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Foreign Affairs

  • CFR: フォーリンアフェアーズ英語版

2018年1月19日 (金)

退屈さに飽きないヘンタイ。

マルクス主義が西洋社会に受け入れられるために欠かすことのできない人物がジョージ・ルーカクスである。
小説というものは「得るものがない」とされているが、すべてゲイや両刀遣いなどのヘンタイが書いているとしたのだ。
ものに意味を込めない才能とでもいうべきものだろう。
竹原ピストル。

階級社会がヘンタイを生み出しているとするのならば、下層階級以外に政治家に向いている階級はない。
ノンケならば経済学への理解度が高い。
このへんから「才能」や「適性」を見ていかなければならないものだ。
ロースクールにも適性試験というものはあるが、憲法改正からの威嚇を受けるヘンタイならばそこで適性は切らなければならないのが本来の姿であろう。
新カント派は「女神さまというのは作るものだ」としたが、はたして「自らの越境問題」の論点をまとめ上げたアリストテレスやニクソンのように「自分についてきたアイドル」への理解力をもてるかどうかは、自分の大学での情けない成績を「オールS」に変えてみせるポテンシャルを持つかどうかという問題となる。
ハンガリーで軍務に就いたルーカクスは、自らをヘンタイとして「文学者」と位置づけることにしている。
階級社会の怒りこそが文学なのではないか?としたのだ。
イケメンが全体主義をもたらすとするのならば「彼はゲイだ」と言われるだろう。
尾崎豊 シェリー。

ハンガリーのベラクンによって指導されたハンガリー赤軍はこの「若き全体主義者」によってイデオロギーが統一されていた。
寒空で1時間も平気で待つことができる新左翼もいる。
これは「スターリニスト正統派」とも呼ばれた。
1956年にスターリンが死んだら、ルーカクスはソビエトによって投獄されている。
これがハンガリー動乱であり、哲学者を攻撃しろという戦争の基本を踏まえて、「学歴のない豚追い」がノンケとしてイデオロギー批判を展開したのだ。
仲間たちが学歴を身につけていくにつれ「何かやらなければならない」と考えたのがスターリニスト正統派であった。
しかし「豚追い」の方が楽しいと思うのであれば当然「スターリン批判」につながるだろう。
「ノンケのお前は政治家には向いていない」と呼ばれることもある。
いずれにせよ「何か得体の知れない世界」という心理学を皆が共有したのだ。
政治家という職業を「ブルジョアの恥」とみなす中産階級もいた。
マックス・ウェーバーは「勉強し、男女の論理が分かるようになる」という支配の構図を作っていたが、西洋の左翼思想はもっと「性倒錯」の現実を睨むことになった。
キルケゴールは「根性のない連中なんだよ、もっと若さと退屈さを楽しんでもいいんじゃないかな」として正統派の学問を支持したが、スターリニスト正統派の方がより全体主義的に人々の支持を得たのだ。
尾崎豊 I love you.

「豚追い」は、ルーカクスには女心の全てが分かるわけではないという持論があり、いくら人々の心をとらえても「絶対」を見失うと考えていたのだ。
スターリニスト正統派を支持してしまった「女心の悲劇」が指摘された。
それは「恐るべき男の序列」を生み出していたし、「友達としての男」を志向していたのだ。
キルケゴールは「女心には絶対というものがある」としていたが、それは新カント派が「女神さまとして発信する」ものだとルーカクスは考えていたようだ。
紅白歌合戦の紅組白組の区別は1916年のルーカクスの論文に見いだすことが可能だ。
女の考えは女に語らせようとしたのだ。
CoCo 夢だけ見てる

理想の男=法はどこに行ったのだろうか?
ルーカクスは「そんなものはキリスト教・ギリシャ哲学に委ねておけ」と語った。
法律学は「かなり女々しい学問」であるとし、よりパワフルな学問とは区別したのだ。
法律学は「女心をホームレスにさせる」とも言った。
松田聖子 赤いスイートピー。

これらの文学・経済学・法学の適性を理解しないものは「ドン・キホーテ」と呼ばれた。
自分が好きなものを好きなように表現できるのがいちばんの才能だった。
「貧しさの中から自分が本当にやりたいことを見つけていく」という発想が必要であり、型を真似るものではなかったのだ。
「このやり方でいいのか」というものが分かってくれたらなんらかの賞は与えられる。
貧しさの中で見つけるフェティシズムほどありがたいものはない。
その人の才能はそれで分かるからだ。
「コイツはオンナをバッタバッタと300人斬りするぞ」ということも分かる。
「我々」という言葉の意味は君にとって何を意味するのか?を明らかにしてもらいたいのだ。
スターリニスト正統派は確かに革命を志向した全体主義だった。
しかし、キリスト教を否定しただろ。
プロレタリアの集合無意識に訴えかけただけだった。
階級社会はそれで満足しても「真理」はそうではなかっただろう。
酒井法子 17ビート。

古典的マルクス主義は「男が女を愛する気持ちを利用しろ」と言っていただろ。
しかし、階級社会からは異なる返事が返ってきたのだった。
「知的な連中は俺を呪うんだろうな」とルーカクスは思った。
カントもフィヒテも味方してくれないことは分かっていた。
しかし、ヘーゲルだけは「アウトローのイケメンっていいんじゃないか?」と考えた。
また、シェリング・キルケゴール・ニーチェ・ハイデガーの「知的な直感」が若さを応援してくれた。
要するに「ヘンタイでも誰でも社会に出て欲しい、殻に閉じこもらないで欲しい」という願いがルーカクスにはあったし、当然、スターリニスト正統派のバックボーンでもあった。
文化は特定の者を権力から遠ざけてはならないとしたのだ。
考えて欲しいのは「自分の生きる道への向き不向き」だけであった。
このスターリニスト正統派の文化は「死にゆく宿命にあった」とも言われている。
粛清も行われた。
バルザック・トルストイ・ゴルキー・トマスマンなどの作家は当然いたが、「聖書」には敵わなかった。
「豚追い」はいろんな意味で自らの成熟と重ね合わせながらスターリン批判を行なったのだ。
モダン文化とは何か?を知らないと体制というものが理解できないことが分かった。
竹原ピストル ファイト!!!

2018年1月14日 (日)

物象化論とマルクス。

1996年12月に、ジュディス・バトラーは、マサチューセッツで「マルクス主義の再評価」を行おうとしていた。
エヴァ・サドウィックの「クローゼットへの向き合い方」や「ヘンタイの惑星の恐怖」などの本が魅力的に思えて、すでに冷戦は終えていたものの、マルクス主義とは何かを考えてみたくなったのだ。
「男たち」の力で西側諸国は押し切る形になったが、「女」そして「ヘンタイ」により詳しかったのは東側だった。
ゲイやレズビアンなどが西側先進国で「敗北する要因」と考えられたことから、アメリカ合衆国内部でも、マルクス主義に共鳴する連中がいまだに残ったのだ。
アメリカ中西部出身のショートヘアの女など、クリスマスを考えたトロツキーの信者は多く、時に「ヘンタイ」はかなり強烈な全体主義ムーブメントを引き起こすこともわかってきた。
レイザーラモンHG.

女の感じ方を男もしているというのは衝撃的であったし、90年代にこのことを指摘しないものはいなかった。
マイケル・ワーナーは「性の統合」というものがマルクス主義には存在したとし、女たちまで支持する全体主義ムーブメントが「性の統合」だと悟ったのだ。
量子論は「男の子の計算」しか興味がなかったし、労働力としても男が戦力とみなされていた。
男と女というノーマルを憎むものは当然いたのだ。
ラカンも女の子に不思議の国のアリスのように女としてのセックスを要求していた。
犯罪を犯すと処女がセックスさせてくれないとか、非処女でも夏の海にいれば癒されるなどの論争はまだ健全な部類だ。
ジョージ・ルーカクスが考えたのは「階級社会に存在する虐待と性倒錯」であり、下層階級が標榜するのは「相対主義」であり、幅広い支持を得た。
竹原ピストル。

セックスだけが絶対で、他には真理など存在しないというのが相対主義であり、恋愛論という「フィクション」を作り上げることを知らなかった。
ヘンタイプレイは社会で正当化しようがなく、しかしそれが生み出す文化によって自らの社会との和解を行なっていたのだ。
貧しい生い立ち、そして狭い部屋によって行われた虐待はもはや文化的な階級闘争となっていた。
「搾取と抑圧」が「知ること」を制限していたし、社会全体が「分からない」というのはもはやメディア論でもあった。
社会全体が「分からない」と言い出すのが階級格差の結論だったし、だからこそ簡単に英雄になれる人もいたのだ。
「分からないという名の全体主義」が広く支持された。
尾崎豊 シェリー。

「努力を否定してくれるのはありがたい」と考えるものが大勢いた。
全体で足並みをそろえて怠けようというマルクス主義の言い伝えはあながちでたらめではなかったが、このような貧困や階級格差からもたらされたものであることは理解しておかなければならない。
すべての男たちが男らしくありたかったし、疲れ果てたくはなかったのだ。
マルクスは、階級闘争の帰結として社会全体がゆったりとしたものになることを指摘していたが、フーコーはそのような空気の中で「ゆったりとしたプロレスのような格闘技」を楽しむことを志向した。
ジェームソンは「ノンケの中産階級」の攻撃性は「集団主義の経験」や「階級格差をより理解したものたち」に嫌われるだろうと考えた。
ゲイは攻撃的であったが、生み出す文化はゆったりしていた。
どのような空気の中で生きたいのかと問われるとみんながゲイやレズビアンの文化を支持したのだ。
さて、時代の空気を生み出すことには成功したが、それを牽引したヘンタイたちをどのように扱ったらいいのだろうか?という問題と直面した。
田代まさし。

「性行為非公然性の原則」というものが生まれた。
文化を作った階級格差や貧困は評価しつつも、その原因をプライベート化することにしたのだ。
イエスキリストは我々が生み出したゆったりとした世界で女心を語り、性倒錯への感謝もなく、急激に影響力を高めているとみられていた。
我々だってエデンの神話を経験しているんだとゲイは考えていたようだ。
「男性パートナーには男友達を、女性パートナーには女友達を」望むのがカップルの基本であるが、そこに葛藤が生じる恐れがある。
しかし、ゲイやレズビアンの存在は1組のカップルにとっては「役に立つ限界」であると言われた。
フロイト的美女が無限の影響力を行使しないことにつながるからだ。
男らしい男、女らしい女だけの世界ではあまりにもみんなが急ぎすぎる。
政治的無意識の中に「役に立つ限界」がどうしても必要なのだ。
フロイト的にアマテラスを明らかにする作業は社会の速度をコントロールすることを意味する。
イケメンが女心を知るということは社会をスピードアップさせるのだ。
しかし、プロレタリアート的のんびりさはそのことに反発するだろう。
レズビアンやゲイは日経平均株価の上昇を望んでいない。
globe Joy to the love.

いずれにせよ、階級格差や貧困は虐待の原因になり、そのことが社会に「全体主義的に」速度制限をかけているのだ。
アドルノは「このことを利用して英雄を作ろう」と考えた。
しかし、キルケゴールは若い時期はそのような空気にかぶれてみたらいいのではないか?と考えたようだ。
相対主義は社会全体の動きをゆっくりなものにするが、開かれた絶対主義は社会の速度を速める。
男らしい男、女らしい女のいる社会で「口説き文句」を売りつける行為は社会の速度を速める。
この「速度」とは日経平均株価のみならず、人口の変動にも影響を与える。
「人口変動社会」とは、ゲイやレズビアンなどの相対主義文化に国全体が「全体主義的に」飲み込まれていく様を描いている。
開かれた絶対主義、つまり「口説き文句に真理が存在する」という立場は人口のコントロールをも可能にするのだ。
2025年から2045年までの「人口変動社会」の予測もあくまでも相対主義というイデオロギーを見ながら予測しているのであって、開かれた絶対主義の時代の到来がなされた現在においてはそれが現実のものになるかどうかは不明なのだ。
キリストの昇天以降、人口は減るというのは経験則であり、そのことを根拠に人口変動社会は予測されている。
我々は「男が表情を変える瞬間」に経済発展を見出しているのであり、女の表情など見てはいないのだ。
女は自分の「セックスの思い出」のことを振り返っているだけだからだ。
男が表情を変える理由は「ペテロ」がいるからである。

おじ(ペテロ)と自分の関係を「系図」を作ることで統制しようとしたのは1930年代のグラムシだ。
しかし、おじと「どっちがモテるのか?」を競い合うような交流関係を持つことの温床になり、従姉妹との交際は「ヘンタイ」との誤解を受ける羽目になった。
しかし、従姉妹がいればいろんな意味で好ましい性概念を身に付けることができるとされる。
政府は親戚との結婚や交際は禁止していないし、性概念の確立をする上では、本稿においてはミッドナイトカウボーイを貴重な資料としている。
ミッドナイトカウボーイ。

従姉妹との恋愛は「プロレタリアートフェティシズム」と呼ばれ、銀行のアカウントなどで確認されるだろう。
父と母の「姓」が異なることから「ファミリー細胞」というものが生まれ、階級意識というものが生まれる。
しかし、これは極めて女性の感受性を重くみた考えだと言われる。
「何か計算できないもの」をファミリー細胞として混ぜ合わせたほうが女性は自信がつくのだ。
異なる姓を名乗る女との結婚はもはや法ではなく、男の政治的力量を意味した。
女性的感受性はただちに同姓同士の婚姻を拒絶するだろう。
従姉妹は、男に真っ先に体を売る存在だったのだ。
そのことを「知っている」かどうかの見識が問われた。
それをうまく「身辺整理」してファミリー細胞を作っていかなければならないとされたのだ。
同姓同士の婚姻は「階級社会におけるいじめ」と「自由な政治参加を求める側からのいじめ」の二つに直面するのだ。
しかし、率直な印象は「売春婦との結婚なんて汚らしいわ」というものだ。
おじと奪い合った女との結婚は「単純計算」しても敵が多い。
絶対解ける問題 松浦亜弥。

また、ペテロの存在を考えると、同姓同士の婚姻は政治を難しくさせるため「わざわざ」という現実的な問題がある。
女のからだにも「ノーマルボディ」と「より簡単な」ボディの二つがあったため、何のための口説き文句だという批判は政治的には可能だろう。
支配される階級としては「お前、寿命は大丈夫か?」という苦労が絶えない。
しかし、男の本能としては「親の遺産に興味がない」ということと「美しかったから」という二つの指摘が可能だ。
ユダヤ人はこのような心理を銀行で見ていたのだ。
あくまでも産業が近代化を迎えるまでにユダヤ人が見ていたものの名残だと言える。
企画や筆記、ファイリングなどが仕事となった現代においては「意味のない議論」とされている。
ペテロの議論の蓄積を見る限り、美への欲望を満たし、その上で「身辺整理」(テイラーリズム)も必要のない簡素な結婚と扱われている。
今となっては「女たちと接する機会が増えた」ために「◯◯が行った!」という「勇敢な男モデル」が作られたからだろうとも言われている。
この勇敢な男モデルができたために女の側も心を開いたとされる。
アメリカと都市部では「従姉妹との結婚」は「ああ、君か!」という新しい形の奉仕に変わって行った。
愛してジャスティス。

あるいは「故郷はどこですか?」というような特定の田舎の出身者だとも思われた。
食や楽しみに満ち溢れているアメリカ合衆国においては「すべてが過剰である」という意思表示にも思われた。
息子への「ささやかに生きろ」というメッセージともなるものだ。
1909年にフロイトがクラーク大学で講演した「従姉妹との結婚」は「こんなに大勢の女がいるのに」というロマンティックなものへと変わっていた。
アメリカ合衆国においては「大衆社会で消費されるもの」に過ぎなくなったのだ。
むしろ「勇敢な男」モデルは「アウトローっぽくていいだろ」という形で従姉妹との結婚をアピールした。
「すべては給料次第だね」と言って美の魔力にとりつかれるものもいた。
給料があったからこそ、それを「安全弁」として「開かれた処女地」に入っていくものがいたのだ。
「そのほうが安く上がるからな」という言葉は「勤務時間手当ての賜物」とも呼ばれた。
従姉妹にとって、学校などでの恋は「月のもの」だったが、従兄弟との距離感は「季節もの」だった。
月のものであるクラスの男子の言葉の方がより印象に残った。
「親戚一同が集まった」などの場合はお金をたくさん使うことから、女の子の奪い合いが生じるのだろうと考えられている。
ダメ男ばかり見ていたら、従兄弟だけが安定していたことに気がつくこともあった。
従兄弟同士のセックスは「生む」(プロダクション)というよりは「消費」(コンサンプション)だったけどね。
マドンナ パパ・ドント・プリーチ。

すべては「おじ」がいるために結婚に反対されるものの、生産と消費は「従兄弟とのセックス」をめぐって議論されたものだ。
「蓄積」というものも「季節もの」であることを知る必要がある。
女の子の「セックスできる体」も季節ごとに変わって行った。
「次の一族の宴会のためにお金を貯めておかなければならない」と考える親方がいたためにこのようなことが起きたのだ。
ミシェル・フーコーは「次に会う時にはもっとキレイになろう」という季節も従兄弟との出会いの心理を指摘している。
また、フロイトは「命が危険にさらされた時などに従姉妹を想像してマスターベーションする」という男の子の習慣を指摘した。
母親のヒステリーのことだろう。
家庭内のゴタゴタとは無縁で、最も身近な存在が従姉妹だったからだ。
「当然、女社会の序列は別のところにあるんだろ?」と従兄弟は考えてしまう。
従姉妹とのセックスは、男の子のエネルギーに比べてあまりにも簡単だったからだ。
「自分はどこに向かっているのか?」を見失う男の子もいた。
ribbon 3つの願い。

エヴァ・サドウィックの「クローゼットへの向き合い方」というのは「セックスに関する知識がない」男のこのような末路への救いとして書かれたものだ。
本来、学校というものは当然のようにあるものではなかったので、セックスの可能性は「工場」によってプロデュースされていた。
そこで男としてセックスするのか女としてセックスするのかの区別は自ずから身についた。
すべての男女が「男としてセックスしたい」というヘテロセクシャルデザイアーと、「女としてセックスしたい」というホモセクシャルデザイアーを持っていたからだ。
男としてセックスしたがる女を「シシー」と呼び、声が独特のものとなった。
男としてのエネルギーを使おうとするからだとも言われる。
20世紀に入ってから明確な「男女別コース」が採用されるに至っている。
hiro delicious.

男らしさというものは「鬱と敗北」から作られるとされた。
「敗北を知らない」ということが男の子にどのような悪影響を与えるかは理解しておかなければならない。
カントのように「女心は大きすぎる」というような多数派工作をしていたら、「敗北を知らない」ヘンタイが大勢集まってくるだろう。
マルクスは「第二インターナショナル」において「女たちをたくさん集めよう」というムーブメントを起こしている。
女たちさえいれば自ずから敗北も経験するだろうと考えたのだ。
「常勝思考」という名のヘンタイが今度は指摘された。
負けたくない男の子は、マザーファッカーをやって精子が出なくなるし、アナルセックスを許すだろう。
しかも、かなりのナルシシズムをともなう形でこれを行う。
このような男を「プロレタリアンナルシシスト」と呼び、奴隷としての肉体を尊敬する「両刀使い」あるいは「ゲイ」となることになる。
エリートは結婚への強烈なナルシシズムを背景に「勉強」を体に染み込ませるのだ。
若さという退屈さもそこにはない。
常に最高の教育環境に身を置いていた。
しかし、プロレタリアートにとって「最高の教育」ほど遠いものはない。
そこに「常勝思考」を持ち込むのは危険だ。
おちんちんがあるのに「女としてセックスしたい」というのは常勝思考のなせる技だ。
大川隆法。

セックスを知っている文化というのは従姉妹がいなければ成立しない。


【つづく】

2018年1月10日 (水)

学校(勉強企業)。

クラスメートを固定する。成績が伸びる人がいる。反省する人もいる。
そんな子供たちに時間と空間を与える。
固定された者たちは、成績が伸びなければ、反省を部活動などで発散させる。
毎日の新しい話題を持ってくる男の子がいる。
こんなクラスルームが「勉強企業」として受験戦争に立ち向かっていくのだ。
青いスタスィオン 河合その子。

恋愛評論家のことを物理学者と呼び、クラスには必ず必要だとされた。
これは男の子の役割であり、高校を卒業する頃には男女を問わずみんなが「恋愛評論家」になっていた。
勉強企業に恋愛はつきものだったし、最終的に東大に入るものと、そうでないものに「同じ見識」を与えるのが目的であった。
クラスの編成など適当だよ。
いじめが生じるようになっている。
いじめられた奴が「恋愛評論家」として期待されているということなんだ。
1組の男女の問題でクラスが動揺するのは必要なことだった。
そのうちみんな慣れるようになっている。
恋愛評論家が機能しないと「今更努力してもなあ」「あいつ充実してんなあ」という具合に勉強企業は崩壊に向かう。
充実している奴は教室から追放されるからだ。
みんなでどんな家を建てるつもりなのだろうか?
それは毎年のサンデー毎日で東大合格者数を見るしかない。
「悔いが残った」奴を出さないことが大事なんだ。
ああいうガリ勉がいたら恋も楽しめない、と思われないようにしないといけない。
ガリ勉こそが「哲学」に関してもガリ勉でなければならない。
7〜8組のカップルは出来るだろうが、恋愛評論家は東京に出て行くよ。
英語・数学・国語・理科・社会をマスターするというのは恋愛評論家の得意技だからね。
動かないものは動かない。動き出したものはもう止まらない。
作りたい作品は東大合格者数なんだよ。
結局、学校で学んだことが「財産」になるんだ。
動かなかったものが動いたことを学校では経験しているが、会社では「すでに動いている」だけなんだよ。
彼女も作らずに勉強した奴に大学が必要なのは理由がある。
モリエールは高学歴の人間の睡眠薬を嘲笑った。
恋愛評論家の自己実現と、活動家の自己実現のどちらがいいのかは分からない。
それが、女王陛下の「薬の説明」であった。
男女の激しい営みは夜、よく眠れるようにはしてくれた。
研究室では睡眠薬が必要だったのだ。
恋ING モーニング娘。

若いセックスは後悔するのに十分すぎる理由だ。
しかし、高学歴男は眠れないという悩みを持っているだろう。
この、眠れる低学歴と眠れない高学歴を「入れ替える」のが哲学の仕事なのだ。
低学歴のセックス自慢男は健康に異変をきたしてくるし、高学歴の男は「世界を理解できる」ことに満足して眠れるようになる。
若い頃は「無限」だったセックスも歳をとるとそうではなくなる。
セックスは勉強に逆らう行為だ。
すべての男は「動いている」が、セックスでの動きは勉強の動きを鈍くさせるのだ。
動き出したものは止まらない。
しかし、「全体を動かさないまま」大学受験に立ち向かってくる学校もあるのだ。
それは「進路」というものであり、財界が出資した高校と公立の高校の違いというものでもあり、自分なりの方法で、すべての高校が東大合格者を出すことを望んでいることを知らないといけない。

時間と空間に「女神さま」を与えたのはサムュエル・アレキサンダーだった。
19世紀後半にはオックスフォードも「若い女がいるところだろ?」と言われるようになっていたが、マンチェスター大学はもっと楽しい場所となっていた。
高校までの勉強はスターになるためにやるものだとし、大学に入ってからの学問とは明確に区別した。
高校では成績がものを言ったし、女の子が成績の良い方の男の子に乗り換えたりもしていた。
それはまるで「勉強憲法」とも言えるものであり、勉強ができるからといって口説き文句がうまいとは限らなかった。
勉強の歌 森高千里。

楽しい場所、それが学校だった。楽しいと思えるのであれば政治感覚も自ずと身についた。
読まなければ政治は分からないとも考えられたが、家庭内では決して必要とはされない「政治」も学校では必要だった。
偏差値では全国区に引き直せない学校でも、「美女」はユニバーサルなものだったし、美女とのセックスは「一神教」の世界では男子生徒が神になることだった。
時間と空間と女神さまのいる世界に「真剣勝負」を持ち込んだのはアレキサンダーだった。
「強くなければ結婚できない」
これが男であり、勉強と部活動はそのためにあった。
女の子に選択権が与えられたのが学校というものである。
ガールズアイデンティティには十分すぎるほどの「補償」がなされていた。
「男」との向き合い方を学ぶのだ。男らしいってのは素敵なことだと思ってもらいたかった。
檸檬の年頃。

アレキサンダーは、学校企業において「なぜ、今の男子の序列が存在するのか?」をよく考えてもらいたかったのだ。
哲学者は「議論」をまるで植物学者が「ルーペ」を用いるように利用する。
何があったのかは話をしてみなければ分からないからだ。
クラスの「女神」に男たちは「男」にしてもらうが、若い頃はセックスだけが「絶対」だった。
しかし、男になったのであれば「絶対」をセックスだけにとどめてはいけなかった。
男子たちに時間と空間を与えたのだ。
そこには男女の恋愛の話が豊富に存在した。
女子はクラスにいてもらうだけでよかった。勉強する必要もなかった。
やんちゃな男子が「ガンを飛ばす」のはムカつくからではなかった。
「俺の心を教えてくれ」という意味であったし、それはクラスの哲学者だと思われる男子に対して行われた。
神・男というのは勉強企業(学校)から生まれるものであったし、大会もあれば試験もあった。
しかし、よほど強烈な「女神」がいなければ世界には届かないことを知るだろう。
河合その子 緑の少女。

先生がたくさんいて自分一人にまとめ上げるという営みであるが、よりシンプルにすでに自分一人にまとめ上げた指導者の言うことを聞くという発想は当然あっていい。
スピノザは「時間と空間と800人の神」を知っている指導者の言うことを自分一人に集約させようと考えた。
パスカルなんてのはまるでコンピューターのように指導者の言うことを自分のものにしてみせた。
「大勢の人たちのエネルギーが集約されている男」と言うのは美しくもあった。
学校というものは「まだ見つかっていないリンゴ」の宝庫なんだよ。

勉強企業(学校)から、実際の企業に就職するのならば「恋愛」に詳しくなければならない。
それは人事労務においてもそうであるし、財務においても同じだ。
「すべて学校で覚えることである」と位置付けられている。
これが「いつでも戦える男」と呼ばれるものである。
しかし「恋愛を熟知している男」というのはフィクションに近い部分がある。
恋愛論というのはそもそもがフィクションに近く、セックスという絶対をいかに膨らませるのかの力量が試されるものだ。
堅物に仕事をしてもらいたいのは事実であるが、しかし、そもそもMBAなどを取得してお金を集めるのは恋愛論にいかに詳しいかが問われるのだ。
堅物は、サンタクロースや若者のファウンテンのようにセックスサークルの輪に加わらなくともいろんなことを知っている存在だ。
カエサルが暗殺されていなければ我々は何を知ることができるのか?
ロト7 CM.

サンタクロースや若者のファウンテンのような男は「女たちが語り合った理想の男」のことであった。
しかし、「ああ、夫婦ってこんなことまで・・」というような男を愛することがあるのだ。
特に「男の子」を授かった時に、女は男にどんなプレイでも許した。
西野カナ ダーリン。

男の子が成長してご近所の噂になった時に、女は自分の性生活よりも大事なものがあると分かるからだ。
女は、息子に関する占いもやるようになった。
「街のカルトおばさん」と呼ばれる人もいた。
ヘンタイではない子供たちをこよなく愛したので、塾や作業所などを運営した。
ヘンタイを出さないように「男」「女」に育て上げることにしか興味がないから、そのような「私塾」で成績を伸ばそうなどとは思わない方がいい。
普通の「男」「女」であれば十分に金になることを知っているんだろう。
優秀な男の夢を壊してまで「パート」「アルバイト」をやらせようとするのが「街のカルトおばさん」であるが、八百屋もサラリーマンも給料がほとんど変わらないことを知っているんだろう。
かつて「奪三振王」として鳴らした男がそのような「巣」にいていいのかは問題にしなければならないね。
ヘンタイ夫を知っているから、普通の「男」として適当に給料をもらって適当に生きていくことの幸せを知っているのだ。
偏差値BOY うしろゆびさされ組。

男は出世すればするほど病気になる。
カエサルは暗殺されている。
なぜ、西野カナは理想の男を歌ったのだろうか?
適当に妥協して適当に生きた方が幸せなんだということの知識は「街のカルトおばさん」の方が詳しかった。
ソクラテスは「彼女がいる凡人」にしか理解できないのだ。
女たちの「時間切れ」に直面した奪三振王とは抜き差しならぬ対立をするだろう。
「あの子を司法試験に不合格にして?」と法務省に連絡する街のカルトおばさんの存在は案外知られていない。
「何が男にとって幸せなのか?」というところで妥協できないことがあるのだ。
男はシャーロック・ホームズのようなフィクションに憧れる時期がある。
それを「フィクションだよ。偉い人も水道管工事をやって生計を立てているんだよ」と教えてあげられるかどうかが問題なのだ。
これが分かるようになれば奪三振王も自然に悲願が叶うんだから皮肉なものだよね。

2018年1月 2日 (火)

演技の研究。

アメリカの「ドラマのクラス」のテキストを買ったけど、「スポーツだけが子供の能力ではない」とされていて、「コミュニケーションスキルが身につく」「子供に自信を与える」などの効果が認められている。
大人は客を集めるプロモーション役だよ。
演技はスポーツではない。「自分は今どこに配置されているのか」をしっかり理解していることが大事で、演出家は、下手は「悲しみのゾーン」、中央は「喜びのゾーン」、上手は「混乱のゾーン」などと考えながら演出するそうだ。
演劇のトレーニングは面白いね。
フリーズタッグ」というのがあって、二人で演技をしているところへ演技の途中で「フリーズ」と声をかけて、演技や動きを停止させる。その停止した状態に次の二人が完全に入れ替わって合図とともに演技を続けるのだ。人の演技をそのまま引き継ぐトレーニング法だそうだ。
いろいろとアメリカには情報があるよ。
タクシー演技
前に運転手のいすを置いて、後ろに三つのいすを置く。これがタクシーだ。客が一人一人乗ってくる。
キャラは
「サーファー」「OL]「話し好きの年寄り」「シークレットサービス」「芸能人」「バレリーナ」「声優」「かわいい子供」「ボディビルダー」「海賊」「カウボーイ」
などが設定される。三人の「個性」と運転手は向き合いながら運転する。やがて客が降りていくのだ。
いろんなトレーニング法がある。
スライドショートレーニング
数人の演技者を用意し、旅行から帰ってきたという設定の演技者が「旅行の記念写真の解説」を思いつくままに語る。その人の語る写真映像に沿ったポーズを数人がアドリブで作る。
「19種類の感情をパントマイムで表現する」というのもある。感情は通常の役者は19種類表現できるのだ。
「エネルギッシュ」「だるい」「落ち込む」「幸せ」「興奮」「怒り」「混乱」「いらいら」「狼狽」「嫉妬」「すがすがしい」「怯える」「無関心」「孤独」「退屈」「愛情表現」「とまどう」「はにかむ」「傷心」



2017年12月29日 (金)

おじさんの確かなもの。

さて、伯父さんは「心ない存在」であることが知られているが、私の伯父の「確かなもの」をあえて探したい。
父の兄、小野耕之補、母の弟、小野晃嗣をご紹介します。
平山俊一の師匠、小野耕之補。

叔父さんの心なさは「女をめぐる争い」であるとも言われ、確かなものをめぐって伯父(叔父)と甥は争うことになる。
小野晃嗣税理士事務所。

ダンテは「インフェルノ」において、東京大学に合格した甥と伯父(叔父)の関係を「資金集めに用いるべきである」としている。
青いスタスィオン 河合その子。

「何が芸術か?」「何が勃起か?」という二つの要素以外に、おじと甥は関わることはないとされている。
私が考えていたのは「ランカー潰し」と名乗るものであり、音楽に慣れ親しむことや、税金の勉強をすることであるが、もしこれを「芸術」と呼べるのならば「女をめぐって」争ったことになる。
この「芸術」を消化しなければ女運が約束されない、これがおじである。
しかも「富を生み出すまで」消化しなければならないのだ。
おじの家に招かれたのならば「自分の宿題」は自ずから明らかになる。
お金を稼ぐために何をしなければならないのか?が分かるのだ。
「分からない世界だな」というのが第一印象であるが、金と女を得るために何をしたらいいのかを教わるのだ。
親戚まわりは東大に入学した童貞坊やの義務ですらあった。
安倍晋三 税収。

とにかくおじの役割は「否定すること」にあった。
おじから「考え方のヒント」を得ようとした。
とにかく頭の痛いことばかりだった。
しかし、心が依存から自立に向かうのを待てばいいだけだった。
おじはとにかく甥の前で酒を飲んだ。
そんなおじに、酒や米を送ってみたが、案の定「食えない、飲めない」と言った。
7世紀のインドやペルシャの政治家の域にはこの時点で到達したことを意味した。
「時間の速さの違いを痛感するからだろう」
おじとはペテロのことであった。
三度「女とは何か?」と問いかけてくるのだ。
私は「音楽と税金です」と答える羽目になった。
手も足も出ない女が存在したからこのように答えたのだ。
時間と空間をもし「女のために」用いる男ならばこのような答え方をするだろう。
そして「おじさんの何が遠回りな人生なのか?」を探求するだろう。
効果のない営みは誰もやりたくない。
別の生き方など存在しない。
いじめ(魂)が決める人生というのはそのようなものだ。
女たちは「男に生まれたかった」と言ってその営みを応援していた。
消費税増税のおかげか誰のおかげなのか。

【おじさんデリバティブ】
このようにアメリカでは語られていた。
窓ガラスをぶち破って「参加したい世界に参加する」ということをこのように表現したのだ。
人生の女の子たちは私のことを「なりたい私」と呼んでいた。
なりたい私って誰だろう。

とにかく、税金も音楽も面倒な方程式があるから、簡単に覚えることにしたよ。
おじさんなんてそんなもんだ。

デートに女の子を誘うとする。
これはもはや「お金」の話だ。
男女の双方が何かを犠牲にして、デートの待ち合わせ場所に向かう。
満員電車が嫌い、ビュッフェがない電車は嫌い、そう思うとなかなか目的地には行けない。
面白い場面に出くわすぞ、という第三者もデートになぜかまとわりついてくる。
目的を設定すると三者の思惑が動き出すのだ。
高橋由美子 Will you marry me.



マルコフ条件。

つまり、やる気のある方とやる気のない方を、第三者がとりもつことを言う。
「誰が見にくるかわからないよ?」
このようなメッセージをデートを誘う時に「やる気のない方」に与えることを言う。
四方の方角を持った三人が集まるのでなければ、目的は達成されないとしたのだ。
さよならえなりくん。

「遅い!」と文句を垂れる前に、「第三者の設定」を間違っていなかったかを考えよう。
「朝鮮の同胞があなたのために祈ってます」というような宗教家と会ったことがある。
まちぼうけ 童謡。

この「うさぎ」の存在が分かったのは極めて大きな発見であり、「人を愛するのに苦労は必要ない」とまで言われた。
勝手な人間たちをうまくコントロールした結果、「デートした」ということになった。
時間を共にするという特殊相対論から語られたことだった。
さらにマクスウェルは「何が三人を引き寄せたのかな?」という観点から「磁力」というものを考えている。
ヴェニスの「パンと水」は磁力として磨かれたものだ。
高橋由美子 レイニーデイ×3.

誰の時間に合わせるのか?という「t=1」も考えられた。
あまりデートにメリットのない女の方に「t=1」を譲ったから結婚を決意したというのが上記の「Will you marry me.」である。
地方の哲学に馴染んでいないとなかなか「磁力」というものは生じないものだとも言われた。
出身地や国まで遡って探求するのが「磁力」というものだ。
渡良瀬 森高千里。

勉強というものが初めて、女の子たちにウケるのはおそらく理科の宇宙の話ではないであろうか。
重力というものは「空間」が生み出しているものであり、広い空間では喧嘩しない者たちが、狭い空間ではぶつかり合う。
コスモス通りの異星人。

ハッブルの「宇宙は膨張している」という理論も、狭い空間ではぶつかり合うという人間に夢を与えるものであった。
この「理科」の勉強が分かっている男の子は、子供にいい教育をするんだろうねと女の子は思ったのだ。
曲がり角がある空間や、膨張する空間、時間まで加わった空間(4次元)などに詳しい男の子だったからだ。
狭い空間ではみんなが急いでいた。
空間を広く使うことを「逃げた」と思わないことが必要だった。
CoCo なぜ。

映画で時間をゆっくりと利用するとみんなが落ち着くことが分かる。
それは男女にも言えることだった。
時間や沈黙をうまく利用する男だと、女も落ち着いた。
映画でも焦っていない表現者だと分かるのだ。
「距離」というものを加速や重力を考えるために用いるべきだというミルネの考えは大勝利を収めた。
ディラックなどもこれにしたがったからだ。
1937年には「距離とは加速のためにある」という考えは通説になっていた。
隣の女が「なぜ人がいないところではおとなしいのに、人混みの中では喧嘩を売ってくるのか?」という問題は出発点から間違えてはならない問題だった。
「男女がいるからだ」
つまり、男だけ、女だけの空間では相当な密度で人がいても喧嘩を起こさないことが分かった?日本の幼稚園や保育園でも「子供1人あたりの面積」というのが決められているが、「男児女児がいるから」という説明はなされていない。
Be Happy 恋のやじろべえ。

男だけ、女だけの集団ではどんなに密度が濃くても不協和音は生まれない。
「男女がいるから」不協和音というものが生まれるのだ。「距離とは加速のためにある」というミルネの理論はディラックの受け入れるところとなり、狭い空間では男女は喧嘩を始める。
フレミングはこの狭い空間で起きる「男女の喧嘩」=不協和音を「磁力」と呼んでいる。
不協和音
「口説く」というのは「競争的営み」であり、男社会の勝者であることを意味する。
ミルネやディラックの支持者は確実にいたのだ。
しかし、「あいつを呼ぶとこうなるから二度と呼ばない」という女社会の冷静な声もあった。
女であることの団結にマックレアはこのことを利用したのだ。
しかし、動く男と失神する女はまるでピストンだなと語る「嵐の中の冷静さ」があった。
「光だけしか見えなかった」という女の証言もあった。
男と女の時間と空間なんてものは「光」にしかならないのかなと言われた。
いずれにせよ「男女が混ざり合ったから女が失神した」という意味では「光」と呼ぼうが距離と加速度と呼ぼうが、ミルネは究極の大勝利を収めている。
迷宮のアンドローラ
しかし、「いやらしい」という相対性理論のままとどまっていたのでは、女が救われないとしたのがヘルマン・ボンディである。
「その力を言葉にして欲しいのよね」「今度お話しましょう?」
この時、ボンディはミルネを追い詰めたかに見えた。
しかし、「女がからだで語ったはずだ」という主張によってミルネは救われている。
何か我々は宇宙の真理を悟った気がした。
しかし、「子供を産むのは女だからな」とカール・ポパーは捨て台詞を吐いて議論は終わった。
紅白の事件

階級が異なる貧困女が、上流階級男にからだを許すことによってお金に変えることがある。
「パワーセット」と呼ばれるカップルだが、結婚に反対されることそのものをカップルの発信力に変えるのだ。
手紙 岡林信康
からだを許したら、「手紙 岡林信康」という記録を残して、別れるしかない。
それを繰り返すのが貧困女の金儲けだ。
「反対されたから別れた」
それだけで、企業は社債を発行できる。
企業が私の恋愛をお金に変えてくれる、このことから孤独感がなくなっていくのを感じた。
「手紙債」でも何でも名称は問わない。
人々の心に響けばいいのだ。
男たちが「失神女」を今後ともいじり続けるのは明らかだった。
ディラックの後を受けたヒルベルトが「空間」がある限り女が失神を繰り返すことを明らかにしたのだ。
女は「社債が出る限り何度でもからだを売る」ことが予測できた。
カンターは、こういう貧困失神女と結婚したほうが仕事がはかどるのになと指摘している。
しかし、周囲の反対は「完璧な仕事」としてなされたし、貧困失神女も「別れ」を出口として「ビジネスの終了」を告白した。
いずれにせよ「男女のピストン」によって失神女が出た以上、今後も「貧困失神女」を出そうという試みは続くであろうし、男女の間で電圧と抵抗を流し続けるだろう。
「誰と誰があやしい」
グループの女たちは噂をした。
男の踊りは非常に洗練されていなければならないが、「男を知らない女」は誰かも明らかになった。
1904年にツェルメロはこのような論文を書いている。
「貧困とは何か?」「孤独とは何か?」から説き起こす問題であり、失神女のコメントに注目が集まった。
「男を知らないから失神する」「金儲けが出来る」というのは「リチャードのパラドックス」と呼ばれた。

ペテロ(おじさん)と言っても歴史上、多くのペテロがいる。
スペインのペテロは「黒人と怒りを共に」を標榜して1276年にローマ法王ヨハネ21世になっている。
南フランスや北スペインなどで活動し、名詞、動詞、前置詞や慣用表現(フレーズ)では黒人芸術の評論はできないとした。
ソクラテスはセックスが好きだった=ソクラテスは黒人だった、と主張し、黒人層の支持を得て甥っ子をいじめる方法を考えたのだ。
国を売ったと思って創価学会に逃げるおじさんとは力量が異なった。
ヨハネ21世は「すべての甥っ子は逃げ出した」と語り、多くのペテロの一人として論点を絞っていった。
【戦場では常に大人たちは君らと共にいる】
というように常に新しい表現を考えていたのだ。
ブラックミュージックに影響を受けた坂本龍一。

ペテロと言っても甥っ子が「イエス」と呼ばれるほど偉くならなければ歴史には名が残らなかったし、見るべきものがなければ歴史という名の法廷にはとてもではなければ出れなかった。
スペインのペテロは「is」というものを「理解した」という意味であるとし、多くの人と話したことの証であるとしている。

ペテロ・オリオールはフランシスコ修道院にいた。
甥としてトマス・アクィナスやドン・スコトゥスがいたために歴史に残った。
「いじめの否定」(三位一体の否定)や、「壁ドンの否定」などを行なったが、「おじさん稼業」も甥っ子次第だということだろう。
ヨハネ22世ほど偉くはないと語られるなど、13世紀におじさん(ペテロ)という概念が形成されていき、イエスの登場を待つ形となった。
哲学の裏街道としてペテロの研究はあるのだ。
トマス・アクィナスが「三位一体は真理である」としたのもドン・スコトゥスが「壁ドン」を考えたのも、ペテロ・オリオールが「ハブ」として機能したからである。
いや、ペテロ・オリオールとドン・スコトゥスがトマス・アクィナスを偉大な宗教家にしたと言った方がいいかもしれない。
ペテロ・オリオールは「ハートの行方は神のみぞ知る」などというあまり説得力のある理論とは言えないことを提唱している。
アクィナスという天才をいじめた時に「神は私に永遠の罰は与えていないよね」と考えたのだ。
神のみぞ知るハートの行方 酒井法子。

ペテロ・オリオールが考えていたことはアクィナスが今は屍のように歩いていても「いずれ結婚できるよ」ということと「君は素晴らしいハートを持っているね」ということと「いずれソクラテスみたいになるんだろう」という極めて前向きな発想だった。
それは、小野耕之補が、小野光太郎が東大に受かった経緯や、どれほど多くの女たちが大騒ぎしたのかを誰よりも理解していたからだろう。
ボタンを失くした時のショックがのちの人生にあまり影響を与えなかったことがモチーフになっていたとされる。
息子であるオッカムのウィリアムの目の輝きとトマス・アクィナスはどう違うんだろう?という問題意識もあった。
オリオールの弟であるフィロテウス・バーナーに学問では敵わなかったために詩を残したものと考えられている。
ドン・スコトゥスは「カッコをつける」ことしかできなかった。
しかし、ペテロ・オリオールは「壁ドン」を明確に否定している。
兄貴のアクィナスのことしか頭になかったようだ。
幻のようなパフォーマンスにすべてをかける人生が「男とははかなくも輝かなければならない」という考えと結びついていた。
ペテロ・オリオールは若きアクィナスに「もっと女の直感を信じてみな?」と言いたかっただけだったようだ。
とにかく「大全」などと大風呂敷を広げる奴だったからね。
松田聖子 マリオネットの涙。

ペテロ・ダミアンは、女が処女を失った後にどのように処女性を回復するのかを探求した。
「神聖な全知全能」を感じた時に女たちは「処女」と呼ばれることを好んだのだ。
嵐 Love so sweet.

モンテ・カシノで食事をした時も、聖母マリアの処女について語った。
すべては「女の全知全能」にあった。
果実のなる子宮が洪水に流されてしまっても、処女性を取り戻せるからこそ女は哲学者を愛したのだろう。
神が「なんでもできる」というのは女たちにとってはそのことを意味していた。
ペテロ・ダミアンは甥のジェロームにそのような手紙を送っている。
神にはできないこともあった、神は嘘がつけなかった。
しかし、何かができたのだ。
何かができる男の人生を、彼に抱かれることで台無しにしてやれる、この時に女は自分の処女性に気がついた。
フリーエージェント宣言した男がいて、男を知らない女に大人たちが群がることをバージンバースと呼ぶが、それとは異なる意味で奇跡だった。
女がまるで処女のように振る舞い、男の政治生命を奪いたいと思ってしまうのだ。
「遊園地にいるみたいな気分」「誰もわかってくれないでしょうね」と女は思った。
甥のジェロームにはのちにカンタベリーのアンセルムスになっている。
女にいまだ男の政治生命を奪うだけの魅力が残されている。
この時に、洪水に洗い流された子宮がまるで何もなかったかのように女は純粋に振る舞った。
カンタベリーのアンセルムスは「必要性といっても二つありますね。セックスする前に男に求められる必要性と、セックスした後に求められる必要性の二つがあります」としている。
言論の自由の制約は「必要性と合理性」だけであるという説が日本においても存在するが、合理性とは「男らしさ」であり、必要性とはセックスする前と後に求められるものだとしたのはアンセルムスだった。
男らしさを磨く言論とセックスを円滑に行うための言論というものが模索されていることがわかる。
Melody Oh! Please.

若い者と歳をとった者では言論のあり方が異なった。
年配者の政治生命は大事にしなければならなかったし、若者は男になること、女になることということがそもそも重要だった。
「神の計画どおりに人間を作らなければならない」
とにかく子供には夢を語らせて、男としての自分、女としての自分を明確にさせる必要があったのだ。
「夢のない子供は性倒錯を引き起こす」ということもわかってきた。
あいつ、何が楽しくて生きているんだろうな?という男はゲイになって終わった。

ペテロ・アベラードは、ヒロイセとの破滅的なロマンスを記したことで知られている。
広末涼子。

ペテロ・アベラードは恋に破れて、健康状態が回復するのを待ってパリのシャンプーのウィリアムの講義を受け、彼の体験談をまとめ上げている。
小野耕之補の長男の耕児だと思われる。
この体験談を耕之補がまとめ上げている。
Qlairのパレットはその集大成である。

援助交際とも言えるペテロ・アベラードの経験談は社会から批判された。
アベラードは、仕事にもつけず、土地を得る資格も失ったので、ローマ法王に直訴し、ペドフィリアを裁く「カンガルー裁判」にかけられた。
その後、聖マルセルに保護され、セールラサール墓地にアベラードはヒロイセとともに埋葬された。
結局、オリオールのアクィナスいじめに「恋を知らない」という形で利用されることになっている。
実際は、耕児による(広末涼子似の)妹との姦通のことだろう。
オリオールは、「仕事というのはプライベートの悩みを詩にすることなんだ」と語った。
仕事のネタをイサゴーグと呼んでいる。
アクィナスにすべて詩として伝えていた。
アベラードは、女はお金次第でどうにでもなるという発想と、女は男と同じ「動物ではないか?」という境地に至っている。
しかし、それにしても男女というのはまったく異なる情報を与えられているな、と思った。
しかし、生きていることをビンビンに感じることができるのが勃起であった。
Qlairのパレットから。

女とは金で買うものだ。それが積み重なったら家が買える。勃起の目の前にいる女はかなり偶然によるものだ。
マージャンをやると土と空気と火と水がある。
そこにはいじめはなかった。
毎日、仕事をする理由が見つかったのは事実だった。
アベラードにとって「女心をお金に変える」というソクラテスの考えは理解できなかったし、仕事をして買うものが女だった。
「ソクラテスは動物だ」と考え、自分なりにソクラテスを解釈したことからかろうじて哲学史に残ったのであり、トマス・アクィナスがいなければ「どこにでもいるおじさん」で終わっただろう。
オリオールの音楽作品もおのずから「楽しさ」にこだわったものとなり、なかなかヒューマニズム色が出るのは難しかった。
すべてはアベラードが「金で女を買っていた」ことが背景にあった。
酒井法子がヒューマニズムを歌わなくなった。
このことから彼女のキャリアは斜陽に向かった。
小野耕之補の力量とはこの程度のものだった。
リアル 酒井法子。

アベラードは、心を病んだこともあって「世界は言葉に過ぎない」とし、脳というものの重要性を説いている。
耕児は薬剤師になっている。
「我々が完全に無知なるもの」に敏感であり、光太郎の文章を熟読していたのだ。
テレビの重要性と、アカデミズムの重要性の二つを使い分けていた。
「男」がテレビに出ているとするならば、アカデミズムには「男たち」がいた。
パレットに列挙した曲の意味を「男たち」はどう思っているのだろう?
それさえ認めてもらえればよかったのだ。
10万人とセックスしたフレッジに妹との秘め事を解釈してもらいたかったのだ。
男女がセックスが終わった後にも、男には言葉が必要(第二の必要性)という指摘が欲しかったのは事実だ。
射精した後の虚無感の中でも男は言葉を発しなければならないのか?
アベラードの脳はそうは言っていなかった。
Qlairのパレットから、秋の貝殻。

アベラードにとって、勉強とは「男」であった。
アクィナスが、その勉強の世界を「男たち」という学問に変えたことは嬉しくもあった。
「猫」が勉強の世界を難しくさせているんだろう。
勉強してもちんちんが萎えなかったアクィナスを認めていたのだ。
学問が猫を分析できるのかと思って無我夢中でアクィナスを読んだ。
すべては「妹との秘め事」をもっと広い視野で眺めてみたかったからであった。
アクィナスに献金もしたし、なによりもアクィナスの父で医者のフィロテウス・バーナーに勝たなければ結婚ができなかったのは逆の意味で「叔父」の問題と直面していたのだ。
「楽しかったことは?」と聞かれると「金で解決することかな」と答えた。
アクィナスとはこの点では気があったのだろう。
「間違いってのは金にならないんだ」
妹との関係は間違いであったのだろうか?
しかし、アクィナスがそのことを「伯父との関係」として語ることで金にしただろ。
最後の審判や死後の世界を仕切りに気にしていたのはこれが理由であったが、アクィナスによってすべてが許された気がした。
「人と話すぐらいならば本を読んでいた方が勉強になる」という彼の考えは彼を病気に導いたものだった。
妹とのセックスが「パレット」というアルバムになったために、彼女を作るのが怖くなっていた。
オリオールの職業病が災いしたのかもしれない。
勉強よりも大事なものはない。
妹との秘め事の時に受けた侮辱によって勃起しなくなっていたアベラードは、アクィナスの後をひたすら追いかけた。
勃て、とだけ心で祈っていたのだ。
Qlairのパレットから、お引越し。

小野晃嗣はペテロ・ジョン・オリビとして描かれている。
トマス・アクィナスと接する上で、
憎しみと慈悲
友情と敵対
恥と栄光
歓迎と拒絶
従属と支配
希望と絶望
注意深さと怠慢
の二極に感情を区別していたのだ。
瀬能あづさ 永遠に友達。

オリオールは、ジョン・オリビの中に悪を見ることもあったし、譲れないものも見たし、その一方で尊敬を見ていた。
オリオールの前では言い訳や非難をアクィナスに浴びせていたが、罪の意識の方が強く心に響いた。
「人間は知的な野獣だ」
という発言はアクィナスを擁護するものであった。
しかし、「アクィナスは力の使い方を間違えている」とも発言している。
狂人となったアクィナスが今さらお金を集める力を持つようになるとは思えなかったのだ。
お金が権力だということをアクィナスは知らないと責めていた。
「すべてはプライベートの充実からお金が集まるのに本ばかり読んでいる」とも批判した。
ドン・スコトゥスの「革命ムーブメント」はこの時に始まった。
オリビがアクィナスに圧倒されていくたびに、救いとしてドン・スコトゥスが存在感を高めていくのがわかったのだ。
オリビは三位一体の熱烈な信者であり、必要性を感じない時にも常に三位一体を用いることからアクィナスはこれを「真理」として学習した。
その人を無視して否定することが三位一体の真実であったが、オリビは「いじめ」にも常に二対一を用いた。
シカトしないのならば三位一体は意味がないではないか?とローマ法王のクレメンス5世に諌められている。
しかし、「いじめをよりシンプルにしたい」という思惑があったとされる。
複雑な人間模様の分析が面倒だったのだ。
「いじめてるぞ」というメッセージを伝えたいという思いもあった。
しかし、アクィナスがもし男らしければ、ドン・スコトゥスはオリビを裏切るだろうと言われた。
ドン・スコトゥスが白痴だったから通用したことだった。
人間関係の偶然によってネットでは三位一体が機能することがあった程度の話だ。
ドン・スコトゥスはとにかく「眠りながら聞いていた」と表現されている。
アクィナスの男らしさに共感する人が増えていくたびにオリビは「このやり方じゃ意味ねえな」と悟った。
ドン・スコトゥスは、アクィナスと一対一で話さなければならなくなってもオリビのモノマネをした。
オリビの性格が「人をいじめるのに都合がいい」と「眠っている耳」が判断したのだろう。
ドン・スコトゥスが完全に誤解したのが、「オリビはアクィナスに二極の感情を持っていた」ということを知らなかったことだ。
アクィナスが女たちに囲まれるようになってからは、むしろ「スコトゥスを切ろう」と判断していたのだ。
オリビは癲癇をもっていたし、常に「男の鑑」を探していただけだった。
アクィナスが「男の鑑」であるのならばもはや三位一体にすら興味を失った。
瀬能あづさ ふたつにひとつ。

ドン・スコトゥスは、「勉強もしないで神を語ることは可能か?」「反省をしないで生きることは可能か?」を探求した。
小野光太郎の弟の真二郎のことだ。
アクィナスの弟として、「それでも人間は神によって作られている」と位置付けられ、「曖昧な医者」と呼ばれた。
アクィナスは「あいつが神に作られたものでないのならば私は神を愛せないよ」と語っている。
アンセルムスがドン・スコトゥスに「身内だけの殻を破らなければ活路はないよ」とアドバイスをするほどスコトゥスは居場所を失っていた。
「親戚中が君に関しては沈黙するだろう」としたのだ。
ドン・スコトゥスはギャンブル性の高い「予言」を次々と外し、「凡人以下が凡人として生きるとは何か?」を体現していた。
「完全性の否定」つまり「無神論」とはドン・スコトゥスのためにあったものだ。
「神は何かを読んでいるから予言ができるけどよ。一度挫折した人間はどうすればいいんだ?」
神以外の何かが俺を作ったんじゃないだろうな。
何か最高に気持ちのいいものがよ。
なんの実績もない人間が神から生まれるか?
今となっては母の子宮すら疑わしいね。
適当にアクィナスの歌から俺は生まれたんじゃないだろうな。
歌の方が母よりも無限を感じさせるね。
神は無限ではないんだ。
歌も無限ではないけどな。
そのようにして、アクィナスのような哲学の才能もオリオールのような音楽の才能もない凡人として「無限とは何か?」を探求したのがドン・スコトゥスだった。
瀬能あづさ 土曜の夜にレインボー。

しかし、ドン・スコトゥスに光が見えた。
アクィナスの知り合いの女に「アクィナスが語った言葉」を話せばいいことがわかったのだ。
神学大全は無限だったが、自分は有限の存在として「曖昧な医者」として生きることにしたのだ。
意味がなくても毎日、勃起してしまう。
フランシスコ修道院のオリビがそんな時に声をかけてきた。
なぜ、アクィナスをいじめるのにお前を呼んだと思う?
お前もアクィナスになれるからだろう。
そんな、オリビとスコトゥスとアクィナスは「肉体」とも呼ばれる関係になった。
「真理を手にしたものが生き残る」
しかも「絶対」というものがあるはずだ。
幸いにしてドン・スコトゥスはノンケだったし、尾崎豊など信じてはいなかった。
アクィナスの言葉を「ファンタスム」と呼んで、さもすべてを知っていそうな「曖昧な医者」として生きることにしたのだ。
つまり「己を知らない犬」のことだった。
女たちにハッタリは通用しなかった。
「母の子宮が俺を大きく見せているんだろう」
そしてアンリ女王がドン・スコトゥスを大きく見せていた。
すべてのセックスが「経験しなければわからない」ということ以外、アクィナスには敵わなかった。
「神を否定するのならば法がお前を守ると思うな」
「父や母を誇りに思え、殺すな、大人として振る舞うな、盗むな、嘘をつくな」
これしか教会は彼には教えなかった。
神は土曜に崇拝するものではない。
土曜とは女が動物ではなくなった日だ。
日曜にまでいじめに必死になったのだから、仕事ではないな?
だったら報酬を望まないことだ。
譲れなかったか?
だったらなぜ言葉を覚えなかった?
多数派工作もアクィナスに負けたな?
勉強の仕方が昔から違っただろ。
今となっては「負けた!負けた!」で済む男だぞ。
トマス・アクィナスという男は。
タイソンノックアウト集。

トマス・アクィナスは、ドミニカンオーダーのもとでアルベルトゥス・マグヌスを師匠としていたが、モンテカシノ、パリ、ナポリ、レフトバンク、ノートルダムなどの「大学」の研究を初めて体現した男だった。
もはやギリシャ哲学は陳腐化しており、ニューフィジクスと呼ばれる「口説き文句」の研究にみんな明け暮れていた。
その研究をアクィナスは「自分のもの」として吸収したのだ。
新入生にはリベラルアーツ(口説き文句)を教えようという欧米の大学の発想はトマス・アクィナスの成功事例があったからであるし、その後に芸術論などを教えたのは医学教育の一環であった。
聖書にしたがった教育をするという慣行も、「解釈論で試験をしやすい」ことから行われた。
「若さ、男女そして勉強」という本や、「世界の永遠、それは知性によって実現される」などの本を書いている。
哲学者ではなく「神学者」と名乗った理由は「男女が共存していなければ自分の見識は評価されない」と考えたからであり、男社会だけで生きていくつもりはないという意思表示であった。
イエスの磔とは「勉強をする男」のことであったし、復活するときは復活すると考えていた。
「地球が丸いというのも、見ればわかるけど、計算するのは苦労するだろ」
そのようにしてアクィナスは「自分の」復活を冷静に待った。
神学者であったからこそ、復活した後に一流の女たちと親交を温めることができたのだ。
毎日、研究したが、自分がなんらかの到達点に達したのを感じた。
哲学者として他の男の研究者と親交を持たないのですか?と聞かれても「喧嘩になるだけだよ」と語った。
女が男の序列を決めているということを知っていたという意味ではアリストテレスを信奉していたのだろう。
プラトンの詩もこよなく愛した。
アルベルトゥス・マグヌスは師匠というよりも「研究する環境を与えてくれた人」だったとも言える。
「哲学とは発見するものだよ。でも、計算するものではないんだ。より多くの人間をその世界に参入させて女心を愛し、場数を踏む集団主義的なものなんだ」としてその研究手法を明らかにしている。
女たちがどんな言葉を聞きたがっているのかは、キャンパスにより多くの女たちを集めなければ分からないと考えたのだ。
酒井法子 そうかも いいかも。

楽しく生きることや経済学、政治学がこれだけで身についてしまうんだよ。
数学や論理学は使わなかった。
集団主義的な研究手法だったのだ。
まあ、磔にされた男が「復活」を待つということは「変化」が次々に起きるということなんだ。
そのことには自分自身で慣れておかないといけない。
男はどれほど「決意」を固めているのかを見ればいいんだ。
病んでしまっても復活するからな。
女は「温もり」を変えるだけだけど、男は才能が変わっていくからね。
女は男の勃起にさらされていくうちに温もりを失っていくよ。
たしかに、オリオールやスコトゥスにはいじめられたけど、「復活」というものをよく理解していなかったんじゃないかな。
磔にされたイエスの復活を待つのが勉強なんだ。
大事なのは勃起することだね。
hiro delicious.

見る、聞く、感じる、想像する、これがセックスだけど、見るというのは色を見ているし、色がわからない子供は射精しないだろ。
感じるといっても、自分の研究に心酔している女とそうでない女とでは男も感じ方が違うよね。
ラテン語から学んだのは事実だ。
自分にしか読めない外国語を命の保障にしたのはアクィナスも同じだった。
不朽を求める?それはのちの時代の女たち次第だね。
集団主義的にいい言葉を集めて見ても、何が後の世に語り継がれるかはソクラテスをよく読んで見ないとわからないよ。
芸術論は勉強したけど、結局、女性の心を知る営みだったね。
神を信じるかと言われると、女性たちに祝福されて歓喜に包まれることはあったよ。
たとえ三位一体が真理だとしても、最高のキャリーオーバーにみんなが歓喜したときは神を信じた。
銀行に影響を与えるということは、プロゴルファーの強さにまで影響を与えるということだったからね。
極限までプロスポーツがチャレンジするかどうかは銀行次第なんだ。
かなり荷が重かった大学での研究生活だったけど、復活した後は「男らしさ」だけを心がけた。
銀行マンにもトップアスリートにもちんちんはついていたからな。
女の子を口説くのが上手い、しかも後の世まで語り継がれるという大学の研究はこのようにして経済学、政治学となったし、銀行やプロスポーツに影響を与えた。
行政も「法律って何ですか?」と言って多数派工作に成功したアクィナスと仲良くしたがった。
セクシャルマイノリティーではなかったのが良かったのだろう。
横浜DeNAベイスターズ日本シリーズ進出。

さて、トマス・アクィナスが「ペテロ」についてまとめ上げた時に、実父のフィロテウス・バーナー(重五郎)にも叔父がいたことに気がついた。
ペテロ・ストローソンだ。
ストローソンは小野百之助と呼ばれていた。
オックスフォードで学び、第二次世界大戦に従軍し、ホワイトヘッドだのラッセルだのムーアだのと親交を持っていた。
このことがフィロテウス・バーナーを晩婚にしていたし、ストローソンの娘と結婚することになっている。
ストローソンが「フランスの王」と名乗っていたことは、光太郎の唯一の政治的資源だと最初は見なされていた。
ストローソンの口癖は「このバカ」というものだったため、フィロテウス・バーナーはのちの生涯で「バカ」と人を罵倒することはなかった。
しかし、哲学を熟知していたストローソンの「このバカ」という言葉は常に「まだ走り出していない車」に向かって発せられていたし、すでに成熟したものには決して言わなかったことだった。
若くしてジョン・ロック賞をもらったことから、ジョン・オースティンとライバル関係にあった。
なによりもアクィナスの将来を抹殺してやろうとしていた連中に「ほっとけよ、あいつは必ずモノになる」と語っていた通りに「予言」が的中したことからその医学的・哲学的見識が再評価されたのだ。
「このバカ」の面目躍如だった。
「人の忍耐力だけを見る」というのがストローソンのやり方だった。
ラッセルは実績を「物自体」と呼んだが、忍耐力を真っ先に見るというストローソンのやり方は「予言」を可能にしていた。
外科医として「根性なし」をたくさん見てきたし、人の可能性がだいたい分かるようになっていたのだ。
問題は「こいつはいつカントを語るようになるのだろうか?」ということを考えていたということであり、オックスフォードの優等生としてそれは当然の発想であった。
カントをフィロテウス・バーナーに贈ったのはストローソンだったし、それは常に光太郎の横に置かれていた。
ヒュームやヴィトゲンシュタインにも造詣が深く、フィロテウス・バーナーと娘との結婚を許したのもフィロテウスがヴィトゲンシュタインの論文を書いたからだとされる。
このストローソンの存在は「息子と父」の関係、つまりアクィナスとフィロテウス・バーナーの和解のために父のさらに叔父の存在は非常に有意義なものであるということを明らかにした。
敵の敵は味方とでも言おうか。
安倍なつみ ひとりぼっち。

オッカムのウィリアムは、小野家で言うと小野剛であるが、アベラードの弟、ヒロイセの兄、そしてオリオールの息子である。
高卒であったが、アクィナスが神学大全をまとめ上げたことから「オックスフォード卒」という扱いを受けている。
しかし、ロンドンには学友もいなく、寮も実在しないことからアクィナスの閨閥を作った存在だと見なされている。
職場の女の子たちにアクィナスの言葉を語り「この話はウケた」「この記述はあまり良くない」などのノートを作っていた。
「イエスキリストの真似をしている」とされてヨハネ22世によって在宅起訴をされているが、この「高卒キリスト裁判」にヨハネ22世が敗れたことから、ヨハネ22世は生前退位に追い込まれている。
「今までの大学とはなんだったのか?」と言う疑いが生じたためだ。
オッカムは、職場の女の子たちと仲が良かったし、言葉を「名詞」「動詞」「助動詞」「構文」に区別したのもオッカムだ。
これは、子供がいなかったために言葉を丹念に見直してみた結果だった。
また、歌を歌って人の本音を引き出す「スポークンランゲージ」を好んだ。
職場で二股疑惑などが生じるたびに斉藤由貴の情熱を歌って女の子たちの真実を突き止めていた。
斉藤由貴 情熱。

オッカムはとにかくアクィナスを信じていたため、アクィナスの言葉の何がウケて何がウケないのかはすべてオッカムに聞かないとわからないとも言われた。
【カミソリオッカム】
こう呼ばれたのは「必要な時に必要な言葉をアクィナスから引用する力量」があったからだとされる。
そして、アクィナスが「絶対」を信じていたのに対して、「何を言ってもわからない奴はいるものだ」とし、アクィナスよりも社会経験が豊かであったことを端的に表現していた。
新しいネタを毎日職場に持っていくのが楽しかったし、話したことはよく覚えていることを知った。
「知るとは話すことだよ」
朝イチで受けたら、その日は何度もいろんな女の子に同じ話をした。
これを「知るという数学」と呼んだ。
図書館を否定したという意味では、アクィナスの良き理解者だったのだろう。
ドン・スコトゥスのような「アクィナスとの確執」がなかったことが「アクィナスのことはオッカムに聞け」と言われるほどの存在感につながっていた。
やがて「高卒のオッカム」は職場で影響力を高め、家を持つようになっていた。
アクィナスの従兄弟が政治に目覚めたのは事実であるし、なによりも女の子が好きだったのだろう。

アンセルムス(引間祐二)は、ドン・スコトゥスの友人として「どうしても譲れないもの」「不安」そして「罪がどのように許されるべきか」を探求した。
なおけんバンド 引間。

23歳から3年間、放浪の旅に出たあと、アンセルムスはベネディクト修道院に入っている。
かなりの出世を果たしたが、王に無断でローマに出たことはもはやロンバルディアには戻らないという意思表示だった。
アンセルムスは「真実を知っているものを尊敬する」という立場だったので、時にはアクィナス寄りの発言をして周囲に批判されることもあった。
バイク事故で「死」について考えたことがあったから「誰を信じるべきか?」に敏感だったとされる。
事故で右足に感じた車の力は神だったし、どうすることもできないエネルギーだと思ったのだ。
今度は自分がアーティストとしてその「パワー」を表現する側にまわったが、ひたすら「凡庸さ」を歌い続けた。
病院のベットに横たわった時に、誰よりも「女と愛し合いたい」と思ったことから、「俺は凡人だ」と考えたのだ。
この「臨死体験」があったから「愛こそが最高のもの」という考えに至っていた。
ほんの一言、話しただけでその人に神が宿っているのかを判断することができた。
詩篇14:1 愚か者は「神などいない」と心の底から言う。
アンセルムスは「愚か者の声を代弁しよう」と考えた。
「すべてが終わるというのは素晴らしいことではないか」
赤い月 なおけんバンド。

人間は「腐らない方がいい、強い方がいい、永遠がいい」と考えた。
歳をとるごとに人間は永遠に向かっていくものだ。アクィナス自身がそうだったからな。
女はしかし朽ちていった。
ドン・スコトゥスは何かのパワーに導かれて「道を選択」していた。
それは「アクィナス信者の女たち」のパワーだった。
アクィナスのモノマネをすればモテると思うのは罪というものだけど、方向性をアクィナスに委ねたのは良かったんじゃないかなとアンセルムスは考えていた。
ひとつだけ なおけんバンド。

2017年12月25日 (月)

精神病について。

昼夜逆転した生活を送っていると、だんだん鼻が大きくなってくる。
芥川龍之介は「鼻」によって、手塚治虫は「火の鳥第4巻」においてこのことを描いている。
これには実は治療法があるのだ。
【首をぐるぐると回す】
これだけで治ってしまう。
以下に述べる、統合失調症の入り口部分となるのは明らかだろう。


精神病に関してですが、「情報力不足」という観点が指摘できます。
自分が他人と違うのは「見た目だけ」という状態になると、人間は「美しさという病」にかかるのです。
電車に乗っていても「目が変、鼻が変」というような周囲の噂話が気になるようになります。
実際は「本当に言っていた」という周囲の証言があっても、「聞こえること自体がパラノイア」だとされるものです。
有名税とでも言いましょうか。
詩篇に「王は美を愛した」とありますが、このことから人間は「美しさで優劣を決める」ようになっています。
しかし、旧約聖書を「覇権国家の言語で」読む、つまり、昔ならばラテン語、今ならば英語で読まされるのがユダヤ人です。
覇権国家の言語で旧約聖書を読むことが出来れば、他の膨大な書籍を読むことが出来、銀行マンになるユダヤ人が多かったのです。
なぜ、ユダヤ人はキャンパスライフで「40日間水を断った」(女を断った)のかが、ここから明らかになります。
ミスターチルドレン

さて、電車などに乗って「美しさと向き合う」と様々な弊害と直面します。
赤面恐怖症の人は実は「呼吸をすることを忘れている」のですが、ひどい人は「泡を吹いて倒れる」というてんかんになります。
さらに、「目が変、鼻が変」というような「幻聴」が聞こえると統合失調症と呼ばれます。
「病識」というのは「病気の自覚」という意味ではなく「治そうとする意志」のことを言います。
有名な人がかかる病気であり、私も病院で「かなり贅沢な」交友関係を持たせていただいております。
すべては詩編の「王は美を愛した」に端を発するものです。
「私は子孫ができないのかな?」「私は動物なのかな?」という気持ちからも病気になるし、「外に出て異性と話す機会がない」ことからも病気になります。
子供ができるだけでも「美しさがすべて」という気持ちから解放されるし、外に出て異性と話すだけでも「美しさと内向的に向き合う」ことはなくなるのです。
だいたいこのようなものが精神病だと言っていいでしょう。

さて、病気の続きですが、女同士の「ナンバーワン争い」というのがあります。
女社会でナンバーワンになると周囲の女の子たちから「そんなことが罪なんですか?」という悪口を言われてしまうのです。
これは「罪の起源」とも言われ、そのために刑法では「構成要件」というものが作られています。
男の「ナンバーワン争い」はかなり暴力に頼ったものとなるので、異なる考え方が必要となります。
男のナンバーワンは「ラフ&タンブル」と言って、要するに「乱暴者」が群れの主となります。
しかし、女のナンバーワンは「15万人とキスしなければなれない」とも言われています。
女のナンバーワン争いの研究を「サンプリングメソッド」と言います。
チンパンジーの研究を行ったのです。
このような研究を行っていると、「病気にならないほうが奇跡だな」と思うこともあります。

天皇の皇位継承には三つの要件があります。
①伝統に従うこと。
②皇位の安定的継承。
③国民の支持があること。
しかし、考えてみてください。
どの芸能人もそうではないでしょうか。
伝統に従うとは、私の場合は「伊勢神宮のご理解をいただきながら、資金面で応援していただく」という意味であり、芸能人の場合は「お寺」の理解をいただきながらスポンサーになっていただいている。
また、皇位の安定的継承とは「有名になると必ず周囲は、根絶やしにしてやる」というムーブメントを起こすことから、そのことを正確に理解しなければならないということ。
最後に、国民の支持があることとは、君主が民の支持を得るというのは「共和制」ではないか、という問題と向き合わなければならないこと。
つまり、君主制と共和制を国は行ったりきたりしているのであり、共和制は帝国主義につながりかねないということを理解しなければならない。
このあたりは、芸能人も政治家も理解しておいたほうがいい。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス、この名前は優秀な女子中学生ならば知っているだろう。
彼はローマ皇帝として、イタリア北部やドイツ、エジプトと戦った。
負け戦が多かったが、兵士たちは「仲間への怒りではなく、その戦場の神の子孫を残すために」マスターベーションをして死んでいった。
【死期が間近に迫った時のマスターベーションは気持ちがいい】
これを明らかにした「ずり仙人」がマルクス・アウレリウス・アントニヌスだった。
大人たちは女子中学生にこの名前だけでも覚えておいてもらいたかったのだろう。
マルクス・アウレリウスは「女のイメージなどなくせ」「一定のリズムを保て」と兵士に命じた。
戦場の神の子孫は女のものではなかったからだ。
ストイックとはこのような人物のことだろうと語り継がれた。
現状を突破したいという欲望だけでも十分、射精できたし、射精した後は死を受け入れようと思ったし、死んだ後はその勇敢な最後を語り継いだ。
国が死ねと言ったら死んだ日露戦争までは日本もこんな感じだったんじゃないかな。
「民族の永遠の象徴たる天皇のために死ぬ」などという能書きはマルクス・アウレリウスには通用しなかった。
「宇宙ってのはこのように成り立っているんだな」
人間の屍の山と歴史をマルクス・アウレリウスは目の当たりにしたのだ。
フルメタルジャケット ブートキャンプ。

マルクス・アウレリウスは兵士たちに「哲学者のように生きたわけではないだろう。死の後には富も名声も楽しみもない。ただひたすら自由で勇敢に死ね」と言って、兵士たちのマスターベーションを「我が子孫を残す行為」と考えていたようだ。
クリーンテスは「命が助かったら勉強します」と言ったし、クリシップスは「経験と勉強を照らし合わせます」と言った。
アルキメデスは「完璧な人生とは何かを探求します」と言ったし、デオゲネスは「勉強で選ばれることを証明します」と言った。
アンチペーターは「勉強しない奴をことごとく排除します」と言った。
思考盗聴というものはとにかく「ストア派の専売特許」だったのだ。
マルクス・アウレリウス自身がこのような経験を持っていたし、これを他人に対して行う有資格者だったのは事実だ。
みんな各自が自分にとって「良いもの」を選択し、「悪いもの」を排除することを誓っていた。
「若者を本当に戦争で殺してはいけないよね」
このような可能性に満ち溢れていたのだ。
貧しさや無名であること、病弱であることが悪いことだとは思えなかった。
富んでいて、有名で健康な奴は何の誓いも立てなかった。
国を治めるのは貧しき階層だなと思った。
結局、みんな「勉強だけが良いものである」と考えていたことが分かり、「ちんちんを選ぶとは勉強によって判断すればいい」ということが明らかになった。
フルメタルジャケット ドーナツシーン。

女の子たちがそのように信じていたことを、男も本音として信じていたのだ。
大事なのは「本音を引き出すシチュエーションを選ぶこと」だった。
方法論に間違いがないかを見なければ、もはや絶望的な作業だけが待っているからだ。
六法全書を有斐閣が作っていることをどう思っているのかすら分からないのならば、勉強しますと言っても意味がないだろう。
この方法論にどんな運命が待ち受けているのかが想像つけばいい。
我が宇宙が作った世界を理解することを楽しんでいるのか?
そして、いつ日本の限界を悟るのかまで見ておけばいいだろう。
「国際化」というものをいつ持ち出すのだろうか?
この辺は、英語と中国語をやって見た結果、中国はシルクロードのことしか語ってねえなと思うだけだろう。
他に何か中国語の蔵書があるのならば使えばいいが、私(小野光太郎)は少なくとも中国からは学んでいない。
今後の課題としては指摘していい。
やがて、文献学に一定程度の自信がついたのならば、積極的に人と話して、その研究の正しさを証明していかなければならない。
私が周囲に心を開いたのは40歳を過ぎてからであり、周囲の有名女たちが私に心を開いたのも同じ時期だった。
いつか縁を切ろうと思っていた病院が東京の芸能界のサロンだったのだ。
今まで学んだことが彼女たちに通じたのは嬉しかったし、経験豊富な女たちがまるで男の肋骨からできた存在であるかのように思えた。
それで、彼女たちに話したことを文章にしてセールスに繋がるようになったので、ここを終の住処だと決めたのだ。
「キチガイだ」という病人への第一印象まで変わるよ。
私の研究は息子も愛してくれたし、息子に学歴がなくても十分に社会生活が営めるだけのクォリティがあった。
息子は「勉強します」と言わなくても自然に「学問」と慣れ親しむようになっていた。
息子にも終の住処が見つかったのだ。
もっとも、「死の恐怖」を経験して村上春樹のノルウェイの森の突撃隊のように「風景画でマスターベーション」するようでは困るので、息子にはこの経験はさせないことにした。
フルメタルジャケット ミッキーマウス。

2017年12月23日 (土)

憲法に従いたいと思います。

憲法は「女が男にセックスの時に何をされるか分からない」という問題に端を発している。
「あの女が愛した男ならば私も愛せる」
このことに法律はなるべく介入しないことにした(法律の留保)。
愛が止まらない Wink.

男が自制にしたがう、それは出世のために必要なものであり、やれバツイチだバツ二だのいう男は出世しない。
女がライバル女から男を奪う、これを規制するものを「法律」と呼び、予算を持ってきてまでこれを執行するのを行政と呼び、大喧嘩になったら裁きを下すのを司法と呼ぶ。
奪い合いになるほどの気持ちのいいセックスを「Rex」と呼ぶ。
いい「おちんちん意識」を持っている男は奪い合いになった。
「どこに連れてかれるか分からない」
これを女の子たちは嫌ったのだ。
「女に払う金と、守るだけの力」これが市民を豊かなものにしたし、女に誘惑されても相手にしない自制が男を出世させた。
人生ゲームはすべてがフェアであるということをデュープロセスと呼び、自制にしたがう男に金を集めた。
気持ちいいセックスを知っている男はそれを利用して金を儲けたし、スポーツの興行もそれを見た男女たちがフェアプレー(デュープロセス)を見たあとに愛し合うために催したものだった。
「権利の請願」とは「私の男を奪わないようになんとかしてください」ということから行われたし、インドの「ゼロの発見」によりゲームセットが生まれたためにスポーツを発展させた。
気持ちのいいセックスがしたいという女の欲望に対しては、男は「自制」と「教義」をもって応じなければならない。
出世したいのかしたくないのか。
愛を語る哲学が完成したら、そのような経緯をたどった。
「女心を知らない方が気持ちいい」と男は考えているが、女の長話を聞かないのならばエロビデオのセックスと区別がつかないだろう。
「自制を求める」これが法律だとするならば、法律は男を出世に導いていることになる。
「何が間違っていたのか?」
立法、行政、司法というものが「セックスしたい女と愛を語る男」というモデルの「男のどのような言葉が足りなかったのか?言葉をどのように間違えたのか?」を論ずるようになった。
男の言葉が豊かになれば、お金でも言葉でも女とセックスすることが可能となるし、男にどのような自制を求めるのか?を各人の信念に委ねるべきか、法律で出世を強制するかの国の態度も当然かわってくる。
イギリスは「男は出世すべきだ」として厳しい法律を作っているが、メキシコ、カナダ、アメリカ、ドイツは各人の意識にこれを委ねている。
GINI係数。

法律の留保の世界は男女に囲まれるし、政府の世界も男女に囲まれる。
政府以外にも男女の世界はあるのよ?
これを「主権」と呼んだ。
孤独で貧しく、汚らしく残酷で短い、こんな人生を送っているものが主権者と呼ばれ、政府と主権は区別された。
政府は「男らしさ」を法律で国民に押し付けることができる。
タバコを吸わないハンフリー・ボガートがカッコいいと思えばそのような法律も作る。
略奪愛を自由に行える空間を「主権」と呼ぶのならば、男らしさの定義を行う存在を「政府」と呼ぶ。
法律は立法府で作られ、執行は行政府によって行われ、それでも痴話喧嘩が生じたら司法府で裁く。
「男らしさの定義に参加したい」
このことから政治参加というものは行われるのだ。
「法律とは坊やに背広とネクタイを与えるためにあるものだ」
坊やにはレファレンダムも投票も待っている。
これを恐れた坊やは3分の2の改憲議席を維持した。
「お前らの主権を奪ってやろうか?」「男にどんなプレイをやられるか分からないぞ?」
松田聖子 赤いスイートピー。

アメリカはこのような発想で憲法を作っているけど、イギリスはマグナカルタや権利の請願などの「書かれたもの」がすでに存在し、略奪愛ってのはひどいなという共通認識の元に、松田聖子に全面降伏している。
「国会の改憲勢力が3分の2を占めたら自由に略奪愛ができなくなるんだってさ」
松田聖子とWinkのどっちが好き?
改憲勢力が3分の2を占めた時の立法府と行政府への怒りは痴話喧嘩を裁く司法府が誰よりも強く持つことになる。
こんな時に限って疑獄事件で政府の人間を司法府の連中は逮捕して引っ張ってきているのだ。
「どんな法律でも通せる」となると陸の人間が豊かになり、海の人間は貧しくなる。
憲法をよく読んでみればいい。
「国民は」と書いてあり、すべての女たちに略奪愛を認めているではないか?
ここをいじることの可能性をほのめかすだけで、女たちの主権は脅かされ、どんな変態プレイをやられるか分からなくなるのだ。
ここで「変態プレイとは何か?」を明らかにする言論が作られ、護憲派として知られるようになった。
表現はエスカレートしたために、「平等に」女たちを守ろうとも言われていた。
変態に「触らないで」と言われるのも日本国憲法があるからだ。
改憲勢力は「残虐な刑罰の禁止」もいじることが可能だった。
吊るしたりすることが許されることになる。
星座占いで瞳を閉じて。

女が変態プレイにガッカリして占いを語る限り、大日本帝国憲法は死文化していないことを悟る。
大日本帝国憲法が生きているのかどうか?夜空を見て運勢を決める女がいるのかどうかは憲法変遷であり、世論を観測するしかない。
「すべての女にパートナーを与えよう」という考えのもとでは「憲法の意図」は実は不明確なのだ。
「どのような文化が女たちに根付いていたのか?」という観点が重要であり、性倒錯と向き合うことのなかった「法律」の世界との対話が憲法には必要とされる。
男らしい男を作り、女らしい女を作る、これが教育の目的だったのは事実だ。
しかし、マザーファッカーの両刀遣いまでは法律は認識していないではないか?
とにかく、結婚した後にアナルセックスを強要されることなど政府はいまだ学習していない。
「時間が必要」と言われる所以である。
「法のもとに平等」と大見得を切った以上、男らしい男、女らしい女を作り上げる作業が先決であり、マザーファッカーをなくす、あるいはお風呂での娘へのいたずらをなくす、これが成り立たない限り「アジアに憲法はないんですよ」と言われるだけだ。
松田聖子とWinkのネームバリューの違いを知っているだろう。
それほど今は「時間をかけて法律を練らなければならない」時代なのだ。
法律を練らなければ憲法が「生き物」にはならない。
もちろん「法律と憲法問題」をワンセットで選挙の争点にすることは可能だ。
しかし「ドカン」とやると強烈な敵と向き合わなければならないだろうね。
オタクカルチャーのお金の問題も敵にするし、文化に過激な介入をすると外国国家が虎視眈々と日本国を狙うことになりかねない。
政治家は裁判官ほど痴話喧嘩に詳しくはない。
虚心坦懐にこのような性倒錯を語り合えるようになるまでは憲法はいじれないのだ。
「男らしい男」「女らしい女」という神話を信じているようではいまだ日本国では「急進的発想」という扱いを受けるだろう。

略奪愛の世界という法律の留保を認め、主権にしたがうと、松田聖子の「男らしさ」との妥協を迫られ、主権と法律の狭間で「仲間は5、6人だろう」とされている。
これが「憲法の結論」でもあった。
これはもはや神聖な法でもあり、「憲法に従いたいと思います」という言葉は「政治家にはならない」という意思表示でもあった。
憲法は、リベラルを否定する男と激しく対立したのだ。
河合その子 ウィークエンドモニュメント。


モリエールは「仲間が多いという宗教」の存在を指摘した。
仲間が多いというのは「能力測定」ですらあったのだ。
しかし、仲間が多いという宗教の世界には「女の事情」が一切、存在しなかった。
「人間の知性の限界」を見せつけられるだけであり、それは男たちが楽しむものだったのだ。
「我々の力を見よ!」というメッセージの中には女が入り込む余地はない。
「我々の品行方正さを見よ!」と言っているに等しく、リベラルな仲間だけだと会いたくない男も当然いたし、憲法の結論である「5〜6人の友達」というものとはかけ離れている。
「我々の力」の中には略奪愛はない。「法律」だけがあった。
【みんなが痛みに耐えていた】
法律に従うというのは苦痛であるという側面があり、法律の留保の必要性を感じさせる。
権威が法律の側に立つのか主権の側に立つのかは常に見ておかなければならないね。
安倍晋三 桜を見る会。

法律は常に多数派工作を目指していた。つまり道徳である。
松田聖子の作品作りに参加するという法律の世界は道徳(多数派工作)を目指していたのだ。
まるで「神への義務」のような営みですらあった。
みんながみんな同じような方向性と勢いを持っているわけではないが、成功した女たちと顔を並べるというのも気分がいいものだ。
記念撮影した瞬間だけは、みんな方向性を同じくすることができた。
少数派だった「私」は永遠の資産を手にすることもできた。
「法律はより賢いものが作った」と感じた。
法律が支配するのは常に「多数派」だった。
女たちの略奪愛の対象ではない哲学者として写真にうつってきたのだ。
我々は「法律の目的」を理解したのである。
仲間が多いというのは普遍的なものであり、そこには法律があった。
【法律と主権という二つのベースラインがある】
まだ知らないおちんちんの数はみんな仲間だと思っているのだろう。
法律にしたがった処女の男の数。

私たちのからだにとって何が大事なのだろうか?
周囲の男さえしっかりと統制がとれた行動をしてくれれば本当にこのぐらい仲間が増えるのに。
これが法律ですらあった。
男の統制は神の意志が行うものだ。
35億人の男の統制なんて素敵!神を讃えたいわ。
セックスというものへの率直さが数字に表現されている。

皇室第2の宗廟である宇佐神宮に処女を祀ったゆえんである。

しかし、男は「猫」に勃起するんだよ。
このことから多数派工作(道徳)は困難になるし、女のからだが快楽をもたらす以上、神の計画は男女を複雑な模様に配置させることにしたのだ。
道徳を邪魔するのはセックスであったし、完璧な法律=道徳=35億は極めて困難であるのは当然であった。
法律は努力を求めるし、免許も出す。
財産やセックス、殺人に男女が関わっていることを踏まえて法律というものは練らなければならない。
道徳への逸脱こそが男であった。
勃起しなければ離婚しなければならない。
法律というのはとにかく男に忍耐を求めるものだったのだ。
しかし、セックスは決して道徳と相容れないものではないことは言を待たない。
喜びや痛みのない音楽作品はなかった。
しかし「善悪の彼岸」とは「あいつは邪魔だから若い女でもあてがっておくか」という簡単な政治学にあるのではないだろうか。
「俺には多数派工作をする力がないんだ」という告白であったからだ。
「男らしくない」から少数派であることにも気がつかないだろう。
人間にとって「罰」とは「寂しいこと」である。
若い女をあてがわれて政治生命を奪われた男よりも奪った男の方が強い「罰」を受けることになる。
道徳=多数派工作とは神聖なルールであり、反則を行う人間には容赦のないものなのだ。
松田聖子 ハートをロック。

王にしたがうのは善良さからであるし、海賊にしたがうのは恐怖からである。
王は恐怖政治を行ってはならない。
大人たちが「選ぶ」というのはそんなにあまいものではないんだ。
「王は信じることを楽しんでいる」
このあたりを見て、それが有効だとわかっている大人たちがいる。
そこには「寂しさという名の罰」はなかった。
そういう大局的な見方が必要なんだよ。
道徳的な多数派工作というのは最高のルールなんだよ。


竹原ピストルが紅白で「俺を含めて誰の言うことも聞くなよ」と歌っていたが、彼は41歳になってゲイである自分の言うことを若者に聞いて欲しくなかったし、それでもなお「自分の正当化」を行っている。
自分の正当化を行うのは資本論でマルクスが指摘している。
このような思想を「相対主義」と呼ぶ。
よーそこの若いの
どれだけ多くの若者や女性たちの支持を得ただろう。
「神はゲイを憎んでいる」という言葉は若者や女性たちに葛藤をもたらす。
「開かれた絶対主義」の時代に、「相対主義」というものは性倒錯とともに確実に存在する。
「どんな性癖をもっているか分からない男」の温床になっているのが相対主義であり、主権の世界で憎まれ、しかし、法律の留保の世界で生きている男なんだろう。

ししゃもの「明日も」のPVを見ると、メンバーの女の子全員が「ガールズアイデンティティ」に悩んでいる。
子供の頃、お父さんにお風呂でいたずらされているのだ。
このことから「男と女ってどう違うんだろう」と悩んでいる。
16歳で生理も止まり、長い髪が気持ち悪くて仕方がない。
しかし、ヒーローとはギターなどの音楽の先生だったのだろうか?
性倒錯がなければ発展しない世界なのかもしれない。
主権とも法律とも言えない、セックスができない女が作る作品はこれもまた法律の留保なのだろうか。
明日も

Superflyの愛をこめて花束をは、性倒錯のない「法律の王道」とも言える曲だ。
法律となってからようやく歌謡曲は解釈論の問題になる。
「約束」を守るためには「花束」「写真」という「ヴェニスのパンと水」が必要であり、これさえあれば「人を愛するってのはこんなに簡単なのか?」と思うものなのである。
主権という「略奪愛」との対話も可能となる。
歌謡曲の公約数的見解が「男らしくあれ」ということであるとされるのも性倒錯がなければこその話だ。
愛をこめて花束を

人々に影響を与えるのは「女の子に語った最高の口説き文句」(キャリーオーバー)であり、女の子はその言葉をメモしている(黒革の手帖)。
メールのやり取りをするような男は「本命」であるが、SNSで個人的にやり取りしているうちは本命ではない。
どんなにマメにやり取りしていても女の子たちは「口説き文句」(キャリーオーバー)を集めているに過ぎない。
そのようにして彼女たちは黒革の手帖を頭に叩き込んでいるのだ。
まるで銀行マンだね。
乃木坂46 インフルエンサー。



AIの「キラキラ」は、本来、希望とか夢とかを語るゲイカルチャー(法律の留保)を「女性が歌う」ことによって、「男らしさ」=法律ともなり、「略奪愛」=主権を支持する女たちの支持も得ている。
ピタゴラスの定理によって「男になりたい」という女が、ゲイの真似をすることからこのような幅広い支持を得ることが出来る作品が生まれている。
キラキラ

さて、Little Glee Monsterの好きだについてであるが、性倒錯の世界(法律の留保)とは離れて、開かれた絶対主義の時代において「絶対主義にも分からない私の心の領域がある」という法律の世界を歌っている。
私も「キャリーオーバー」とか、「絶対」を女性に語っていたら、「あなた、人の気持ち分からないんでしょ?」と言って女たちが「誰にも分からない心の領域」の存在を主張してきた。
世相をもっとも率直に表現した曲だった。
好きだ

インターネット社会になって「影響力の与え方」の研究が深まった。
①みんなが知りたがっていることであること。
②口々に伝わっていくこと。
であるからこそ、
③アナウンスしたほうが早いこと。
が指摘できる。
カップルがデパートで別々の行動をとり、最後に「どうせカフェオレを飲みにくるんだろ」と思ってコーヒーハウスで待っていることは「ゲイカルチャー」の拡散に近い。
いわば、愛の世界(法律の留保)なのだ。
しかし、あの車は赤信号で止まるんだろう、というのは歩行者にとっては生きるか死ぬかの知識であり、「男らしさ」=法律の拡散だと言える。
レストランで客が何か間違ったことをしても、ウェイトレスは「すみませんでした」と言うだろう。
何かの「高次の法」の存在を感じることが出来るのならば、それは「法律」だと言っていい。
オカマは中森明菜というのは定番であるが、
禁区は「できない女がパートナーと付き合っていくうちに追い詰められていく」という様子を描いているし、
禁区 中森明菜。
十戒は「エロビデオを見て女性が嫌がっているではないかと考える政治的弱者がいる」ことを描いている。
十戒1984 中森明菜。
デザイアーは「パートナーがいても、他の男の知恵と知識を聞きたい」ということを指摘している。
Desire 中森明菜。
複雑すぎて「高次の法」というべき「ウェイトレスへのシンプルなメッセージ」にはなっていないところがオカマに愛されている理由なのかもしれない。

ウェイトレスに与えるべき「高次の法」。
赤いスイートピー 松田聖子。

しかし、みんなでバーベキューをやった時に、1人の女性が顔にマスタードやケチャップをつけていたのならば、デザートのアイスクリームを食べる前に誰かが拭いてやらなければならないだろう。
仕事ではなく「愛情の世界」であり「法律の留保」の世界だ。
この問題への答えが「誰がその女性に愛情を持っているのか?」という中森明菜のオカマの話になる。
しかし、隣の農場と「助けが必要な時は人のやり取りをする」という約束をしなければ、中途半端な儲けと大損のどちらかしか待っていない。
これが、ノンケが性倒錯と共存して行かなければならない理由である。
法律と法律の留保は共存して行かなければ仕事がギャンブルになってしまうのだ。
主権、つまり略奪愛が存在する理由は「繁栄があるため」だとも言える。
どうしてもムラに性倒錯が混じってしまうのだ。
しかし、性倒錯が多数派だとみんなが貧しくなっていくことがわかる。
「女心は大きすぎる」と言ってカントの話をベラベラ話していると「生活保護のヘンタイ」がわらわらと寄ってくる。
しかし、そういう人たちに限って人生経験が豊かなのだ。

原点に戻ろう。
みんなが知りたがっていること、というのも人それぞれ興味のあることや考え方が異なるためにかならず「抵抗」が存在する。
そのために視聴率というのも限界がある。
視聴率とは「耕す畑の大きさ」につながるために「人々が知りたがっていることの序列」を理解しなければならない。


山内惠介の愛が信じられないならについてであるが、子煩悩な母親との姦通が原因で、精子が出なくなっている。
中学に入って同級生が「カルピス」とか話題にするたびに「精子が出ねえ!」と言って必死でマスターベーションをしたり、男女を問わず犯したりしている。
両刀遣いだ。
愛が信じられないなら

ししゃもがセックスができないからだであることから、追っかけをやると「貴方とやると痛いんだよ!」と言って鞭で男を打つ女だとすれば、山内惠介は女にもアナルセックスを強要するタイプであるし、竹原ピストルは女にペニスバンドをつけさせて「俺を犯してくれ」というタイプである。
だいたい、農場で隣同士仲良くしなければ繁栄しないと思うのであれば作家としてこのようなことを書き記したほうがいいとも言われる。

2017年12月22日 (金)

女の直感。

本来、男社会においては女の直感というものは「ネガティブプログラム」と呼ばれるほど嫌われていた研究であった。
しかし、男社会における「譲れないもの」そして多数派工作、「考え方」の研究などにおいて女の直感はどうしても必要な研究であることが分かった。
「僕はこれ以上、動けないよ。床に倒れたボクサーのよう」
マリオネットの涙 松田聖子。

21世紀になって、「女たちの支持」がどうしても必要になった時にこの研究に世界が目覚めた。
女の「哀しい方の嘘」とも言い切れない側面があったために「実験哲学」と呼ばれ、現在でも研究が行われている。
ムキになっている男たちが「考え方」に目覚めたのだ。
適当に有名な奴と戦ってリタイヤした方が儲かるのだろうか?
竹原慎二。




女の「嘘」が入り混じった複雑な文学がここに誕生した。

西野カナ ダーリン。

「我々の組織ではそういう男は歓迎していないよ?」というのが最初のリアクションだった。
しかし、「タイソンに負けた男」ならば滅多にいないわね、という女の都合があったのだ。
男社会でどのみち「私の彼」は妥協して生きているという現実が女に嘘をつかせていたのだ。
「私たちのプロジェクト」に参加してくれた男ならば敗者でもニーズがあるんじゃない?
このリサーチプログラムは辛い作業だったよ。
とにかく「ネガティブ」だったし、男たちの夢がぶつかり合うのならば勝って欲しかったし、祝福されるセックスがしたかったし、「考え方」を整理したかったからだ。
【知識が足りないから負けるんだろ】
というソクラテスの指摘があったから、哲学者の参考文献がとにかくなかったのだ。
本当に「アテネに捧げる」研究になるのかな?という思いもあった。
しかし、日本国において「ボクシング世界タイトルマッチ21連敗」という時代は確実にあったし、「知らない」ということを認めたくはなかった現状がある。
何のためにやるのか分からない「勉強」というものは確かにアテネにもあった。
しかも、スパルタとのダービーマッチがあった。
この「スパルタ教育」に負ける学問ならばなんとかアテネに捧げることはできるのではないかとされた。
負ける理由は「競技人口」から練らなければならなかったし、そのためには「女の直感」も取り込んでいかなければならなかった。
「女は好きな男に嘘をつかなければならない」
松田聖子 小さなラブソング。

その世界の人口を増やさなければならないという基本を我々は忘れてはいないだろうか?
ブラジル、インド、日本、アメリカはどの世界のあらゆる分野でも「人口を増やす」という物量作戦をやっていたはずだ。
また、その世界で女たちに取り囲まれないのならば誰もやろうとは思わないだろう。
判決が下った後の「お疲れさまでした」ぐらい確立していなければならないのは当然なのだ。
競技人口が増えれば、男たちの夢がぶつかり合う。
その時に「多数派に属している」ことがどれほど重要なのかは理解していなければならない。
試合に負けて泣いたふりをしている奴が多数派だという弱小グルーブは確実にある。
インド、香港、コロンビア、アメリカがそのことに最も詳しい。
「事前にどんなトレーニングをしてきたの?」という裏切りがこれらの国で横行しているのだ。
どうせ俺たちは負け犬さ、ハートを他人に任せてしまった方が気が楽だとも思った。
すべて「競技人口」という統計が導き出すものだ。
いろんな「プロジェクト」に参加したけど、みんな人生を良いものにすることしか頭にないよ。
競技人口が多いと「負け犬の方が仲間が多い」ということが衝撃をもたらした。
本当に強い奴は「怖い」と言われて孤立したのだ。
「みんなで仲良くやろうと思ったのに表情が変わった奴がいたので退部した」という男もいた。
負けて適当にカッコつけるグループだったのに本当に強い奴が現れたら排除する連中もいた。
「考え方が違う」
これだけで共存することはできなかった。
哀しい方の嘘 ribbon.

「女にモテるというのは財産なんだよ。悪く思わないでくれ」という言い分もあった。
強さの研究をしていた哲学の世界で2016年にコヴァがこのことを明らかにした。
強すぎて世界を敵に回したくないんだ。俺たちは弱者の救済をしたいんだ。
「俺たちの目的」「知識の限界」「幸せ」を理解しないものは排除した。
「どのような言葉が飛び交っているか?」でサークルの体質はわかる。
影響力のない言葉であることは周囲の反応を見ればわかった。
みんな先輩の「言葉」で悩みを解決したがっているのにそれはないんじゃないか?
完成されたゲームで敗者に「お疲れさまでした」というのは辛い学問なんだよ。
「知識というものは調べるものだろ」
土曜日に銀行を開かせるのは可能だろうか?
それが難しいのは知識があれば分かる。
それほど弱小サークルを開かせるのは難しいんだ。
知識がないと「噂」を相手に戦う羽目になる。
スタンフォード大学野球部はボストンの松坂にこのような気持ちで一安打に抑え込まれたのだ。
【仕事、宗教、人間らしさは弱小サークルから拡散していくんだよね】
フォーエバーセンセイ。

「負けつづけた男」
そんな記事もボクシングマガジンには必要だった。
言っていることはむしろ強い男よりも健康的だったよ。
だから哲学者は「女の直感」「床に倒れたボクサーのよう」などという言い方はしないで普通に話をしたよ。
女たちはまるで「強さという病」を応援しているが如く「お疲れさまでした」と言っていた。
組織が「強さ」を待ち望んでいるのは事実だよ。
でも「健康的にやろう」という言葉が必要なんだ。
「哲学の裏付けのある強さ」とは語り合いたいけど「哲学のない狂人」とは語り合いたくないよ。

2017年12月20日 (水)

クオリア。

指をサンドペーパーで擦ると赤くなり、紫色になるだろう。
女はこれを見て「トルコ石」「ルビー」の色を区別する。
やがて「ダルマ」を真っ赤に染めることの意味も分かるようになる。
「色彩の区別がつく」
それは財産の源なのだ。
パンストの色彩やデザインができる、それは財産に他ならなかった。
音楽や食事、お酒などを味わい、匂いを嗅ぎ、痒さを感じ、胃を痛め、空腹を感じ、めまいを覚える、そのような経験をしないと「色彩への感受性」は育たないのだ。
自分を正当化するために「赤一色」で全身を染めるわけにはいかない。
「紫が好き」と言っても服装は特に紫というわけではないだろう。
きわめて女性的な「痛み」というものを経験しているから服装の色彩が豊かになるのだ。
赤い色には人が集まる、これを知っているからダルマは赤いのだ。
赤ほどの膨張色はない。
赤の17番と赤の18番の区別がつくだろうか?
赤の17番は薔薇の色だ。
東京パフォーマンスドール バラ色の人生。

聖母マリアも小野小町もこれでひと財産築いているんだ。
マリアのお金とヨゼフの政治家の血がイエスという人物を作り出している。
自分の何もかもが満たされているわけではない。
だから女は乳首や局部の色とは異なる色の服を身につけたのだ。
レインボーピンク。

不幸な女はむしろゾンビーを愛したりした。
女が孤独になったら、孤独な男のところに寄っていった。
エクレア、カステラ、ハーゲンダッツ、醤油が乳首や局部をピンク色にした。
因果関係は分からなかったが、男の趣味に合わせることを知ったために幸せを感じたのだ。
ノーブルレッドの瞬間。

中国人は「二つの音声トラック」のある無線にしたがって行動しているだろ。
彼らには孤立したカップルの物語もなければ、ノーブルレッドの意味も分からなかった。
色彩感覚に乏しく、そこにはもはや楊貴妃はいなかった。
スランプの時に赤い服を身にまとうと不幸が増幅される。
午後のパドドゥ。

3D体験というよりは2と2分の1体験と呼んだ方がいいテクノロジーがある。
赤い方向に向かい、紫色は毒だと考えるだろう。
3D疑似体験においては人間は常に「正しい方向に」向かっている。
「セックスをするときはいつも真剣」という心理を利用しているんだ。
IMAX.

マッドサイエンティストは、空を黄色に、芝生を赤に、トマトを緑にして「地球を入れ替えた」が、色だけで地球のドッペルゲンガーは作れることを示した。
「普通」と「生き物の目的」を理解するだけでいい。
レベッカ チープヒッピーズ。

カエルや魚やハチはクオリアを持っているのだろうか?
クモはメスを引き寄せるために回転しながら巣を作り、魚は海を泳ぐ。
カエルは飛んでいるハエを食べる。
それは、「地球を入れ替える」人間の女の子特有の幻覚とは異なる論理で、「欲しいもの」があるだけだ。
クオリアというのは人間だけのものだし、だからこそビジネスになるんだ。
ハチは「黒を攻撃する」というよりも「女王蜂のわな」というものを攻撃しているんだよ。
桑田真澄と息子。

芸術とは「男の興味の対象」でありながら、「女にも衝撃的な形でモテる」ものである。
女性芸術も「私の心を教えてください」という女のニーズに応える形で解説を加えなければならないし、男性芸術も可愛らしい女の子に「ジャニーズを聞くとうつが治るね」という形で常に男が注目していなければ芸術とは呼べない。
私は失恋やレイプを経験してサンタクロースを信じなくなった。

しかし、男は「ハプニング映像」「衝撃映像」まで利用してまで女にモテようとは思っていない。
女心を知っている男は「チェシャ猫」であり、優しさを感じる。
チェシャ猫を生み出すために芸術というのはあるのだろう。
ダダイズム、シュールレアリスム、スーパーマティズムが「芸術に詳しいチェシャ猫」を強烈にアピールした。
なぜ1960年代半ばから1970年代にかけて「ボクシングやプロ野球」とならんで「芸術」がスターダムに駆け上がったのかはこれらの論壇があったからだ。
怪しいニュアンス 松田聖子。

「芸術とは消費されないものだ」ということが主張されるようになったのはつい最近のことだ。
野球やボクシングは常に試合を重ねなければならないだろう。
「女心を知っているチェシャ猫」は、ごく限られた作品を用いていた。
「芸術?女々しいな」と言われたら反論できないという特徴を芸術は持っていることは知っておかなければならない。
東京ドームでエアロスミスが公演を行い、後楽園ホールで同じ日に名護対松倉戦が行われたこともある。
やっぱり、ベトナム戦争のファイナンスを経験しないとエアロスミスを「女々しい」と言われることに反論できなかっただろうね。
戦争があったから「お金になるものは許すよ」とみんなが思ったのだ。
1968年のフランスの「メーデー」の勝者も、1969年のイタリアの「暑い秋」も、常に芸術によって資金集めに成功したものが勝っていた。
何を企んでいるんだ。ロックフェス。

パフォーマンス、写真、映画、ビデオ、すべての芸術が男女の美しい体を作っていた。



男を別の女から奪う、この対象となる男をチェシャ猫と呼び、他の男から女を奪う男は「芸術」によるものではなく「知恵と対話」によって行った。
愛が止まらない Wink.

描写というよりは「意味」なんだよね。
貴女が私の子孫を残すのかと思うと緊張する。

芸術は「男女のもの」であると同時に、「性欲はどこから来るのか」を理解していなければならない。
【同じフェティシズムで一貫している】
これがアーティストが高い評価を受ける秘訣である。
「美しい経験」が若い頃に確立しているからだ。
男女の関係を明確に位置づけるのはもはや若い頃に身につけるフェティシズムだね。
恋愛お見舞い申し上げます。

1950年代から1960年代にかけてヴィトゲンシュタインは、「このようなフェティシズムの元で育った男には、女の子とのツーショット写真がない」と指摘している。
つまり「失敗作」だったわけだ。
男の子の人生を辛いものにしたという意味ではね。
しかし「男女の関係を明確に定義した」という意味においては最高傑作でもあった。
だいたい15歳ぐらいの時に「男の公約」はできるものなのだ。
この年頃に「自分でお金を払ったメディアで」聞いた作品だったからフェティシズムとなったのだろう。
しかも、これから「読み、書き、学ぶ」時期だったからだ。
「ピカソのゲルニカ」のことを「恋愛お見舞い申し上げます」は歌っているとも言われた。


ゲルニカ。

映画 ピカソ。

ピカソは「風水」とでもいうべき「女たちの風」によって画風を変えただけであったし、文体を変えていく男ものちにいた。
ピカソは、晩年に美しい少女とのツーショットをようやく撮影している。
これがあたかも人生の目的だったかのようだった。



【願い事は仕事で叶えろよ】
これが分かればピカソが分かる。
「人生のナレーション」をもっともうまく流したアーティストが成功するのだ。
願い事の持ち腐れ 秋元康。

ピカソの人生が絵画の世界に与えた衝撃は大きく、「絵は心を表現するよね」と語られ、精神医学が絵画の世界になだれ込んできた。
外の風景がない、女と語り合っていない、とにかく病んでいたから「傑作」だった。
どうすれば精神病は治るのか?
どの精神科医もピカソに興味を持った。
アーティストの意図は本人なりの説明が当然あるだろう。
しかし、その「病んだ」側面は周囲が語ることだ。


アヴィニョンの娘たち。

少なくともピカソには「俺にもこいつの人生を語らせろ」という男たちが大勢いた。
カントの「悟り」つまり「俺はどんな女でも落とせる」という境地をピカソも知っていた。
女の「局部」をこれほどまでに遠回しに表現した男はいなかったので、ユングもこれを「前衛芸術」と呼んだ。
皇帝のマクシミリアンは、ピカソの真摯な生き方と比べられて糾弾され、処刑された。
【友達とビールを飲みながらピカソを語り合う。最高の肴だぜ】
象さんのすきゃんてぃ うしろゆびさされ組。

2017年12月19日 (火)

大都会とティマエウス。

人間は様々な男女の人間模様を見ながら出世する。
頂点にいるのが「ティマエウス」である。
ラテン語で書かれた「女の真実」を基盤に、多くのカップルに発信力を与え続けた。



「神・男の完全性を議論すると爽快感がある」
それは、知性の頂点であったからであるし、国づくりのプロローグだったからだ。
永遠をイメージさせる効果もあった。

松田聖子 赤いスイートピー。

この「男」というものがどのように世の中に混乱をもたらすのか?
それをティマエウスはよく理解していた。
「貧しさがある限りいじめはなくならない」
「火・水・土・空気の四つだ!」
それは豊かさが約束するものだった。
セールスが伸びなければ崩壊するしかなかった。
CoCo 夏空のDreamer.

船乗りは三角形を二種類持っていた。
1:1:ルート2
1:2:ルート3
直角を一つ持つ二つの三角形が船乗りに豊かさをもたらした。
簡単に3:4:5としてしまう職人もいた。
あとは「今まで見てきた男女の発信力」の研究さえしていれば街は自然にできる。
つまり「お金との相談」だったのだ。
豊かさが約束されない限り「誰もがハピネス」とは言えなかった。
松田聖子 ストロベリータイム。

最高の知性をいじめるのに血眼になって何も学ばず、最後に「仕事がないんです」という輩もいた。
宇宙の始めの段階から振り返らなければならなかった。
「快楽」である。
射精しなくなった年寄りだけはいつまでも若いものをいじめ続けるだろう。
それは仕事やお金という言い訳では済まされないものだ。
ちんちんが勃たなければオムライスでも食べていい夢を見ればいいのに。
しかし、アル中でもはや夢も見れなかった。
「ああなったらもう知性もなければ、男の完全性もねえな」と人々は語り合った。
「男らしさ」を女たちは賞賛する必要があった。
三人組の男グループに女の子が加われば「誰が一番可能性のない男なのか?」が明確になった。
赤いスイートピーを周りの女たちは歌っていじめや貧しさを諌めていた。
大工は「金さえよこせばなんでも作るよ?」と語ったが、いじめに血眼になっているアル中の年寄りだけは排除しなければならない。
「あんなに有名なのに出馬を断念するの?」
そう思われる年寄りもいた。
街づくりに有害だったからある程度の空間を与える必要があった。
貧しくて狭い部屋に住んでいると人の邪魔をすることにしか生き甲斐を感じなかったのだ。
詩とは人に居場所を作るためのものだ。
河合その子 Please tell me Mr.朱。

もう女心には興味持てないよ。
でも、俺にも居場所が必要なんだ。
そのような問題意識から曲作りをする人は限られていた。
公園はおじいさんのためにある。
人生の末路に鳩を友達として与えよう。
火・水・空気・土を1人で抱え込んで公園で怒っている老人がいた。
「公園には金をかけたよ」
都市計画の担当者は誇らしげに語った。
河合その子 Parisが聞こえる。


«左右対称。