろうか。
ミュージックステーションに節税効果を委ねられるのだ。
しかし、信じること(ビリーフ)は白・神・男であり、欲望(デザイアー)は黒・世界・女であるということから、「男の優越」「松田聖子の優越」だけは認めなければならない。
どのように「痛い」のかは今回は説明を省かせてもらうが、「白と黒」を感じてもらえばいいだけのときもあるのだ。
聖子ちゃん派と明菜ちゃん派は、聖子ちゃん派28%、明菜ちゃん派13%という支持率を集めて聖子ちゃん派が勝っている。
しかし、クラスの半分が女子だとしても、9%の女の子が「無関心」だったのは意外である。

さて、結局、「どの女も知っている曲」でしかも「女性アーティスト」となると、松田聖子と中森明菜になるわけであるが、「左脳の同調率」を高めると、みんな「左腕の動きがよくなる」のである。
日常生活における人々の「左を制する」者は世界を制するとも言われ、財務省の税収増と、人々の生活の豊かさにつながる。
このような「女たちの左脳の同調率」を高める力を持っているのは「常に政治生命を狙われている有名人」でなければ無理なんじゃないかな。
松田聖子 ガラスの林檎

中森明菜 少女A

それにしても、女の「旅行」ほど同調率の高いものはない。
「国境」というものは本来、想像以上に高いものだ。
アメリカ合衆国は、「メキシコにはカネはやらない」という方針で国境を開いていた。
しかし、フランスだろうと中東だろうと、「日本国にカネをやる」という国策で国境を高くしている。
あくまでも「観光ビザ」であるため、日本国に富をもたらすためのビザとなっている。
これを音楽作品に生かさない手はないし、松田聖子も中森明菜もこれに同調している。
松田聖子 時間旅行

中森明菜 サンドベージュ

アフリカは「ヨーロッパの国々に」「旅行と音楽作品で」散々利用されてきたことに寛大であっても、北欧はあんがい「イミグレーション」というものに怒りを持っている。
他国に一方的に「おカネをやる」行為だからだ。
「白夜は見世物ではない、本国で富に代えるのは目に見えている」
それでも9・11テロが起きるまでは野放図にされてきた。
松田聖子 白い夜

中森明菜 目をとじて小旅行

日本国は、外国との国境を高く設定しているが、「おもてなし」などと言っては「外国の富」に寛大である。
観光立国とか、外国人旅行者の落とすおカネとか言っているが、外国人旅行者はそれ以上の「見返り」を得て帰っていっている。
しかし、自国が外国に見世物になることに「愛国心」が反発する国が9・11テロ以降、顕在化したのだ。
「厳重警戒中」などと日本でも当然のリアクションはとっている。
しかし、エジプトなどは、ODAとして「その対価」を求めるのを得意としている。
ヨーロッパで処刑された「イエスキリスト」が大勢ピラミッドに埋葬されているのだ。
「移民」の問題は、外国の女に国が見世物にされ、カネをふんだくられる、という問題だ。
河合その子 Parisが聞こえる

通常の、民主主義(政治コミュニティーにおける男女同数)においては、お父さんが娘のために男のお相手をさがしてくる理由は「外国人の排除」という理由以外にない。
松田聖子 kimono beat

中森明菜 十戒

自国の「男たちの強さ」が円高につながり、そのことを背景に、女が「格安で」海外旅行できる仕組みがあった。
株高・円高・土地高のトリプル高をバブルと呼ぶが、バブル経済のときはエジプトがかなり伝説化された。
また、エジプトのピラミッドにはヨーロッパのイエスキリストが多く埋葬されていることから、ヨーロッパが日本国に心を開いた。
「うちの国ことを歌ってくれたらおカネあげるよ」とフランスは特に寛大だった。
河合その子 サエラ

本来、外国国家を利用して自国に富をもたらすのが「移民」「観光客」であったが、韓国は「外国人男とのセックスの禁止」を踏まえたうえで「韓国に生まれたかっただろう?」というプロパガンダを打ってきた。
韓国を利用して外国国家がおカネを儲ける代わりに「韓国に生まれたかっただろう」という宣伝を打ったのだ。
おカネと宣伝効果はもはや「交換」という意味合いを持った。
twice wake me up

日本国において、生活保護は韓国人困窮者への適用を想定していない、という判決が下されるなどしたため、韓国は「世界に富を流し込む方法」を学習した。
さらには、自国の宣伝になるためにK-POPというものがアジア地域で広まったのだ。
J-POPをアジアの言語で歌うことはあまり想定されていないが、自国の宣伝とおカネの外国へのバラまきが目的だ。
JKT48 恋するフォーチュンクッキー

AKB48のメンバーもK-POPに参入する事例があるが、韓国の宣伝に貢献する変わりにウォンを得ることができるという意味においては「おカネ目当てのプロ」という側面が指摘できる。

困窮日本人の救済という政策が外国で必要になるとするのならば、上海とジャカルタではその作業はすでに進められていることになる。
インドネシアは「次世代のアメリカの友人」候補とされているが、日本国側にどのような「下心」があるかは明らかではない。
SNH48 真夏のsounds good

 

漫画とは「考え方の一定の方向性」を示すものであり、それは必ずしも現実を示すものではない。
小説吉田学校

実際は、幣原喜重郎が「愛とは何か?」「嫉妬とは何か?」「愛国心とは何か?」という問いかけに「落第点」を押され、その「正解」に衝撃を受けたものと思われる。
エロス(彼女との愛)は長続きしないのに、なぜアガペー(妹との愛)は長続きするのか?
他人が持っている良きものが自分にも与えられる可能性があった、それだけで嫉妬という感情は生じる。そのことで罪悪感を感じる人間はいるのか?実際は「自分の作業」が停止し、破滅に向かうだけだろうなどの議論を吹っかけてきたものと思われる。
愛国心とは「国の個性に注目するもの」であるが、セックスをしないため「息子を愛する気持ち」と変わらないなど、いろんな論点で幣原喜重郎は「衝撃」を受けたものと思われる。
そこで、小説小野学校においては「松田聖子や中森明菜をみんなが共有すればみんなが生活が楽になる」という方向性を目指し始めたが、「誰がその業績を共有するつもりか?」が、憲法をめぐる論争であり、いろんな人物が「日本国憲法」の文言をめぐって対立したことを意味する。
文言は文言で「人類皆兄弟」というような言葉に過ぎないが、アメリカ合衆国と「哲学論争」をおこなった「遺物」として残されている。
いろんな議論の「残骸」という意味においては、すべての法律が「哲学論争の残骸」であり、条文から解釈を導いたり、コンメンタールを書いたりするのはバカげている。

松田聖子 スウィートメモリーズ

中森明菜 I missed the shock

哲学論争では「女の話」しかしていないのに、「個」と「公」の峻別とは恐ろしいものだ。
まるで「公」は硬派の男のように女の話など一切せずに、まるでそれが「男社会」であるかのように、六法全書は作られて行った。
ほとんどの各行政法の条文までが「哲学論争の残骸」と化し、「マイルール」となって役所に残された。
まあ、条文なんて無視することだね。
哲学論争に強くなければ司法試験には受からない。
司法試験の答案だって所詮は「人気」を競い合うものだろ。
それならば、松田聖子や中森明菜を参考にしなければ「人気」のある答案は書けない。
法学者の講義でコンサートのような声援が飛ぶことがあっただろうか?
「分かりやすい論理」「試験への受かり方」を私も長いこと勉強し、それなりに面白かったが、国を動かすのは所詮は「人気のある答案」だと悟って法律の研究は放り投げた。
霞ヶ関の「法律の残骸」を動かすのは政治家の仕事だ。
松田聖子 夏の扉

中森明菜 あの夏の日

就職して「瑕疵担保責任って何だったかな?」などと考えるのならば「攻撃に等しい大きさの反撃を」という哲学の常識を考えたほうがいい。
病院の看護士なども、慣れてくると「攻撃に等しい大きさの反撃」しかしなくなるから、みんな言っていることがてんでバラバラになる。
それでも、ルールとして動いているのだから仕方がない。
職場に膨大な「マニュアル」は残されるが、そんなもので動いているわけがないのだ。
松田聖子と中森明菜のような「人気」が、答案だけではなくいろんな社会生活で必要になってくる。
松田聖子 渚のバルコニー

中森明菜 1/2の神話

ビリーフボックス(松田聖子)とデザイアーボックス(中森明菜)を買って、意味を「う~ん」と考えたほうがいい勉強になる。
意味については今まで述べてきたため、本稿においては「感じてもらう」にとどまる。
いい大人になれば意味ぐらい分かるだろう。
問題は、松田聖子と中森明菜をみんなが共有するだけで、国全体が交付税の裏負担などを背景に、生活が楽になることから、「業績」を関係者がみんなで奪い合い、最後に「条文」という残骸が残されるということなのだ。

デカルトは「内省」というものを「他人の恋愛ののぞき見」としたが、自分自身が「恋」を知らなければその本当の意味は分からないだろうとした。
体が熱い、湿気がする、そんな経験を「恋」と呼び、認知症類似の症状を引き起こすが、実際には「恋わずらい」とは万病に効く薬である。
暑さと湿気にしか感じないものを「赤から紫へ」「あじさいが色を変えるようだ」と覚えておくといい。
胸騒ぎのメランコリー 高井麻巳子

ノーブルレッドからインディゴブルーへ、この恋が移りゆくさまを覚えておくだけで、女の子にモテる。
国生さゆり ノーブルレッドの瞬間

インディゴブルーラブ モーニング娘。

デカルトはもちろん、エリートとして育ったため、「恋」というものは「終わらない夏休みの宿題」となっていた。
夏休みは終わらない おニャン子クラブ

地球にはひとつの「月」があり、皆既日食とか月食とかの天体ショーがあるが、木星には「月が四つ」あるのだ。
その論理など分かるわけがない。
それでも「他人の恋」をのぞき見できるのが音楽作品なのだ。
地球にとって「月」は大きさからなにから「太陽との完璧な論理」が成立しているが、木星にとっての「四つの月」も同様であるはずだ。
それでも、地球人にとって「木星の論理」はいまだに分からないのだ。
私は細木数子先生の「六占星術」では「木星マイナス」と言われているが、なかなかのドンファンなのだろうか。
とにかく木星にとって太陽は小さく、とうぜん「四つの月」も小惑星と呼ばれるほど小さい。
だが、「女が四人いる」男が果たして幸せなのかは明らかではない。
幸せではないのならば住めない。
まだ、「地球人の論理」をのぞき見したほうが税収がアップしたり生活が楽になるだろうとデカルトは指摘している。
モーニング娘。 幸せですか

デカルトはあくまでも「木星人」であり、一日が十時間しかない惑星においては「いじめ」(倫理)というものに関してはあまり記されていない。
一人の男に四人の女がいる惑星においてはさほど問題にはならなかったのだろう。
渡辺満里奈 100年分のglory

 

瞑想と「禅」の区別は明らかではないが、「美しい女」であったプリンセスエリザベスはお父さんの「瞑想」によって生まれたと考えていた。
「木星とはどのような場所か」を記したのがデカルトであることから、木星人は映画「ターミネーター」のように「嵐が来るぞ」と言って地球に来たものと思われる。
木星の上らない夜はない。フランス人の夜への崇拝はものすごいね。
河合その子 パラディラタンの夜

一方、木星人の論理として「やり逃げした女」が野球場にいたら、応援もできなければプレーもできないだろう。
どうしても変化球がキレない立ち上がりがある。
あの女が見ているからだ。
そんな時には「多くの女たちにその特定の女を取り囲ませる」ことしかできない。
それが功を奏したら「立ち直る」ことができるが、女社会がうまく機能しないとノックアウトということになる。
ストライクの取れる変化球はピッチャーにとってどうしても必要だ。
しかし、「あの女」のおかげでそれもうまくいかない。
フォアボールの連発が始まる。
あるいは連打連打を食らうだろう。
やり逃げした「特定の女」の研究を代数学といい、その女からの攻撃を守る「女サークル」の研究を幾何学という。
「四人の女サークル」の味方がいれば、特定の女は怖くない。
席の移動もカネで何とかしてくれる。
しかし、「どの女が変化球のキレを邪魔しているのか?」の特定は難しい。
初回を凌いだのならば、すぐに特定して幾何学を動かさなければならない。
「勝つための同調行動」だけでは女たちは動いてはいない。
やり逃げされた女への「それってひどくない?」という共感の声もあったのだ。
このことから、「立ち上がり」を見て、ベンチワークが動き始める。
クライマックスシリーズみたいにいつも「3億円」あればいいんだけど、そういうわけではない。
「それってひどくない?」という女集団に何か言われたら終わりだ。
CoCo 夢だけ見てる

キスしただけなら自慢になる。胸を揉んだら俺は凡人になる。セックスしたら思い出してマスターベーションできる。子供を産ませたら反則だ。胸を揉んだらメディアに取り上げられる。セックスしたら噂になる。キスしたら有名になれる。独身時代を終えたら孤独だけがある。
「女の数だけ」名球界に近づくのは事実であるが、そのことから自分を守る「幾何学」を動かさなければならない。
裁判所に「接近禁止命令」を出させたらメディアは大喜びだ。
いかに「幾何学」を動かすおカネを使うかが重要だ。
男たちが動けば女たちも動く。
どうしても「客席の視線」と目が合ってしまうことがある。
あるいは「客の反応」を見てしまうことがある。
そんな時に「やり逃げした女」と目が合うと、「レーザーポインターで妨害してくる」などと試合を止めてしまう投手もいる。
心の骨が折れる瞬間が見える。吉井

俺の「幾何学」(女サークル)を知っている連中はごくわずかだ。
チームとして連携できるわけでもない。
ベンチワークといっても、本当のスタッフにはすべて秘密なのだ。
結局は、労働基準法上の労働者ではないのだ。
ストライクが入らないのならば、このような理由が指摘できる。
あんまりないよね。この充実感。今永

ニュートンが「月とタケコプター」に気がつくまでは「数学」とはこのような学問であった。
デカルトが木星人かどうかはともかく、「四人の女」に注目していたのは事実であり、「やり逃げした女」と目が合ってガックリうなだれる男の現象を「フリーフォール」と呼んだ。
才能のある男たちだ。
ベンチの側も「助けてあげること」はできなくても「フリーフォール」には敏感にならなければならない。
男の「腰」は一度動き始めたら止まらない。ましてやハイスピードで動くアスリートならばなおさらだ。
キスから胸に行ったらどこに「飛ぶ」かは分からないよ。
AからBにいく「速さ」が問題なのであって、B'なんてどこに飛ぶか分かるものか。
渡辺美奈代 Too adult

一方で、「やり逃げした女」をその日のうちに呼び出して「騎上位」をやるとおカネがかからないという指摘もある。
幾何学とは異なる「物理学」からの答えであった。
木星人の仕事は「正しい神」と「恋に詳しい」ことで四人の女を統制することにあった。
CoCo 小さな一歩で

第三夫人・第四夫人といっても必ずしも夫と肉体関係を結ぶわけではなく、夫を守るための活動のためにいた。
それ以上の女はおカネが割に合わないし、そもそも必要がなかったのだ。
そもそも「夫人」といっても、いろんな思惑があり、みんなが自分が正しいと考えていて、夫のために集まりを開く存在に過ぎず、そこで夫は「自分の見識」を語るだけだった。
「ストーカー女に付きまとわれている」といっても警察に通報したのではNHKに「やり逃げした女」の存在を知られるだけだ。
そんな時に「四人の女」を活用するのだ。
平時においては「やり逃げしたこと」を四人の「夫人」に責められるかも知れないが、プロ野球などの「有事」においては夫人たちの動きが違う。
まあ、プロ野球選手ともなると、「四人の夫人」「四人の女」に自分の見識を語る機会は公的機関も含めてけっこうあるため、いかに「人柄」を受け入れてもらうかが大事だ。
「有事」がないのであれば、そもそも木星人である必要もない。
地球人として生きればいい。
母親に「女に少数派などない」といっておカネを流せば「四人の女」など簡単に集めてくる。
この時の「集会」で「われ思うゆえに我あり」というような見識を語らなければならない。
このような「有事のためのインフラ」の存在さえ分かっていれば、「やり逃げした女」に怯えなくてすむ。
「生きるとはどういうことか、繁栄するとはどういうことかの立証責任は男(私)にある」ということを明確にし、母親に「あなたは生まれてきてよかった」と言ってもらう必要がある。
さらに、妹には「この人は楊貴妃のような人で、”お兄ちゃん、家で起きていること男にも知らない”といわれると人生の宿題になってしまう」という発言をし、妹を褒める必要がある。
フレッツ光 CM

まるで、文書・会計・庶務の「官房三課」が女四人でまかなえるようだった。
どの女も「男」に恋をしていた。
あとは「仕事をするだけ」だろう。
このような「デカルトサークル」が、国費によってまかなわれているのが福祉の現場だ。
この「やり逃げした女」とピッチャー心理はビッグマネーのかかった「おカネとは何か?」というもののたとえであり、どの世界でも通用するものだ。

デカルトは「いじめっ子」(肉)に「いじめばかりやっているとちんちんが勃たなくなるぞ」と指摘している。
女二人は「勃つ男」を目的に争っていたのだ。
Wink 愛が止まらない

また、娘ができた時に「逸脱について」という本を書いている。
デカルトの、代表作は「瞑想」であるが、「逸脱について」という本も娘への愛にあふれたものだった。
娘は早くに亡くしている。
rebecca when a woman loves a man

女二人に男一人という構図は、「アイデア」とも「名目」とも呼ばれ、常に経済をリードしてきた。
平和的な構図がまず指摘された。
ribbon 真夏のフェミニスト
その後、かなり競争的な構図が生まれた。
高井麻巳子 こわれかけたピアノ
最後に「女のからだ比べ」「名目」「アイデア」は決着がつく。
杏里 悲しみがとまらない

鏡を見て自分の裸体を見てマスターベーションしたことのある人はいるだろうか?
ソクラテスは「モテる俺」を鏡で見てマスターベーションしている。
男が男を崇拝するの世界が「神を信じること」ならば、少なくとも私はソクラテスの境地には至っていない。
「私を崇拝しろ」という男がもしいたのならば「鏡を見てマスターベーションできますか?」と聞いてみるといい。
自分のケツの穴がどうなろうと知らないがね。
神になるというのはそれほど難しいことなのだ。
思春期の頃の話は覚えていないが、「鏡を見てマスターベーションする」というのは「神のシンプル化」に非常に有意義だ。
このような原体験は「タバコを吸うだけでどんな問題も論文から解き明かす」文化人を生み出す。
少なくとも「神を信じる」「上達を信じる」男にはなるだろう。
歳をとってまでやろうとは思わないが。
ちんちんがついている証拠を見せるためにも必要だろう。
口先だけの卑怯者との違いはこれだけだよ。
工藤静香 証拠をみせて

「男が男を崇拝する」
それが「神」だとするのならば、思春期に「鏡の前で自分の姿を見てマスターベーションをする」という原体験は、自らの人生の快楽を「孤独」のまま自己完結させ、つまりは「文化人」になるとされる。
しかし、男の子でも女の子でも「恋に臆病になる」という指摘は可能だ。
私もそのような原体験をもっているが、「他者に介入して欲しくない」世界というものが出来上がる。
文化人でも国際人でも同様のことが言える。
森高千里 勉強の歌
そのような男は「この完璧な生き物を見よ」と言って肉体を鍛え、みずからを平気で「歴史という名の法廷」に差し出そうとするだろう。
サラブレッドも「毛並みを整える」「自分は美しいと思わせる」「人間の言葉を理解している」「鏡の前でマスターベーションさせる」などしないと「鬱になるほどの調教」には耐えられない。
この「鏡を見て自分の姿でマスターベーションする」という原体験は、イエスキリストと名のつく男たちの伝統であり、アクィナスもそのような経験を持っていた。
コペルニクスが「自画像」というものを考えた。
オンエアされている「自分」を見てマスターベーションをした女は「夫とのセックス」にも感じない。
そのため「どうやって幸せになっていいのか分からない」と言った。
遠野なぎこ

女は夢で「理想の男」を夢見る。
「誰か、テレビに出ている私を犯して?」
そんな私は「イエスさま」を信じなければ、まともな結婚生活も営めないでしょう。
芸能界ができたのはヨーロッパでは11世期だっただろうか。
「イエスさま」が女たちの間で浸透し始めたのだ。
初体験の相手もたぶんイエスさまだったと思う。
アイドルの心はもう限界だった。
男の言葉から「真実」を見つけるのが上手くなった。
言葉はおちんちんのためにあった。
アイドルの女は「言葉のプライシング(値段の付け方)」が上手くなっていたし、これで生活していけるというような「男の言葉」を探していた。
白いパラソル 松田聖子

また、「鏡を見てマスターベーションをする」という原体験が性概念の確立と同時期になされると、
「世界の女は俺を愛すべきだ」という考えにつながり、また、「鏡」とテレビのモニターの区別がつかず、
「芸能人と結婚したい」と考えるようになる。
高校時代に「黒ずくめの服」を好んだり、青いライターにこだわったりするようになる。
黒ずくめの服は、一昔前の神社での「参拝客のお年寄り」の姿であったし、性概念が確立する時期の原体験から「自分がイエスとして国を支えなければならない」という思いが先人にはあったものと思われる。
アマテラスってなんだ?
「女として最高の存在、と位置付けられる」ものだ。
着ている服は男と真逆の白であった。
Melody いちばん好きといって

デカルトのいう「瞑想」とは、禅とはまったく異なるではないか?
美女を思い浮かべて禅を組むと美男美女が生まれるという禅の教えとは異なり、「自分の姿を鏡で見ながらマスターベーションをする」というのが瞑想(メディテーション)か?
子供たちが瞑想するだけで国民の生活が楽になるんだってね。
教育費がかからないとか、いろんなカラクリはあるだろうけどとにかく生活が楽になるのだ。
子供達の間で噂が広まるのは早かったし、子供たちの「いろんな病気」が克服されるのを国は観測した。
ジェームズボンドフリークなどという噂とともに「あの男が何者か?」を周囲は知った。
a view to a kill

今はもうなくなっているが、代々木ゼミナール横浜校には、かつては5000人の受験生が集まっていたのだ。
講義の後の駅までの「行軍」はまるで軍隊のようだったし、誰も一言も口を聞かなかった。
黙々と集団で「歩いた」のだ。
あの中で打ち合いを制したのが小野光太郎であり、その秘密は「瞑想」にあった。
どの男たちも「勝つためのヒント」を考えていたが、「自分の姿を見ながらマスターベーションしたことがある」という強烈な自己愛が最後にモノを言った。
子供たちが自ら「上達」を好むようになり、勉強やスポーツに励むようになり、つまりは「信仰心」をもつようになるということは、どれほど親を楽にさせるだろうか?
これがそのまま「国民生活の楽」につながるのだ。
NHKで「シルクロード」が放送されているが、漢王朝はソクラテスの「原体験」を知るためだけに、ラクダに乗って旅をしたのだ。
パルミラには中央通りに列柱が立てられ、この「ヨーロッパの秘密」をまるで奥義の如くに守った。
今の日本国では「なんでもあり」だが、各自が「譲れないもの」を持っていた。
デカルトが死んだら忘れ去られるだろうとされた「瞑想」であるが、今は「令和天皇が死んだら忘れ去られるだろう」とされている。
「神の意思は我にあり」
そのような恐ろしい高校生だった。
女子たちもお年頃になると「パンとセックス、男の邪魔」のためならば己を犠牲にするようになる。
「5000人の行軍」の中をこのような「女の都合」が襲いかかった。
文一合格者として名前が掲示されたのは5名程度だった。
松田聖子 赤いスイートピー

松田聖子と中森明菜から「今度の土曜日にお父さんが香港に行くの」という言葉の意味を吟味しろと言ったのが本稿であるが、月を越すのが楽だったというイメージを私は持ち、他の国民はどうだったのかな?と思ったら連休明けに株価が急騰した。
松田聖子と中森明菜を聞くことは脳の左側に良い影響を与え、さらには「左腕」を楽にする。
しかし、人間の本当の「性欲」は、脳の真ん中の松果体が発信源である。
左腕が楽になったというのは「左を制するものは世界を制する」といえことに由来するものだが、松果体つまり性欲を満たすのは、いろんな意味でトラブルの元であるが、生活が楽になったのならば次に人間が目指し始めるのが性欲を満たすことである。
つまり「脳の真ん中」を狙い始めるのだ。
渡辺美奈代 ちょっとフォーリンラブ

円は高くはなってはいない。
つまり、「企業の営業努力」のおかげで「生活が楽になった」わけではない。
あくまでも松田聖子と中森明菜を発信した私の手腕によるものという側面が強い。
円が高くなれば、私のブログの読者も「腕を上げた」といえことになるだろうが、まだまだそのレベルにはない。
松果体を最終的には狙っているが、人間の動物的側面(食べる・セックスする)を満たすためにおカネを用いるのだ。
松田聖子と中森明菜を聞く、つまり「脳の左側から攻めろ」というのは本当の人間の欲望を満たす上で覚えておいた方がいい。
芸能人の女は「テレビに出ている私を犯して?」と思っている。
一方、瞑想を経験した男の子は「テレビに出ている女」を夢で犯すだろう。
若者の「贅沢」とはこのようなところから来るのだ。

さて、英語の論文においては「禅」のことも「瞑想」(メディテーション)と書いてある。
シルクロードを経てソクラテスを学習した漢王朝はとうとう「禅」を完成させたのだ。
只管打坐にせよ、公案にせよ、「女」=エネルギーのジェネレーターのことを考えなければ集中できない、気力がもたないのが「禅」であり、その効果として、
「夢で憧れの女性とセックスする夢を見る」
「子供が美男美女になる」
「娘の恋愛について親として考える」
などが指摘できる。
私は、東大受験の時は、常に酒井法子のCDのジャケ写を目の前に飾っていたし、そのこと自体が「禅」であったのだろう。
禅をやると体調がいい。
なにしろ「私は子孫を残せないのかな?私は動物なのかな?」という考えが精神病の原因だったからだ。
いい女と寝た気分がするからいじめはやめようかな?と考える者もいた。
呼吸法はヨガを参考にした。
呼吸を数えてみたら1分間に16回から17回、鼻で呼吸していた。
禅を理解していない東大合格者はいないとも言われている。
しかし、女を「口説く学問が哲学であるとするのならば、テレビに出ている女のことを瞑想するのは「反哲学」とも呼ばれた。
効果は確かに「多幸感」のようなものはあった。
しかし、目を閉じると「邪魔者」はいなくなった(ふたつではない)。
我々は「目の前の邪魔者」を退けるために「女の話」していたのではなかったのか?
禅には強烈な「私」だけがあり、知識を学習する上では、机に向かって「自分だけの世界」に閉じこもることが学習のためには必要だった。
目の前の酒井法子のジャケ写のことを忘れるような集中力を見せた時に学習効果は上がった。
そこには無があり、時間と空間がなくなった時に知識が頭に入ってきた。
私はウォークマンを聴きながら勉強していたが、知識を得る時は「音も聞こえなかった、無」の状態だったのだろう。
「見ること」
これが禅であった。

 

2019年10月24日 (木)

宮内庁廃止について。

台風の被害の報道を拝見して、被災者は「あんがいのんびりしている」ことに気がついた。
行政組織というのは「その問題を考えるのは疲れる」「情報発信して欲しい」という二つのニーズから作られるが、住宅や農業に関してはわが国が戦争を経験していることから、組織が完璧に出来上がっている。
「いざ」となったときの備えが整っているから、被災者が「あんがいのんびりしている」のである。
さて、それでは、戦争の問題は「考えるのが疲れる」「情報発信して欲しい」と国民の皆さんは思うだろう。
それに関しては、私個人が、すでにこの二つを行っている。
宮内庁はやれ「高貴」だの「子供がどうした」だの「陰湿ないじめ」がどうだのときわめて平和ボケしている。
このことから宮内庁を廃止して「法王庁」を作ろうかと考えている。
もちろん、新組織を立ち上げても「職場の同僚や上司も同じ、仕事も同じ」であり、「令和天皇の写真が飾られるだけ」の違いしかないのが、組織再編の実態であるが、少なくとも、「秋篠宮」だの「上皇・上皇后」だのなんだの(雅子だの徳仁だの)という胡散臭い要素は一掃できる。

そのため、宮内庁の廃止を私は国民の皆さんに支持を訴えかけたいのだ。
法王庁はもはや「株や為替すらコントロールする力量がある」という意思表示でもある。

 

小野光太郎、父親宛てメール。

お父さんへ。
お父さんは小野鐡之助の本である「老人はホラを吹け」において「台風を撃退できる」という趣旨の発言を読んだことはありませんか?
実は、日本の宗教史を調べてみると、貝原益軒以前の宗教団体を「既存の宗教団体」と呼び、南朝の「シーズン制のスポーツ」(陽明学)、定期的に行われるテスト(朱子学)が季節を生み出すとされ、アジア地域はそもそも「気温のないエリア」であり、人間が100%温度を作り出しているとしていたのです。
このことから、お父さんの青年時代の手紙に「退屈すぎて台風でも来ないかなと思っています」と両親(鐡之助・道子)にあてた手紙で記してあることから、鐡之助が、「いざとなったらホラー映画、国会中継、水墨画、鉄道の旅、渓流釣り」などの番組を放送して台風を逸らしていたのでないか?と考えたのです。
お父さんの記憶にはもうないでしょうが、当時の手紙は「両親へのお世辞」が含まれていたものと思われます。
この「台風が撃退できる」という儒学の立場に立つのが南朝であり、美男美女が多い方がいいという臨済宗の立場に立つのが北朝です。
どちらにも一理ありますが、組織においては「有事に強い」ことこそが出世のためには必要であり、南朝正統説は、明治時代以来の日本の伝統になっています。
そこで、満州某重大事件(張作霖爆殺事件)についてですが、台風を撃退できると大見得を切った昭和天皇に対して、河本大作中尉は、「麻雀をやりながら、台風の被害と見せかけて鉄道を爆破する」という暴挙に出て、田中義一(当時63歳)は、昭和天皇(当時27歳)を激怒させています。
「台風の被害かと思ったら話が違うではないか?」
それは、まさに今の僕の心境でして、NHKが、死者は出していないものの、鉄道の断線を報じたのも「爆破したのではないか?」と疑ってみています。
満洲某重大事件の真実は「日本の宗教史を理解しなければ分からない」ことから歴史学者の試金石となっています。
また、足利尊氏と夢窓疎石が「美男美女について語り合った」という小説を書いた者が、戦時中に、政界で糾弾されています。
修羅場においては、日本国は常に南朝正統説の立場であり、平時になると「なんであんなことを問題にしたのか?」という状態になります。
これらを踏まえると、「新興宗教」とは貝原益軒以降の宗教団体を言います。
台風を撃退できるという天皇を「鬼神」(きじん)と言いまして、今回の台風19号では、僕が「台風を撃退する」と言って孤軍奮闘したらメディアが一斉に「甚大な被害」を報じたのです。
この台風19号は、日本の宗教史を僕に学習させるのには十分すぎました。
小野鐡之助の境地を経験したと思って喜んだのですが、東京電力は容赦なく「停電」という攻撃をしてきました。
お父さんが「こっちはなんともなかったな」というのは国民全員が思っていることだと思います。

 

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